生きる力
2004/8/28 15:30
by
さくらんぼ
「ウォーク・アラウンド」と英語で書かれたTシャツを着た長男が出てきます。どの様に訳すのが正しいかは分かりませんが、小さなアパートの一室から出ることを禁じられた子供達の、哀しい叫びが聞こえてきそうな言葉です。
確かに子供達は生まれてきたけれど、まだ社会的には生まれていなかったのです。子供が入れられたトランクは子宮の意味もあるのでしょう。アパートの一室も閉鎖空間ですからそうなのでしょう。
そして哀しいトランクは最後にも登場します。少し違った意味で。彼らはどれだけ強く外の世界に憧れていたことでしょうか。誕生したがっていたことでしょうか。飛行機が登場します。「飛翔」これは彼らの悲願です。
それに対して母親は、一人外の世界を満喫している存在でした。子供らとまったく対照的でした。
いじめを受けた少女も登場します。彼女もまた学校という社会から受け入れられなかったのです。
ここで面白い事に気がつきました。「学校に行きたい子供達と、行きたくない少女」が登場することにです。少女は最初は自分が世界で一番不幸だと思っていたのかもしれません。でも、そうではなかったかもしれないと気づいたことでしょう。
少なくとも社会的に生まれていない子供達よりも恵まれていたのです。
この映画は哀しい映画で、涙もほろりとこぼれます。でも、不思議と見終わった後に生きる力みたいなものが湧いてくるのでした。私たちは社会という歯車に組み込まれている息苦しさもありますが、歯車の一員である幸せにも気づかせてくれました。珠玉の作品です。
-
追記
2004/8/30 19:02 by
さくらんぼ映画の中の子供たちは、自分たちのせいではないけれど、社会から抜け落ちた生き方をしていました。母親も自由を満喫はしていましたが、母親の勤めを放棄していました。女学生も、なぜだかいじめられ、学校からこぼれ落ちていました。この様に主な登場人物は皆それぞれの在るべきポジションから外れた生き方をしていたのです。
そして、その内スポット・ライトを当てられていたのは、子供たちと女学生でした。
なぜ、そこに焦点があてられていたのか、それは映画の前半ハンバーガー・ショップで、長男が母親から「学校なんて行かなくてもいいの。学校に行かなくても偉くなった人なんて沢山いるじゃない。」と説得されている事もヒントになる様に思います。学校について丁寧に、わざわざ語っています。
かつて西部劇の名作「シェーン」は、銃の哲学についてシェーンが母親に語るシーンが挿入されていました。また銃のマナーについても語られていました。「シェーン」の裏テーマは銃社会アメリカの、「銃との正しい共存方法」について描かれていたのだと思いました。
ならば、この「誰も知らない」は親の育児問題がテーマかもしれませんが、裏には「学校・組織」がテーマとしてあるのではないでしょうか。
学級崩壊、登校拒否、フリーター問題など、組織から外れた生き方を見せる人たちが今、社会問題になっています。もちろん、それらのすべてが悪いと言っているわけではありませんが、テレビなどで特集番組が組まれている様な状況です。
この映画の裏テーマは、もしかしたらそんな人たちに向けて発信されたものではないでしょうか。「組織に属さない生き方のリスク。」監督にはそれを理屈ではなく、肌で感じてもらおうとの目論見があったのではないかと思うのです。 -
追記U
2004/9/4 8:03 by
さくらんぼこのように、監督には親の批判は最大の目的ではなく、ただ子供たちだけで生活する状況を作り出す為に、事件をモチーフとして利用したのではないでしょうか。誰でもいずれは自立しなければなりませんから。
映画の冒頭、電車の中でスーツケースを持って深刻な顔をしている男女がいました。社会から「孤立した」二人です。つづいてアパートの大家さんに挨拶する母子が描かれます。これは社会との「関わり」について描かれていました。二つは対象的なシーンです。
コンビニが出てきました。レジの後ろでは、店長から新入り店員が袋の広げ方を教えてもらっていました。このシーンは2回ぐらい出てきましたので無意味ではないでしょう。「働くこと・学ぶこと」をさり気無く語っているように思います。
野球でしょうか。メンバーが足りないので見ていた長男に声がかかりました。「組織の一員」になる象徴的なシーンだと思います。
