らりほう さん
らりほうさんのレビュー一覧
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868件中1-10件
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【Romantic 〜 非実像】(0)
2020年11月27日 to 忘れじの面影
男の(実像ではなく)面影に恋した少女は、自らを(男にとっての)片影と化す事で その恋を永遠のものに昇華/成就させる―。
恋慕う男を階段上から見下ろす少女の切ない窃視ショット。
数年後、憧れの男と共に階段を昇る彼女の姿が、階段上から“同構図”で見下ろされた時、この映画其れ自体が 強く“面影(観客の記憶)”を遡る旅である事を諒解する。
同じ構図、同じ状況、そして同じ言葉―。
映画は徹底して記憶を反復する。そして、以前と現在との僅かな ―然し大きな― 差違を強く際立たせてゆく。
その事に気付いた時点で、時は酷薄に進んでおり もう二度と戻る術無き事は自明である。
「繰り返される世界鉄道旅行」の張りぼて/虚飾具合。
= 非実像の中 / 面影の中にしか恋は成就し得ない ― その残酷と共に獲得される永遠性の安寧〈二律背反〉が“忘れ難い”。
《VOD》 -
【生切る】(0)
2020年11月24日 to 瞽女 GOZE
無形文化財/最期の瞽女:小林ハル。
100年前に障害と共に生きるとゆう事。障害の直裁的困難に加え、付きまとう差別と虐遇。極小共同体の理不尽な慣例=掟。親の心 子不知。
パワハラ/体罰/虐遇を 忌避/排斥する現代の“優しい社会”は 確かに理想かもしれないが、その優しさに胡座を構いてはいまいか。
更に言えば、痛みや苦しみ 暑さ寒さすら体感する事拒む過剰な安心安全社会は、人から修練/自立の機会を悉く奪ってはいないか。
ポリコレ/ダイバーシティ。強制的修練無き今の御時世に、自身を律する事はより困難であろう。
自律とは修行であり、生きるとは生命を切り削る事である ― 本来的/根源的な“人の生”に、三島由紀夫的“生”が過った。
〈追記〉
主題/設定的に講話及び環境音が充実している。吹き荒ぶ地吹雪や激流の轟音。母の叱責等。上映中 度々眼を瞑ってみたが、概況 そして心象は そんな閉眼時にこそ 最も諒解できよう。
《劇場観賞》 -
【Rapture - 狂喜】(0)
2020年11月22日 to 鵞鳥湖の夜
フーゴーとグイルンメイ、其々から伸び 壁面に浮かび上がった二体の影法師は、その境目を溶解させ まるで融合した一つの生命体である。
幾枚の鏡に映し出された無数のフーゴーの鏡像を見遣るグイルンメイは、恰も自らの形貌を凝視しているかの様であり。
テントの内と外。帆布越しに歩み行く二人の同期/Synchronization。
その時 フーゴーは、グイルンメイの影と化しているのだ。
同一人物、托生、男から女への転生、そして再誕 ― その仄めかし。
同じ碗を喰らい、強姦に我が事の様に怒りを行使する。
葉巻を噛み咥え 口許からその端くれを唾棄するフーゴーの姿は、後半 陰茎咥え 精液を湖面に唾棄するグイルンメイへと対照/反復される。
最終局。それらに 朧に気付き始めた警部のリャオファンは、狐に抓まれた如く茫然と立ち尽くす ―観客各々の茫然を画面に刻印する様に―。
〈追記〉
撮影/照明/美術/ロケーション、完璧と言ってよい。映されるショットは全てが美麗 且つ洗練、更に寓意的である。
依って、全てのショットに見惚れ 考察してしまうが故に、映画の進行に思考追い付かず 取り残されがちと為るのが玉に瑕か。
「全てのショットが美麗 且つ洗練」と述べたが、被写体その物は 実は不浄粗雑なものばかりである。未整地の広場、朽果てた造営物、完成する事放棄したかの高架橋、集合住宅から廃棄される無数の残滓。
