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森の神が死んだあと ネタバレ

2010/9/18 6:45 by aakurara

崖の上のポニョ

さいきんいくつか続けて宮崎駿監督作品を鑑賞しているのですがいまのところ、これが一番好きです(水族館とか水が好きだからかな)。多くの方がレビューなど書いていらっしゃるので、簡単におおざっぱな解釈などを。

ひとつ、宗介くんはアシタカの子孫かな?

ふたつ、『もののけ姫』では森の神様が殺されてしまいましたが、他の方の掲示板を拝見すると、『ポニョ』においては「陸が男性原理」「海が女性原理」を表しているとのこと。これを勝手に『もののけ姫』からつなげて考えてみますと、近世からこっち、陸の男性神がどんどん殺されてしまって・・・現代でもまだ元気なのは海の女性神。ということかな?

あとは主に感想です。

「赤ちゃん」のシーンですが、あそこでポニョが赤ちゃんのことをじーっと見て、「お腹がすいているんだな」ということを察します。それでスープをあげるのですが、赤ちゃんにはスープが飲めなくて、母親の身体を通して母乳になったところではじめて、赤ちゃんにとっての栄養になるのだということは、言葉で説明されてようやく了解します。で、いったんそれが分かると、サンドイッチまであげちゃう(ハム抜きだけど)。それも、「ちょっと自分たちにもとっておこう」とかいう配慮もなしに、ぜんぶあげちゃう。優しいなあ。

半魚人状態のポニョは、かなり不気味です。でも宗介くんは、「魚のポニョも半魚人のポニョも人間のポニョも、みんな好きだよ」って言えちゃう。偉い。素敵。

ポニョが宗介を追いかけるシーンは、みなさまおっしゃられるようにスゴイですね。けっこう泣けてきたくらいでした。とても美しくて。なにが美しいのかとあとで考えてみるに、ポニョのあのパワーもなんですが、それに全くたじろがずに波間を走るポニョをしかと見つめる宗介くんの落ち着き。なんだか「なんでもかんでも受け入れてしまう人」というのに、いつも感動してしまいます。あともちろん、単純に「画」がスゴイというのもあります。

作中の大人たちがすごく子供を信頼しているその程度は、完全に「ファンタジー」の領域に入ってますが、おそらくそれが監督の理想とする環境なのでしょう。あんなおもちゃをデカくしたみたいな(実際おもちゃをデカくしたのだが)ボートに子供二人乗ってるのをほっとくなんて、現実にはありえないわけですけど。「愛と責任」というメッセージは、こういう大人と子供たちの関係のなかにも描かれているように感じます。

あと宗介くんがポニョのことを最初「金魚」と呼ぶ点に関しては、「海に金魚はいねーだろ」とつっこみつつ、子供はモノの名前をおぼえる前のほうが世界を面白く見ているのでは、と常々思っていたので、たいへん納得できました。あらしのときの大波が「さかな」に見えるのも、彼の目が「分別」にまだおかされていない証拠であろうと思います。

それから宗介くんの母親、リサさんはあれですね、性格的にはかなりポニョと似てますね。ポニョには車の運転を習わせないほうがよいかも。

けっこう長くなりました。

ちなみに自分はぜんぜんジブリファンではなくって、「ポニョだあ? んなもん焼き網で焼いて食っちめえ」という言葉にも「だねー」と答えていたくらいです。いまでは・・・ポニョを焼いて食ったりしたら津波にのまれてドザエモンだな、というのが分かったので焼いて食べるのはやめておきます。

 



  • Re: 森の神が死んだあと ネタバレ

    2010/9/27 13:06 by IKA

    aakuraraさん、こんにちは。
    ちょっとおじゃまします。

    森の神と海の神のことですが……私は、森には「ホントの森」と「ニセの森」があるような気がするんです。
    で、「ホントの森」は、実は「海」ではないのかな?……と。

    おそらく、こういうことを考える人はだれもいないと思いますが……私がこれを考えるきっかになったのは、ある日見たテレビニュースでした。

    このお話は、前にもどこかで書いたので、お読みであれば重複申し訳ないのですが……
    ある夕方、帰宅してテレビをつけると、一人のフランス人青年のお話をやってました。
    彼は、パリから東京まで「走って」きたんだそうで、今まさにゴールインしたところ……(たしか場所は、日比谷公園だったと思う)

    まあ、パリから東京まで「走った」といっても、日本海はさすがに船で渡ったんでしょうが(でなければキリストさんになっちゃう)……日本に入ってから彼は、日本を走って一周して、東京にゴールインした……ということです。

    で、長いランニングの感想を聞かれた彼が、面白いことを言ってました。
    「日本に入ってから、ずっと<大きな森>の中を走っているように感じた。これは、日本の街中を走っているときもずっとそうでした。」
    この言葉は、なぜか私の心に深く残って……ずっと、この言葉の意味について考えていました。

    彼は、なぜ日本を「大きな森」と感じたんだろう……? パリから走ってくる道中には、乾燥気候のところが多かったかもしれないけれど、でも「森」だってあったでしょうに……なんで日本が「大きな森?」
    で、私が思い当たったのが、「太平洋」でした。

    ……おそらく、彼は、「海」を感じたのだと思います。
    日本の国土はその7割が「森」といいますが……彼は、そういう具体的な「森」を言ってるのではなくて、おそらくはそういう「森」も含めて、この日本の地の持っている本質的な「場」としての性格……それを「大きな森」と言ったのでしょう。

    人は森を拓いて、人のすごしやすいようにそれをつくりかえますが……でも、「人の手」は、おそらく「森の基部」にまでは及ばない。人と接する森は、一見「里山」になったように思われても、その本質的な性格は不変で、あいかわらずそれは「大きな森」の一部である……。

    私は、日本の山の中で、しばしば「海」を感じたことがあります……これはとても不思議なことなのですが……山の中にいても、なぜか「大きな広い海」にいるように感じてしまいます。

    おそらくこれは、あのフランス人の青年の感じていたものとおんなじだったと思うのですが……それは、さまざまな「いのち」を生み出す「大きな場」であり、それを彼は「大きな森」と表現し、私は「海」と感じたのではないか……。

    『もののけ姫』では、「森の神」が殺され、古代からの「森」が、そこで大きく変質したように描かれていました。しかし、より広い視野から見ると、「森の本質」はほとんど損なわれていないのではないかと思います。それは……たとえば樹木がすべて伐採されて造成され、家やビルが建ち並んだ「街」になってしまってもほとんど変わらない。やっぱりそこは、本質的には「大きな森」の一部なのでしょう……。

    これは、私がときどき感じる「感覚」にも合致していまして……私は、街中を歩いていても、なんかの拍子に「古代の森」を感じることがあります。……そういう「森」にちかいものは、街中でも大きなお宮さんの社寺林なんかになって現実に残っているわけですが……街並みのわずかな傾斜にも「古代の地形」は反映されていて、その傾斜の先にあったであろう海や、そこに至るまでの森林の光景が浮かんできます。

    こういうことを考えますと……宮崎さんは、『もののけ姫』での問いかけを、さらに深いレベルでもう一回問いかけてみようと思われたのではないでしょうか……。

    結局、「古代の森」は、そのベースとなっている「海」がある限り、一旦殺されたように見えても、なんどでも蘇ってくるのかもしれないな……と思います。人の手がいくら木を切り、山を削り、谷を埋めて街をつくっても……そういうものは、なにかが起こればそれこそあっという間に「海」に戻ってしまう……

    『もののけ姫』では人と森の戦いが描かれていたように見えますが、それは両者含めてさらにおおきな「いのちの場」の中に生かされていたのであり……ということで、これ以上いくと宗教がかってきますのでここらあたりで自己制御しまして、だいたいそんなことを考えました。

    ちょっと客観的なことも述べておかねば……と思いまして、山幸海幸のお話を……。これは『古事記』にある、だれでも知っている有名な話ですが、このお話では「山幸」が勝って、後に天皇家の祖となります。

    これだけ見ると、「海より山が強いじゃん!」ということになるのですが……山幸は、最初に海幸から無理難題を吹っかけられて、竜宮城に行き、乙姫様(トヨタマヒメ)に助けられるんですね。で、「海の一族」の全面的バックアップのもとに海幸と戦い、これを下す……。

    『もののけ』では、アシタカは「山の姫」であるサンに出会いますが、『ポニョ』では、宗介は、「海の姫」であるポニョに出会います。

    aakuraraさんが書いておられるように、やっぱり宗介は、アシタカの子孫なのかもしれません……。

    なお、ポニョが宗介を追っかけるシーンは、私は「安珍・清姫」を思い出してしまいましたが、考えてみると、宗介は安珍にはならないですね。ちゃんとポニョを受け入れてますから……。
    オソロシイことですが……もし宗介がポニョから逃げたりしたら……そのときには、安珍のように焼き殺されてしまったかもしれません……(うーん、これでは子供向けアニメにならない。焼きポニョならぬ焼きソウスケ……オソロシイ)

    おもちゃが大きくなった船は、立派な「外燃機関付船舶」ですね!
    よくないクセで、いろいろ考えたのですが……
    ろうそくがあそこまで巨大化した場合、ちゃんと燃えるんだろうか……火力が強すぎるってことはないんだろうか……上部の湯たんぽ部分の鉄板の厚みも増しているとするなら、逆に火力が弱すぎるということは……等々、いらんことです。すみません、無視してください。

    それと、おさかなの波は、フジモトが開発?した「波に似たいきもの」だったという記憶があるんですが……(うろおぼえでたしかではありませんが、そんなような)

    鞆の浦名物 ポニョ焼き(売れるかどうか、微妙です……たしかにタタリもコワイですが)

  • Re: 森の神が死んだあと

    2010/9/27 22:24 by aakurara

    IKAさん、ご訪問ありがとうございます。

    森は海・・・なるほど、別のスレで、宮崎さんはこの作品で「全ての根底にある何かを拾い出そうとした」のだということを雨天さんが教えてくださいましたが、その「何か」の本質が見えたような気がいたします。私はどうしても、「人のあいだ」のことに思考が限定されてしまうので、人を生かしている「場」のことに思いをはせることがあまりないのですが、言われてみますと日本が「大きな森」であるというのも、納得できる気がします。そしてさらに根源をさぐっていくと「森と海」という二項対立もなくなっている・・・

    海も海岸あたりは「海の顔」をしていますが、深海にはいっていくと「森」になっているのかもしれません。そうすると『マクベス』の「きれいはきたない、きたないはきれい」と同じで、「森は海、海は森」みたいな・・・

    パリから走ってきたフランス人青年のお話では、なんかソローさんじゃないですけど、やはり電車や飛行機に乗ってしまうと見えないことが、足で移動することで見えるのかなあ、と思いました。

    それで、こういう「いのちの場」を観念的でなく感覚的にとらえて、さらにその感覚を「持続」させるということが現代では難しくなっていますね。

    山幸海幸のお話は、釣り針が赤鯛の喉にひっかかって、というくだりがなぜか印象にあるのですが、前後の流れをよく覚えていませんでした。wikiのあらすじを読むと、田んぼと水の話・・・なんですね。水の呪いと祝福・・・という感じです。うーん、唐突ですけど、やはり水道というシステムは人を傲慢にする気がします。水のありがたみ、というと説教臭いですけど、水の「重さ」を忘れたらイケナイのではないかという気が。

    ポニョと清姫はたしかにイメージが重なりますね。でも宗介が安珍になったら・・・子供にはものすごいトラウマ映画になりそうです。ポニョが乗っていたおさかなの波は、リサさんにはただの波に見えていたようでした。「おさかなの上を女の子が走っていた」という宗介に、「おさかなぁ?」と答えてましたから。と思って『ポニョ』の公式サイトを見たら、やはりあれは子供だけが「さかな」と認識できるみたいです。
    <リンクURL>

    宗介がポニョを助けたときに波が寄せてきてポニョを取り返そうとしますが、そのときの宗介の反応が、なんか好きです。「へんなの」って。あっさりと。

    おもちゃの船については、英語の掲示板にちょっと面白い書き込みがありました。計算すると、実際にボートを動かすには、ろうそくが30本以上必要みたいです。
    <リンクURL>

    ポニョ焼き、名前はキャッチーでよさげですが、やっぱり売れないかな・・・

  • Re: 森の神が死んだあと ネタバレ

    2010/9/30 13:00 by IKA

    aakuraraさん、こんにちは。

    フランス人青年は、パリから日本海まで、ずっとユーラシア大陸を抜けてきたのですが……その間はどう感じていたのか……これはテレビでは言ってなかったのでわからないのですが……おそらくは、日本が「大きな森」と感じたのとは対照的な感覚だったのではないだろうか……。まったくの推測なんですが、このように感じました。

    私はユーラシア大陸は行ったことがないのですが……この「まったくの推測」で言わせていただくのなら、「乾燥」ということじゃないかと感じます。

    なんか、和辻さんの『風土』みたいな話になりますが……地球の大枠構造みたいなものは、その上に乗っかってる人間のものの考え方や捉え方にも大きな影響を持ってくるんじゃないか……と。外国人観光客の方々は、ふつうは新幹線や鉄道で日本を見てまわるので、観光地スポットにしか目がいかないけれど、このフランス青年君みたいに自分の足で走れば……自分の育った「風土」と根本的に違う「風土」が、身体で感じてわかるのかもしれませんね。

    『マクベス』は、なぜか『バーナムの森がダンシネインに……』というところだけ、はっきり記憶に残っています。海幸山幸のお話は、水のコントロールの大切さみたいなものを語っている側面もありますね。多すぎても困るし、少なすぎても困る……ということで、シホミツ、シホヒルの2つの玉は、水の制御装置として海神から山幸に渡され、山幸はそれを駆使して海幸を支配する……水の制御権って、昔は生死を別ける重大事でしたから(今もそうですが)、その支配権を得た山幸が勝ち、天皇家の祖となった……ということなのでしょう。

    水道というシステムは人を傲慢にする……まさにおっしゃるとおりです!
    うちは、実は2年前に水道を引いたばかりなんです。以前にもどこかで書きましたが……それまでは、山から湧く「山水」を使ってました(地下水を汲む井戸水とは少し違います)。

    この山水が曲者でして、うちまで引くパイプが百mくらい。そのどっかに空気が入ったり凍ったりすると、水が止まってしまいます。……そうなると悲惨でして、近くの「名水」にポリタンクをいくつも積んで、車で汲みに出かけます。幸い、車で5分もかからないところに、誰でも汲める「名水」が湧いているんですが……これが、口コミで町の人にも知られるようになって、多いときには車3台待ちくらい……なんか、業者じゃないの?と思うような人もおられて、ポリタンクが山のように……

    今のところに引っ越して5年近く、こういう生活を続けました。山の水は、いちおう簡単にろ過するのですが、細かい土がいっぱい入っていまして、大雨なんかふると茶色に濁って使えなくなります。……まあ、タダってところだけがいいところで(ポンプの電気代はかかる)、いつも「水の心配」をする生活がずーっと続いていました。(あ、もう一つ。「味」も良かったです。結局「名水」の水と変わらないので)

    今は水道になり……たしかに傲慢になったように感じますね。「水の神様」に祈るような気持ちも、いつか薄れていったのかも。「蛇口をひねれば出る」というのは、考えてみるとすごいことなのですね。……で、山水の湧き口にもいつしか足が遠くなり……もう草に覆われて森に還ろうとしています……昔、このあたりの数軒がみなこの湧き口に頼っていたころには常にきれいに草を刈って、きちんと整備されていたのですが……こうして、山では「人の領域」がちょっとずつ減っていく……水道は、確実に山を荒らしますね……。(というか、自然に還るということかもしれませんが)

    あの波は、こどもにだけ「おさかな」に見えたのですね。なるほど。……私は、なんかあの波に、宮崎さんご自身の「自己韜晦」みたいなものを感じてしまいましたが、それは考えすぎですかね……。ろうそく30本は、ちょっと計算の仕方がよくわからなかったですが……電球1個の出力がろうそく1本より大として、ボートを動かすに必要な出力は最低でも1kwなので、30wの電球だと34個は必要。ろうそくだとそれ以上の数がいる……ということでいいのでしょうか。

    ただ、ここにいう「ろうそく」は、あのでかくなったものを言ってるのか、それともふつうサイズのものなのかがいまいち良くわかりませんでした。あのでっかいろうそくなら、電球一個よりははるかに熱を出してるようにも思うのですが。……まあ、あの大きさのろうそく35本となると、ちょっと非現実的な感じにはなりますね。スペースの問題もあるし(7×5)、第一熱いし……機関車みたいに大きな「燃焼室」が必要になってきそうです。それに、すぐに船火事になりそう(焼きポニョに焼き宗介のできあがり!)

    「ポニョ焼き、名前はキャッチー」……うーん、これについてはちょっと意味がわからないのですが、「人気者」ってことでいいのでしょうか。……ポニョは焼くだけじゃなくて羊羹にもできそう……ということで、ぽにょうかん、略して「ポニョ羹」なんてどうでっしゃろ?(にこごりかな?)

  • Re: 森の神が死んだあと

    2010/10/2 18:30 by aakurara

    IKAさん、こんにちは。

    日本が大きな森なら、大陸のほうはなんだろうな、と私も思いました。「乾燥」・・・「ステップ」って感じでしょうかね。身にしみついた風土とか空気感のちがいというのは、画家が絵を描くときなんかにも表れるような気がします。日本の画家さんが洋画のスタイルでヨーロッパの風景を描いても、どこか湿り気があるような(佐伯祐三とか、そんな感じがします)。いやでも、おそらくこれはただの先入観で、西洋人と日本人が描いた絵を並べてどっちがどっちだ、と聞かれてもたぶん分からないですけど。

    水道と「自然」のお話、書いてらっしゃいましたよね。ここに登録する前後に拝読して、おおなんとなくこの方とは気があいそうだ、と勝手に思っておりました。いやホントに水で苦労しないでよいというのは、人をダラクさせると思います。私などダラクしきってます・・・ それに、電気・ガス・水のうち、止まってしまったら一番困るのが水ですよね。そんな大事なものが蛇口をひねるくらいの小さな力で(さいきんはレバーを上げるだけでさらにカンタンに)どんどん出てくるというのは、なにかヒトとして当然負わなくてはいけない「必然」をすっとばしているのでは、と・・・まあ水道をふつうに使いまくっている私が言っても全然ダメですけど。

    ろうそくの計算は、ローテクのボートを動かすのに1〜2kw、ろうそく一本の出力は、せいぜい30〜60wの電球をともすくらいのものだろうとあるので、単純に1000÷30で、30本ちょっと、という計算です。ろうそくがでかくなると熱量も大きくなるのか、これはごく簡単な理科の問題なのでしょうけど、文系の弱いところでサッパリ見当がつきませぬ。あと、大きくなったのも、ろうそくの分子そのものを大きくしたのか、分子の数をふやしたのか。その点も熱量の変化に関わるのでしょうかねえ。

    キャッチーというのは「語呂がよくて万人受けしそう」というくらいの意味でした。英語のcatchyで「キャッチーなメロディー」みたいに使うことが多いようです。ボニョ焼きは、カステラだったらいいかもしれません。人形焼きみたいな。ポニョ羹は、あれですねえーと名称をわすれましたが、まんまるでゴム風船みたいなのに入ってて楊枝をさしてつるんとむく、あれです。あの方式でつくってほしいです。

    それで・・・「おさかなの波」に宮崎さんの「自己韜晦」というのは、どういうことでせうか? なんか今回は質問のしあいになってますね。

  • Re: 森の神が死んだあと ネタバレ

    2010/10/4 15:15 by IKA

    aakuraraさん、こんにちは。

    絵描きさんの『風土』関連って、面白そうですね。うーん、佐伯祐三、どうなんだろう……前に聞いた話では、油絵具というものはヨーロッパの気候風土に合うように造られているので、日本の気候風土ではあんまり具合良くないようなことを言ってました。まあこれは、「保存」の問題らしいのですが……

    昔、油絵をちょこっとだけ描いていましたときに、あんまりにも乾きが遅いので、結局待ちきれずに次ぎの色を塗ってしまい、ぐちゃぐちゃに……。油絵は私には合わないわと思って、それ以来全然描いてないのですが……なんか、色を置いていく順番にもホントは決まりがあるようなのですね。西欧らしくロゴスに基づいた……。ともあれ、乾燥気候のヨーロッパで描けばもっと早く乾くのかもしれません。

    やっぱり水道のお話は以前に書いておりましたね。重複で失礼しました。たぶんトイレのことも書いてあったと思うのですが、水洗トイレは困ります!タンクに入る水はバケツ2杯!くらいなので、「名水」で汲んできた水もあっというまに(「名水」をトイレに使うなんぞ、なんてゼイタクな)……お風呂は近くの温泉にいけばまだなんとかなりますが(これもゼイタク!)、ホント、一番困ったのはトイレでした。

    でも、うち(当時)は、停電もまたやっかい……というのは、水を引っ張っているポンプが動かなくなると結局断水になっちゃうので。だから「停電」は即「断水」とセットの「2重苦」です。ガスはプロパンなので、ガス屋さんが道を通れる限り、止まることはないのですが……。