「孤立」していた子供たちは、最後には女学生を頼り、また「一人ぼっちの女学生」も子供らと友達になります。やはり人は一人では生きては行けないのでした。彼らさえも生きるためには「他人との関わり」を作らざるを得ませんでした。
ところで、さり気無いセリフには、意外な意味が込められている事があります。母との約束を破って公園で遊ぶ子供たち。その時子供の一人が「この木の下にはセミの幼虫が眠ってるんだよ。知ってる?」と言います。「知らない。」と答える女学生。
「誰も知らない、セミの幼虫」は子供たち自身の暗喩だと思いました。
末娘が音の出る靴を選び、母を迎えに行くシーンがありました。「キュ、キュ」というあの音。禁じられた大きな音。隠れて暮らしていたストレスの反動でしょうか。それとも母に会える嬉しい気持ちの表現でしょうか。でも裏で語られていたのは「セミの鳴き声」だと思いました。末娘はほんの一瞬だけセミの様に生きたのです。
やがて短い人生を終えたセミは、高い木の上から落ちて土に返ります。夏の終わりに椅子で起きた末娘の悲劇を思い出します。監督はセミ一生と末娘の生き様を重ね合わせていたように思いました。 -
逆じゃあないでしょうか。
2004/9/16 4:57 by
ハスミこの映画は社会に組み込まれない子どもたちの不幸を描くことで、社会に組み込まれる我々の幸福を描いたのではなく、社会に組み込まれない子どもたちの「幸福(不幸に対する疑念)」を描くことで、社会に組み込まれる我々の不幸(幸福に対する疑念)を描いた映画だと思います。
親に見捨てられた子どもは、常識的には不幸ですが、その常識を裏切り、説得力をもって描いたからこそ見る価値のある映画なのだと思います。
たとえば、いじめられっ子女子中学生「サキ」。たしかに、彼女は福島兄弟と対照的に描かれています。そして、彼らと交流することで救済されるわけです。
しかし、その救済の内容は、サキが「社会に組み込まれていない」福島兄弟を「不幸」だと感じ、彼らにくらべて「社会に組み込まれている」サキ自身が「幸福」であると再認識したからではありません。逆です。サキは「社会に組み込まれていない」福島兄弟が「幸福」だと感じたからこそ救済されたのです。もし、サキが福島兄弟を「不幸」だと感じていたならば、彼女は彼らのことを周りの大人に通報したはず。あるいは大人に助けを求めるようアキラを説得しようとしたはずです。彼女はそれをしなかった。それどころか、福島兄弟の「漂流生活」を維持するために貢献しようとまでしています。援助交際しかり、死体遺棄の手伝いしかり。彼女にとって彼らの生活はそうとう居心地が良かったに違いありません。
また、母親の描き方もこの主題を説得的にします。
YOUが演じるのは、優しく、明るく、ユーモラスで、ヒステリックでもなく、暴力的でもなく、子どもたちに愛情を持っている母親です。「学校に行かなくてもいい」と我が子を説得するのに「アントニオ猪木」を持ち出すような憎めない母親。もちろん、見捨てたのだからヒドイことには変わりないのですが、画面上には直接描かれません。このあたりが監督の視点でしょう。この母親像が子どもたちの明朗快活さにリアリティを与えていると感じました。やさしく明るい母親に育てられたのだから、子どもたちもやさしく明るい。 -
Re: ハスミさんへ
2004/9/16 6:51 by
さくらんぼご返信有難うございます。
映画の中に度々コンビニが出てきます。過去にテレビで特集番組がありましたが、一見気楽な雑貨店に見えるお店の経営には、実は大変なノウハウと努力が潜んでいるそうです。
コンビニに限らず私たちの高度な社会システムのほとんどは、社会の歯車の一枚となって働いている人たちの努力と貢献の賜物です。私たちは空気の様にそれを享受してはいますが。
確かに社会の歯車の一枚になることは不幸な点もありますが、あえて幸福な点を探したいと思います。この映画からは静かにそれを感じました。それから母親を憎むべき対象に描かなかったのは、映画の焦点が母親非難ではないからだと思いました。
もちろんこれらは私見で、映画の解釈の正解については他の映画同様に分かりません。 -
ハスミさんへ
2004/9/16 17:01 by
F2「学校に行かなくてもいい」と我が子を説得するのに「アントニオ猪木」を持ち出すような母親を、私は”憎めない”という視点で見ることはできませんでした。これが、何か社会に対抗する信念や独自の学校観から発せられるものならまだしも、私には、その場しのぎの言い逃れとしか聞こえませんでした。この場面、この情況では、息子の真剣な問いかけをはぐらかし、本当に大切な事に正面から向き合おうとしない母親の未熟さを感じます。