美麗と不浄の不離一体 〜 それは、都市開発〈洗練〉の為に唾棄され続けた〈中国の残滓〉だろうか。
理想都市の看板(!)の前を行くグイルンメイ。其処には、中国勃興から切り離され 忘れ 唾棄された 消え逝く地方の粗雑(を含む良さ)への憧憬が浮かび上がっていた。
〈追々記〉
「ナルニア国物語」の箪笥以上に その内部が異界へと繋がっていそうな、中古家具市場奥に鎮座する巨大な箪笥。溝口健二を想起する湖上の霧。そして前述した理想都市の看板。
地図に無い街=この世に存在しない世界。
男性優位/暴力/犯罪。嫌悪し唾棄すべきそれら因子から 尚醸成される麻薬の如き蠱惑。湖の水底で、箪笥の中で、そして鏡の中の世界(だけ)で未だ蠢き続けるもう排斥すべきそれら郷愁の 最期の恍惚は、どこか Rapture(キリスト教終末論に於ける再臨の狂喜)すら思わせる。
《劇場観賞》 -
【潮流】(0)
2020年11月20日 to 罪の声
頻出する河川と橋梁。
道頓堀川上戎橋から臨む菓子メーカーの看板。自動車で渡る瀬戸大橋と その袂のロケーション。渡英した阿久津(小栗旬)は現地でも 河川及び橋梁を後景に選んでいる。
そして終局で娘を抱き締める曽根(星野源)が立つのは、細流(せせらぎ)の畔である。
大河揺蕩う小さき一葉、酷薄な時流、だろうか。
然し彼等はその激流を乗り越える(瀬戸大橋)。そして時流(流行と換言してもいい)を見つめ直す。缶コーヒーを手に 流れを凝視する彼等はその顕現でもある。
全てが終わり、曽根の心/人生は 漸く穏やかに流れ始める。
〈追記〉
60-70年代の潮流に対する批判意識も、川の流れとして黙示される。
今現在 主流とされる考え、将来的に主流であれとする考え、何れも30年以上後には当てにならない。時流(流行)に過ぎないから。
然し どんなに時が移り変わろうと、流行に左右されぬ“普遍”は必ずある筈だ。
最終局。そんな普遍を願い 非流行を推す曽根に対し、阿久津は時流を選択する…。
過去の時流を糾弾しておきながら 自らは時流に乗る。その無自覚な船の行き先は、果たして…。
《劇場観賞》 -
【Othello】(0)
2020年11月16日 to ドクター・デスの遺産−BLACK FILE−
犬養(綾野剛)と少年のオセロゲーム。
敗戦濃厚と為った犬養が意図的に盤面をひっくり返す。
裏返し合う白と黒は、その後の白衣/ドクターデスと黒衣/犬養の相剋 ― その黙示だろうか。
然し犬養はオセロの規則に準拠せず 盤面ごと裏返す事で 勝負を無効化する。
安楽死の是非/相剋を問うのではなく、作品はもっと単純で根本的な次元からのひっくり返しを志向する。
悪い事は悪い、その事について論じ合う気は毛頭無い。唯それだけだと。
〈追記〉
冒頭の雨だとか、ホームレス拠点河川敷に吹く風だとか、顕現的にまるで機能していないのはどうゆう事か。
犬養が脚に負う創傷も、原因はあれでよかったのか。そして、その傷は映画的に活かされたのか。
構図/配光/ロケーション/ディティール、それらへの注力がまるで感じられない。
《劇場観賞》 -
【父親失格】(0)
2020年11月8日 to 望み
葬祭場に赴く一登(堤真一)が、その旨を妻:貴代美(石田ゆり子)に伝えた後、自ら自動車を運転し目的地へ向かう。
上記場面を見ただけでも、作品の志しの低さが諒解できよう。
ネクタイを締める、或いは靴紐を強く結ぶ ー 葬儀に参列する覚悟/勇気は それら“行動”に依って示されるべき筈である。そして、これから何処に出かけるのか ー の夫婦間やり取りも、アイコンタクトだけで済ませられるだろうに。既に礼装で一目瞭然なのに説明せずにはいられない。