    ここでちょっと脱線しまして……以前に、まことに奇妙なことを考えました。たとえば、ビールが好きでたまらない人には、ビール会社が「ビール道」を引いてあげるとか。蛇口をひねればビールが出てくる……。カレー大好きの人には「カレー道」。ラーメン大好き人間には「ラーメン道」……うーん、これはもしかしたら「ダムカレー」みたいなノリかもしれませんが、人間なんでも便利便利を求めると、ついにはこういう社会に至っても不思議はないのかも……。

    水道を引いてもらうときに工事の方にいろいろお話をきいて面白かったんですが、水道の水は、給水所からうちの蛇口まで全部つながっている……あたりまえのことですが、これが大事なんだそうです。つまり、何トンかしりませんが、圧力がかかった状態でつながっているので、蛇口をひねったとたんに水が出るのだそうで……。これは電気もガスも一緒みたいですね。圧力差(電気だと電圧差)で送られてくる。地下の配水管や空中の送電線は、それだけで「閉じた世界」を形成していて、遠く離れた場所を常に「同一圧力」にするように働く……考えてみれば、とても不思議に思えてきます。

    「ポニョ号」推進の秘密は結局でっかくなったろうそくの出せるエネルギーにあるみたいですね。炎も大きくなってますから、確実にエネルギーは大きくなっていると思うのですが……。分子そのものを大きくしているのか、分子の数を増やしているのか……これは難しい問題ですね。以前、ダイエットの話題で、「脂肪細胞の数そのものは変わらないが、一個一個の脂肪細胞が太る」ということをきいたことがあります。これをきいたとき、黄色い?脂肪細胞がどーんとでかくなるイメージがあって、恐怖でした。そうか、私のおなかは……

    話題がそれましたが、分子そのものが大きくなっているとすると、これは「まわりとの調和」は大丈夫なんだろうか……と思いました。排出する炭酸ガスもでっかい分子……なんか、のちのちトラブルを起こしそうです。

    まんまるでゴム風船みたいなのに入ってて楊枝をさしてつるんとむく……これですね!
    <リンクURL>
    wikiでみると、つくられたのが1937年ということで、これは新しいといっていいのか古いといっていいのか微妙なところです。なるほど、ポニョ羹は、これ、ぴったりですね。ついでにキアヌ羹も……(wikiには北海道の「まりも羊羹」というのが紹介されていて、これはもうまさにキアヌ羹!)
    <リンクURL>

    宮崎さんの自己韜晦……は、なんとなく書いちゃったので、深い意味はないのですが……ポニョの入ったビンを持って崖をのぼる宗介を追いかけてある程度まではいくんですが、途中で急に元気がなくなって、ごにょごにょぼしょぼしょと引き下がっていく有様に、なんとなくそんなものを感じた……ということで……。ホント、深い意味はありませぬ。なんか、波が、必要以上に中年的に描写されているように感じました。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2010/10/4 15:18 by IKA

    wikiのリンクがうまくいかないようなので、下記にhを入れてやってみてください。

    ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E7%BE%8A%E7%BE%B9

  • Re: 森の神が死んだあと ネタバレ

    2010/10/6 20:17 by aakurara

    IKAさん、こんばんは。

    おおキアヌ羹、まさに・・・これ、食欲をそそるかどうかは別にして、翡翠みたいできれいですねえ。なんだか羊羹が食べたくなって、昨日おやつに「いもようかん」を買ってきちゃいました。「玉羊羹」も久しぶりに食べたいなぁ。(そういえば私が最初にIKAさんにお声掛けしたのも羊羹の話題でした。なんか羊羹が好きなのか自分?)

    油絵って、色を置く順番に決まりがあるのですか。そんなところもロゴスに統制されているんですね。ふーむ、面白いです。風土と美術ということでは、たとえばアラビアの砂漠なんかでは、絵画が発達しないのってすごく分かりますよね。人の体も顔も布で覆っているから肖像画は描かれないだろうし、たしかユダヤ教といっしょで偶像崇拝厳禁だから、神や聖人の姿絵も描かれないし、風景も「ない」し(砂ばっかり・・・)、ということで、絵画よりも「書」が発達するのだろうなあ、と。でもアラビア書道ってなんか私は好きですね。西洋とはまた違った「ロゴスの意志」みたいなものを感じます。

    この『ポニョ』にかんしては、英語の掲示板のほうで「アニメーションがぜんぜん大したことないジャン」ていう意見もあって、「え、ええっそうかなあ」と思ったのですが、西洋的な感性からすると、なにか(「ロゴス的」なもの?)が足りないように見えたりするのでしょうかねぇ。

    ビール道、カレー道・・・うーん、なんか日本の都会に住んでいると、ちょっと歩けば24時間営業のコンビニが必ずあるので、それに近い環境になっているのかもしれません。水道・電気・ガスは圧力差で送られている、ということは、まるで「血管」みたいなモノなんですね。なんか人間が生活している場全体が、フランケンシュタインのつくった「怪物」なのだというふうに思えてきました。『ポニョ』のフジモトさんは、この「怪物」を殺して全体を「海」に戻すつもりだったのかな。

    水が止まると一番困るのはトイレだとのことですが、私もそうだろうなあと想像していました。毎週ゴミ集積所に出すゴミも、どうなっているのかなあと時々思うのですが(ベネズエラではこんなことになっているようです <リンクURL>)、毎日の生活の中で「水に流して」いるモノも一体どういうことになっているのか、それがまったく見えないようになっている都市の生活、というものが、考えてみるとオソロシイものであるような気もします。

    あの「おさかなの波」がポニョを拾った宗介を追いかけるシーンには、なんかそこはかとない切なさを感じました。それってIKAさんがおっしゃるように、「中年」の切なさだったのでしょうか・・・「それを返すのじゃ〜」と言っているのに宗介にはぜんぜん伝わっていなくて、「へんなの」って一言であっさり振り切られてしまう・・・がっくしorz みたいな。うん言われてみますと、宮崎さんの自己韜晦も含まれていないことはないのかもしれませんね。でもあとで、橋の下では「ざばーん」と大きな波になってちゃんとポニョを取り返してましたね。「やるときゃやるんだぜ」ということでせうか。でも、くすぐられると「ぺしゃん」てなっちゃうところとか、なんというか憎めないキャラではありました。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2010/10/8 8:54 by IKA

    aakuraraさん、こんにちは。

    ええと……私は、ようかんよりういろう派?なんですが、これは私がN市で育ったからかもしれません(生まれはちがいますが)。N市では、ようかん派とういろう派がたぶん半分ずつくらいで(きわめておおざっぱな推定)、いもようかんをふかしたような?「鬼まんじゅう」という名物もあって……なんかにぎやかです。ちょっと田舎にいくと、これは全国区田舎名物の吾平もちですかね。やっぱり。

    はじまりがようかんの話題……そうでした!たしか『アバター』が栗ようかん、みたいな……。なんかわれわれの場合、どうしても通奏低音にようかん(というか食べ物)があるような……。にしても、キアヌ羹、美しいですね。外国の人がみたら、どう思うでしょう。ちょっと食べ物にはみえないかも。まあ、ようかん自体、こりゃいったいなんじゃ?と思うのでしょうが。(外国に似た食べ物って、ありますかねえ……ゼリーとかムースなんでしょうが、あのきっちり直方体は……)

    えーと、私は、油絵はほんの入口の入口の前の道に立ってたくらいなので、詳しいことはわからないのですが……かなり厳格な規則(色の順序)はあるみたいです。特に昔のものほど。

    色の順序は、絵具の化学的な性質によるものと、描画効果によるものに大別されるようですが……化学的な性質の場合には、この絵具の上にこれを重ねると、あとで必ずひび割れや剥落、変色が起こる……といったタブー集が多いようです。これに対して描画効果は、まずデッサンに不透明色(だいたいモノクローム)で明暗を付け(グリザイユ)、その上から透明色で何回も塗り重ねる(グラッシ)というのが基本の描き方のようですが……あるいは、人肌を描くときには最初に緑系の絵具(テールヴェルトでしたっけ?)を置いて、その上から肌色系の暖色を重ねる。そうすると、人の肌の下にある静脈の効果が出せて、肌に深みが出るらしいです。

    なんか、こんなような、タブーと決まりの集大成みたいなもので油絵はできているようでして……以前に、絵画修復家の書かれた本を読んだんですが、ゴッホの絵は、情熱にまかせて思いのままにキャンバスに絵具を塗っていったみたいなイメージがあるけれども実際にはそうじゃなくて、かなり厳格に「色の順序」を守って丁寧に描かれている……ということでした。だから百年以上たってもひび割れがあまりなく、剥落も変色もなく、描かれた当時の状態を保っている……ということらしいです(えーと、前にどっかで書いた気がします)。なので、そういう規則を知らない人がゴッホのまねをしてキャンバスに絵具を塗りたくると、数年でクラックや剥落、変色が起こってみる影もない絵になるんだとか。

    まあ、今の油絵具は相当改良(というか化学合成品への代替)がなされているみたいなので、そういう点はよっぽど大丈夫にはなってきていると思うのですが……でもやっぱり油絵は難しいですね(私にとっては)。

    アラビアでは、絵画が発達しなかったかわりに模様(アラベスク?)がすごいですよね。モスクをめいっぱい覆ってたりして。アラビア書道もアラベスク模様になりかかってるのもありますよね。あれは、迫力があって私も好きです。……というか、アラビア文字自体が「読めない」ので大好きなんですが……ホント、なにが書いてあるかまったくわかりません。うちの父親は、アラビア文字でなんか書いてあると、必ず「ジルジャン!」と言ってました。ジルジャンはシンバルメーカーで、ロゴがアラビア文字だったらしい。区別がつかないので、全部「ジルジャン」になります。……うーん、日本の文字も、外国人から見れば似たようなものなんでしょうね。全部「トヨタ」なのか……

    キリスト教なんか、偶像崇拝厳禁のイスラムやユダヤ教からみれば「甘い!」と映るんでしょうかね。仏像をご本尊として拝む仏教に至るとなにをかいわんや……でも、仏教も、最初のうちは偶像崇拝禁止だったようなことを聞いたことがあるんですが……。やっぱり、なんか「拝むもの」がないと頼りないんでしょうね、人間って。そういえば、神社なんかだと、「ご神体」をふつうは見せないので、これは偶像崇拝になるのかならないのか……ちょっとからめ手から攻めてる感じです。

    『ポニョ』は、海外の方にとっては「アニメーションがぜんぜん大したことないジャン」……なんですか……うーん、これは、いわゆる「フルアニメ」と「リミティッドアニメ」の差なんでしょうかねえ……このあたりは詳しくないんですが、ディズニーなんかだと、コマ数も1秒24コマ。これに対して日本の場合は1秒12コマとか8コマとかで半分以下だそうです。『ポニョ』は何コマでやってるのかしりませんが、あの動き方からすると、1秒24コマではないと思います。

    「フルアニメ」と「リミティッドアニメ」の差は、コマ数だけではないようですが、コマ数は明らかに動きに差が出ますよね。映画の1秒あたりのコマ数が24ということなので、「フルアニメ」は動き方を工夫すれば、かなり「実写映画の動き」に近い印象を与えることができます。ところが、コマ数が12とか8になると、早い動きがギクシャクして、かなり「アニメっぽく」なってしまうので……そのあたりが海外の人には「手抜きじゃん!」と思えてしまうのかもしれません。

    東映動画の『白蛇伝』なんかは滑らかに動いていたように思うので、おそらく「フルアニメ」だったんではないでしょうか。日本のアニメが「リミティッド」になったのはいつごろからかわかりませんが、おそらくテレビ版の『鉄腕アトム』がはじまりじゃないかなあ(……と、これは推測)。『鉄腕アトム』は明らかに1秒12コマ以下だったと思います。同じシーンのくりかえし使用(バンキング?)も多いし、静止画で口だけ動いてしゃべるとか、なんとかして省力化しようという(涙ぐましい?)努力が、結果として日本特有の「アニメ」の源になった……という印象です。

    『アトム』以来の日本のアニメの動きになれた日本人は、フルアニメの動きはかえって「気持ちわるい」と思うこともあるようですね。要するに、日本と海外では、もう「アニメ受容脳」の構造が完全に違っちゃってるのかもしれません。もっとも、今は日本のアニメが盛んに海外に行ってますから、海外でも「日本型アニメ受容脳」を持っている人は多いのかもしれませんが……。

    コマ数とかだけ見れば、「日本人って、なんでも器用に省力化するなあ……」ということになるのですが、なんか、根底には、「日本文化の抽象能力」みたいなものがあるような気がしてならないんですよね。……私は能が好きなので、また能のお話で……ということになるのですが、『葵上』をはじめて見たとき、ホントに驚きました(また、前に書いてるかもです)。このお話は、病床にある葵上を六条御息所の生霊が襲う……ということなんですが、「病床の葵上」が衣一枚!一枚の衣を舞台に敷いただけで表されている……!こういう感覚って、ずっと今に伝わって、あの日本のアニメの動きになっている……というのは言いすぎでしょうか。

    絵でもそうですが、西欧の絵画は、できるだけ実際に目で見た印象に近づくように描こうとしますよね。でも、日本画の場合には「線」でささっと表したり……要するに、事細かに全部を語っていかないと「表現」にならないと考えるやり方と、どんどん省略して必要なところだけ表せばよい、と考えるやり方の違い……みたいなものはあるんじゃないかと思います。もし、日本人が「省略タイプ」じゃなかったら、あの『鉄腕アトム』はそれこそ「アニメの風上にも置けぬ」という評価で、リミティッドアニメが日本に定着することはなかったのでは……。

    英語の掲示板の書きこみからなんか大げさな話になってしまいました。例のごとくの妄想なので、お忘れください……。

    水道・電気・ガスと「血管」の対比は面白かったです。……それで思ったんですが、たとえば水道なんかだと、ポンプが連続的に動いて、蛇口からは一定の圧力で滑らかに水が出てきますよね。でも、心臓は一定のリズムで収縮して血液を送り出すので、身体全体に「拍動」が生じる……これを応用して、「拍動水道」というのを作ったら面白いかな……と。蛇口をひねると、水が脈を打ちながら出てくる水道……なんか「生命」みたいなものを感じさせて、「水のありがたみ」が増すのでは(地球の鼓動……みたいな)。

    ガスも電気も脈打つと面白いですね。ガスの炎が一定のリズムで大きくなったり小さくなったり……電気器具も、たとえば扇風機をつけていても風が強まったり弱まったり……電灯も明るさが脈打ち、テレビ画面も脈打つ……パソコンなんかも処理速度が脈を打って揺れるので、パソコンの「呼吸」に合わせて使うコツを身につけないとスムーズな操作ができない……と、妄想は広がって際限がありませんので、これくらいでやめます。すみません……。

    ベネズエラの写真、見ました。美しい……。文章から受ける悲惨のきわみみたいな感じを写真の方がみごとに裏切ってます。写真って、こわいもんだと思いました。生々しさがするっと消えて、天国の物語のような情景になってますね。人もゴミも清められて「聖なるもの」に……。毎日の生活の中で「水に流して」いるモノ……昔の人は、なんでも燃やせばおしまい、水に流せばそれで終わりみたいに感じていたみたいです。今でも、海辺の人なんか、お年の人は吸い終わったタバコを平気で海にすてます。下にポニョがいるかもしれないのに……

    そういえば、ポニョの海の底にはガラクタがいっぱい……というシーンもありました。今は簡単に分解されないものが多いので、受け入れるほうの海も大変でしょう。……都市生活でも、昭和の中ごろまでは街の真中まで周辺の農家の人が「こえ」をもらいに来ていて、なんか「リサイクル」が成立していたようなイメージがありましたが、今は見えない下水道に吸い込まれて、その先は巨大なブラックボックスに……江戸時代は「自給自足」といわれますが、また「自廃自処理」のシステムがかなりうまくいってたのでしょうね。要するに、自分たちで処理できる程度にしか消費しない……ということで、使用と廃棄のバランスさえ釣り合わせておけば、そのシステムはけっこう長持ちするのでしょう。

    「おさかなの波」って、グッズになってるんでしょうかね。なんか人気でそうな気がします(ポニョより?)。「さかなみくん」って名前はどうでっしゃろか?

  • Re: 森の神が死んだあと

    2010/10/11 16:30 by aakurara

    IKAさん、こんにちは。

    ういろう、いいですねえ。ようかんの「ねっとり」感が油性ボールペンだとしたら、ういろうはゲルインキのペン、という感じ(すいません、ヘンな比喩で・・・若干、文具マニアも入っていますのでわたくし)。鬼まんじゅうは、なんか家でもつくれそうですね。吾平餅もおいしそう・・・あと私は「ゆべし」とかも好きです。外国にようかんと似た食べ物があるか、ってちょっと考えてみたのですが、結局チョコレート、が一番近いものになるんでしょうか。黒くて四角いということで。生チョコだとけっこう「ねっとり」しますし。

    油絵のお話、面白いです! ゴッホさんの絵もああ見えて、実は厳密なロゴスの産物なのですね。そういう規則にのっとった手順をふまえた上で「表現」ができるというのは、やはり「足腰の強さ」ですよね。そういえば、大気や自然の中に「気」のようなものが充満しているみたいな、あのうねうねしたゴッホの描線の感じは、『ポニョ』の「おさかなみ」とも少し近いような。

    ちょうど昨日、ミケランジェロのことを扱ったBBC制作のドキュメンタリーをみたのですが、天井画というのも、まず漆喰を塗ってそれが乾く前に顔料を入れて、そのやり方にやっぱりいろいろ決まりがあって、失敗すると意図した色が出なかったりカビが発生したりとかして、難しかったみたいですね。しかしミケランジェロさん、けっこうお金もうけてたらしいです。亡くなったときに、かなりの貯金があって土地も持っていたとか。でも彫刻から天井画・壁画から建築まで、なんだかやはり、すごい才能ですよね。システィーナ礼拝堂の天井画やら彼のデザインした建築やらをナマで見てみたくなりました。

    話はかわり、ジルジャンって調べてみるとずいぶん古いブランドなんですね。しかも発祥がトルコとは。シンバルになぜかアラビア文字、というのは意識の片隅で不思議なことNo.56くらいになってました(56というのは適当です)が、その謎が解けました。いまは「Zildjian」というアラビア文字ふうのローマ字のロゴになっているみたいですが、どなたかのブログでむかしのジルジャンの写真が載っているのを見つけました。そうそう私の意識の隅っこにあったのも、こんなイメージです↓
    <リンクURL>
    wikiによれば、ジルジャンのシンバルは早くも17世紀にはヨーロッパで使われていたようですね。そして1920年代にアメリカに移民したジルジャン一族の後継者がアヴェディス・ジルジャン社を設立・・・ なんか映画の題材になりそうなお話です。

    日本の文字は全部「トヨタ」、かもしれないですねー。「いやソニーではないか?」とも一瞬思いましたが、ソニーはアメリカの会社だと思っているアメリカ人も少なからずいるようなので。あとタトゥーとかTシャツのデザインとかに、けっこう日本の文字使われていますよね。たまにオカシナことになっているのもあるみたいですけど。まあ、ですが日本でつくっている商品にデザインとして書かれている英語もずいぶんヘンだったりするので、お互いさまですね。

    「フルアニメ」と「リミティッドアニメ」というのがあるのも知りませんでした。前に『一寸法師 ちび助物語』という1935年の無声アニメを観たことがありまして、キャラクタとか動きとかが、かなりディズニーに影響されている感じがしたのですが・・・おっと探してみたらこれも夕中部にありました。
    <リンクURL>
    富士額のネズミさんの1928年の出世作(↓)と比べると・・・
    <リンクURL>
    一秒あたりの作画数が、すこし違いそうな気もしますがうーむ、どうでしょう。

    病床の葵上が衣一枚で表現される、というのはカッコいいですねえ。「省略」によって表現が豊かになるかビンボーくさくなるか、ここを分けるのは、どちらかというと技術よりセンスなのかなあと思うのですが、いずれにしても「省略のための訓練」みたいなものも必要なんですよね。書道で草書を習っていたときに、そんなふうに感じました。やはりこれも「足腰の鍛錬」が要るなぁと。

    脈拍水道に脈拍ガス、脈拍電気・・・電気は、えらいこと目がわるくなりそうですね。CDで音楽をかけるとどうなっちゃうんでしょう。

    報道写真ってむずかしいですよね。NY Timesのベネズエラの写真、たしかに美しすぎるんです。「聖なるもの」という表現でふと思ったのですが、悲惨さを美化するという心性は日本にもあると思うのですが、それを「受難」として聖化するというのは西洋的(というかキリスト教的)でしょうかね。

    子供のころ、私の祖父母の家のトイレもまだ「汲み取り式」でした。使用と廃棄のバランスは、廃棄物のゆくえがまったく見えなくなってしまうと、どんどん崩れる一方である気がします。なんか、税金を安くするかわりに、ゴミや下水処理の作業を国民が交代でやるとか・・・そんなシステムにしたらどうでしょうか??