このことを含め、学校に行きたいという子供の声、或いは学校に行きたくないという子供の心が真摯に受け止められることのない社会が、故意が偶然か、映画の中に浮かび上がっているように思います。
この映画に出てくる人々は、殆どが善良な人々ですが、皆その場その場の一過性の親切を投げかけるだけで、誰も真剣に子供達の将来をも含めた人生に関わろうとしません。その中で孤絶した子供だけの世界がなぜこうもリアルに描かれ得るのか、それは幻想のユートピアでしかないのではないのか、という疑問を私は持っています。 -
横レスなんですが Re: 生きる力
2004/9/18 3:03 by
kusukusu横レスに横レスなんですが。
>この映画に出てくる人々は、殆どが善良な人々ですが、皆その場その場の一過性の親切を投げかけるだけで、誰も真剣に子供達の将来をも含めた人生に関わろうとしません。
そうなんですよね。
コンビニの店員とかが気にかけたりしてるんだけど、そんな、本当にこの子供たちのことを知ってて気にかけてるなら役所なり児童相談所にでもたれこめよ、と思えてしまう。
本当にその場だけのやさしさって感じで。
あるいは、いじめられっ子の少女がお金をつくってあげると言って援助交際をするんだけど、カラオケだけなんだからいいでしょと言って少年と口論になり仲たがいする・・という話もよく分からない。
そもそも少女の側には本気で金がいるならカラオケだけでなくて売春ぐらい、しろよと僕なんかは言いたくなってくる。もちろん中学生が売春することをいいことだと思うわけじゃないですよ。本気でお金がいるなら、少しでもお金を多く得ることを考えるのは当然で、そういう点で少女がやってることは中途半端に思えるし、それに対して怒る少年の行動も綺麗ごとすぎてよく分からない。そんな綺麗ごと、言ってる場合じゃないでしょうが。餓死しそうなんだから。
そういう点で少女、少年双方の行動が中途半端に思えて釈然としないシーンだったというか。
そういう釈然としないシーンが多々、あります。
でも、もしかすると、そういう日本人的な曖昧さをこの映画は描こうとしたのかもしれない。そうだとするなら、意欲的な作品だとは思いますが。 -
さらに返信
2004/9/18 5:12 by
ハスミ「アントニオ猪木」の話にはアキラも笑っていましたから、やっぱり母親の「憎めなさ、かわいらしさ」を表現するためのものだと思います。未熟でしかも憎らしいのではなく、未熟だけど憎めない母親ということでしょう。
私は福島兄弟の「漂流生活」が大家や警察などの介入、あるいは内部的な行き詰まりによっていつ破綻するのかとハラハラしながら見ていました。当然、早く誰か助けてあげてくれと思いました。しかし、同時に生活が破綻しそうでやっぱりしないという場面では、ホっとする感情も持ちました。先入観には反しますが、それは私が彼らの生活をある意味「幸福」だと感じ、それに説得性を感じていたからです。
「子どもたちの明朗快活さにリアリティがない」という指摘は私にとって意外です。
私は福島兄弟が健やかであったのは、彼らを抑圧するものがなかったことによると思います。ありていに言えば「いじめる」存在がいなかった。母親もあんな感じですし。勉強ができるのできないのと比べられることもなく、悪い意味で人間関係に気を使うこともない。兄弟たちの環境は「子どもが子どもらしく」いられる場であると、説得力をもって描かれていると思いました。それはもちろん、親がいないからこそ、大人が介入しないからこそということです。
福島兄弟と対照的に描かれる同年輩の子どもが出てきます。アキラのゲーム友だちの男の子たちとサキ。おそらく彼らには親もいて学校にも通っている。
この映画で彼らはあまり「善く」描かれていません。男の子たちは、妹弟に気を使いもせずゲームに熱中したり、仲間意識を確認するためにアキラに万引きを命令したり、ひさしぶりに会うと「臭い」と遠ざけたり、サキはいじめられっ子で学校に行かず、お金を稼ぐために軽々と援助交際したりもします。このほど左様にいろいろと問題を抱えていそうな子たちですが、彼らのこういった面は言わばステレオタイプの現代っ子像です。我々の常識に一致するではありませんか。
こうした対照的な子ども像とともに、「現代の東京」という舞台が提示されたとき、「責任ある大人」は福島兄弟にどう関わればよいか、私はいささか葛藤します。
