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本質的孤独
2021/4/1 15:44
by
デニロ
シェパード犬とコーヒーカップのカットバックを観ながら、コーヒーカップを机上に置いたまま大事な書類を読むなどあり得ない、と作者の意図とは別の緊張が走る。コーヒーカップは予定通りの有様になるのだが。そんなスタートから吉田大八の世界に引き込まれていく。何十回も観た予告篇が食わせ物だということがすぐにわかり、本篇を実に新鮮に観ることが出来る。
前半は、原作者塩田武士が当て書きしたという大泉洋がいろいろ立ち回るのだが、後出しジャンケンのようにその経過を説明された終盤では、後に記す高校生の見えざる手によって物語が書き換えられていく。成程と。そんな展開。
高校生の頃から本屋が好きでフラフラとしていられたのだが、上京して三省堂、紀伊國屋、芳林堂などの書店に足を踏み入れるや、え、本ってこんなにたくさんあるの、と驚愕したものです。田舎の市民図書館の比ではなかった。背表紙を観ているだけで映画一本分くらいの時間を過ごせたものです。当時は時間だけは十分にあったので。かつて、本は書店で手にして買うものだったけれど、今や本屋を徘徊して、気になった書籍は通販サイトで購入するようになってしまった。もはや本は重いのです。本作の松岡茉優の実家の本屋さんを観ながら、町の小さな本屋さんにこの数年入っていないなと気付きます。
そんな本屋さんに本を買いに来た高校生に松岡茉優は問う。何でこの本を読もうと思ったの/だって、コミックにも映画にもなってないから本買わなきゃわかんない、本で読むしかないでしょ/
作家は孤独である。読み手は、その作家の孤独な冒険の内を同じように辿らなければならない、みたいなことを言ったのはモーリス・ブランショ。そのような書き手を見つけるのもまた大変なことだ。また、そのような作家の言葉を読むには相当な力がいる。しかし、悲しいかな、わたしの場合大抵は目で追うだけだった。ブランショなんてちっとも分らなかった。
本はこころの泉だと言ったのは誰だったか。
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