    ポニョグッズには、こんなのがあるようです。
    <リンクURL>
    おさかなみくんのヌイグルミとかは、ないみたいですね。なんか私は「ポニョゆらゆらシャープペン」というのが少しほしいかも・・・ キャラクターグッズといえば、ディズニーのグッズって、自分で買う気がなくてもいつのまにか家にひとつくらいはあったりして、あの遍在性が少しコワいです。いつの間に入ってきたんだー! みたいな。ないですか、そういうディズニーグッズ?

  • Re: 森の神が死んだあと

    2010/10/13 11:38 by IKA

    aakuraraさん、こんにちは。

    ようかん→油性ボールペン、ういろう→ゲルインキのペン、とすると、水生サインペンはなにになるのでしょうか。葛きりとか……?鬼まんじゅうは油絵具でっしゃろか?五平餅はポスターカラーかな?チョコレートはコールタール……はちょっとかわいそうですかね。ゆべしはなんとなく蛍光黄色マーカーみたいな……。

    外国にようかんと似たもの……そういえば、もうだいぶ前、大阪の鶴橋駅下の韓国のお店がいっぱいあるところを覗きましたが、四角い煮こごりみたいなものがあったのを記憶しています。味はわかりませんが、こげ茶色がダシの色とすれば、お惣菜系の味だったんだろうと思いますが、見た感じはようかんに似てなくもない……ほかにもいろいろ、不思議な食べ物が並んでいました。

    ゆべしは、以前に静岡県の山奥に行ったら、神主さんのおうちに近所の人たちが集まって、たくさんつくっておられました。秋になるといつも作るのだそうで、なかなかおいしそうでしたよ。五平餅はうちの近くの田舎物品販売所なんかにもおいてあるみたいですが……一本でおなかいっぱいになります。たぶん茶碗一杯のご飯は使ってるなという感じです。……食べ物の話になると際限ありませんが。

    ゴッホの絵の「なみなみ」は独特ですよね。「気のようなもの」……たしかに私もそう感じました。「星月夜」なんか、夜の空の空気自体が踊ってますよね。……ゴッホは、正式な美術教育は短期間だったと思うのですが、いろんな絵描き仲間から大いに学んだのではないでしょうか。オランダ時代の作品は、伝統的な油絵技法をきちんとふまえて描いているように見えますし。彼のころは、ちょうど絵具の製法なんかも変革期だったと思うので、一枚一枚が技法の実験作だったのかもしれません。(チューブ入りの油絵具ができたのは19世紀に入ってからだといいますし)

    印象派以前は、デッサンはともかく、油絵は屋内で描くしかなかったみたいですね。自分で絵具を調合しながら……チューブ入りの絵具の発明が印象派をつくった!というのは言いすぎだと思いますが、「外で色が塗れる」という状態を実現したのはたしかに大きな変革だったかも。絵の明るさは、基本的に描いてる場所の明るさになるので、外光で描けば外光の明るさになる……。ヨーロッパだから「外光」といっても抑制されているのかもしれませんが、日本のかんかん照りの屋外で絵を描くのはちょっとムリかも……です。(目をやられます)

    天井画で、まず漆喰を塗ってそれが乾く前に顔料を入れて……これは、いわゆる「フレスコ」ですよね。フレスコって、すごく難しいみたいで、漆喰が乾くまでが勝負!なので、かなりの力量が要求されるとか。ダ・ヴィンチはこの「せかされる技法」はあまりお好きじゃなかったようで、有名な「最後の晩餐」はテンペラ画だそうです。……でも結果として、剥落がかなりひどかったようですが。フレスコは絵具が壁と一体になるので、かなり堅牢みたいですね。
    日本でもフレスコ画で建築の絵画を描いておられる方がおみえになるようで、ジブリ美術館の天井画もこの方々の作品みたいです。
    <リンクURL>

    ミケランジェロはお金持ちでしたか。絵描きと彫刻家と建築家を兼務する人は、現代では少なくなってるみたいですが、コルビジェなんかは絵画作品もかなり残しているようですね。……絵描きと建築家はなぜか相性がいいみたいですが、彫刻家と建築家はちょっと違うみたいです。現代では。……建築も彫刻も同じ立体なんですが、なぜか内部に持ってるものがかなり違うという気がします。

    ジルジャンのアラビア文字ロゴ、迫力ありますねー。なんか、顔文字みたいにも見えます。結局今はアメリカの会社なんですね。……そういえば、この間テレビで、トルコだったかのシンバル製作所を紹介していました。最初、ラグビーボールを潰したような金属のカタマリなんですが、それが見事にシンバルのかたちになっていきます。……シンバルは、クラシックでもジャズでもポピュラーでも使うから、全世界ではけっこう需要があるのでしょうね。ジルジャン社の歴史、wikiで見ましたが、ほんと、映画の材料ぽい……キャメロンさんなんか好まれるんじゃないでしょうか。こういうストーリー。

    そういえば、楽器のブランドってみんな映画になれそうな感じですよね。ピアノのスタインウェイもそうだし、弦楽器のストラディヴァリとかアマティとか。アコーディオンはエキセルシャーというメーカーが有名なんですが、これは調べてみると1924年にニューヨークで創業……ということで、まさに「あの時代」の雰囲気濃厚です。以前見た『ダークシティ』という映画はまさにその時代そのもので、登場する刑事さんがなぜか小さなアコーディオンをしょっちゅう弾いてるんですね……。ジェニファー・コネリーが歌姫として登場して、いい雰囲気を出してました。

    日本の文字は、「ソニー」かもしれません。音の響きからすると、アメリカの人にも違和感ないのでしょうね。「パナソニック」は「ソニー」にあやかったのか……私は、こどものころ「スバル」は外国語と信じて疑いませんでした。なんと、古典にも出てくる古い日本語だったとは……Tシャツのデザインなら「へんなの」とわかれば着替えればいいけど、タトゥーが「へんなの」とわかったら困りますね……。

    そういえば、うちの近く(といっても車で30分くらい)のところにあるお店の看板に「ドンキ・ホーテ」と書いてありました。……私も小さいころはドンキで切って読んでたので、のちに「ドン・キホーテ」なんだよと教えられたときにはにわかに信じられませんでしたが……上に書いた「スタインウェイ」も厳密にいうと変ですよね。半分へんなドイツ語半分英語……(と、このことは前にどっかで書きました)。知り合いで、自分のお店に「this is it」ってつけた人がいますが、これはこれでいいのでしょうねえ……。

    『一寸法師 ちび助物語』とミッキー、拝見しました。なるほど、かなり動きは似ていますね。……これは、もしかしたら無声映画でよく使われたという一秒16コマではないかいな……と思いながら見ておりました。……両方とも、なんだかゴムみたいな力が画面に働いているみたいですね。ミッキーの方がより濃密度ではありますが……。

    この2作は、この間見た『メトロポリス』とほぼ同時期なんですね。……考えてみると、映画って、実写もアニメも、この時期には、なんか一応の完成状態に達していたような感じも受けます。このあとトーキーとカラーが出てきてかなり変わっていくわけですけれど、この時期の無声映画というのは一種の適正技術と申しますか、技術的にもう完成の域にあって、内容的にもかなりハイレベルですよね。……レンタル店にもあんまり置いてないので全貌みたいなものは知るよしもないですが……。(かえって雄忠部で見られるのかな?)

    能では、演者が舞台に寝るということが考えられないので、結局「着物一枚」になったんじゃないかと思います。座る、まではやりますけれど、背中はつけませんね……ちょっとレスリングにも似てますが。腰から上はいつも立てた状態みたいです。……能はなんでも省略で、関東の人が「都へでも……」といって舞台を一回りすると「いそぎそうろうほどに、はや着きにけり……」新幹線なんか目じゃないです。超音速ジェットより早い……。

    草書は、私はまったくわかりません。行書もわからないですが……あれは、規則を覚えないとだめみたいですね。古文書なんか、プロの方はすいすい読まれますが、私には超能力に等しいです。……漢字の書体でいちばんすきなのは甲骨文字とか金文で、つぎに篆書体、隷書体……ようするに、読めないのがいいんですが……なぜか草書の読めないモードは苦手です。読めるはずの文字が読めない……というのがだめなのかな?

    NY Timesのベネズエラの写真は、光のかげんがもう、神々しいまでに……たしかに「受難」としての聖化かもしれません。日本だと、土門拳とか奈良原一高の写真みたいになるんでしょうか。(著作権の関連と思いますが、ネットではあんまり画像は出てきません……)そういえば、水木さんの漫画のワンシーンなんかも「日常」をかなり「聖化」してますよね。電柱さえもアートになってます。

    ゴミや下水処理の作業を国民が交代でやる……うちのあたりでしょっちゅうやってる「川そうじ」とか「草刈り」は、まさにそういうシステムです。地域で分担が決まっていて、こっからここまではこの組の割り当て……みたいに道や川が分けてあって、自分の組の分担分をみんなで手分けしてやります。「強制じゃないよ」とは言うのですが、やっぱりさぼるわけにはいかなくて、けっこうがんばって参加してます。……でもやってると、なぜか「地域一体感」が村々と……。

    街では、そういうことはぜんぶお役所まかせ、業者まかせでした。たしかに。……ヴェーユさんじゃないけど、「権利」ばっかりでっぱってくるシステムですよね。「枯葉で側溝が詰まってる。なんとかせい!」とか……自分でちょっと掃除すりゃいいのに、お役所にいうもんで、お役所は枝を切ってしまって、景観だいなしに……これにたいして田舎の「みんなでやる」はかなりの「純粋義務」です。もうあの文章そのものが生きてそこにある感じです。「やらなきゃならないことなので、やる」という以上のものはなく、そこでぴったり止まります。うーん、けっこう美しいです。田舎に越して学んだいちばんいいものだったかもしれません。

    歩女グッズ、いっぱいあるんですねー。私はこの中だと、「ぜんまいポニョ」とか「ポンポン船消しゴム」なんかが好みかな。にしても、やっぱり「夏向け」が多そう。ジブリ作品はいつも夏休み公開だから、だいたいそうなるのでしょうが……。たしかにディズニーのグッズは家のどっかにあるかもしれません。私はあんまり好きじゃないので自分で買った覚えはないのですが……(こんどさがしてみよう)

    うちの父は私とちがってディズニー大好き人間で、昭和初期にもう「ミッキーマウス倶楽部」の会員になってたといってました。日本でもかなり早い会員だったそうです。アコーディオンで「ミッキーマウス倶楽部の歌」を楽しそうに弾きます。「ぼくらの倶楽部のリーダーは……」というアレです。そのおかげで、ディズニーアニメは無条件で封切りに連れてってくれました。(実は父が見たかった)……そんなに見たのに、なぜかあんまり好きになれなかったのは不思議ですが……こればっかりは個人の好みなんでしょうね。

  • Re: 森の神が死んだあと ネタバレ

    2010/10/16 0:06 by aakurara

    IKAさん、こんにちは。

    和菓子→ペン遊びにおつきあいくださってすみません・・・ 手作りのゆべしって美味しそうですねー。基本は糯米粉を蒸してつくるみたいなので、ひょっとしたら家でもつくれるのか・・・ むかし祖父母の家に行くと、祖母がいつも大量の「ぼたもち」をつくっていたのを思いだしました。韓国のお菓子はそういえば食べたことがないですが、韓国料理はけっこう流行ってますね。私は韓国のりが大好きなんですが。なんか各国料理で一番「えらい」食べ物は何かって考えたことがありまして、韓国だったら「キムチ」なんでしょうね。日本だと何でしょう。私は「味噌」に一票。ポニョは「ハム」が世界で一番えらい食べ物だと言うかな?

    かんかん照りの下で絵を描くのは、たしかに目に悪そう・・・かといってサングラスをかけて描くわけにいかないですしねえ。屋内で油絵、というとフェルメールが思い浮かびます。チューブ入りの油絵具を開発したのってどこの国の人だったんでしょう。なんだか、これも映画になりそうですね。ボールペンの開発をテーマにした映画なんかも観たいですが、コッチは地味すぎてまず出資しようという人がいないだろうなぁ。

    ジブリ美術館の天井画、なかなかきれいですねえ。ミケランジェロはシスティーナ礼拝堂の天井画を描くとき、フレスコ初心者だったので専門家をよんで教えてもらいながら始めたらしいです。なんかすごい競争心の強い人だったそうなので、難しいのをあえて、というところもあったのかもしれません。ダ・ヴィンチのほうは、なんとなく余裕の感じですね。もしかすると自作を「残す」ということをあまり考えていなかったのかも?

    コルビジェの絵は、何年か前にコルビジェ展に行ったときに、もしかすると見ているかもしれません。でもどんな絵だったか、さっぱり覚えていないのですよね・・・ たしか絵の展示室で、一緒に行った友人がなぜか星新一の話をしていた気がするので、星新一的な?絵だったのかもしれないです。彫刻家と建築家の兼務が現代になると少なくなってくるというのは、なかなか示唆的である気がします。ミケランジェロなんかは、「人体の構造や機能」と「建築物の構造や機能」を互いに類比的なものとみていたのではなかろうか、ってまた妄想憶測当てずっぽうです。

    スタインウェイという名前は、もしかしてシュタインヴェークさんがアメリカに移住したときに、英語風にスタインウェイという名前に変えたんでしょうか。なんか時代的にも、映画にぴったりな感じがします。ミロシュ・フォアマン監督あたり、いかがでしょ?

    タトゥーが「へんなの」とわかってしまったら悲惨ですよねー。「ヘンな漢字のタトゥー」を紹介したサイトに、うなじに「頑」と彫った人の写真がありましたが、これは旧約聖書によく出てくる「うなじの頑な者」のつもりですよね、きっと。ヘンな英語の例では、お店の名前ではないのですが、博多の有名なラーメン屋さんの壁に「Your eating this ramen makes us happy」とデカデカと書いてあったのには度肝をぬかれました。文法的には間違いではないのですが、うーん。

    『ダークシティ』のトレーラーをみてみました。ああもしかしたら、ルーツには『メトロポリス』があるのかなあという感じがします(レビュー拝読しました! のちほどちょっとコメントしにお邪魔させていただくかもです)。そういえば、映画はサイレントからトーキーになって堕落したと、たしかシモーヌ姐さんがどこかで言っていたような気がしますが、なにか新しい技術を導入すると、一時的に全体のレベルが落ちたりするのかもしれませんね。新技術をきちんと消化するまでは。でもディズニーのアニメは、ほとんどトーキーが登場したのと同時期にあの完成度。ウォルト・ディズニーさんというのは、やはりそうとう卓越したヴィジョンの持主だったのではないかと思います。私はディズニー産業一般がどうも好きではないのですけど。

    でも戦前生まれで音楽をやっている方って、けっこうディズニーがお好きみたいですね。初期のディズニーアニメはかなり「音楽的」なので、なんとなくわかるような気もします。三木鶏郎にしても、そもそもこの名前は「みき とりお」すなわち「ミッキー・トリオ」のことだったそうですし、1950年代にはディズニー映画の日本語制作(日本語版監督・音楽監督・作詞)もてがけてますし。

    「ミッキーマウス倶楽部マーチ」は、なんかキューブリックさんの『フルメタルジャケット』のせいで、禍々しいイメージがつきまとうようになってしまいました。英語の歌詞をよく読むと、たしかに禍々しいんですよね。「We'll do things and We'll go places All around the world. We'll go marching / Who's the leader of the club That's made for you and me M-I-C-K-E-Y M-O-U-S-E」(試訳:なんでもやったるぜ、世界中どこでも行ったるぜ、それゆけ行進だ/ぼくらの倶楽部のリーダーは、エム・アイ・シー、ケー・イー・ワイ、エム・オー・ユー・エス・イー) ・・・これをあのシーンで使うというのは、キューさんのユーモアセンス、やっぱりそうとうひねくれてます。

    「地域一体感」というのは『ポニョ』にもつよく感じられましたよね。ここで描かれている共同体では、基本的に「義務」の観念が「権利」の観念に先行しているような印象がありました。これも英語の掲示板のほうで、「あんな災害にあいながらみんな冷静すぎる」という意見があったのですが、あの展開では災害パニックものになるのが普通というわけですね。でも、「権利」の観念が生活のベースになっていると、たしかに自然災害によってその権利の基盤になっている生活システムが破壊されるのは「ディザスター」と感じられるのだと思いますが、「義務」の観念がベースになっている場合、災害は一種の「ネメシス」として粛々とうけとられるのではないか、という気がします。ああ、この作品では災害もある意味で「聖化」されているのかもしれません。

  • Re: 森の神が死んだあと ネタバレ

    2010/10/18 13:56 by IKA

    aakuraraさん、こんにちは。

    各国料理で一番「えらい」食べ物……
    日本だと、「味噌」……なるほどです。でも、私はもしかしたら「米」じゃないかと思うんですが……。江戸時代は「米本位制」だったみたいですし……かつてほど絶対的な地位ではないにせよ、今でもやっぱりかなり「えらい」んじゃないかと……。

    米は、戦時中は国家神道とだきあわせで「神聖視」されたみたいで……たとえば、ある神社の神主さんが、「米の偉大さ」について語った話を聞きました。彼は、「米は、モノではない。」と語りはじめた。で、「米は、なになにであって、どうのこうのであって、なんたらかんたら……」と「米の偉大性」を延々と語って、最後に、「……というモノである。」と締めたので、全文矛盾になってしまった……というお話……

    ちょっと飛躍しますが……『デューン』ではやっぱり例のスパイス「メランジ」が一番偉い。(んー……食べ物かどうかは微妙……)キリスト教国では「パン」と「ぶどう酒」が双璧なんでしょうね。なんせキリストさんの血と肉……。仏教国ではもしかしたら「チーナカ豆」?お釈迦さんはこれを食べて下痢でお亡くなりになったのではなかったかと思います。(ということは、お釈迦さんをやっつけたので、釈迦より偉い。変な論理ですが)

    金属性(真鍮)のチューブ入りの油絵具を開発したのは、ジェームス・ハリスという方で、1828年のことだったそうです(この↓サイトによる)。お国が書いてないですが、名前の読み方からすると英語圏の方なのでしょうね。錫製のチューブを考えたのは「イギリス在住のアメリカ人画家ジョン・G・ランド」という方だったそうで、1841年のことだそうです。
    <リンクURL>

    ボールペンの開発……はどなただったか知りませんが、シャープペンはSHARPの早川さんということで知られてます。でも、実際はもっと古くからあったみたいですね。とにかく、早川さんは、まず「シャープペン」をつくって、そっからSHARPという社名にされたようです。

    以前に『つぐない』という映画で、「CORONA」という商標のタイプライターが登場しまして……調べてみると、いろいろ面白かったです。
    文房具をテーマにした新ジャンルの作品が生まれると面白いですね。「ステーショナリー・ムービー」?