そして、決戦の地へマイカーで向かうなよと。
自宅玄関扉を開け、外へ踏み出す一歩。葬祭場へ足を踏み入れる一歩。父親の決意/誠実さを 如何に具体/身体化し刻印するか。それが映画であって、本作は悉く『脚本の絵解き』唯 それだけに留まる。
結果、映像は重層多角化せず 表層一義に終始する。
葬祭場を後にした堤真一が駆け出すが、今更であり 且つ携帯着信に依る受動的行動である。そんな“非自発的行動”をスローモーション化し悦に入るセンスの無さ。
前述のマイカーといい携帯の連絡待ちといい、この男は何らの奮励も行わない。
にも拘らず息子には得意気に説法を垂れる。行動伴わぬ口先のみで。
顔面偏重/表情演技/講話主義。
引き出しを開ける、書籍の項を開く ー 其れだけで息子の想いを諒解できようが、そこに回想を挿し込まなければ気が済まない。
其れを見ただけで気付く父と、一から十まで回想してもらわねば気付けない父では、どちらが父たる者かは自明であり、そう思われても致し方あるまい。
仮に全カットしても作劇上何の問題も無い「説明の権化でしかない三浦貴大」。
まあ説明してもらわねば解らぬのだろう、この父は、そして観客は。
理想の家(族)を設計する建築士。であるならば、家屋や写真のモチーフはあの程度で良かったのだろうか。それら作品への疑義は数限りない。
言い訳(説明)をしない息子を、受動的説明に依拠せず 自発的に慮る。父も、観客もそうすべきである。
その主題を、演出が全て裏切っている。
息子を信じる信じない以前に、監督自ら観客(の理解力)を信じてやれよ。
《劇場観賞》 -
【刮眼】(0)
2020年10月26日 to 劇場版「鬼滅の刃」無限列車編
原作未読/アニメ未見。
おそらく皆が委細承知であろう基本設定/情報が一切無い状態で観に行く。以下感想―。
無限列車客車内 ー 通路側に着座する杏寿郎。その横並びに座す炭治郎は窓側であり、当然窓硝子には[自身の鏡像]が浮かび上がっている。
車内照明の明滅に依る[人物像の消滅と現出]。流れ逝く車窓外と、対象的に相対静止した侭の車内とに想起される[内外世界乖離性]。
それら列車とゆう舞台装置が 本作主題〈内省/reflection/自問自答〉を暗示する。
故に直裁的な敵(鬼)が現出しようと、夢に落ちようと覚めようと、彼等が真に闘諍する対象は彼等自身である ― 炭治郎も、そして杏寿郎も。
伊之助に“ギョロ眼”と言及される様に、終始その眼を見開いている杏寿郎。
それが、杏寿郎自身に対する〈刮眼〉の顕現である事を、そして その眼が(対照として)いつか“閉眼”するであろう事を察知する。
self-esteem …
是も否も、喜も苦も− どんな自分も受け入れ肯定する。外他に惑わされず自ら自己の有用及び重要性を感じ、自尊を持つ。それが自身の成長と 不帰の客である前代への敬意、現代の責任、次代への慈しみへと連なってゆく− それが“継承”だ。
陽光が、その“成就”を祝福する様に 眩く降り注いでいる。
《劇場観賞》 -
【Half Way】(0)
2020年10月21日 to ミッドウェイ
パトリックウィルソンの相貌上に懸架する眼鏡に、日本軍の攻撃に依って焔と化す港湾の太平洋艦隊が映り込む。
惨劇と 驚きの表情 -アクションとリアクション- を一画面中に集約させる。
或いは 屋内の食器の揺れや、頭上に接近する戦闘機の轟音等、フレーム外/オフ空間との連なりを意識させる音の導入と切り返し。
直ぐ傍に迫る戦争 / スペクタキュラー渦中の小さき人々を際立たせる俳優とCG映像の繋げ方にエメリッヒの印を感取する。
情感過多〈動〉のアメリカと 情感抑制〈静〉の日本 ― そのコントラストの錯時交差や、エンドロールの献辞に示される様に、志向せしは〈Middle Way /中道〉であった筈だが、総じて エメリッヒは膨大な史実の事象を絵解きするだけで手一杯であり〈Half Way /中途半端〉な印象だ。
