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“未知の体験”を待っている貴方へ
2010/11/26 (金) written by 相田冬二(ノベライザー)
阪本順治監督の新作は『座頭市 THE LAST』とは対照的な、異形の一作。ハードボイルド・タッチのミステリー? なんてタカをくくっていると、火傷するぞ。

阪本順治、久しぶりの爆発である。
骨太な活劇派、あるいは真摯な社会派。そんなふうに阪本を認識している(したがっている)観客は少なくないし、たとえば今年公開された『座頭市 THE LAST』や近作『闇の子供たち』などにしても、そのように処理=消費される確率は非常に高いし、それはそれで一向に構わない。
だが、阪本は、決してそのように安全圏内でカテゴライズして済ませられない側面も持っている映画作家なのである。
もう一度、爆発の一語を召還しよう。
爆発を、純粋なビッグバン、すなわち、ある種の革命にも似た、すがすがしい核爆発だと捉えるなら、実に監督第2作『鉄拳』(1990)以来のことであるし、あるいは爆発を、阪本に生来備っている、彼が言うところの「後ろ向きの全力疾走」(ぴあ刊「孤立、無援」で彼自身がそう述べている)であると理解するならば、解体と脱構築の絶え間ない行き来によって達した、ドキュメントとフィクションの裂け目そのものというべき『BOXER JOE』(1995)以来のことかもしれない。
失踪したかつての教え子を探しに上京した田舎の塾講師。やがて捜索は彼自身が東京から追われることになった因縁と向き合うことを意味することに――などと、ありがちな要約を記したところで、本作の魔力を伝えることにはならない。なぜなら『行きずりの街』において展開と描写は常にズレつづけ、最終的には修復不能な地点にまで行き着いてしまうからだ。映像が物語を裏切り、画面に射し込む光と影がキャラクターの感情や心理などといったものを呆気なく凌駕していく。乗り越える、という表現が最も的確だと思うが、映画が乗り越えようとしたものが何なのか、そして実際に乗り越えたものは何なのか、それが皆目見当がつかない、というあたりが、爆発が爆発たる所以だろう。
名手、仙元誠三のカメラが凄まじい。唐突なラブ・シーンに、唐突なインサート・ショット、そして唐突なアクション・シーン。仲村トオルの裏返しになったような不確かな像、小西真奈美のかつてないほどの艶かしさ、窪塚洋介の心地よいアンバランスさなどが、前述したような場面の暴力的な挿入にさらに揺さぶりをかけ、観客のまなざしを途方に暮れさせる。
筋を追わなければ気がすまない貴男にはおすすめしない。自分の予想通りに進まないと満足できない貴女も観ないほうがいいだろう。
映画には未知の体験が待っている。愚直にそう信じている貴方のための映画だ。