すなわち、この映画は「無責任な大人」を告発しているように見え、観客は「なんとかあの子たちを救ってあげたい」との思いにかられます。しかし、実際に具体的に「あの子たち」を「救う」とはどういうことか。是枝監督はそこに関わる議論を起こしたいと考えて、先入観に反する描き方をしたのではないでしょうか。
kusukusuさん。
サキがお金を作ろうとしたのは、食のためではなく住のためです。家賃滞納による話です。ですから、それほど背に腹は変えられない状況ではない。食はコンビニから調達できますから。
サキの援助交際は言うまでもなく反道徳的な行動です。それに対しアキラはお金をはねのける、アキラの行動は道徳的です。私は、アキラが善良であるのはウソっぽくないと感じていましたので、アキラの行動は奇麗ごととか中途半端というより「葛藤」を表現したものだと思います。 -
Re: 生きる力
2004/9/18 6:31 by
さくらんぼ私も横レスになるのかもしれません。
F2さん、kusukusuさんこんにちは。
仰るとおり、この映画の登場人物の多くは他人との関わりが薄いのです。大人たちも、もう一歩子供たちの世界へ踏み込めば良いものを、踏み込まないもどかしさが感じられます。それがリアルといえばリアルなのですが、このあたりは意図した事であると何処かで読んだ気がします。
私はそれがモチーフだと思いました。母と子、周囲の大人と子供、主人公たちと友人たちなどに見られる希薄な関係は、主人公たちが社会から孤立している事へと集束して行くのです。
それから少女がカラオケでお金を稼いだエピソードは、少女の説明通りカラオケだけだったのかもしれないし、本当はそうではなかったのかもしれない。少なくとも少女にほのかな恋心の様なものを感じ始めていた少年には、汚れた行為に見えたんだと思います。その、多分少年にとって初めての感情をうまく処理できずショックを受けて走り出したんだと思いました。
私はこのカラオケ?のエピソードは「お金を稼ぐには社会と関わる必要がある」事の現実を教えるものだと思いました。そこに明るく健全な仕事ではなく、怪しさ?の有るものをあえて配置したことで、生きる事の厳しさを、より強調したかったのではないでしょうか。その様に感じました。 -
Re: 生きる力
2004/9/18 14:00 by
kusukusu>私はこのカラオケ?のエピソードは「お金を稼ぐには社会と関わる必要がある」事の現実を教えるものだと思いました。そこに明るく健全な仕事ではなく、怪しさ?の有るものをあえて配置したことで、生きる事の厳しさを、より強調したかったのではないでしょうか。
そうですね。だからああいうことを通して、少年がああ、お金を稼ぐというのはこういうことなんだと学んで行く・・という方が分かるんですよ。
少年がバイトをしようとして12歳は雇えないと言われて断られるシーンがありましたが、そこで止まらないで、12歳でもお金を稼ぐ方法はないだろうかと少年が模索する・・という風に展開しないと納得できない気がしたんです。それで、少女が援助交際をするのを見て、お金を稼ぐとはどういうことなのかと葛藤するというのなら分からないことはないんですが。
ただ、そこまで深めて描いているのかはちょっと疑問です。あのシーンが道徳的な問題に集約させようとしたものなら、ここで道徳的なことを持ち出すのは違うような気がしました。
僕は見方が悪かったのかもしれないけど(ハスミさんの言い方だと「先入観」にとらわれ過ぎているのかもしれないけれども)、ちょっと母親の描き方も他の周囲の登場人物たちの描き方もステレオタイプな気がしました。子供をほっておいて男ばかり追いかけてる母親とか、いじめの話とかも、ちょっと今の世の中にはこういう人がいるでしょうというステレオタイプな例を見せられているみたいな気がしてしまい、具体的にドラマのひとりの血の通ったキャラクターとして母親や個々の人達のキャラクター像をつかめなかった。
同じように、子供をほっておいて男ばかり追いかけてる母親を描いた作品で、イギリスのケン・ローチ監督の「スイート・シクスティーン」がありますが、こちらの方がドラマとしては個々のキャラクターの情念とか葛藤とか、よく分かる気がしました。この主人公の子供は母親のために16歳なのに麻薬の密売に手を染めて行く。そういう方が僕個人としては気持ち的には分かるんですね。