    ミケランジェロはフレスコ初心者でしたか……にしてはお上手ですよね。しかもあんだけの量……やっぱり人間、ヤル気第一でなんでもやれるゼ……ということでしょうか。ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」壁画は技法的な失敗で、彼は「すぐ消えてもいい」とは考えてなかったと思います。やっぱりきちんとした絵を仕上げたかったんじゃないでしょうか。……コルビジェの「絵」は、私はテレビ番組で見たんですが……やっぱりあんまり記憶にありません。「星新一的な絵」……なるほどそうだったかもです。彼の短篇も、いくら読んでもあまり記憶に残らない……。(早い話、N氏という名前しか覚えていない……)

    そういえば最近、『気まぐれロボット』という彼の短篇を原作にした映画を見ました。浅野忠信さんが主演で、けっこうがんばっておられましたが、やっぱり全体に淡々として、障ってくるものがなんにもなかったですね。尺も短かったし……うーん、コルビジェも、うまくできすぎていて、インパクトに乏しいのには変わりない気がします。むしろバックミンスター・フラーみたいな宇宙的視野?の人の方が面白いような……。

    人体−建築−自然−宇宙……みたいなアナロジーは、コルビジェにもあったみたいですし(モデュロール)、フラーにはもっと強く感じますね。建築家って、基本的にそういう妄想?にかかりやすい人たちではないでしょうか(……というと、建築家の方に怒られそうですが)。ミケランジェロもダ・ヴィンチも、やっぱりそうだったのでしょう……現代の建築家でも、私がおつきあいしている人にはけっこうそういう「妄想人間」は多いです。建築って、やっぱり「空間教」なんじゃないかと思うんですが(……いや、これも妄想ですが)。

    スタインウェイは、おっしゃるようにハインリヒ・エンゲルハルト・シュタインヴェークという方がアメリカに渡って興した会社のようです。アメリカではヘンリー・スタインウェイとなり、ニューヨークに拠点を置いていたが、ヘンリーの死後はドイツのハンブルクに生産拠点を移した……とか(以上はwikiの情報です)。なお、現在では、ニューヨークとハンブルクに生産拠点が分かれて、それぞれに特徴があるようですね。

    つづりはSteinwayなので、英語読みするとステンウェイとかステーンウェイになるんですかね。「スタイン」という読み方は、やっぱり英語とドイツ語のちゃんぽんで変な感じですが……いずれにせよ、設立は1853年ニューヨークとあるので、やっぱりもろに「その時代」です。おっしゃるように「スタインウェイ一代記」で映画を作ったら、けっこう面白い作品になるかもです。

    ミロシュ・フォアマン……『アマデウス』とか『宮廷画家ゴヤは見た』の監督さんですね。なるほど適役かも……ヒトクセある音楽映画(というか歴史もの)になりそうですね。……日本の山葉さんは、自作のオルガンを背負って山道を越えたそうですが、こちらは尊徳チックであんまり「絵」になりませんかねえ……(そういえば、最近見た押井さんの『アサルトガールズ』という奇妙な映画で、ゲームの戦場になってる砂漠に尊徳像が……しかも、そのオツムにはカタツムリが……)

    オツムじゃなくてウナジに「頑」。これは効きそうですね。「うなじの頑な者」……なるほど、旧約にそういう表現があるのですか。……ようするに「ガンコもの」ってことでしょうか?……なにかの本に、インドには「アカス・ムキ」という言い方があって、これは首が固まってしまうほど天を見上げ続ける信心深い行者のこと……と書いてあったように思いますが、それを思い出してしまいました。もう一つ思ったのは、「うなじ」は漢字で「項」あるいは「領」と書くみたいですが(昔はもっとややこしい字でしたが)、これをまちがえた……ということはないでせうか……。

    「Your eating this ramen makes us happy」……
    これは、博多の一風堂というラーメンチェーン店のモットー
    「Your happiness of eating this ramen makes us happy」
    とよく似ているように思います↓
    <リンクURL>

    このふたつは、happinessという単語のあるなしなんで、日本人の感覚からすれば似てるなあ……ということなんですが……ネイティヴ的感覚からすると、happinessのあるなしはかなり「大きな差」なのでしょうか(↑のサイトの筆者は英文そのものは別に問題視してないみたいなので)。……推理としては、ごらんになったのはやっぱり一風堂で、元々の文章はhappinessが入ってなかったが、英語ネイティヴの人から指摘されて入れた……というのがありえる道筋みたいには思えます。あるいは、まったく違うお店なのかもしれませんが……

    『ダークシティ』のルーツには『メトロポリス』……これは、充分にありえる話と思います。『ダークシティ』は、かなり「あの時代」の雰囲気を意識してつくってます。おそらく「あの時代のニューヨーク」だと思うのですが……。いずれにせよ、『メトロポリス』は多くの映画に影響を与えたみたいですね。また、手塚さんみたいにマンガ家でも影響を受けてる方もおられます。映画作品で最初の「世界遺産」になってるらしいですが、たしかにソレ級の作品だと思います。

    映画はサイレントからトーキーになって堕落した……『メトロポリス』なんか見てると、そういう気もしてきますね。私はものごころついた時から「トーキー+カラー」だったんで、色つき音つきをごくふつうに思ってたわけですが……。もしかすると、映画は、トーキーになって「文学性」をかなり喪失したのかもしれません。要するに「文字」で表現する「力」ということなんですが……。

    『メトロポリス』を見てると、俳優さんはかなりいろいろしゃべってるみたいなんですが、字幕は要所要所にしか出てこない。ところが、その出てくる文章がびしっと決まっていて、それでもう大事なことは全部伝わるようになってます……ということは、ここにあるのは「物語」の基本的な性格なのであって、それが伝われば、あとは「おしゃべり」レベルのこと……ということなのかも。
    もっとも、無声映画って、上映時に「弁士」さんがいて、いろいろしゃべって補ってたみたいですから、やっぱり「おしゃべり」の要素は元からあったのかもしれませんが。

    もう少し根本的なところから考えてみると、映画ってよく『総合芸術』という言われ方をしますが……昔は私も、なんとなくそんな感じで思ってたんですが……最近、ちょっと疑問になってきたんですよね。……たしかに画像(映像)があって、声が出て、音楽もくっついて、それで「総合芸術」というのはわかるけれど、それではあんまりにも単純ではないか……と。

    仮にも「芸術」というのなら、そういう媒体としての「技術的側面」のお話ではないですよね。カラーもトーキーも、そして3Dも、映画の「見世物性」は確実に進展させたが、「芸術性」の方は果たしてどうなのか……というと、それは全く別問題で、「選択の余地」(技法的な)が広がってしまったぶん、そちらの方はかえって難しくなっているのかもしれません。ヴェーユさんのご指摘のとおりに……。

    最近、タランティーノさんの『デス・プルーフ・イン・グラインドハウス』という作品を見たんですが、この映画はこの点、ちょっと示唆的でした。……女の子たちがたくさん出てくるんですが……タラさんは、この女の子たちに延々と「ムダなおしゃべり」をさせとくんですよね。もう台本なんかなしで、自然にべちゃべちゃやってる感じで……。でまた、この「おしゃべり」は、本筋には全然関係なくて、ホントに「ムダなおしゃべり」なんですが……これが、なぜか、作品全体に妙に効いてるんです。……うーん、やっぱりタラちゃん、ただものやおまへんで、この人は……。

    まあ結果的にいうと、この作品は、やっぱり「トーキー」でないと絶対に表現できない「あるもの」を持ってたと思います。……それを「芸術性」というかどうかはともかくとして、これは、「映像」も「しゃべり」も持ってる今の映画の技術でないと表現できない世界でした。……できれば、この作品をヴェーユさんにみせてあげたい。……一体なんと言われるでしょう……。

    「ミッキーマウス倶楽部マーチ」は『フルメタルジャケット』に使われてたんですか!……この映画、前にaakuraraさんが書いておられたのを読んで、いっぺん見てみたいと思ってるんですが、なぜか私の行くレンタル店では常に貸し出し状態で、いまだに見てません……よっぽど人気があるんですかね……。試訳を拝見しましたが、とりようによってはオソロシイ内容……Qちゃんやっぱり並のセンスやない……。

    ぜんぜん関係ないんですが、以前、NHKの「みんなの歌」でやってた「大阪のこども」の歌を思い出しました。正確なタイトルは忘れましたが、歌詞はこんなふうです。
    「ぼくたちおおさかのこどもやでー おおさかのことならなんでもしってるでー……」
    ミッキーって、実は大阪ネズミだったのかも……(深い意味はないです。大阪のみなさんすんまへん。気ィ悪ぅせんといとくれやす。)

    災害と地域一体感……で思い出したのですが、私が今住んでる集落で、山火事になりかけたことがあったんです。……一人暮らしのおばさんが野焼きをしてたらその火がまわりの植物に燃え移って……というよくあるパターンなんですが(よくあっちゃ困るんですが)……そのとき、消防車なんかよりはるかに早く地域の人たちが駆けつけてみんなで消火活動……。私は直接目撃してないんですが、私の家の隣の若旦那が消火栓の扱いに詳しくて、彼がみんなを指揮してホースを繰りだして「放水!」……火は無事に消えて、ことなきをえました。

    山でいちばんコワいのは……むろん熊も最近怖いですが、一番コワいのはやっぱり「山火事」なんだそうです。春先の乾燥した日など、いったん火が出たら延々と類焼して大被害になりますから……で、こういうときはもう「権利」も「義務」もなく、ただ確実に迅速に「やるべきこと」をやる……それは徹底しているみたいです(消火訓練もあります)。……まあ、最近は集落の平均年令もぐっと上がってきているので、この先はどうなるかわかりませんが……。もしかしたら、10年後20年後には、日本の山火事はかなり増えるかも……と思いました。

    『ポニョ』では災害が聖化……たしかにあの感じは不思議でした。みんな、あわてずさわがず粛々と(この言葉、最近政治の手垢がついてしまいました)……。あれは、もしかしたら日本人独特の感性かもしれないです。……安易に国民性に結びつけるのもなんなんですが……あれだけのことが起こってしまうと、やっぱり「これはただごとやない」と感じるのでしょうから……なんか、背後に「人を超えた力」があって、それはやっぱり「運命」みたいなものに結ばれていく……。

    先の大戦の際に、日本の各都市は米軍の爆撃で軒並み丸焼けになりましたが……あれだけの「大被害」を受けたにもかかわらず、後に米軍が進駐してくると、ゲリラ戦をやるでもなく、逆にチョコレートをおねだり……進駐軍の方々は、つくづくわからん国民じゃ……と思われたことでしょうね。コイツら、一体何考えとるんじゃー……と。
    日本人にとっては、戦災さえも「ネメシス」なのか……。

  • Re: 森の神が死んだあと ネタバレ

    2010/10/21 20:17 by aakurara

    IKAさん、こんばんは。

    日本で一番えらいのは、お米・・・んー。ですよね、ふつう。どうも私は、その世界での二番手をひいきする傾向があり(ビートルズよりローリングストーンズ、ジャン・ジャック・ルソーよりヴォルテール、チャップリンよりキートン、みたいな)、その癖がまた出てしまったようです。冒頭「米は、モノではない」で、結論「・・・というモノである」ってその神主さんの持ちネタじゃないですよね? 聞き手のみなさん、気づかれてましたか。さりげない矛盾すぎてなかなか気づかれなさそうな気もしますが。(ネタとして盗もうとか目論んでおります。)

    『デューン』は小説も未読で、リンチ監督の映画のほうも長年気になっていながら未見なのですが、メランジはほんとうにえらいっぽいですね。小説版のwikiの説明には「宇宙を支配する力を持つ」とか書いてあるし・・・。「チーナカ豆」というのは、ひよこ豆のことなのですか。お釈迦様をやっつけた、というので思いだしたのですが、前にアメリカのブッシュさんでしたっけ、プレッツェルをのどにつまらせて死にかけたの。ブッシュさんをやっつけてたら、プレッツェルも、もっとえらくなっていたかも!

    真鍮の絵具チューブを開発したジェームス・ハリスさん・・・なんか長谷川次郎みたいな(イニシャルを合わせてみました)、絵にかいたようなふつうの名前ですね。研究社のリーダーズプラスに三人ほど出てきましたが、みんなイギリスの議員さんとか外交官とかでした。紹介していただいたサクラのサイトにちらっと触れられていますが、19世紀はアルミニウムが高価だったという話は、たまたまさいきん別のところ(あ、wikiでした)で読みました。なんかアルミの生産には大量の電力が必要なので、結局発電のシステムが発達するまでは貴重品だった、ということらしいです。絵具チューブの歴史も面白いですねえ。うん、これも映画にしてほしいです。地味だなー。

    ボールペンは、1888年にアメリカのJ・ロードさんが原型を発明して、1943年にL・ビロさんが改良、翌44年から商品化された、といいますから(ブリタニカによる)、案外新しいですね。水性ボールペンを開発したのは日本だそうです。いやでも、日本のボールペンはすごいですよ。uni、ゼブラ、ぺんてる、パイロットなど、それぞれ特徴ありますし、さいきんのはちょっと書き味がなめらかすぎて私は苦手なのですが。上にあげた4つのメーカーを基本にして、以前よく、ふだん使っているペンでちょっとした性格判断なんかもやって遊んでました。IKAさんはよく使うペンってありますか?

    ミケランジェロは、後輩のラファエロに仕事をとられたくねえ、という思いもつよく、そのあたりもヤル気の源泉になっていたみたいです。パトロンは教皇のシクストゥス4世でしたが、そのお抱え建築士がミケランジェロと犬猿の仲で、天井画を描く間も礼拝堂でのミサは続けますから、邪魔にならないように足場を組むにはどうするかというときに、その建築士が、天井からブランコみたいのをぶらさげて、そこで描けばいいという案を出したのにたいし、ミケランジェロが「ばかじゃねーの天井に穴あけてどうすんだ」ということで、結局自分で足場の設計もやったそうですよ。

    ダ・ヴィンチさんの「最後の晩餐」は技法的な失敗でしたか・・・ サイレント映画なんかもフィルムなので劣化しますが、できたての状態で見てみたかったものって、けっこういろいろありますね。

    コルビジェのデザインは、けっこう私は好みなんです。ペンでいうとパイロットタイプです。IKAさんはバックミンスター・フラーがお好みということは、ぺんてるタイプでしょうか・・・ 数えてみたらぺんてるのペンを一番たくさんもっていた、とかそんなことないですか? うーん、なんか建築家の方々におとらず私も十分「妄想人間」ですね。

    Steinway の英語読みは、やっぱり「スタインウェイ」になるみたいです。Gertrude Stein の「スタイン」に、道のウェイですね。英語読みするとだれのことなんだか分かりづらい人名ってけっこうありまして、バッハが「バーク」になるのもそうですが、Bakhtin バフチン(バフーチン?)はイギリスの人は「バーキン」と言ってましたし。あと Edward Said は「サーイド」になるみたいですが、私は『オリエンタリズム』を知る前に彼のイギリス文学論を読んでいたので中東系の方とは知らず、しばらく「セッド」さんだと思ってました。

    山葉の映画も、つくりようによっては面白くなりそうです。明治時代で、オルガンを背負って山道を・・・「山葉風琴製造所」なんて社名もよいではないですか。で、現代のエピソードにはグールドさんにも登場してもらって。

    うなじに「頑」は、写真をのせていたサイトの人もやはり、これは「項」と彫るつもりで間違えたのでは、と書いていましたが。腕に「腕」と彫るみたいで、あまりやろうという人はいなさそうな気もして・・・ インドでは首の固い人は信心深い行者、ということになるんですね。旧約の「うなじの頑な者」は、おっしゃるとおりガンコで不信心な者、の意味ですからインドと逆ですね。

    らーめん屋さんは、私が行ったのもまさしく一風堂です。お店の壁に書いてあったのも「Your happiness of eating this ramen(以下略)」だったかもしれません。しかしこれ、ヘンじゃないのかなぁ。と思ってこのフレーズでグーグル検索をかけると、いくつかブログなどで紹介されているのが出てきますが、なんかヘンというより「あら、かわいい」みたいな反応が多いですね。ヘンな英語を集めたサイトというのもありまして・・・まあ私も英語スピーカーの人がつけてるコメントの意味がときどき分からないくらいなので、英語がヘンかヘンじゃないかちゃんと判断できてないかもです。
    <リンクURL>

    サイレントからトーキーへの「堕落」については、たしかにキートンのトーキー作品などをみていると、「そうだなぁ」という感じがしてきます。なんか、おっしゃるように「文学性」を失っていきなり「娯楽」に戻っちゃったみたいな。その娯楽性も、どことなくぎこちなくって。ただ私もそんなにいろいろみているわけではないのですけど、いま思いつくのでは1932年の『グランド・ホテル』とか1934年の『或る夜の出来事』なんかは、なかなかいい作品だったので、1929年の『ジャズ・シンガー』をトーキーの最初とすると、3年くらいでもう、だいぶトーキーも「こなれて」きているようにも思えますが。

    ともあれ、無声映画は映像でほとんどのことを伝えなきゃいけないという制約があるので、かえって「伝えよう」という作り手の思いが強烈ですよね。そうそう、弁士というのはなんか日本だけの文化みたいで、欧米の無声映画は楽団やピアニストの生演奏がつく、というスタイルが一般的だったようです。『ラグタイム』という映画にそういうシーンが出てきました。この映画は20世紀初頭が舞台で「テロリズム」のお話なのですが、なかなか面白いですよ。

    タラさんの『デス・プルーフ』はみておりませんが、彼の映画っておしゃべりですよね。冒頭で強盗団のメンバーがマドンナの「ライク・ア・バージン」論をくっちゃべっていたのは『レザボア・ドッグス』でしたっけ。

    『フルメタルジャケット』のミッキーマーチ、映画のさいごに出てくるのですが、すごいですよー。お父様にはお見せにならないほうがいいかも・・・ キューさん、それ夢の国ディズニーランドの夢、こわしまくりじゃないですかっていう。うーん、なんか進駐軍のチョコレートと、みんなが大好きなディズニーグッズとがかぶってきました。

    それで、えーとここは『ポニョ』のスレでしたっけ・・・「あわてずさわがず」というのは、『フルメタルジャケット』のベトナム人もなのですが、米軍にたいする態度はまるっきり違うんですよね。アメリカが最初に「占領」に成功したアジアの国が日本だったというのは、アメリカにとって不幸なことだったのかもしれません。たぶん、一番「御しやすい」国ですから、他のアジア諸国も同じような感じでイケるだろうと思っちゃったかも・・・

    もしポニョがアメリカで拾われていたら、即座にFBIとかが出てきて、リサカーとFBIのカーチェースでフジモトも「さかなみ」兵器で応戦、街が水中に沈むと住民は暴徒化して略奪暴行の限りをつくし、宗介は海洋研究所にさらわれたポニョを救出するためにカラテでFBIエージェントと闘い・・・ううむひどいですね。といいつつ、なんかフランス版とかインド版とかもやってみたくなってますが、とりあえずフランス版だったら宗介とポニョは「セラヴィ」とか言って別れてインド版だったら踊りまくるでしょう。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2010/10/24 18:49 by IKA

    aakuraraさん、こんにちは。

    「コメモノ談義」は、ちょっと私の書き方が悪かったですが、その神主さんから直接聞いた話じゃなくて、学生時代に授業で、先生から、そういう神主さんがおられたという話を聞いたということなんです。……先生としては、「モノ」について話したかったわけで、たしか教養の哲学かなんかの授業だったと思います。……もう「著作権」もどこにあるのかわからない話なので、ネタとしてお使いいただいても大丈夫かと……。

    プレッツェル>ブッシュ!……なるほど……もしあそこでお亡くなりになってたら、いまごろプレッツェルはアッラーに次ぐ地位を占めていたかもしれませんね。プレッツェルも食べられて死ぬから、こりゃ自爆攻撃だ……。

    長谷川次郎さん、けっこうおられました! キャリアカウンセラー、甲子園高校野球の審判員、神奈川県の会社社長さん、某大学ヨット部の学生さん、某組織の監査役……ちょっと似た名前の絵描きさん(長谷川りん次郎)も……ちょっと不思議な作品です。「りん」の字は、私のPCにはありませんでした。
    <リンクURL>

    アルミニウム製造には大量の電力を使う……この話は、私も聞いたことがあります。だから、アルミ缶リサイクルを熱心にやってるんですね……早朝の街で、ときどき、アルミ缶が詰まった巨大なポリ袋をいくつも自転車にくっつけて走ってる人の姿をみかけますが……ちょっと納得できました。あるサイトによると、平成21年にリサイクルされたアルミ缶を電気代に直すと1332億円だったそうです……この数字が大きいのか小さいのかはわかりませんが(日本全世帯の12日分の電気量なんだとか)。
    <リンクURL>

    よく使うペン……私は、以前は「ロットリング」rotringを偏愛していました。まあ、ちゃんと読めば「ロトリンク」とかになるんでしょうが……製図ペンの一種で、ペン先が筒型になっていて、その筒型の直径の太さの線が引けるんです。太さは0.1mmくらいからいろいろあって、セットで揃えると10数本になりました。お値段は太さによって違うんですが、0.1mmのは当時で2500円くらいしたでしょうか……なので、数本揃えると、あっというまに万を超えます。でも、かきごごちが気に入ってて、字をかくのにも絵をかくのにも、もっぱらこれを使ってました。
    <リンクURL>

    ところが……このペンが、よく壊れるんですね。細い筒の中を通るインクは、そのままだと固まるので、筒の中心にさらに細い針金が仕込んであります。書き始めはインクが固まってるんで、ペン全体を振るんですね。すると、筒の中で針金が動いて固まったインクを排出して書けるようになります……ところが、ペンが手からすっぽ抜けたりするともう悲惨……ぴゅーんと飛んで、先端がなにかに当たると針金が曲がり、それで2500円がパー……

    振らなくても、ちょっと強く書いたりするとすぐに針金が曲がります……これでロットリング社に貢いだお金は、総額にするとン十万になるでしょう……国産とかで安いのもありましたが、これはさらにトラブルが多かった。で、結局ロットリングを使い続けました……。rotring社には愛憎半ば……。世界中で売って、かなり儲かってたと思いますが、今ではPCに押されて下火のようです(版下、デザイン、イラストの人が多く使ってた)。最後には、曲がった針金を根性でまっすぐに直す方法を編み出しまして、これで治癒率が50%くらいになりました。

    rotringはドイツのメーカーの社名で、われわれが「ロットリング」と読んでたペンそのものは、正式には「ラッピッドグラフ」とか「イソグラフ」とかいうらしいんですが、みんな「ロットリング」と呼んでました。おしりの赤い輪っかが印象的で、なんか、頼もしいけど頼りない相棒って感じ……。ドイツ語でrotが「赤」でringが「輪」なのでまんまの命名ですが……この間『メトロポリス』で見たロトワングrotwangさん、この人の名にも「赤」が入ってました。wangが「頬」なので、赤頬さん……日本語なら「りんごのほっぺ」かな? マッドサイエンティストのわりにカワイイお名前……「共産主義」の暗示なのかどうかはわかりませんが……。

    話がそれましたが、このペンは、今はまったく使わなくなりました。かわりによく使ってるのは、コピック・マルチライナーという水性サインペンの一種で、これは一本200円とかなり安いです。使い捨てなんですが、まあまあ気に入ってます。0.03mmという極細があるので……(実際の描線はもっと太いですが)。これでラクガキして楽しんでおります。

