kusukusu さん
男性
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2012年5月9日 to 僕達急行 A列車で行こう
これもロードムービーの一種なのだろうが、国土が広いアメリカなどとは違い、狭い日本はなかなかロードムービーを成立させることが難しい。とりわけ、携帯やメールで離れていてもすぐに連絡がとれてしまうこの時代、ロードムービーとか遠距離恋愛とかいっても・・と思ってしまうのだが、この作品は、ロードムービーとは言っても、あくまで「ロードムービーの一種」、すなわち「ロードムービーの・ようなもの」であり、鉄道マニアのサラリーマンものにすることで、日本社会のせせこましさそのものを題材にしており、せせこましさの中で鉄道を見ることにほっとする喜びを感じるという鉄道マニア達の話だからこそ、彼らの鉄道を見る旅は、やはり旅ではなく「旅の・ようなもの」なのである。
松山ケンイチ演じる主人公の台詞にあるように、通勤でもなく、旅でもない、「旅の・ようなもの」。
このように、「の・ようなもの」を描くことがうまい森田芳光監督は、恋愛というより、「恋愛の・ようなもの」を描くことが巧みな映画作家だと言える。この映画でも、キャバレーとかが出てくるが、こういう風俗の世界での「恋愛の・ようなもの」の関係性や(『の・ようなもの』はこれを描いた佳作)、社長室で村川絵梨が松山ケンイチのことを「少し好き」という、恋愛とまでは言えない、「少し好き」な、「恋愛の・ようなもの」の関係性・・こうしたものこそ、実に生き生きとこの映画では描かれている。
ただ、それでは、松山ケンイチと貫地谷しほりの関係性をも、「恋愛」と言うより「恋愛の・ようなもの」である、すなわち逆に言うと、本当の恋愛とは言えないものだったとまで、言ってしまっていいのだろうか。この点は実はよく分からない。松山ケンイチと貫地谷しほりの関係性は、表面上は中盤から東京と福岡で遠距離恋愛になるのだが、「遠距離」ということがそれほどカセになっているようにも思えないので、「遠距離恋愛」ではなく、「遠距離恋愛の・ようなもの」である・・とは言っていいのではないかと思うのだけれども、それでは、「遠距離」という言葉さえ、とってしまって、「恋愛」ならぬ「恋愛の・ようなもの」とまで言ってしまっていいのかどうかはよく分からない。
というのは、そもそも「恋愛」と「恋愛の・ようなもの」の違いがどこで分かれるものなのか、どこまでが「恋愛」には至っていない「恋愛の・ようなもの」で、どこからが「恋愛」だと言えるのか、そもそもそんな風に明快に区別することが出来るものなのか、当事者の本人だって実はよく分かっていないものなのではないか・・そんな気もするからである。
そもそも「恋愛」とは?
『(ハル)』は、「恋愛の・ようなもの」が「恋愛」として成立していくまでを描いた傑作だと思うけれども、それではどの時点で『(ハル)』の内野聖陽と深津絵里のふたりの間に「恋愛」が成立していたのか? それを見極めることは出来るのだろうか?
なので、森田芳光は「恋愛」というより「恋愛の・ようなもの」を描くことが巧みな映画作家であるということを確認しながらも、この映画の松山ケンイチと貫地谷しほりのふたりの関係性が「恋愛」なのか、「恋愛の・ようなもの」なのかについては判断保留にしておきたいと思うのだ。
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2012年5月6日 to 裏切りのサーカス
同じ監督の『ぼくのエリ』とストーリーは全く関連ない異なるものなのに、映像や演出のタッチは、やはり『ぼくのエリ』と同じ監督だなぁと思わせられるのが不思議だ。トーマス・アルフレッドソンは文体(「画体」と言うべきか?)を持った職人監督なのだろうか。
車の中で蜂が飛ぶとか、教室に鳥とか・・こういう奇妙な演出はなんなのかと思う。もともと映画は小説に比べると、人物の内面描写をする点で難があるジャンルだが、映像で見せるしかないという映画の表現の基本を熟知しながら、内面の表現というのとはちょっと異なる、奇妙な、映像の演出による、人物像の表現をしていると言えるのかもしれない。
アルフレッドソンは、映画は見せる描写で成立させるものという映画表現の基本に乗っ取りながらも、独自の手法で、人物像(内面世界も含んだその人物の性格)を表現しようとしているようであり、興味をひく。
全体に、たしかな演出の力量を感じさせる。
2012年2月23日 to J・エドガー
つくづくイーストウッドにおいては、もはや、善と悪とか、何が真実なのかとかが、無効なのだなあと思った。
誰が善で誰が悪なのかとか、ダーティヒーローとか、そういうことではなくて、善と悪の問いかけ自体が無効な域に達してしまっているということ。