もっとも、是枝監督のねらいが、見た人にいろいろと考えさせることにあるのだとするなら、僕のようにとまどいを覚えるのも監督の術中にはまっているのかもしれませんが。
先のイギリスの作品と比較するなら、この『誰も知らない』という作品は、イギリスとは異なる日本社会特有の問題をとらえ出しているのかもしれない。僕の好き嫌いはともかく、そういう問題提起をしているという意義はある作品なのかもしれません。 -
リアルなステレオタイプ
2004/9/18 21:38 by
BaadF2さんの「リアリティー」のスレッドからずっとRomしていました、横レスになりますが、このあたりの曖昧さがこの映画の特徴的な所ではないかと思いましたので、レスいたします。
>「子どもたちの明朗快活さにリアリティがない」という指摘は私にとって意外です。
「リアリティーがない」のではなく、映画で描かれているような環境であったら、母親が家を出たことが確実に分かる当たりの部分までは、実際にはなんらかの抑圧が働いてたと考えない限り明朗快活であることは不可能なのです。
>私は福島兄弟が健やかであったのは、彼らを抑圧するものがなかったことによると思います。
あの設定ではそういうことはあり得ません。何よりアキラ以外は外に出ることを許されないと言うことはあの年齢の子供たちにとっては最大の抑圧です。特に、多少多動気味にも見える次男が大人しく家にいると言うことは何らかの強い抑圧が働いていなければ不可能です。
>ありていに言えば「いじめる」存在がいなかった。母親もあんな感じですし。勉強ができるのできないのと比べられることもなく、悪い意味で人間関係に気を使うこともない。兄弟たちの環境は「子どもが子どもらしく」いられる場であると、説得力をもって描かれていると思いました。それはもちろん、親がいないからこそ、大人が介入しないからこそということです。
この部分は、
親が抑圧しているにも関わらずなぜか子供たちは健やかだったと解釈するのが普通です。だからこそ別スレにあるように、子供の心が壊れていくだろうと言うような解釈も出てきてしまう。そういう解釈を監督が排除したかったのであればもっとしっかりとしたストーリーテリングが欲しいところで、それが足りなかったところがこの作品の弱さだと私思います。
でも、その辺さくらんぼさんのようにすんなりと受け止めている人が多いと言うことは、まともに子供と向き合った経験のある人が少ないと言うことなんだろうか、と私は逆に疑問に思いました。
>そういう釈然としないシーンが多々、あります。
でも、もしかすると、そういう日本人的な曖昧さをこの映画は描こうとしたのかもしれない。そうだとするなら、意欲的な作品だとは思いますが。
私はkuskusさんのこの意見に賛成なのですが、それにしても監督自身が誰よりもそういう日本的な曖昧さにひたっていてそこから出てこないように見えてしまい、何とも釈然としません。
日本的な曖昧さを描いた上でちゃんとまな板の上に載せて料理できるだけの力量がある作家だと思えるだけに残念です。 -
Re: 生きる力
2004/9/19 3:53 by
草莽の志士雑誌のインタビュー記事や映画祭のシンポジウム、或いは直接お伺いしながら得た所感ですが、映画監督と云えど様々で、1〜10まで練り上げた「カット」を入れてはいないと想うのです。ある女優が連続TVドラマに参加する一方で、別に映画にも参加していました。役柄上彼女はTVでは動を演じる為に爪を派手にネイルしなければならなかったのですが、映画では静の演技を求められその爪が邪魔となったのです。その爪は切る訳には行きません。結果、映画監督は彼女に白い手袋をはめて演じさせました。彼女が最後には手袋を外して握手をするシーンが撮られました。TVの撮影が完了していたからなのですが、そのシーンは映画に於いて大変に印象的なシーンとなりました。彼女が「夏の暑い最中でも外さなかった手袋を外して最後に握手をした」と観る側に伝わったからです。僕はこのような事は良くある話だと想うのです。音を選りすぐったレコーディングアルバムを或一夜を収めたライヴアルバムが越えてしまう、と云った現象。脚本を越えた(はみ出した?)演技、演出を越えた演技が齎す奇蹟も少なくはないと想っています。