    コルビジェ→パイロット、バックミンスター・フラー→ぺんてる……なるほど、そういう感じになるのでしょうか……わたしが今、いちばんたくさん持ってる「コピック」は、どうも「いずみや」(Too)という日本のメーカーの製品のようです。うーん、建築家にすると、安藤忠雄さん?……ちょっと違うみたいな気もしますが、よくわかりません。東京のアテネフランセを設計した吉阪隆正さんなんかがイメージとしては近いのかもしれませんが……。

    コルビジェのデザインは、私も好きです。以前に彼の『モデュロール』という本を読みましたが、それによると彼もかなりの妄想家みたいですね。森を歩いていて「モデュロール」を発想するところなんかが印象的でした。建築家って、けっこう「夢見る人」が多いですよね。「夢」ばかりで現実の作品にならない建築家(アンビルドとかいうそうです)もたくさんいますが……私の友人にもそういうアンビルド建築家がいて、彼の設計した図面を見せてもらいましたが、なんとトイレが家のてっぺんにありました……ちょっと彼の家には住みたくないなあ……と思いました。

    steinの英語読みはスタイン……なるほど、ガートルード・スタインという方がおられましたね。「バッハ」は、私は「ヴィンセントバック」という楽器メーカーの名の「バック」が「bach」だと知ってびっくりした覚えがあります。この会社は、今はスタインウェイに吸収されているらしいので、なんか変な因縁を感じますが……(この因縁は私だけが感じるもので、一般的ではないです)。

    ヴィンセントバック社は、調べてみますと、1890年にウィーンに生まれたフィンセント・シュローテンバッハVincent Schrotenbachという方(トランペット奏者)が1918年にアメリカで設立した管楽器製造会社のようです。この会社は1961年にセルマーUSA(フランスのセルマー兄弟がアメリカでつくった管楽器会社)に買収され、その後セルマーUSAがスタインウェイを買収して「スタインウェイ・ミュージカル・インスツルメンツ」になったので、結果的にスタインウェイに吸収されたという複雑な経過……これも映画にできるかもしれません。

    ややこしい話で失礼しました。楽器業界って、規模的にはそんなに大きくないんでしょうから、生き残っていくだけでも大変みたいですね……。ところで、インドの行者さんの「アカス・ムキ」の話は、私が昔読んだ本の記憶なので、話半ばに聞いてください。この本、まだうちにあるはず……と思って探してるんですが、みつかりません。うーん、ネットに載ってないし、だんだん不安になってきました……。

    リンクでご紹介いただいたenglish.com.……コメントは私には意味不明のものが多かったです。にしてもおちゃめなサイトですね……そういえば、日本のどっかの街角で、ワンカップ大関の空瓶がおいてあって「すいがらはピンの中に入れてください/老人クラブ」と書いてありました。昔の人は、ブロマイドをプロマイドと言ったり、バスをパスといったり……b音がp音になる例が多かったみたいです。(ハングルとの関連を指摘する見方もあるようですが、よくわかりません)

    あと、京都の松尾大社で見た絵馬に、ビックリのものがありました。松尾大社の絵馬はおしゃもじのかたちなんですが……これに、「進級/金と女」と書いてあったんです!……正直でいいのかもしれないけれど、バチがあたりそうな……これは「ヘンな日本語」じゃないですが、「スゴイ日本語」というべきか……(この話、前に書いてますかね?わからなくなりました)。

    弁士はやっぱり日本だけの文化でしたか……これ、復活させると面白いですよね。以前に話題になった谷啓さんの『スティングレー』みたいに、TVでもやろうと思えばできると思います。……最近DVDの特典で、監督さんなんかが映画を見ながらおしゃべりするのがありますが、ああいうふうで、映画は無声にして「弁士」がいろいろ勝手な「語り」をつけるのも面白いかも……。『ラグタイム』は未見ですが、テロのお話だったんですか!……いちど探してみます。

    『フルメタル・ジャケット』は、またありませんでした。もう一ヶ月以上も戻ってきてない気がします。もしかしたら、中身がどっかいっちゃって、ケースだけになってるのかもしれません……このレンタル屋さんでは『となりの山田くん』もそうで、2本置いてあるんですが、2本とも、もう数ヶ月も中身がない状態……ちょっと管理に問題あるかも……とも思います。一度別のお店に行ってみようと思います。

    アメリカが最初に占領したアジアの国が日本だった……これは、おそらく、終戦の御前会議の結論が違ってたら、かなり悲惨なことになってたかもしれない……とは思います。まあ、歴史にイフはないのでわかりませんが……米軍は、本土決戦前提であれだけの爆撃をやったんでしょうから、ちょっと拍子抜け……ということはあったのかもしれませんね。ベトナムは、やっぱり当時の国際情勢とか国際世論とか国内世論とか反戦気分とか、いろいろあったんでしょうが……

    「セラヴィ」……となると、やっぱりデュシャンの「ローズ・セラヴィ」を思い出してしまいます。ポワソン・ポニョ・マハラジャのシャチホコダンス……なぜか、名古屋を舞台にしたインド映画があって、とってもヘンでした。うーん、だんだん世界が狂っていくような……。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2010/10/27 13:10 by aakurara

    オーラIKAさん、毛足る? エストイ ジカンタラン、カネタラン。・・・失礼しました。

    セラヴィといえば、ふらんすの街角で実際に耳にした会話。
    青年A:サリュー、サヴァ?
    青年B:ノン
    青年A:セラヴィ?
    青年B:ノン
    ホントにこう言ってました。

    ローズ・セラヴィってマン・レイの写真のモデルなんですね。実はマルセルさん。うーん、こんなクィアなことをやっていらしたとは。ロバート・ウィルソンという演出家がジョニー・デップをモデルにして「ローズ・セラヴィ」をやっているというのもありました↓(ちょっと下の方にスクロールしてください。途中、ややグロテスクな作品もあります)
    <リンクURL>

    「コメモノ談義」はよくよく読みなおすと、戦時中のお話、でしたね。失礼しました。それならネタとして盗んでも大丈夫そうですね。ただ、やっぱり誰も気づかないかも・・・

    そして、適当にねつ造した名前から長谷川りん次郎さんが・・・ 不思議な絵ですねー。「現実は精巧に造られた夢である」。この言葉も不思議です。猫さんの絵、かわいいし。でも、こういう画家さんてどうやって生計を立ててらっしゃるのか、そのへんも不思議です。すごく寡作だったと書いてありますし。あ、でも現代美術家の方々も、作品を売ることはさいしょから考えていらっしゃらないということを、前にIKAさんがお書きになってましたよね。やはり、制作とはべつに収入源をおもちなのでせうか。

    IKAさんかつてご愛用のペンはrotringでしたか。私はだいたい200円以下のペンばかりなので買ったことはないですが、文具店ではよく目にします。けっこう筆圧がつよめで、パイロットのハイテックでもペン先を曲げたりしちゃうので、私にはもったいない・・・ ドイツのメーカーだと、ステッドラーは何本かもっていますが、デザインがいかにもドイツっぽくてけっこう好きです。コピックマルチライナーの0.03mmというのはすごいですね。こんど文具店で試し書きしてみよう(買わないのか!)。うんうん、コピックはアテネフランセの吉阪隆正さんがイメージとしては近いかもしれません。

    コルビジェのモデュロール。なるほど妄想系っぽいです。建築ってもしかすると、建物としてできてしまうと「ブツ」になりますが構想段階では「観念」なのであって、建築家のなかには「ブツ」としての建築よりも「観念」としてのそれに魅かれるタイプの方もいるのかもしれないなあ、とまたこれもバカブン妄想なのですが、思いました。

    ちょっとそれで思いだしたのが、ハインリッヒ・ハイネがどこかで「音楽は観念と現象のあいだにあり、精神と物質とのあいだにあって両者を仲介するものである」というようなことを言っているらしく、そういう意味では、音楽と建築というのはどこか似ているのかもしれない、という気もします。ドイツ語原文の引用らしきものを見つけたので、写しておきます。

    Musik steht zwischen Gedanken und Erscheinung; als dammernde Vermittlerin steht sie zwischen Geist und Materie; sie ist beiden verwandt und doch von beiden verschieden: sie ist Geist, aber Geist, welcher eines Zeitmasses bedarf; sie ist Materie, aber Materie, die des Raumes entbehren kann.
    ― Heinrich Heine

    ヴィンセントバックとスタインウェイでお感じになる因縁というのは、グールドさんつながりですか。(これくらいしか推測できないんですが。)ですが、そうするとスタインウェイは、スタインウェイ・ミュージカル・インスツルメンツとしてはピアノ以外にもいろんな楽器を扱っているということなんですね。ふーむ。こうしてインコーポレーション化してなるべく大きな「船」でやっていかないと、楽器商売はなかなか厳しいのでしょうね。

    「すいがらはピンの中に」・・・これは江戸っ子がしゃべると「ひ」が「し」になるのとは・・・ちょっとちがいますかね。バスター・キートンは「パスター・キートン」、バブルは「パプル」になるのか。「進級/金と女」の絵馬のお話は、はじめてです。うーんすごいですね。阿佐田哲也の小説に出てくる人物みたいです。進級というからには学生さんなのでしょうが。でも、進級も金も女もというのは欲張りかなあ。

    弁士は、いまでもやっている方は数名いらっしゃるんですよ。澤登翠さんとか、佐々木亜希子さんとか、山崎バニラさんとか。DVDでも、弁士の語りつきというのが出ていることもあるみたいです。私はライブでもDVDでも活弁つきの無声映画は未体験なのですが。欧米の無声映画を活弁つきでみるのは個人的にあまり興味がないのですけど、日本の無声映画には合いそうだなあ、と思います。ちょっと「紙芝居」にも通じるフンイキになるのじゃないかな、と。

    欧米の映画の場合、むかしは「字幕スーパー」というのがなかったので、インタータイトル(せりふなどを記した画像のことを、こういうみたいです)の内容を口頭で解説しなくてはならないという事情があって、どうせ解説するなら「芸」として、ということになっていったのだと思われます。ではたとえばアメリカ映画をヨーロッパで上映する場合はどうしていたかというと、欧米諸国どうしでは、それぞれの国語のインタータイトルが入った版が上映されてたようです。

    『フル金属上着』はここでもいま視聴可です。
    <リンクURL>
    『メンフィス鈴』もあったんですが、もう配信終了しちゃったみたいです。

    インド映画は、さいきんスイスあたりで撮影するのが流行り、とか新聞で読んだ気がしますが名古屋が舞台のもあるんですねえ。古代インドの『リグ・ヴェーダ』にはアパーム・ナパートという水の神さまが出てくるらしいですが、「水から発した火神」とも言われるみたいです。
    <リンクURL>
    火の神さまにはアグニというのがいるそうなんですが、この神さまも水から生まれて水のなかに住んでいるのだとか。色は赤くて、手が2本あるいは7本、頭が2つに足が3本。
    <リンクURL>
    ポニョが赤いのも、実は火神の要素もあるため、なんでしょうか。ということでムリヤリ戻りました。

  • Re: 森の神が死んだあと ネタバレ

    2010/10/28 12:51 by IKA

    aakuraraさん、こんにちは。

    私はもう、ケタランパサランで……(なんのことかわかりません。でも、当時に比べてかなり薄くなった……グールドさんほどではないですが)

    左流 娑婆?(よう、しゃばってる?)
    如死 (死んでる)
    生等美?(せらびってるかい?)
    如死 (死んでる)
    ……こんな感じになるんでしょうか?
    (いかんとろぷす・いいかげんしす訳)

    ジョニデ・セラヴィの御写真は前に見たことがありますが……微妙ですね……。
    榎忠さんが、「バー・ローズ・チュー」をやっておられます(↓スクロール4つめ)。
    <リンクURL>

    現代美術家の収入源は、私の知ってる方々の範囲では、学校の先生(美大とか高校の美術とかデッサン教室)がいちばん多いみたいですね。あと、自分で画塾をやってらっしゃる方も多いですが、これだけでは食べてけないので、ほかのアルバイトも。アルバイトはもういろんなのがあって千差万別です。正社員の方もけっこう多くて、やっぱり勤め先はいろいろです。法律事務所の職員さんとか榎忠さんみたいな現場の技術屋さんとか。自営業でいろんな仕事をしておられる方も……。専業主婦の方もむろんおられます。

    りん次郎さんの生計手段はわかりませんが、「アダンの画家」田中一村さん(この人は日本画)は、奄美大島で染色の仕事(アルバイト)をやりながら絵を描き続けておられたようです。死後、大傑作が大量に「発見」されてNHKで放映され、一躍有名になりましたが、生前はほぼ無名でした(若いころは少しは知られていた)。↓
    <リンクURL>

    あと、小堀四郎さんという油絵作家がおられるのですが、この人の奥様は森鴎外の娘さん(次女杏奴さん)で、「私が稼ぐので、あなたは絵に専念してください」ということで、四郎さんは美大の先生の口も断って作家活動だけにうちこめた……これは稀有の例ですね。
    (この人の作品は、私は大好きなんですが、ネットの中ではいい画像がみつかりませんでした。)

    Rotringは、やはり筆圧の強い方には向かないようです。万年筆だと筆圧に応じて撓んでくれて、それがまた書き心地になったりしますが、ロットリングはそういう点ではまったく融通がきかず、強く書いたら最後……「患部」のようにデリケートな取り扱いを要求してきます。それと、指先が真っ黒になるのもおすすめできない理由……インクがわずかに漏れるんですね。まあ、製品としては完成品とはいえないものですが、これしかなかったのでみなさん使っておられたようです。PC内で版下でもイラストでも描けるようになって、あっという間に見放された感がありますね。

    アンビルトの建築家は、なんかそれに固まってしまって、たまに依頼がきて実際の建築を造る機会があってもどうもうまくいかないようです。前に書いたかもしれませんが、私の知り合いにもそういう人がいて、彼が珍しく住宅の設計をやったんですが……自分で「やったぜ、完成!」と思って施主に見せると、施主から「家相」についてあれやこれやと注文を受けてアタマにきた。で、彼がつぶやいた一言が……
    「施主さえいなけりゃあなあ……」

    これって、実際にあったことです。この一言には耳を疑いました。うーん、こりゃあアンビルトになるはずだわ……。でも、丹下さんクラスになると、逆に施主を黙らせちゃうようですね。彼の設計した「東京マリアカテドラル」は、なんと雨漏りがするという話がありました……。「建築」は、建築家にとっては、たぶんどこまで行っても「純粋観念」なのですね。構造計算以後の、実際に建物を建てていくプロセスとは微妙につながりのないところでやらないと、その職分がうまく果たせないものなのか……とさえ思っちゃいます。

    ハイネの引用は、コレですね。↓
    「音楽は不思議なものだ。ひとつの奇跡といってもいい
    思考と現象の間、精神と物体の間に介在する
    あいまいな仲介者のようだ
    そして仲介するそれぞれのものに似ているし、異なってもいる
    時間の中でしか姿を現すことのできない精神
    空間を必要としない物体である」

    この和訳は以下のサイトにあったものです。(スクロールの最後の方です)
    <リンクURL>

    でも、この訳文と原文は、合わないところもある……
    書いていただいた原文を、もういちど掲げてみます。
    Musik steht zwischen Gedanken und Erscheinung; als dammernde Vermittlerin steht sie zwischen Geist und Materie; sie ist beiden verwandt und doch von beiden verschieden: sie ist Geist, aber Geist, welcher eines Zeitmasses bedarf; sie ist Materie, aber Materie, die des Raumes entbehren kann.
    ― Heinrich Heine
    微妙に違っているのは、訳文の「不思議なものだ。ひとつの奇跡といってもいい」という部分が原文にないように見えることと、あと、原文のdammerndeは、たぶんaのウムラウトが脱落してるんではないでしょうか。それから、和訳の「時間の中でしか姿を現すことのできない精神 空間を必要としない物体である」も、原文とは微妙にずれているような気はしますが。

    引用訳はdammernde Vermittlerinを「あいまいな仲介者」としていますが、ここは「精神と物質をグラデーションでつなげていくもの」というような意味かと思います。あと、原文のZeitmasses(Zeitmass)と言う言葉は想像力を刺激されますね。これはまさに「時のモナド」じゃないですか!
    「時のモナド」に律せられた精神……これはまさに音楽の特質ですね。

    これに対し、「音楽は、物質(質料)でありながら、空間を必要としない」という部分は、ちょっとどうなんだろう……と。単旋律という基本形だとたしかに「空間がいらない」というのは言えるかもと思うのですが、声部が複数になって重なってくると、それはまさに一種の「空間感覚」のような気もします。ようするに、楽譜で現わした場合、横方向は「時間」になり、縦方向は「空間」といってもいいような……。

    幽酎舞で見つけたんですが↓……この感覚は、まさに空間……
    <リンクURL>
    <リンクURL>

    これは、もしかしたらハイネが、ポリフォニーのような「構築的」な音楽は念頭においていなかったせいかも……とも思います(もろに19世紀の人なので)。
    そういう点で、ポリフォニックな音楽って、まさに建築的ですよね。純粋建築と音楽というのは、おっしゃるようによく似ているのかもしれません。演奏された音楽、建てられた建築……これらはいずれも現象界のものだけれど、演奏される前の音楽、建てられる前の建築……こういうものはやっぱり純粋に「精神」の世界にあるもの……そして、「精神」と「物質」を結ぶもの(フェアミットレリン)が、「楽譜」であり「図面」なのだと……。

    なんか、別スレの、「頭」と「手」を結ぶもの、それは「心」……を思い出してしまいました。いずれにせよ、音楽家にとっての楽譜、建築家にとっての図面は、精神と物質を媒介する焦点に位置していて、こっちがわとむこうがわを結ぶ不思議なドアみたいな存在……バッハの『フーガの技法』が一時期、演奏を意図したものではなく、研究書に類するもの……と考えられていたことが思い出されます。これって、まさに音楽のアンビルト……(でも、実際には演奏のために書かれたものでもあったのですが……)

    で、むりやり『ポニョ』に戻りますと、アニメーションの場合は、「楽譜」とか「図面」に相当するものは、おそらくは「絵コンテ」になるんだと思います。宮崎さんは、絵コンテまで自分でつくられるそうですが、アニメ作家にはそういう方は多いのでしょうね(よくしりませんが)。

    私は(この件は、前にも書いたと思いますが)、宮崎さんが、『ポニョ』のイメージを集大成した「一枚のイメージボード」をつくるために四苦八苦しておられる様子を紹介したテレビ番組で、おおいに感じるところがありました。この「一枚のイメージボード」は「絵コンテの絵コンテ」で、まさに「精神」と「物質」が交差するその焦点のところに現われる「仲介者」だったのですね。……それは、ポニョが「おさかなみ」に乗って怒濤の追撃……の場面を正面から描いたものでした。

    この、たった一枚の絵……これが、宮崎さんの頭にあって、まだ「かたちをとらざるもの」と、あの実際に映写された作品『崖の上のポニョ』をつなぐ唯一の窓……ここから、すべてはあふれ出し、たくさんの人がかかわってこの作品になっていったわけです。……それを考えると、人間の精神って、とても不思議だと思います。バッハの、あの巨大な『フーガの技法』も、いまだに建築が続いている「サグラダ・ファミリア」も……もとは、一人の人間の「精神」の中に胚胎し、育っていって、やがてかたちを得て、この世界に姿を現わす……。ホント、人間って、不思議ないきものだなあ……と思います。クラトゥさんが考え直したのもわかるような気が……。

    で、ヴィンセントバックですが(急にお話が日常に戻ります)、この名前をはじめて見たのは、実はトランペットのマウスピースだったんですね。なので、このメーカーはずっとマウスピースのメーカーだと思ってたんですが、実は管楽器メーカーでした(主力商品はマウスピースだったらしいですが)。

    このメーカーとスタインウェイは、買収関係というだけで、他の因縁はないと思います。ちょっと私の書き方がおかしかったのかもしれませんが、グールドさんは無関係で……ヴィンセントバックの後半分を、ずっと「バッハ」と思ってたら、うちの父が「これはバックと読む」と教えてくれて驚きました。なるほど、アメリカでは「BACH」が「バック」になるのか……と。うーん、その印象が強かったというだけの話です。

    「進級/金と女」……たしかに阿佐田哲也さんの小説ばりの……。あと、滋賀県の神社で、「武運長久」という絵馬が奉納してあってびっくりしました。いったいいつの時代の人じゃーと。でも、よく見ると、奉納者は韓国の人でした。そうか、韓国は今も徴兵制なんだ……と。ところで、今も弁士さんがおられるとはしりませんでした。なるほど、インタータイトルというのですね。外国語のこれを見せられてもなんのことかわからないので弁士が登場……は納得できます。日本では、日本語のインタータイトルをつくるかわりに、弁士にしゃべらせちゃったわけですか……合理的というのか日本的というのか……。

    『振目樽上衣』みました!(別のレンタル店でみつけました)……えーと、感想は、そっちの方のレビューに書くことにいたします。うーん、でも、なかなかすごかったです。さすがQちゃん……。

    だいぶ長くなってしまいましたので、とりあえずこのあたりで……インドの神様については、また改めて……。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2010/10/28 15:40 by IKA

    返信の続きです。

    アグニが水から生まれたとは……これは知りませんでした。面白いですね。
    ご紹介頂いたサイトに「ナフサ」のことも出ていました。なるほど、そういうイメージならなんとなくわかります。

    アグニのページの下のほうに、「Classical Elements」というのがあって、これも面白いですね。
    ちなみに、ギリシアの5つのエレメントを正多角形に対応させると
    地……正6面体(正方形6枚)
    水……正20面体(正三角形20枚)
    火……正4面体(正三角形4枚)
    風(空気)……正8面体(正三角形8枚)
    エーテル……正12面体(正五角形12枚)
    となるようですが、水を表す正20面体と火を表す正4面体は、どちらも正三角形からできています。
    なんとなく、このあたりも関係しているようないないような……

  • Re: 森の神が死んだあと

    2010/11/3 21:04 by aakurara

    IKAさん、こんばんは。

    娑婆? 生等美? いいですねえ、名訳です! 榎忠さんの「ローズ・チュー」というのも、そうかローズ・セラヴィへのトリビュートだったのですね、なるほど。クィーンのフレディ・マーキュリーも「I Want to Break Free」のプロモーションビデオでヒゲヅラのまんま女装というのやってましたが、もしかしたらこれも・・・? フレディさん、アートカレッジ出だしありえるかもです。同じPVでニジンスキーのマネもやってるんですが、そのときはなぜかヒゲ剃ってます。
    <リンクURL>

    あっ、ちょっと関係ないのですが、久しぶりにクィーンのPVをいろいろ見ていたら、「Radio Ga Ga」という曲で一部使われている映像が『メトロポリス』からのものでした。知らなかったー(すいません、これは独り言です)。

    ですが、ろけんろーるの音というのは、だいぶ「観念」より「物質」に近いように思えます。で、ハイネの引用ですが、「音楽は不思議なものだ。ひとつの奇跡といってもいい」の部分は、ドイツ語引用のほうの直前にあって、たまたま引用した人が入れなかったのだろうと思います。この↓英語訳の引用では、そこの部分も入ってます。
    Music is a strange thing. I would almost say it is a miracle. For it stands halfway between thought and phenomenon, between spirit and matter, a sort of nebulous mediator, like and unlike each of the things it mediates - spirit that requires manifestation in time and matter that can do without space. . . . We do not know what music is.
    以下のサイトに引用されていました。
    <リンクURL>

    ドイツ語のほうの「dammernde」の「a」は、おっしゃるようにウムラウトつきでした。「ae」と置きかえるとよかったですね。この語は、英語だと「nebulous」になっていて、うーんどういうことだらうと思っていたのですが、グラデーションみたいな感じと思えばよいわけですね。「welcher eines Zeitmasses bedarf」の部分も、英語は意訳っぽくなっているんでしょうか。Zeitmassは「時のモナド」。なるほど。となると、直訳ふうにすると「one that requires a mass of time」みたいな感じ??