《劇場観賞/観賞券当選×2》 -
【スターチャイルド】(0)
2020年10月20日 to 星の子
護岸堤の連絡通路を渡り海岸に下りてゆく ちひろ(芦田愛菜)。その姿が内陸側から捉えられる。
通路開口部に依って 周囲を“フレーミング”されていた彼女は、遮る物何一つ無き溟海の前に立ち 唯 静かに刮眼する―。
冒頭、父母と共に三人で映る写真(フレーム)が、偏見/常識/正義/そして家族 ― 人々が囚われる種々様々な社会的“フレーム/枠組み”を黙示する。
自らのフレームを堅持する事に必死である一方、人は 時に他者のフレームを破壊(叔父)し、時に他者のフレームを排除(数学教諭)しようとする。
列車踏切を渡り寡黙に前に進む ちひろ。彼女の生きる世界/枠組みと 外界との境界線である事が、遮断機/警告音に依って然り気無く示される。
その上で彼女はその枠組みの外へ踏み出してみる。未知を試飲し 外界を確認する ―自分自身で―。
教団周辺に、或いは思慕する教諭に付きまとう如何わしき風聞。
然し彼女は“解ったつもり”にならない。自らの視野を狭めない、限定しない。「そんなの噂でしょ」と。
一つの視座に固執する事なかれ。自らのフレームから出ずに他者のフレームを断ずるな。
数学教諭のつもりで書いた肖像が洋画俳優と為る様に、訝しき宗教も 時に自身の真理と為り得るのだ(盲目従属ではなく 疑符提起やルサンチマンとして)。
昇子(黒木華)の科白「貴女が今 此処に居るのは…」が、思考停止し教義を盲信せよ と、世界を疑い続け思考し続けよ のダブルミーニングである様に、本作観賞者にも ストーリー/現実的視座と テマティスム/ディティール的視座の 複眼/客観性=“超越的視座”が求められよう。
最終局、ちひろと両親はすれ違い続ける。そして 両親の見るものが見えなくなる。それでもちひろは其を見ようと試みる。
作品タイトルは、“宗教団体ひかりの星”の子と、超越的視座スターチャイルドのダブルミーニングである。
《劇場観賞》 -
【Reverse(Re:Birth)】(0)
2020年9月28日 to TENET テネット
パースペクティブで捉えられる操作場。その軌道上を往来する順行列車と逆行列車。始点は逆行にとって終点であり、終点はまた順行の始点である。
その円環構造を顕す様に、円形劇場、回廊、洋上風車、帆掛け船の旋回、3針時計、回転扉といった円形/回転のモチーフが頻出する。フリーポートへの潜入を謀議するデビッドワシントンら三人の周囲を廻転するキャメラ。作品タイトルからして回文である。
その上で 起源を喪失した円環構造を立ち切る様に、ノーランは直線運動を徹底して提示する。
落下のアクションと、その “Reverse”逆行運動と為る上昇である。
着座椅子の転倒から風車塔への登攀。海への突き落としとサルベージ。飛込みと浮上。懸垂が下降と上昇から為る運動である事は最早論を俟つまい。
そして円形施設は崩落し、高速度牽引に依って上昇する ― 円環は直線に依って立ち切られるのだ。
“輪廻から涅槃への解脱” ― そのテマティスムな世界構築。
其を踏まえれば―、度々意識を喪失する主人公や、来世と余命への言及、遺棄され横臥した骸の Reverse に依る Re:Birth の暗示にも得心できよう。
冒頭劇場の集団卒倒場面では“閉眼”が既に“死”を黙示する ― 緻密に構築されたSF設定よりも、其れら
センシビリティ/観念性溢れる場面にこそ最も戦慄を覚えた。
《劇場観賞》
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