過去のイーストウッド監督作品としては『真夜中のサバナ』をちょっと思い起こさせたが、『真夜中のサバナ』のように、記者が真実を暴いて行く・・という構造でもない。たとえば、エドガー長官の話を口述筆記するライターが真実を暴いて行く・・といった作り方もあったのではないかと思うが、そのような作り方ではなかった。しかし、実に意表をつくやり方で、真実というのか、これまでいろいろと示されていたことが「嘘」であることが明かされる。こんな話の展開の仕方があったのかと唸る。
2012年1月10日 to テトロ 過去を殺した男
まさに映画の王道を行く傑作。
とにもかくにも、このコッポラの、素晴らしい作品を劇場公開してくれて、すべての関係者に有難うと謝辞を送りたい。
ザッと思ったことは、この話って、もしかしたら、映画向きの話というわけではなくて、芝居(演劇)とか、オペラ向きの話なのかなという気もしたのだが、しかし、これは紛れもなく、王道を行く映画として成立しているのだな。もしかしたら、撮り方によっては、この話なら、映画でなく芝居やオペラでもいいのではないか?と疑問が沸きそうなのに、そういう風には思えなくて、ゾクゾクするほど、ああ、これが映画だと思って見れるのはいったい、なんなのだろうなと。
光とか、音楽にしてもオペラ的な抽象性(音楽に抽象性というのは変かもしれないが)がレッキとした映画的なイメージに昇華されているということなのだろうか。それも、あまりに抽象的過ぎたら、映画の画面はリアルなものだから、ちょっとこれは映画とは違うんじゃないかという感覚になってしまうかと思うのだけど、ヴィンセント・ギャロをはじめとする役者(人物)の存在感、ブエノスアイレスという街の存在感が、見事に、この作品世界を具体性を持った画面として存立させていると言えるのではないだろうか。
途中、オペラ劇のようなシーンが挿入されるが、これもイメージにいい意味で飛躍があり、単にオペラ劇を挿入しているというより、映画的な感覚で入ってきているような気がする。コッポラは、あの『地獄の黙示録』にしても、オペラの音楽を使ったりするけど、そういう音楽を使い、きちんと映画的に出来る(派手な音楽に画面が見劣りするという風にはならなくて)という意味では、やはり独特の才能があるのかもしれない。
あと、これ、各登場人物が、皆、それぞれ、何をどこまで知っているかということ、「知っていること」に差があるんだね。(ある人物はこのことは知っているがこれは知らない、別の人物はこれは知らないが別のこれは知っているという具合に。)まあ、これは、もちろん、現実世界だって、実際、そういうものなのではないかと思うのだが、そういう知っていることの差によって生まれる葛藤というのを凄く考えて作っているように思えて、そのあたりも興味深かったのだ。
2012年1月4日 to トゥー・ラバーズ
ジェームズ・グレイ監督作品、当然のように、傑作。
細部にわたる、もの凄く、細かくて、かつ大胆な演出の数々。細かいだけだったら、ミニマムな感じになってしまい、ちょっと神経質すぎて、イヤな感じの恋愛ものになってしまうかもしれないんだけど、同時に大胆さもあるから、あっと驚く展開にもなり、息をつかせず、見入ってしまう。ドア越しの影とか、ラストにしてもあんな展開、よく考えたもの。ジェームズ・グレイ監督の演出力はやはり並々ならぬものである。
それと、これまでもこの監督の作品はヴィスコンティ監督作品を思い出させることがあったのだが、今回も、女との出会いのシーン(喧嘩して部屋を飛び出した女を自宅の部屋に招く)にまた『若者のすべて』を思い出した。
2011年12月28日 to 風にそよぐ草
オリヴェイラの『ブロンド少女は過激に美しく』と並んで、老人の巨匠監督たちのこの暴走ぶりには呆れるほかないというのか・・。この内容は、もう、ほとんどストーカーというのか、はっきり言って犯罪の域に達していて、ホントにこんな奴がいたらただの困った奴だが、しかし、面白く見れてしまうのは何故なのか。やっぱりこれが映画だからなのか。この映画は、「これが映画である」ということ自体、ちゃっかりパロディにしているシーンが出て来るのだが。そう言えば、ビクトル・エリセの『エル・スール』にも、考えてみれば似たようなことをやっているシーンがあったっけ。
しかし、それでは、現実にはそんなことがあったら、そんなバカな、あり得ないと思うことなのに、映画だとありになってしまう(それもリアリティを持って)という、映画とはいったい、なんなのか・・? まあ、「映画とはなんなのか?」というより、それが映画というものなのだということなのかもしれないが・・。
2011年12月23日 to ジェシーを狙うのは誰だ?