    ハイネがこれを書いたのは1821年、らしいのですがどういう音楽を想定していたのか、気になるところですよね。たしかにポリフォニックな音楽って建築的で、空間的な感じがします。(ご紹介してくださったビジュアライザつきのバッハ、面白かったです。何声もひとりで弾きわけちゃう人の頭のなかって、もしかするとこんなふうになっているのでしょうか。このように音が時間的かつ空間的に認識できるというのも、かなりの「えっく-すたしす」状態をもたらしそうです。)他方で、19世紀的な「じゃじゃーん」系のクラシックのオーケストラなんかも、また別の意味で空間が必要、という感じもするんですよね。

    ところで有宙舞にビジュアライザつきバッハの音楽をアップしているsmalinさんの、ベートーヴェンの「大フーガ」はご覧になりましたか。これもすごく面白いです。ちょっと宇宙人ぽいと思いました。
    <リンクURL>

    人のつくるものは結局なんでも「観念」を経由するので、「物質」の領域にそれを定着させるために「図面」に類するものが必要になるのは、どの世界でも同じかもしれません。アニメの「絵コンテ」、漫画だと「ネーム」なのでしょうね。映画でも、まず「シノプシス」というのをつくるはずですし。論文なんかだと「目次」になるのか・・・。宮崎さんの「イメージボード」ではないですが、「脳内観念」を「物質」に交差させるまでに四苦八苦する、というのはとても分かるような気がします。そこの交差がうまくいっていないと、ちゃんとした「礎石」にならないんですよね、きっと。

    ギリシアの5つのエレメントと正多角形の対応のお話は、『メトロポリス』のスレでも続きを書いてくださっていますが、正4面体がもっとも軽く、次に正8面体が軽くて、正6面体は非流動、などなど、そう伺うとそれぞれの対応の必然性がよく分かりました。なるほど、これは妄想ではなくて「実体」に即したお話だと思えてきました。なんだかこうしてIKAさんとお話をしていると、大学で授業に出ていたころより、いろいろ勉強になってる気がします!(というか大学時代は、あんまり授業に出ていなかったような気も・・・)

    あと美術家の方々は、やはり創作とはべつにお仕事をされているのですね。田中一村さんの絵は、リンクしていただいたのと同じサイトで前にも拝見したような気が・・・どうしてでしょう、以前にどこかでIKAさんが紹介してくださってたのでしょうか。日本画ってやっぱり油絵とはちょっと雰囲気ちがいますね。小堀四郎さんの奥様も、あっぱれな方ですね。旦那さまがその作家活動を全面バックアップされていたという、大庭みな子さんのことなんかも思い起こされます。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2010/11/5 9:45 by IKA

    aakuraraさん、こんにちは。

    クィーンのフレディさんのPV拝見しました。まず、出だしの目覚まし時計が怖い!うーん、クィーン・ローズ・セラヴィ……なんか、はまりすぎのような気もします。フレディさんって、若死にだったんですね。みなさん団塊世代……ビートルズより一個若い世代ですね。すでに歴史となる……。ニジンスキーは『牧神の午後』ですね。うーん、ここでヒゲがあると、たぶんかなり変なのかも……。

    私は、クィーンの曲ってあんまり(というかほとんど)知らないんですが、このPVの曲を聴いてるかぎりではかなり硬い感じで、たしかに「物質」の硬さを感じます。あいまいなところのあんまりない……そういう点ではピンクフロイドなんかとは対照的に思えました。ピンクフロイドの音なんかだと、「nebulous」というのもピッタリに思えます。とくに、彼らの「meddle」というアルバムなんか、「曖昧模糊」そのものがテーマになっているような……(アタマにhを入れてください)
    ttp://player.video.search.yahoo.co.jp/video/e4deddab5a749a068f7f6a71566c03c0?p=Pink%20Floyd%20meddle&b=1&dr=&pd=&st=&s=&ma=&of=&from=srp&rkf=1&r=12

    この「エコーズ」という曲の歌詞の中に「空中に停まっているアルバトロス……」という一節があって、原語だと「motionless upon the air」とかいったと思うんですが(すみません、記憶で書いてます。まちがってたらご容赦)、これは、鳥の進む力と風がつりあって空中に停まっているように見える……精神から働きかける力と物質から受ける力の間に、つかのま停まって姿を見せ、すぐに消えてしまう音楽……うーん、こじつけですかね……なんとなく、この部分を思い出してしまいました。

    あと、もう一つ思い出したのが、『ベニスに死す』(映画)の一場面。主人公のアシェンバハと友人のアルフレッド(アルフレート)がアルプス?の山荘で、ピアノを奏でながら会話をしているシーン……ここで、アルフレッドは、さかんに「アンビギュアス」を連発します。彼にいわせると、音楽は、アンビギュアスなんだと。彼はアシェンバハ(マーラー)の曲の一節を全然違ったやり方で弾いてみせて、それを実証しようとする。アシェンバハは怒ってピアノを叩く。「音楽は、アンビギュアスじゃない!」(これも記憶で書いてます。セリフはたぶんちょっと前後してます)

    私は、マーラーの曲自体がどっちかというときわめてアンビギュアスなタイプだと思うので、このシーンにはちょっと矛盾を感じてしまったのですが……あの時代(拡大版19世紀の後のほう)には、ロマン主義が熟れすぎて、全体的に極めてアンビギュアスな表現がもてはやされていたのではないかと……。これに対してハイネの1821年というと、ベートーベンの後期、第8交響曲(1814)が書かれて、第9(1824)はまだ……後期の3つのピアノソナタが書かれる1年前……ちょうど、ロマン派の音楽の黎明期に当たるのではないでしょうか。

    ハイネの見方はむろん彼個人の見解ではあるのでしょうが、また、当時の多くの人は音楽をそのように見はじめていた時代だったのかもしれません。……この時代はちょうどヘーゲルさんの時代でもあって、彼の『法の哲学』がちょうどこの年、1921年刊行でした。彼の「弁証法」というのは、今では後のマルクスさんなんかの厚い層を通してみるのでよくわからなくなってる面もあると思いますが、出てきた当時のこのころには、案外「ambiguity」とか「nebulous」とかいう言葉がふさわしいものだったのかも……。

    えー、「出ン芽ルン」では細かいことで失礼しました。私もウムラウトの出し方がわからないので……以前に、このサイトで出し方を教えてくださった方がおられて、そのときはできるようになったんですが、もうすっかり忘れてしまいました。どのスレッドで教わったのかも忘れてます(さがせばどっかにあるはずなんですが)……JISコードかなんかで出すと文字化けするし、こまったもんですね……ドイツ人の方は、どうやってるのでせうか……。

    この言葉(dammern・aにウムラウト)は、どうも英語のdimと同根らしいのですが、もともとは、日の出に空がちょっとずつ明るくなる、あるいは日没に少しずつ暗くなっていく……そのような状態をいったものであったようです。こういうところから、「グラデーション的」というふうに思ったのですが……ambiguityやnebulousともちょっとずれる感じは受けるのですが、おおまかにいえば大体一緒なのかも……。ただ、Dammerde(aにウムラウト)と書いて、堤防用の土とか腐植土という意味をもつ単語もあるのでよくわかりません(私の簡易な辞書の限界です)。図書館に行ったときにちょっと調べてみようと思います。

    Zeitmassは、辞書でみると「拍子」という意味もあるので、音楽が主題のときにはこう訳すのが正しいのでしょうが、以前に、リズムとパルスのことが話題になったのが思い出されて、ああ、これは結局時間を区切ることを言ってるんだ……と思ったときに「時のモナド」が浮かんできました。「manifestation in time」というのはやっぱり思いっきり意訳ぽく感じますね。書いておられるように「a mass of time」の方がずっと正確のように感じます。「manifestation」は、表現する方向に着目した訳なのでしょうか……

    19世紀的な「じゃじゃーん」系のクラシックのオーケストラなんかも、また別の意味で空間が必要……これはまったくそのとおりですよね。それで、思いついて、いろんなホールがいつできたかを調べてみたんですが、面白いことがわかりました。(元はwikiです)
    ★ライプツィヒゲヴァントハウス(2代目)……1884年(第二次大戦で焼失)
    ★ベルリンフィルハーモニー(初代)……1882年(第二次大戦で焼失)
    ★ウィーン楽友協会大ホール……1870年
    ★アムステルダムコンセルトヘボウ……1888年
    ★ボストンシンフォニーホール……1900年

    ライプツィヒゲヴァントハウスの初代は、織物会館(ゲヴァントハウス)として使われてきた建物を転用したものらしく、2代目が音楽専用ホールとして建てられた最初のものになるそうです。(3代目の今の建築は1970年に完成)また、ベルリンフィルハーモニー(初代)はローラースケート場を改装したものだったとか。これも空襲で焼失したそうですが。ウィーン楽友協会大ホールとアムステルダムコンセルトヘボウは現存。ボストンシンフォニーホールも建設当時の姿で残っているそうです。収容人数は大体2000人前後で、これも共通してました。

    こういうふうに、われわれが今、「クラシックの殿堂」みたいに思っている老舗コンサートホール(私はどこも行ったことがない)の建設ラッシュが1870年から1900年の30年間だった……意外に新しいですが、これにはいろんな要素がからんでいると思います。……まずはオーケストラの肥大化。そして一つ一つの楽器の出せる音が大きくなってきたこと。さらに、たくさんの人がコンサートに来るという、「聴衆層」が成立したこと……大きくなったホールに合わせて作曲家は「大きな曲」を書き、それを演奏するためにさらにホールが巨大化する……そしてついに、マーラーの「一千人の交響曲」(1907年の第8番)みたいなものまで……。

    演奏者が1000人ってことは、端と端ではおそらく音速によるタイムラグが生じると思うのですが……指揮者から一番近い人と遠い人が同時に音を出してもズレてしまうということはなかったのか……もうこうなると、「音楽に空間?そりゃ、要るに決まってる!」なんて言われそうですね……以前に、小澤征爾さんが世界のいろんな地点での第9演奏を衛生中継で「同時指揮」したことがありましたが、あの時はなんか特殊な方法で時差を調整したみたいですが。

    smalinさんの、ベートーヴェンの「大フーガ」……いや、実に面白かったです!(これ、初めて見ました)。これってもう、完全にアート作品……それで思い出したんですが、以前にバッハの『フーガの技法』をアニメ化した作品を見たことがあります。これは、石田尚志さんという現代美術家の方がアート作品として作っておられたもので、ドローイングをちょっとずつ動かして撮ったという気の遠くなるような地道な作業でした。残念ながら動画は公開されてないみたいなんですが……
    <リンクURL>

    宮崎さんの「イメージボード」……一枚で勝負というのは、なんかかなりすごいなあ……と思います。図面なんかでも、平面図とか立面図とか、詳細図まで入れればすごくたくさんつくるのに、一枚……。そういえば、サグラダ・ファミリアはガウディのつくった「模型」に準拠して造られてるそうで、これも似てますよね。「核は一つ」……これは、なんか、納得できます。

    私は昔から、映画を見るたびに「この映画の<イメージの核>はなんだろう……」と考えるクセがあったんですが、宮崎さんのイメージボードやガウディの模型は、まさにこの「イメージの核」そのものだと思いました……その作品を「作りたい」と思った根元の心……これは、作品の「種」であり、大樹も大建築も、この一個の種から……しかし、それを見つけるまではホントにタイヘン……でも、ここがしっかりしてる作品は、結局永く残って力を持つものになるような気がします。

    えー、私も学生時代は不勉強でした。なんか生意気ざかりで、先生の言われることをまじめに聞かなかったのがたたって……でも、今後悔してもはじまりませんね。……私も、ここでお話させていただいて、大いに勉強になってます。英文なんかもたまに仕事で必要になる書類を読むくらいでしたが、いろいろ面白いサイトを紹介して頂いて、辞書を引き引き読んでると、やっぱり世界が広がっていくような気がします。特に、wikiの英語版の充実ぶりには改めて驚きました。同じ項目でも日本語版の何倍もの情報量が載っているものもあって、英語ネイティヴの人は得だなあ……と。(まあ、がんばって読めばいいのでしょうが……)

    多面体については、もっといろいろ面白いことがあると思うのですが、この分野、専門の研究者の方が意外に少ないような気がします……数学分野だと「多様体」とかいうかなり拡張された世界になって、私には無縁の世界だし、建築なんかだとやっぱり建物がいつもからんでくるし……絵画やデザイン分野でも意外に少ないんですよね。……なんか、どこかオカルトっぽい雰囲気があるので、マジメな?研究者の方はあんまりとりあげないのかもしれませんが……実は、けっこう面白い世界ではないかと思います。

    田中一村さんの絵は、前に雨天さんのスレッドでご紹介させてもらったような記憶があります。最近また大規模な回顧展が開かれたようですが……日本画って不思議ですよね。日本にしかない……(まあ、あたりまえですが)。大庭みな子さんの著書は読んだことがないのですが、旦那さまが全面バックアップとは幸せな……まあ、作品にそれだけの力があったということでしょうね。現代美術家でも、仕事の方はご主人まかせで自身は作家活動に専念……という方はけっこう多いみたいです。小堀四郎さんのような「逆のケース」はたぶん希な方だと思います。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2010/11/10 19:56 by aakurara

    IKAさん、こんにちは。なんか今年の秋は花粉症がひどくて、いまゴミ箱がティッシュだらけです。鼻のかみすぎで頭も曖昧模糊としております・・・

    ピンク・フロイドの「エコーズ」ききました。うん、nebulousな感じですね。「nebulous」という語をオクスフォードの辞書で調べると、もとはフランス語のnebuleux[ひとつめの e に右上がりのアクサン]、ラテン語のnebulosus (「雲状の、かすみ状の」という意味)からきていて、19世紀前半から「曖昧な、不明確な(vague or ill-defined)」という意味でも使われるようになったのだとか。

    19世紀で「アンビギュイティ」というと、私はハーマン・メルヴィルの『ピエール』(1852年)という小説を思い浮かべます。なぜなら副題がそのまんま『or, The Ambiguities』。なんか、これは当時ロマンチックな家庭小説が流行っていたのでメルヴィルさんも「いっちょそんなのを書いて儲けておくか」ということで書きはじめたらしいのですが、だんだん哲学的なメルヴィル節のめちゃくちゃワケのワカラン話になっていって、結局ぜんぜん売れなかったというモノなんですが、「ロマン主義が熟れすぎて、全体的に極めてアンビギュアスな表現がもてはやされていた」というふうにIKAさんがおっしゃる、拡大版19世紀の後のほうの状況を、案外先取りしていたのかもしれません。

    この小説、フランスのレオス・カラックス監督で『Pola X』(タイトルのフランス語訳「Pierre, ou les ambiguites[guitesの i にウムラウト、e に右上がりアクサン]」より)という映画にもなっていて、原作よりさらに(おふらんすらしく)アンビギュアスな感じの映画になっていましたが、その中で、ちょっとピンク・フロイドっぽいというか、前衛的なプログレっぽい感じの音楽が使われていたような気がします(なんか、ムリヤリ話をつなげてみました)。ちょっと確認してみたら、ここ(映画生活)での評価、ズタボロですねこの映画。21世紀の人にもダメなんかオレの書いた話orzと、天国でメルヴィルさんがガックリしているかも。

    『ピエール』の話をしつこく続けますと、この小説でプローティナス・プリンリモンなる人物によって書かれた哲学パンフレットというのがちょっと出てくるのですが、なんか天の(=神の)理念(「標準時計/クロノメーター」と呼ばれます)と、人間世界の営みを律する法則(「時差修整時計/地方時計」と呼ばれます)とのちがいを説いた内容で、うーん、これはもしかすると、この頃のドイツ哲学(あるいはドイツ哲学かぶれの知識人とか?)のパロディなのかもという気もしてきました・・・ 一部引用してみます。

    「以上を要約すれば、本講で述べし教えの骨子は左のごとし――一つ、地上の(時差修整時計的)営みにて、人間は天国的(標準時間的)理念によって規制されてはならぬということ。一つ、人間は日常の一般幸福を追求せんとのただの本能に駆られ、ややともすればある種の小さき自己放棄をも辞さぬことありとはいうべけれど、さらばというて、他の命、他の名分、または他の思想のため、完全かつは無条件の自己犠牲をなさんと夢にも思うべからず。(中略)さらば、善のための便宜主義、これこそが人間衆生にとっては、慕うべく、成就しうべき至高の、地上的最勝義とぞ見ゆる。事実、創造主が人類のために意図せられたる唯一無二の地上的最勝義もこれであった。」
    (国書刊行会の坂下昇訳です)

    このパンフレットの内容について、「なんとなく一般的な、ぼんやりとしたきざしは引き出せるように見えるのだが、中心の思想が、明確化を拒否している」なんてことも書かれていて、ひょっとするとIKAさんがおっしゃるように、ヘーゲルさんの「弁証法」も、出てきた当時はそんなふうに受けとられていたかもしれませんね。(あとでマルクスさんが、そこに「階級」という明確な中心を置いたわけですが。)あと、いまふと思ったのですが、この小説、押井さん監督でアニメ映画にしたら、けっこうハマるかも・・・

    「dammern[a にウムラウト]」は「dim」と同根、ということは、「cloud」とか「mist」が語源の「nebulous」とは、やはりちょっとずれるような感じはしますね。まさに前者は「グラデーション」、後者は「そのものの境界がはっきりしない(ill-defined)」という感じ。ハイネが言うように、音楽は「dammern[a にウムラウト]」のほうがピッタリくる気がします。「ambiguous」のほうは、ラテン語の「ambiguus」(doubtful の意)が語源になっているようですが、こちらはなんというか、もともと観念的な語なんですね。

    コンサートホールのできた年、ホントですねけっこう新しいんですねえ。みんな19世紀のだいぶあとのほうではないですか。ベルリンフィルハーモニー初代が、ローラースケート場を改装したものだったというのがけっこう衝撃です。コンサートホールよりローラースケートのほうが古いのか・・・。マーラーの交響曲第8番、これも優中分に一部あったのできいてみました。「音速によるタイムラグ」のせいだと思うのですが、なんか全体的に「ぶよぶよ」しているという印象を受けました。マーラーの頭の中では、一千人の出す音がかちっとシンクロして壮大な構造をもつ交響曲になるはずだったんでしょうか。でも、現象としての「音」って、空間的に広げていくと「ぶよぶよ」してくるんですね。空気を介するわけなので、考えてみると当然なのですが。

    smalinさんの、視覚化されたベートーヴェンの『大フーガ』美しいですよね。この方の「To Do List」にバッハのゴルトベルクなんかも入っているので、いずれこれもアップされるかも?しれません。
    <リンクURL>
    石田尚志さんの『フーガの技法』のアニメーションも見てみたいですね。なんかストローブ=ユイレ監督の『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』と併映されたこともあるようですが、さいきんこのストローブ=ユイレという監督の映画をはじめて見て、このアンナさんの映画も気になっていたんですよね。