YOUがドーナツショップで「アントニオ猪木」を持ち出すシーンは、演じ終っても中々監督の「カット」の声がが入らなかった為に彼女がやったアドリブだと聞きました。つまり柳楽君が噴き出したのも演出ではなかった。でもそれが結果こちら(観客)には「様々な」余韻を残した。僕にはF2さん同様「その場凌ぎの言い逃れ」と映り、そうでない方もいた。その何れにせよ繊細な感情を突っついて来る良いシーンと成りました。
カラオケのシーン、僕には大変に痛かったです。紗希がおじさんと「たかがカラオケ」を共にして手に入れたお金を叩きつけた明。この前のシーンで、着ようとするシャツの匂いを嗅ぐシーンがあります。妹の京子は「どうしたの?」と聞き明は「いや別に」と応えます。その後に彼が逢った人が紗希だった事からして、明は紗希に友情以上の感情を抱いていた(僕は明はデートにでも出掛けた気分でいたと想っています)。その一番匂わないシャツを選んだであろう明ですが「髪洗ってる?」などと紗希に返されてしまい僕は同情しました。でも心が和んだシーンです。その後で「たかがカラオケ」のシーンへと繋がる訳です。明の真直ぐな想いが粉々に砕け散る(走り去る)には充分な動機に想えました。些細な出来事で砕かれてしまう、当時の僕なんて何度もそんな事ありましたから(笑)
沢山種を蒔いて、その殆どをそのままに観客の心に渡すと云う技法は是枝監督の「優しさ」だと想う僕です。あまり返信に参加する方ではないのですが、この映画には大変思入れが強い事もありペンを取りました。皆さんの意見興味深く拝見致しまて、それぞれのお話に、相違したり同意したりです。さくらんぼさん、ハスミさん、F2さん、kusukusuさん、Baadさん、始めまして。 -
お話の焦点ぼけはこのように理解
2004/9/19 5:48 by
元映画野郎多分監督は、当初は例の事件のラストを予定してもう少し
お話としてまとめるつもりだったのかなと思いますね。
特に前半は、くちこみ・掲示板の皆さんがおっしゃる通り、母親の家出・ボストンバック・アポロチョコ
飛行機・キュキュサンダルなんて、物語を成立させようとする監督の意図がちりばめていたね。
また、都市・いじめ・援助交際という社会との関係性の問題なんかも含められたりして。
それと同時にあの空間の子供たちの密度が時間の経過とともに濃くなってきたよね。
相互にたよりあい、いつくしみ、憎みあい、そして愛し合い。
擬似ながらも、人と人とが空間を共有するときに生じる関係や感情が。
でもそこは、監督もそれのみに頼らず、上手にドラマに仕上げようとがんばっていた。
彼らを見つめるカメラワークとともに。
だから、映画的要素が緊張感をもってあふれていた。この点は映画として大成功。
でもね、そのせめぎあいの結果多分彼らが圧倒したんだ、監督に。
そして、最後は、監督は、彼らを見つめるだけにしたんだ。
最低映画として成立するように、少しばかりの後始末をして。
フィクションの監督だったら、自分の意図どうりにもう少し抵抗するだろうが、
そこは、是枝さん。このあたりはいさぎよいこと。
結果として、お話として、最後はちょっと焦点ぼけになったけど。
彼らの表情が視線がすべてを物語っていると思うよ。谷川俊太郎の詩のように。
ドラマ派の私だけと今回のこの監督の選択は支持します。 -
Re:Baad様
2004/9/20 6:57 by
散歩中の人あなた、『子供の描き方に疑問を持たない人に、私は逆に疑問を持つ』みたいな事書いてるけど、どんな映画でも、みんな心に留まった一部分をレビューに書いてるだけでしょ。それが非難されるの?あなただって一部分だけしか書いてないじゃないの。それともあらゆる角度から映画を検証してすべて正確に評論できるのでしたら、これからはそうして頂戴。楽しみにしてるわ。本一冊分ぐらいになるわね。
-
誤解です Re: 生きる力
2004/9/21 12:24 by
Baad散歩中の人さま
> 『子供の描き方に疑問を持たない人に、私は逆に疑問を持つ』みたいな事書いてるけど、
そういう意味ではなく、幼児期の子供をよく知っている人なら、この映画の前半設定は意図的なのか、そうでないかは別として現実的には無理がある、と言うことが分かるはずだと言っています。
解釈の問題ではなく、経験の有無を述べているにすぎませんし、そういう経験のなさ自体は別に非難されることではありません。
私の書込の後も話は続いているので、書いていること自体に問題はないと思うのですが、なんで捨てハンでこんなレスをつけられるのか不思議です。 -
Re.生きる力
2004/9/21 13:42 by
Baad元映画野郎さんの書き込みを読んで、