監督 ヴァーツラフ・ヴォルリーチェク
この作品は、1966年のチェコスロバキアのSFコメディ映画では日本では劇場公開もDVD販売もされていないが、先日、機会があって簡易に日本語字幕を入れたDVDを見ることが出来た。これが、なんとも、ポップで痛快なSFコメディ映画の快作で、まだまだ世界には知られざる傑作があるんだなーと痛感した次第。
1966年のチェコ映画と言うと、あの『ひなぎく』(ヴェラ・ヒティロヴァ監督)と同じ年の映画になるわけだが、『ジェシーを狙うのは誰だ?』も、コミックの世界から実体化した美女や悪党たちが言葉は話さずマンガの「ふきだし」を見せて会話するとか、全体のシュールな感覚など、『ひなぎく』にも通じるシュール感はかなりあるように感じたが、しかし、どちらかというと前衛的な映画という感じの『ひなぎく』に対し、『ジェシーを狙うのは誰だ?』はかなりきちっとしたエンターテイメントの要素も備えた、コメディ映画になっている(コメディとしてのシチュエーションもよく出来ている)ようにも思える。そういう意味でも感心した。
この作品がこれまで日本で紹介されてこなかったのはホント、もったいないと思う。チェコのSFコメディ映画と言っても一部の人しか関心を持たないかもしれないので、商業的な難しさはあるのかもしれないが、このレアな傑作、どこかで劇場公開するなりDVDを出そうという話は出て来ないものだろうか・・?
2011年12月21日 to 灼熱の魂
つい、パンフレットを購入してしまった。これは感動したからというより、どうも釈然としない気持ちになる映画だったので、パンフレットを読んで考えてみないと、見た映画の整理がつかなかったからだ。
端的に言うと、偶然と必然が重なる人生の不可思議さを浮かび上がらせるという、キェシロフスキ的な作劇に興味は感じるものの、この映画の場合、凝ったミステリー調に作り過ぎてしまっているので(この話なら、観客の興味をひくためにこのようにミステリー調でつくるのは当然ではあるので、そうした作りは間違いではないのかもしれないんだけど)、これではそもそも「偶然」が偶然に見えないので、なんだか、無理矢理な話に感じてしまう・・ということなのではないだろうか。
もし、これが小説であったなら、途中で本を閉じて、考えて余韻にひたることとかが出来るので、この話に違った印象を持てるのかもしれないが、限られた時間で流れていく映画でこれをやるのは無理があるのかもしれない。映画でミステリーものをやる難しさを改めて思いました。
2011年11月17日 to ミッション:8ミニッツ
よく練られている。最近、見たSF映画では、『ミスター・ノーバディ』と並んで、よくこれだけ練ったなあと感心するところはある。
しかし、『ミスター・ノーバディ』は、そのユニークな物語の果てに、へぇ、こういう観点の表現っていうものもあるのか・・と思わず、唸ってしまうような、いわく言い難い気持ちにさせられるところがあったのだが、この『ミッション:8ミニッツ』は、これだけ凝った構造の果てに、伝えたいことって、そんなごく普通の家族ドラマのようなことなのか・・って、個人的にはなんか、違和感が残ってしまって・・。そういうことなら、別に、これ程、凝ったSF的設定の物語を紡がなくても、普通に家族ドラマで描けばいいのではないか・・とちょっと思ってしまったのだ。まあ、ごく日常的な、なんてことがない情景が、凝ったSF的設定によって、輝いて来る・・というのをもしかしたらやろうとしたのかもしれないが。単に僕が求めたものがちょっと違ったのであって、決して出来が悪い作品ということではないのかもしれないが、個人的には、もっと、SFならではの、独自のビジョンみたいなものを見せて欲しかった気がしたな・・。
2011年11月1日 to ウィンターズ・ボーン
堂々たる直球の傑作。これこそアメリカ映画の王道かもしれない。デブラ・グラニック、こんな女性監督がいたのか。アメリカ映画はさすがに裾野が広い。
一番、びっくりしたのはチェーンソーで、ホラー映画で殺人鬼が手にしているのとかではない、こういうチェーンソーの使い方があったのか。
それにしても、アメリカの片田舎の人々が擦れてしまっている感じ、これが圧倒的な現実なのかと思うが、果敢にそれに立ち向かうジェニファー・ローレンス演じるヒロインの姿が、そうした空気に多少は風を送り込み、穴をあける。そこに希望もたしかに感じ取れる。
一方、直球というのか、一本で進む話が、豪速球の直球という感じで醍醐味でもあるんだけど、もう少し、話に捻りがあっても良かったのかなとはちょっと思ったが。