    多面体の研究・・・数学とか建築とかではない分野でやるとすると、やっぱり美学とかになるんでしょうか。たしかに、ひとつ間違うとオカルト方面に行きそうですが、それこそ「研究の核」がしっかりしていて、ちゃんと「精神の手」で多面体を扱える人がやれば、けっこう面白くなりそうですよね。古代以来の幾何学とかをそうとうがっちり勉強していないと難しいのかもしれませんけど。「多様体」のwikiの項目をのぞいてみましたが、これはもうサッパリなにがなにやら・・・

    こんな動画がありました。透過性のある素材でできた球体の中と外をひっくり返す(ただし、面を折り曲げたり一回転以上ねじったりしてはいけない)数学的な方法、なんだそうです。パート2まで見ているとけっこう長いんですが、数学の人というのは、こういうこともやっているのかあと。
    <リンクURL>
    あと、グミと爪楊枝で正多面体をつくるというのもありました。
    <リンクURL>
    なんか、かわいいです。正多面体って「platonic solid」というんですね。(正4面体、正6面体、正8面体、正12面体、正20面体の5種類だけを指すらしいです。)

    映画の「イメージの核」というのは、レビューでも時々お書きになってますよね。映画を見ていてその「核」を探り当てるのも、なかなか大変そうです。うーん、私もちょっと「核」を意識して映画を見るようにしてみようかな。ええと、今回もなんかとりとめのないレスになってしまいましたが、まだ鼻がこわれた水道状態なので、このへんで・・・

  • Re: 森の神が死んだあと

    2010/11/10 20:04 by aakurara

    あとマックだと、ウムラウトなら文字を打つ前に「option」と「u」を同時に押す、右上がりのアクサンなら「option」と「e」というのが分かったのですが、「ä」「é」のように、やっぱり文字化けするみたいですね。

  • Re: 森の神が死んだあと ネタバレ

    2010/11/12 13:07 by IKA

    aakuraraさん、こんにちは。

    花粉症ですか……秋も……というのは大変ですね。私は初夏だけなのですが……(どうもイネ科らしいです)ただ、私も、例の夏風邪以来、ものの味がよくわからない状態が続いていて困っています。お医者さんによると、ウィルスが嗅覚神経に入っちゃったんではないか……ということですが……ようするに、ものの味って、ほとんどが臭いだったんですね。そのことがよくわかりました。……「海軍カレー」(なつかしい)も味が戻ってから食べようと思ってとってあるんですが、この状態ではいつのことになりますやら……。

    Nebulousというと、SF好きの私はどうしても『ネビュラ賞』のことを思い出してしまうのですが……昔の本なんかだと『星雲賞』なんて書いてあるのもありました。なるほどマンマに訳したのか……。この賞は、SFの芥川賞?みたいなもんだそうで(といってもアメリカですが)、もう一つデカイSFの賞である『ヒューゴー賞』と双璧なんだそうです。この賞の長編小説部門を見ると、フランク・ハーバート(デューン)、S・R・ディレニー(アルジャノンに花束を)、K・ル=グィン(ゲド戦記)、アシモフ、クラーク、シルヴァーヴァーグなど、錚々たるお名前が……。

    Nebulousは、今の語感だと、星雲のまわりがぼやけて宇宙空間にとけこんでいく感じ……なのでしょうね。「曖昧な」という意味が19世紀前半から……というのは意外に新しい気もしますが、まさに19世紀的な転用……きっと、使いはじめた人は「ちょっとシャレてみようかな」と思ったのが受けちゃって流行になり、いつのまにか母屋をのっとって……という感じだったんじゃないでしょうか。(語源が雲とかかすみとかだったら、「星雲」になった時点でいっぺん乗っ取られている?)

    ちなみに、ドイツ語にもnebulos(形容詞。oは長母音でウムラウトが入る場合もあり)という言葉があるみたいで(私の辞書によれば)、意味は「霧のある、曇った、陰鬱な」が第1義で、第2義は「もうろうとした、あいまいな、不機嫌な」ということだそうです。この言葉はラテン語由来だそうですが、もう一つNebelという単語(男性名詞)があって、こちらはゲルマン語由来で、第1義が「霧、雲霧、もや、かすみ」、第2義が「もうろう、あいまい、不分明、疑惑、不安」、第3義が「煙幕(軍事用語)」、第4義が「星雲」となってました。

    英語のnebulousに対応するのはnebulosのように思えますが(語形とラテン語由来という点から)ドイツ語で一般的に使われる頻度が多いのはゲルマン語由来のNebelの方じゃないかと思います(派生語も多い)。では、この2つの言葉nebulosとNebelの関係は……となると、そこは今んとこネビュラスです。図書館に行ったときに調べてみようと思ってます。……そういえば、「デンメルン」をこの間図書館で調べてみたのですが、あんまり時間がなかったので私の辞書でわかる以上のことは調べきれませんでした。これも今度行ったときに……。(あいまいな語は結局あいまいなままに……なっちゃうかもしれませんが)

    なお、いろいろ見ていたら、変な?サイトがありました。どういうわけか、われわれの話題によく出てきそうな単語が一杯載っかってます。件のNebelもありました(上から4分の1くらいのところに)。……ただ、サイトの管理者の方も断っておられますように、あんまり厳密なものではないみたいです。まあ、参考程度ということで……(この単語集、ゲームとかつくる人にはかなり使えそうな気がします)
    <リンクURL>

    言葉って、面白いですよね。日常なにげなく使っている言葉でも、その奥には何千年にもわたる変遷があったりして……この言葉を今まで使ってきた、それこそ数知れない人の歴史が積み重なってる……と思うと、なんでもない言葉でも急に「世界遺産」みたいな気分になってきます。でも、「遺産」じゃなくて今も生きていて、どんどん変化していく……例えは悪いけど、まるでウィルスみたいです(人にとりついて増殖する)。ラテン語やギリシア語は「死語」だけれど、その面影は今も生きていて、どんどん未来に受け渡されていくわけですね(ウィルスの影……シャドウィルス……造語でした)。

    それと、これもこじつけぽいですが、言葉って、意味そのものがnebulousだなあ……と思います。「主たる意味群」みたいなのが中核にあって、そこは密度が濃いけれど、周辺にさまざまな「意味群」をまとわせながら暗闇に溶け込んでいます。ときどきだれかがオシャレで使った「意味」が拡大されて、これまで中心に座っていた「意味」を押しのけてしまう場合もある……

    そういえば、この間、ある年配の方と話していて、「すごい」という言葉が話題になりました。日本語の「すごい」は漢字の「凄し」みたいな意味が昔は主体で、あんまり肯定的には使われなかったそうです。その方は、今でもこの言葉が肯定的に使われているのを聞いたり読んだりすると抵抗感を覚えるんだそうです。(「すごい」でそうなら、「スゲエ」とかどうなるんだろう……と思ってしまいました)

    メルヴィルの小説は、有名な『白鯨』しか読んだことがないのですが、ご紹介いただいた『ピエール』は面白そうですね。19世紀半ばというともう完全にロマン主義の時代ですが、「熟れすぎ」にはあと半世紀くらい……という微妙な?ところでしょうか。……映画の『ポーラX』のサイトをのぞいてみましたが、45点はちとかわいそう……まあ、投稿者が少ないので点数そのままの評価にはならないのでしょうが……この映画、なんか、村々と見てみたくなりました。でも、よく行くお店はよく出るものしか置いてないのであるかどうか……。

    プローティナス・プリンリモン……不思議なお名前ですが、前半部分は哲学者のプロティノスを連想させられますね……ところが、解説と引用して頂いた内容を読んでるうちに浮かんできたのは、哲学者ではなくて生物学者の三木成夫さん……。この方のことは、私がこの作品『ポニョ』(戻ってきました!)の自分の掲示板の方にちょっと書いてますが……以前少し話題になった「25時間時計」のことを言われたのもこの方ではなかったかと思います。↓
    <リンクURL>

    プローティナス・プリンリモンさんのお考えを、三木成夫流にムリヤリにホンヤクすれば……人は、天の時計、すなわちセレスティアル・ナンバー「3」とテレスティアル・ナンバー「4」を内に含み(ここはイカ流)、その統合たる聖なる数の12の倍にあたる「24時間」という天国的(標準時間的)理念によって規制されるのではなく、人間衆生にとっては、慕うべく、成就しうべき至高の、地上的最勝義とぞ見ゆる「25時間」という地上の(時差修整時計的)営みに従うべし!……というふうに受け取られます?が……これはまた、すなわち「深夜ゾク」にとってはまたとない福音でありまして……いや、しかし、最近の私は、朝早く起き、夜早く寝る「健康優良児」になっとりますので、かつての私にとっては、ということですが、この上ない「正当化」の援護射撃でありました……。

    それでまた思い出したのが、『ツァラトゥストラ』の中にあった『世界は深い。世界は、昼が考えるよりなお深い』(ディー・ヴェルト・イスト・ティーフ・ウント・ティーファー・アルス・デア・ターク・ゲダハト)というお言葉……昼のアポロ的な明晰・判明な世界がデンメルンしていって夜の女神ニュクスがその翼を広げるころになると(こんな表現が『ベニス死す』にありました)、あたりは暗きディオニソスの世界となり、昼の光の下では「非存在」だったものたちがわらわらと……。

    ある意味、この作品『ポニョ』もまた、「時差修整時計」についての物語だったかな……と私は思うんですね。……海って、地表面よりはるかに「月」の潮汐力の影響を受けやすいから、そこでは「標準時間的理念」である「太陽の時間」は影のごとくに消え去って、「月の時間」の世界になってる……ポニョの力は満月を地球に引き寄せて、その「月の時間」を何倍も何層倍も濃縮していくので、その海の中では古代カンブリア爆発が……。

    えー……かなり強引に結びつけてしまったのかもしれませんが、「ポニョ」の本名?が「ブリュンヒルデ」だったりすることを考えると、ここに19世紀ロマン主義の爛熟の様相が投影されている……と考えてもそんなにまちがってはいないような気がします……うーん、宮崎さんには怒られちゃうかもしれませんが……。

    私がヘーゲルさんの「弁証法」について思ったのは、これは、「解説書」で読んでたものとはまったく違うんじゃないか……ということでした。……そこに見えてきたのは「運動」(べヴェーグング)であって、理論とか概念ではない……動画の世界でした。……球の表面を反転させる動画をご紹介いただきましたが、『ポニョ』の月のごとき(これ、ムリこじ(造語)です)まんまるの球の表面が……ちょうどあんな感じで、こっち側だと思ってたものがいつのまにかあっち側になり、気付かないうちに全然違うものに変わってたりする……あの動画は、一回や二回ではどうなってるのかわかりそうにありませんが、現実の社会も人の考え方も、それこそ言葉も……自分自身がその中に投げ出されて巻きこまれながらぐるぐると変わっていきます。

    これはやっぱり、フランス革命とそれに続くできごとが動因になってると思うのですが(ヘーゲルさん)、その根底には生産力の圧倒的増大と工業化の問題があるのだと思います。そして、その結果としての市民社会の発展と、またその結果としてのオーケストラの肥大化……コンサートホールの建設ラッシュ……いや、ムリこじ千人の交響曲になっちゃいましたが、ヘーゲルさんの思想の「動員力」にはそんだけのものがあるような……というより、彼の「思想」もまた「動員」されたものだったのかもしれませんが……。

    それにしても、あのアニメは不思議でした。最初は「かぼちゃみたい」と思ってたんですが、魔法の馬車にならずにきれいに裏返ってしまいました。……これを見ていて思い出したのが、昔よく読んでたガモフさんの本の表紙で、そこには「虫の食った二重のりんご」の絵がのせてありました……ガモフさんによると、2匹の虫が、互いに食べた軌跡(トンネル)をまったく交わらせることなくリンゴを食い尽くすと、そこには「二重の球」ができるんだそうです。で、虫の大きさを無限に小さくしていくと、それぞれの「球」が「球」として完成していく……。

    このあたり、たぶん位相幾何学から多様体につながっていくお話だと思うのですが……例の「フラクタル」というのもからんでくるようです……もう今から30年くらい前?のお話ですが、高校時代の同級生で数学の研究者になった人がいて、彼が「面白い論文を見つけた!」といってコピーを送ってくれたのです。

    それは、フラクタル理論をコンピュータ・グラフィックスに応用する可能性についての論文でしたが、かなりの厚さの全文が英語で、しかも数式びっしり!……で、英盲イカ文の私としては、結局図面をちらちら眺めただけでしたが……どうやら、フラクタル理論で海の表面とか地表とかいろんなものの「テクスチャ」をつくる……というもので、これはまさしく現在世界標準となってる3DCGの、その萌芽となった理論……なのでした。

    当時、彼はたしか多様体の研究をやっていたようですが、その関連で見つけた論文だったようで、私がデザインやアートに興味を持っているのを知ってて送ってくれたようです。手紙にはちょっと興奮気味に、将来コンピュータ・グラフィックスの世界は全く変わるかもしれない……というようなことが書いてありましたが、ホントにそのとおりになってしまいました……なんせ、当時は、CGといっても線画しかなくて、木の枝が分かれて伸びていく様子なんかをしこしこやってた時代……それが、今は誰もが自宅のPCでフラクタルの極地を味わえる(ソフトがあればですが)……これもやはり「工業化」なのか……いや「脱工業化」なのでしょうか……

    大コンサートホールの建設ラッシュから半世紀そこそこで、グールドさんは「コンサート・ドロップアウト」を宣言してしまいました。……今にして思えば彼のこの動きは、「音楽における空間の再否定」だったのかもしれません……彼のまなざしは、確実に今の「アイポッド」にまで届いていると思います(歩人を経由して)。……結局、「空間」は、人間の物理的身体にとって必要だったのであり、物理的身体を不要とする部分が人間において増えれば増えるほど、「空間」は必要なくなる……というか、PC内のバーチャル空間でもいいわけですね。

    PC内のバーチャル空間なら、「重力の魔」からもフリーになるので、フラーさんも活躍しほうだいでしょう……それどころか設定次第でどんな次元の空間だって可能となりますね。ただグラフィックスは難しいのでしょうが……リンク頂いた「球反転」サイトみたいな感じになるのでしょうが、あれは、人の心になにか不思議な作用を及ぼすように思います。「思念の果て」のものが「実体」をまとって現われると、ヘーゲルさんではないですが「世界精神の顕現!」と叫びたくなったり……まあ、瞑想と悟りの寒山拾得的押井世界なのかも……

    ヘーゲルさんは、19世紀初頭にベートーヴェンとともに「世界精神」を顕現させたけれど、「世界精神」は百年もつかもたずで「落日のとき」を迎えましたね……19世紀終盤から20世紀半ばにかけては(拡大版19世紀の出口では)いろんな物理学の理論が大放出されましたが、量子力学にしても相対性理論にしても、アンビギュアスにしてネビュラスな……量子力学の「確率の雲」なんか、星雲そのもののような気がします。この時代には、世界全体がデンメルンの奈落に落っこちていくような……。

    オーケストラの音も、やっぱりおっしゃるように「ぶよぶよ」してきてますね。ホント、全体が「確率の雲」のごとく……バッハがメンゲルベルクさんの『マタイ』を聞いたらどう思うかなあ……何をやってるのか、まったくわからないかもしれません。……西洋音楽は、「雑味」を排してきたはずなのに、音が空間に広がってしまって、かちっとした球であるはずのものがかぼちゃみたいになってくる……と、それが突然くるん!と裏返って、またかちっとした球に……グールドさんの「空間再否定」はそういうことだったのかもしれないけれど、その彼がまた好んでワグナーを演奏したりするから世の中わかりません。

    『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』は、私も見たくてたまらない映画なんですが、まだお目にかかってません……なんか、この映画では、グスタフ・レオンハルトさんがバッハ役をやっておられるらしいのですが、あのがりんちょ体型(失礼)のレオンハルトさんが、どうやってバッハのふくよか気味の体型になるんだらう……と……まあ、体の方はさらしでも巻いてごまかせるのかもしれませんが、顔は……

    と……体型ばっかり気になるのは自分のこともあるからなのかもしれませんが、石田尚志さんの『フーガの技法』の方は、これ単独で愛知県美術館で上映されたときに見ました。作者の石田さんも来ておられて、トークや質疑応答など楽しい時間でした。……「多面体」については、けっこう面白い資料があったと思いますので(うちの本棚のどっかに)それが見つかってからまた改めて……ということで、とりあえずここで投稿させていただきます。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2010/11/13 10:17 by IKA

    続きです。
    多面体について書こうと思ったのですが、探している本がなかなか見つかりません。……書きたかったのは、「ピタゴラスのタイル割り」についてのお話だったのですが……それで、ネットで検索してみますと、この話題について書いてあるサイトがありましたので、これをご紹介します。
    <リンクURL>

    要するに、「ピタゴラスのタイル割り」というのは「正多角形で平面を隙間なく埋めつくしていく方法」ということなんですが、これがまた、正多面体に関係してくるようなんですね。……これはまた、「アラベスク」模様にも関係するし、エッシャーの絵にも大きな関係を持ってくるもののように思います。

    正多角形や正多面体の研究分野は、メインは数学なんでしょうが、その他にもいろんな分野に関連するように思います。美学もそうでしょうし、建築やデザインや、結晶学や生物学や……あと、化学の分野でも出てきますよね……と考えていくと、これはもう、「空間整序学」みたいな新分野をつくらないと……。

    というか、本来は、これは「全体の学」なんだと私は思います。リンクで紹介頂いた「プラトン立体」も、古代ギリシアの5つのエレメントに関連させられることによって、はじめて「全体における意味」みたいなものを持ってくるわけであって、そういう「意味連関」のある状態で考えていかないと、すぐに純粋数学の理念の中にさらわれて、人の世とは隔絶された世界でどんどん暴走する……別スレで書いていただいた「宇宙時間標準時計」の中でくるくると勝手に回っている状態になってしまう……。

    多面体の研究者って、どうしてもこういう状態に陥ってしまうみたいです。「それ自身」の中をどんどん掘り下げていって、世界はものすごく複雑になるのに、今われわれが暮らしている「この世界」との関連がまったく見つからない……。それだと、なにか大事なものが抜け落ちてしまっているように、私は思うんですが……。

    とりあえず、次のようなサイトがありましたので、ご紹介だけ……。どれもスゴイです。無限の世界です……
    <リンクURL>
    <リンクURL>
    <リンクURL>

    あと、前のかきこみで「多様体」manifoldと書きましたが、多面体を数学的に拡張した概念は「多胞体」polytopeの方が正解だったみたいです。wikiで調べていただいたみたいですが、どうも失礼しました。「多様体」の方も関連がないことはないようなのですが、私もまったくわかりません……

    ウムラウトの打ち方、教えていただきありがとうございました。やってみました。私のマックの場合ですと、キーボードの設定をドイツ語にしておくと、おっしゃった方法に近いやり方で打てるみたいです(英語のままではダメでした)。(キーを同時ではなくずらせて押すとでてきました)でも、これはやっぱりアップすると化けるのでしょうね……

  • Re: 森の神が死んだあと ネタバレ

    2010/11/17 2:31 by aakurara

    IKAさん、こんばんは。

    ウィルスが嗅覚神経に・・・こわいですね。治しようはあるんでしょうか。食べ物のにおいが分からないというのは、けっこう危ないですよね。とくに夏場とか。傷みやすい食べ物には気をつけてください・・・

    ネビュラ賞ってそういえば有名な賞でしたね。ヒューゴー賞と、あとジョン・キャンベル賞が三大SF賞なんでしたっけ。「nebula」が英語の語彙になったのは17世紀なかごろ(ラテン語からの転用)で、医学用語だったらしいですよ。形容詞の「nebulous」は中英語というから、形容詞のほうが先に使われていたんですね。「単語集」のサイト、ちょっと面白いですね。なんかたまに辞書を読むのが趣味だという方がいたりしますが、なんとなく分かるような気もします。

    言葉が人にとりついて増殖する、というのはホントですね。さいきんの若者は語彙が貧困だなどとよく言われたりしますが、実は「かわいー」「やべェ」ですべて済ませられるほうが健康体?なのだったりして。言葉の意味自体がnebulousであるというのも、おっしゃるとおりで、ですから日本の受験生がよく使わされるあの「英単語集」というやつ、あれはよくないですね。周辺の暗闇にとけかかっている意味群をばっさり切り捨ててしまうので、長期的に見ると語学習得をいちじるしく妨げているような気がします。

    三木成夫氏のことは全く知りませんでしたが(25時間周期のお話は聞いたことがあって、私も基本的に夜行性なので「そうかっこれは不可抗力なのだっ」とやっぱり援護されましたが)「25時間時計」というのは、なかなかスケールの大きな理論のようですね。このあいだ図書館で岩波ジュニア文庫の一冊を立ち読みしていましたら、「働くということは朝起きることである」というようなことが書かれている本がありまして、これもけっこう納得したのですが、「月のリズム」を抑圧して「太陽のリズム」に従うのが労働すること、なのですね。うーん、でも三木さんの著作、面白そうです。こんど図書館で借りて読んでみます。

    ですが「太陽のリズム」と「月のリズム」という矛盾するふたつの周期に律せられているこの地球というのも、「通性原理と個性原理」の統合によって現出する「ペルソナ=ヒュポスタシス」というものと同じように神秘的ではありますね。なんとなく『ポニョ』のあの赤ん坊は、そうした「神秘」が原石のようにごろっと現われ出たモノ、であるような気がしてきました。まだ完全に「個」にもなりきっていなくて、「太陽のリズム」と「月のリズム」とが矛盾なく同居している状態の存在。あの場面はうららかな晴天で一見おだやかな「太陽のリズム」が支配しているようでしたが、実は「月のリズム」も同等の強さで脈打っていたのかもしれません。

    ヘーゲルさんの弁証法が「運動」であるというのは、このあたりよく知らないのですがフィヒテの影響とかなんでしょうか。えーと手持ちのブリタニカによると「自我を絶対的原理とする彼の知識学では、意識は事物 Tatsache ではなく、事行 Tathandlung であり、自由に自己自身を定立する自我は純粋活動であるとされた」・・・とのことですが、スタンフォード哲学百科事典のフィヒテの項目を拾い読みした感じでは、彼の哲学も「ペルソナ=ヒュポスタシス」の問題と深くかかわるようです。フィヒテの理論では「私が私であるという意識」は、「活動でもあり、その活動の産物でもある」そうです。該当部分の前後を抜き出しておきます。
    (リンクはこちら <リンクURL>

    In Fichte's technical terminology, the original unity of self-consciousness is to be understood as both an action and as the product of the same: as a Tathandlung or "fact/act," a unity that is presupposed by and contained within every fact and every act of empirical consciousness, though it never appears as such therein.