是枝監督って、観てきたような真っ赤な嘘うえに、ドキュメンタリー的な映像を重ねてなにがしかの真実をきっちりと映し出そうとする人でもあったんだと言うことを思い出しました。
その真実が監督にとっての真実ではなく、役者や観客にとっての真実であるところがちょっとずるいところで、それは優しさというよりは、「照れ」や「ある種の人の悪さ」であるように感じていたのですが、確かに今回の作品では、そんな監督の意図を、子供たちの生命力が遙かに圧倒していたように思いました。
別スレで、元映画野郎さんが、この作品を「原石」にたとえていた意味がすとんと腑に落ちた気がします。
あと、どこの設定が気になるかということは誰に感情移入してみるかによって違うのかもしれないと思いました。
私の場合よく考えてみるとアキラや少女にではなく他の三人の子供たちに感情移入していました。ですから、後半は特に不自然に感じるところはありませんでしたし、草莽の志士さんの書いていらっしゃるアキラの恋心には気づきませんでした。
あと、子供たちが歪んだ環境にいるということと、学校に関する抑圧が存在しない、と言うことは両立しますね。これは書くまでもないことだと思ったので、あえて書きませんでした。
この映画を観た後の感想はF2さんのものにかなり近いものですが、子供たちの世界は幻ではなく確かに存在するけれど誰もあえてみようとしないものなのではないか、それも最初から一貫してそうだったのではないか、と思っています。
設定の多少の不自然さが意図したものだったのか、単なる準備不足からくるものかは未だよく分かりませんけれど・・・ -
ごめんなさい Re: 生きる力
2004/10/1 13:52 by
Baad以前問題になったのこの部分ですが、
>親が抑圧しているにも関わらずなぜか子供たちは健やかだったと解釈するのが普通です。だからこそ別スレにあるように、子供の心が壊れていくだろうと言うような解釈も出てきてしまう。そういう解釈を監督が排除したかったのであればもっとしっかりとしたストーリーテリングが欲しいところで、それが足りなかったところがこの作品の弱さだと私思います。
でも、その辺さくらんぼさんのようにすんなりと受け止めている人が多いと言うことは、まともに子供と向き合った経験のある人が少ないと言うことなんだろうか、と私は逆に疑問に思いました。
私の指摘したような解釈をしたのは、さくらんぼさんではありませんでしたし、その解釈をした人が多いという根拠もありませんでした。
単純な勘違いに基づく書込でしたが、不愉快な思いをされた方がいらしたらお詫び申し上げます。 -
ひとつだけ
2004/10/17 22:35 by
w×6明が、サキちゃんが「カラオケ」に付き合って、お金を得た事に、強い拒否反応みせました。様々な意見が、このスレッドで交わされていますね。私は、やはり明の潔癖さを現すものと、考えています。思春期に入った彼は、母親の行動に疑問を感じ、次々と男性を渡り歩く母親に娼婦のイメージを持ったのではないでしょうか?
売春も必要にせまられればと言った意見も少し感じ取られたのですが。明はそれを拒絶したのだと思うのです。
高校生のころミッション系の高校でしたので、「宗教」の時間があり、売春について、頭の良い生徒が「別に、自分の体を使ってする事だから、報酬を得ても良いと私は思います。」と意見をのべますと、先生は「貴方は、お母さんがいますか?または、妹か姉はいませんか?その人たちが、売春行為をしても、貴方は同じ意見なのでしょうか?」とやさしく問い掛けると、その生徒は押し黙ってしまいました。
そして、せっかく出来た友達の命令としての「万引き」も彼は拒絶しました。
しかし、妹が倒れた時に彼は、「盗み」をしました。これは、注目すべき箇所だと感じています。どう、考えるか難しいですね、妹の命の前には自ら「盗み」を犯す事に彼は、踏み切ったのです。失礼致します。 -
追記V ( 時代背景という万華鏡 )
2011/8/3 13:20 by
さくらんぼ>・・・「組織に属さない生き方のリスク。」監督にはそれを理屈ではなく、肌で感じてもらおうとの目論見があったのではないかと思うのです。
映画は時代を映す鏡とか申しますが、当時の様なフリーター全盛期は、つまり正社員になることはそんなに難しくないのに、あえてフリーター生活を「気楽だから!」という理由で選択している人が多かった時代は、いつのまにか夢の様に過ぎ去ってしまいましたね。
あの浮かれていた当時に「組織に属さない生き方のリスク」を語るべく「誰も知らない子供たち」の姿を借りて描いたタイムリーな作品がこれでした。
実在の事件は、一部をモチーフとして拝借しただけで、映画の主題は子捨ての非難ではなかったのです。だから母は悪役に描かれていません。
今は時代背景がまったく逆になり、誰もが正社員になりたくて(組織の一員になりたくて)必死に就職活動をしても、なかなか夢が叶わない時代なりました。
そんな2011年という時代背景からこの映画を観ると、母が悪役に描かれていない分だけ、クールなホラー映画になりかねないという、想定外の味わいが生まれるようです。つくづく映画は時代背景とワンセットだという事を感しました。
ちなみに一人っ子政策で有名な某国には、どこかで聴いた話では、役所に隠れて二人目を産む人が少なくないそうです。当然に就学年齢に達しても就学案内は来ません。子供さんの幸を祈ります。
( どなたかへの返信ではありません。) -
追記W ( 姉妹作も傑作 )
2011/8/3 13:24 by
さくらんぼ> この映画は哀しい映画で、涙もほろりとこぼれます。でも、不思議と見終わった後に生きる力みたいなものが湧いてくるのでした。私たちは社会という歯車に組み込まれている息苦しさもありますが、歯車の一員である幸せにも気づかせてくれました。珠玉の作品です。
この映画を観た当時は私も歯車の一員として苦しんでいましたが、(それでも、君は幸せ者だよ!)という声が聞こえた気がして、確かに生きる力が沸いてきたのでした。
生きる力が沸いてくる、と言えば、2001映画「千と千尋の神隠し」を思い出します。両者とも大きな意味で、人と社会との関わりを描いていました。
映画「誰も知らない」が、究極の孤独であり引きこもりの姿、その悲惨を描いていたとしたら、映画「千と千尋の神隠し」は、逆に、神の計らいで無理やり社会参加させられた子供の話です。
映画の中の、あんな職場は絶対イヤだと私も最初は感じましたが、だんだんと友達も出来て仕事にも慣れ、最後には離れがたい職場になっていくところが感動的でした。そして、それは、同時に千尋の成長でもあったのです。
また、こんな映画もありました。2006映画「嫌われ松子の一生」です。
こちらは、病気で家から一歩も出られない、かわいそうな妹と、元気すぎて自由奔放に生きる姉の物語でした。つまり映画「誰も知らない」と映画「千と千尋の神隠し」では別々に描いていた部分を、「嫌われ松子の一生」では同時に描いているのです。
映画「嫌われ松子の一生」で、姉は最後に妹の深い哀しみを悟るのです。本当に悲劇の人生を生きたのは、姉ではなく、家を出られない妹だったのです。むしろ姉は、波乱万丈の人生を送っても、人生を謳歌したと言う点では幸せ者だったのです。
今にして思えば、この様にまったく別物だと思っていた映画にも類似点が見つかるのでした。これも夏休みのせいでしょうね。 -
追記X ( 2011を映した映画 )
2011/8/5 6:29 by
さくらんぼそれでは2011年を映した映画は何でしょうか。3.11以前と以後とでは違うのでしょうが、とりあえず3.11以前ということで考えて見ますと、思い当たるのが映画「八日目の蝉」です。
この映画「八日目の蝉」では、過去の幸せを忘れられない人たちが出てきます。その人たちも、ある意味、悟りを開いて現在の運命を甘受し、前向きに歩き出すのです。
大量生産、大量消費、あの高度経済成長期のバルブは爆ぜて夢と消え、夢よもう一度と頑張ってはみたけれど、もう、あのころの再来は難しいのかもしれません。それどころか2008年の経済ショックが駄目押しの様にやってきました。
そんな時代の空気を映しこんだのが映画「八日目の蝉」だったのかもしれません。私たちはここから過去の歪んだ栄光に戻るのではなく、バランスのとれた新しい何処かへ歩んでいくしかないのでしょう。
返信を投稿
Copyright©2012 PIA Corporation. All rights reserved.


![DVD「「誰も知らない」ができるまで [DVD]」](http://ecx.images-amazon.com/images/I/414VXXBKDHL._SL75_.jpg)
![DVD「誰も知らない [DVD]」](http://ecx.images-amazon.com/images/I/417R6TVQN3L._SL75_.jpg)