    うーん難しい・・・ とくに後半がややこしいですね。「あらゆる事実およびあらゆる経験的知覚の行為に前提され、またそのなかに包摂されるひとつの統一体であるが、事実・経験的知覚においてはそのようなものとしては決して現われない」・・・?

    なんか勝手にヘーゲルさんから脱線してしまいましたが、これはちょっと腰をすえて勉強してみたくなってきました。

    レオス・カラックスの『ポーラX』は、あんまりレンタルも普及していないみたいですね。少なくともツタヤではレンタルDVDがないみたいです。私がよく記憶している音楽のシーンは、友管にありました。
    <リンクURL>
    映画全体としては、小説『ピエール』の、なかなか面白い翻案だったかもしれないし、フンイキだけの映画だったかもしれないし、そのへん微妙なので私もまた観たいなあと思ったのですが、DVDが再販されてレンタル店に出回るようにならない限り、難しいかな・・・ 小説のほうは失敗作といわれているんですが、なんかいろんな「根っこ」が行き場のないままにょろにょろ生えちゃった感じで奇怪な物語ではあるのですがけっこう面白いです。

    えー、まだ多様体や多面体のお話が残っていますが、とりあえず今日はここでいったん投稿させていただきます。続きは明日にでも。ところで、なぜか急に投稿日だけじゃなくて時間も表示されるようになってますね。どんだけ夜行性なのかがバレるではないですか・・・

  • Re: 森の神が死んだあと

    2010/11/17 19:59 by aakurara

    こんばんは、昨日の続きです。

    ガモフさんって『不思議の国のトムキンス』の著者ですね。この本、どこかで知ってちょっと読んでみたいと思ったことがありますが、すっかり忘れておりました。「フラクタル」の動画も有管にいろいろありましたが、なんか見ていると『2001年』の、ボーマンが「星門」に入っていくところを思いだしました。四次元グラフィックスも、けっこういろいろありました(このあいだの「球体かぼちゃ反転」も結局四次元ですよね、たぶん)。↓この方が作成している動画が、いろいろ面白かったです。
    <リンクURL>
    <リンクURL>
    <リンクURL>
    最初のは600胞体の4Dだそうです。ふたつめのは、0Dから多次元立方体になっていってそれがまた0Dに戻るという。みっつめのは、なんか「整序されたモナド」って感じしませんか?

    多様体も多胞体も、ここで知ったばかりなんですが、とりあえずどちらも「四次元の幾何学」ってことなんですよね。で、いきなりグールドさんのお話にとびますが、彼もやっぱりコンサートホールの「三次元空間」を捨てて、「四次元」を考えていたのではないかという気がしてきました。四次元への入り口が「録音マイク」だったわけですが・・・たしかに、愛莢と妙に相性がいいんですよね。「多様体・多胞体の音楽」なのかな・・・

    ヘーゲルさんの「世界精神」も、考えてみると「四次元」ですよね。「時間」が重要なはたらきをするわけなので。ちょっと『精神現象学』を適当にひらいたところを引用すると、

    「かくて、概念を獲得した精神は、概念という生きたエーテルのなかで存在の運動を展開するので、それがすなわち『学問』である。そこでは、運動の要素は、もはや意識の特定の形態としては表現されず、意識の区別が自己へと還ってきているから、特定の概念と、その有機的で、足どりのしっかりした運動が要素となる。」
    (長谷川宏訳、546頁)

    ・・・よく分かりませんが、なんかこの内容を視覚化すると、例の球体を裏返す動画とか、上の多次元立体動画とかになるのじゃないか、という気がします。

    あと、ピタゴラスのタイル割りもご紹介していただいてありがとうございます。タイルってけっこう好きです。これは、タイル割の先のほうまで見ていると、二次元から三次元にかけてのお話みたいですね。なるほど、エッシャーの絵も二次元が三次元に移行するときに間違って四次元に入っちゃったみたいな、それが「絵」として二次元に表されている・・・というような不思議なモノですが基本はピタゴラス幾何学なのですねえ。

    でも考えてみますと、「全体の学」(エピステーメー)というものは本質的に四次元的なのであろうなあという気がします。「プラトン立体」もそうですよね、5つのエレメントに関連させることで、「世界のなりたち」を全体的に考える学問になるわけですし・・・でもその場合、しっかりした「精神の手」をもって扱わないとすぐにnebulousなものになってしまうので、いろいろ細分化して、「実体」として扱いやすい次元におとしていくというふうになっていって。まあ結果的に「工業化」にとっては、これが「賢い」やり方だったのかもしれませんが。

    多面体研究の方々のサイト、ご紹介してくださったもの、どれもスゴイですね。とくに2人目の方の研究室が・・・

    『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』は、一部だけ友管でみつけました。アップされたてのほやほやです。
    <リンクURL>
    なんかレオンハルトさんの体型をバッハの体型に合わせようとか、そういう映画じゃないみたいですね。外見の類似はどうでもよくて、なにか監督さんが考えるところの「バッハの本質」みたいなものを、伝えようとしている作品のように思われます。ちなみに雨存でDVDが3000円くらいでした。うー、ちょっと買おうかどうか迷います。あと雨存のレビューによると、このDVDにはチャプター機能がついていないそうです。「勝手に分割するんじゃネェ」という監督さんの意向らしいですが、この映画は東京理科大にあるという多面体の模型みたいに、バッハという一塊の木を精密に彫刻して作り出された「一体物」なのである、ということなのかもしれません(ムリヤリつなげちゃいました)。

  • Re: 森の神が死んだあと ネタバレ

    2010/11/18 12:07 by IKA

    aakuraraさん、こんにちは。

    えーと、長くなりそうなので、はじめから分割返信ということで……
    まず、返信第一部です。

    なんて、もったいをつけましたが、書いてる(というかこれから書く)内容はたしたことありませんので……まあ、いつものイカレスです。

    臭いの障害については、お医者さんにもらったお薬(点鼻薬)で多少は改善しているようですが、けっこう時間がかかりそうです。交通事故なんかで頭を打って神経が死んじゃうと戻らないそうですが、神経が生きてりゃ戻る可能性があるそうで……ネットなんかで見ると一年かかったという人もおられるようで、ま、長期戦です。……ただ、腐敗臭なんかが一番わからないので、その間にいたんだものを知らずに食べてポックリ……ということも充分ありえます……オソロシイです。

    でも、これでわかったことが一つありまして……本当においしいものとニセにおいしいもの?の区別がすごくよくわかるようになりました。たとえば、コンビニなんかのお弁当とかパンとかは、以前はおいしいと思えたものでも、まったく「味」がありません……結局、いろんな合成物の臭いでホントの味をごまかしてたんだな……と。全部が全部そうとは思いませんが、やっぱり安く売られている食品にはそういうものが多いのではないでしょうか。これに対して、ちゃんとした素材を使って手間をかけてつくってある食品は、やっぱりしっかりとした味があります……。あと、たとえば白米なんかはほとんど味がなくなりましたが、玄米はしっかりおいしい。……「鼻でごまかす」というといいすぎかもしれませんが、やっぱり食品であんまり安いものとかはこわいなあ……と思いました。(白米は別に「安い」わけではないが、お米本来の「味」のある部分をわざわざ取ってしまった印象です)

    ジョン・キャンベル賞……私は、ヒューゴー賞とネビュラ賞の二つしか知りませんでした……なるほど、第一回受賞が1973年……ということは、ほぼ私がSFを読まなくなったころです。昔はSFマガジンも毎号買ってたんですが……今はどうなってるのか、皆目わかりません(まだ出されてはいるようですが)。……。「nebula」は医学用語だったんですか……なにをあらわしたんだろう……なんか、意識の朦朧とした状態とかですかね……。

    日本の受験生がよく使わされるあの「英単語集」……私も、ちょっとすごいなあと思います。なんかもう、食肉用に特化して育てられる家畜のような……。私の友人が持ってた「英単語記憶法」は、「語呂合わせ」で覚えるという、発音まったく無視の「強力な?」ものでしたが、記憶にのこっているのを挙げると以下のとおりです。
    lamentable……<ラーメン食べる>「悲しい」気持ち
    deluge……<出る痔>おさえて「大洪水」を逃げ回る(ちょっと下品ですみません)
    そりゃ、たしかに覚えやすいかもしれませんが……(あとは無言)

    三木成夫さんの本は、私も3冊くらいしか読んでないのですが、その中では、うぶすな書院という優雅な?名前の出版社が出している『海・呼吸・古代形象』という本がいちばん印象に残っています。なんか、こういう内容のことが書いてある本ははじめて読んだような……自分の掲示板にも書きましたが、この作品『ポニョ』は、まるでこの本をアニメにしたような印象でした。

    「働くということは朝起きることである」いや、確かにそのとおりです。私の知り合いのサラリーマンの方(もう引退された)がおっしゃってたことを思い出しました。
    「仕事というのは、朝おきて、なんとか会社にたどりつくこと。それがほとんどすべて。」
    この方にいわせると、朝、調子が悪くてつらいなあ……と思っても、とにかく這ってでも会社に到着しさえすれば、あとはなんとかなるそうです……仕事ってそんなもん?

    『ポニョ』の赤ん坊の「出現」シーンは、たぶんまだ月が地球に異常接近状態にある最中だと思うので、ふだんよりは「月のリズム」は強力になってたんじゃないかと思います。……でも、全体がなにか異常に「なにげない」風情でしたよね。よく考えて見ると、やっぱり変です。あのシーン……。

    フィヒテさんは、私は読んでないのであんまりよくわからないのですが……書いてくださった内容とかリンク先を見た印象では、やっぱりヘーゲルさんへの影響力は強かったと考えざるをえないみたいですね。……問題のTathandlungという言葉なんですが、Tatsacheの方は、英語では「matter of fact」という訳もあるみたいですが、これに合わせて「matter of act」とするとわかりやすいような気がします。「matter of fact」には「理屈の問題じゃなくて事実の問題なんだ」というニュアンスがあるように思うのですが、「matter of act」は、これにならって言うなら「事実の問題じゃなくて行為の問題なんだ」ということになるのでしょうか……

    カントの3批判において、それぞれの「理性」が3つに分裂していてお互いのつながりがいまいち良く分からない……というのは、読んだ人のだれもが感じることではないか……と思うのですが、フィヒテさんの問題意識の出発点も、やっぱりここにあったみたいですね。
    第1批判……認識の問題
    第2批判……判断力の問題
    第3批判……行為の問題
    この3つが切れていて、つながってないように見える……これをつなげて、「一つの理性」として理解したい……ということだったんじゃないでしょうか。

    引用して頂いた部分ですが、consciousnessはおそらく「べヴストザイン」、self-consciousnessは、「ゼルプスト−べヴストザイン」だと思います。またactionは「Tat」。とすると、この部分は、だいたい次のようなことを言ってるんではないでしょうか。

    「フィヒテの用語法においては、本来の統合体である自己意識というものは、行為であると同時に行為によって生まれるものとして理解される。つまり、世界を体験していく私の意識に現われてくるすべての事象とすべての行為、その前提となり、そのうちに含まれながら、しかも私の意識にのぼってこない、そういう統合された自己であるTathandlungとして理解されるのである。」

    Tathandlungは、別のところで「“original”intellectual intuition」と言われていたように思いますが、これはやはり本来の「知的直感」であって、それ自身は知られないが、すべての基盤となって「自己」と「世界」をつくっていく力……となると、これはやっぱりどうしても「物自体」との関連を想起させられる概念ですね……。ヌメノン、すなわちヌースによって働く力でありながら、それ自身は絶対に認識することはできない(認識対象にはならない)……カントでは、ここのところが見事に切れてしまっているわけですが、フィヒテはなんとかしてこれをつなげようと思ったのではないでしょうか。

    「認識」と「行為」が切れてしまっているということは、結局現代にまで尾を引く大問題になってるみたいですが……フィヒテさんの場合、最終的にはやはりかなり宗教的な方向に行ってこれを解決しようとされたのではないでしょうか……ご本人の著作を読まずにそういうことをいうのはよろしくないんですが、リンク先や他の解説を読んでみた限りではそんな感じを受けます。

    このフィヒテのTathandlungと西田哲学を関連させて論じている池田等さんという方論文の中に、フィヒテの文章そのものの引用がありましたので、参考までに該当部分をコピペしてみます。(以下引用です)
    …………
    しかし、「自覚」の概念の誕生に最も大きな影響を与えたのは、フィヒテ(Johann Gottlieb Fichteの「事行」(Tathandlung)の概念であった。フィヒテの「事行」は、『全知識学の基礎』において「われわれはすべての人間的知識の端的に無制約的な、絶対的第一原則を探求しなくてはならない。それが絶対的第一原則であるべきだとすれば、それは証明されることもできず、また規定されることもできない。このような原則は『事行』(Tathandlung)を言い表すべきものである。つまり、事行というのは、われわれの意識の経験的な諸規定のもとにおいて現れるものでもなければ、現れ得るものでもなく、むしろかえって全ての意識の根底にあって、これのみが意識を可能ならしめるのである。」
    …………
    日本大学大学院総合社会情報研究科紀要No.7, 655-664 (2006)
    「自覚」―初期西田哲学の発展―
    池田 等(日本大学大学院総合社会情報研究科)

    なお、この論文のリンク先は次のとおりです。(アタマにhを入れてください)
    ttp://cache.yahoofs.jp/search/cache?p=fichte+Tathandlung&search.x=&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=&u=atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/kiyou/pdf07/7-644-655-ikeda.pdf&w=fichte+tathandlung&d=M_GWXVtsVvxu&icp=1&.intl=jp

    ちょっとややこしくなってしまいましたが……やっぱりこれが、ヘーゲルさんの「世界精神」につながっていったのか……と思うと、なんとなく納得させられちゃいますね。

    ということで、けっこう重たくなってしまったので、とりあえずいっぺんここらへんで区切って投稿させていただくことにいたします。(えー、「返信第一部」の終了!であります……)

  • 訂正です

    2010/11/18 22:41 by IKA

    上に、「Tatsacheの方は、英語では「matter of fact」という訳もあるみたいですが」と書きましたが、これは逆で、英語の「matter of fact」をドイツ語に訳したのがTatsacheということでした(私の辞書によれば)。お詫びして訂正します。

    なお、細かいことですが、池田さんの論文紹介のところで、「池田等さんという方論文の中に」と書きましたが、これは「池田等さんという方の論文の中に」が正しいです。失礼しました。

    とりあえず訂正まで。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2010/11/20 9:22 by IKA

    aakuraraさん、こんにちは。

    返信の続きです。……別スレで鼻風邪と花粉症で……と書いておられましたが、私のまわりも風邪の人が増えています。うーん、そろそろ印振円座くんの季節……お互い気をつけませう。

    えーと、まず、上のフィヒテさんのところで、Tathandlungと「ペルソナ=ヒュポスタシス」の問題について触れるのを忘れていましたが……これは、まさに「ヒュポスタシス」そのものですね。……すべての基底にありながら、自らは意識されることがない……。ここでまた、「個」と「全体」の境はあいまいになってくるようです。

    『ポーラX』は蔦屋さんにもありませんか……ご紹介くださった音楽のシーン、とっても面白いです。全体を見てみたくなりましたが……ガモフさんは、おっしゃるとおり『不思議の国のトムキンス』の著者です。この本がたしか第1巻で、10冊くらいの全集になってまして、子供の頃に熱心に読みました。そのころは「虫の食った二重のリンゴ」の絵が全巻通して装丁に使われてたんですが、今はかなり違う装丁になってるようです。↓のサイトの下の方に出てきます。(アタマにhを入れてください。このサイト自体もちょっと味のある……)
    ttp://my.opera.com/HABAAlisa/blog/index.dml/tag/%E7%89%A9%E7%90%86

    600胞体の4D、0Dから多次元立方体への往還、そして「整序されたモナド」の動画を拝見しました。うーん……なんか、静かな不思議な世界ですね……この音もない、しかし決して停滞しないスムーズな動きを見ていると、徐々に変な気分になってきますね。なんか心の表層と奥をつないでいる無限軌道エレベータに乗ってるみたいな……催眠効果というか瞑想の境地みたいなものも感じます。……それにしても600胞体というのはスゴイですね。もうほとんど現実と切れた世界……多面体程度ならまだなんか「この世界のもの」という感じを受けるのですが……。

    多様体も多胞体は、拡張していくとn次元になるみたいですが、そのあたりはもうさっぱり経験的知覚の外の世界……私のTathandlungは知っているのかもしれませんが……グールドさんやバッハの頭の中ではたしかに「四次元ミュージック」が鳴り響いていたものと思われます。……やっぱり「ぇやーぽっど」(名古屋弁)とは相性いいですか。私は持ってないので、もっぱら車の中で聴いてますが……なんか急に別スレの「中世寝馬携帯3兄弟之図」を思い出してしまいましたが、あの方々ももしかしてグールドさんの演奏を「時をこえて」聴いていたのでは……それにしても、一番左の人の持ってる巻物がトイレットペーパーに見えてしかたありませんでした。あの時代にトイレットペーパー?……うーん、これもモダノーパーツかも……。

    右の人:おい、兄弟、トイレットペーパーに楽書きしちゃだめじゃん。もしもし神様、コイツがですね……
    真ん中:ふーん、なかなか風情あるじゃないの。ようわからんけど……。これなら神サンも納得じゃない?
    左の人:あ、はい、神様……はあ?神サンちのトイレのペーパーにも書いてくれ?……まあ、いいけど……

    ヘーゲルさんの「世界精神」も「四次元」……引用してくださった部分の原文がネットでみつかりましたので、掲げてみます。(ウムラウトは文字化けするので、母音+eで示しています。またエスツェットも文字化けするのでssにしました)
    Indem also der Geist den Begriff gewonnen, entfaltet er das Dasein und Bewegung in diesem Aether seines Lebens, und ist Wissenschaft. Die Momente seiner Bewegung stellen sich in ihr nicht mehr als bestimmte Gestalten des Bewusstseins dar, sondern indem der Unterschied desselben in das Selbst zurueckgegangen, als bestimmte Begriffe, und als die organische in sich selbst gegruendete Bewegung derselben.
    これは、以下のサイトのヘーゲルさんの項目の中にありました。ここでは、かなりの「古典」の原文が参照できるみたいです(ドイツ語オンリーのようですが。例によって頭にhを入れてください)。
    ttp://gutenberg.spiegel.de/?id=5&xid=3268&kapitel=92&cHash=87d08655d92#gb_found

    また、英語訳もありました。たぶんこの部分では……
    Seeing, then, that Spirit has attained the notion, it unfolds its existence and develops its processes in this ether of its life and is (Philosophical) Science.The moments of its process are set forth therein no longer as determinate modes or shapes of consciousness, butーsince the distinction, which consciousness implies, has reverted to and has become a distinction within the selfー as determinate notions, and as the organic self-explaining and self-constituted process of these notions.
    なお、この英訳は、次のサイトにありました。(左欄のPhenomenologyを押し、[.を押してください)
    <リンクURL>

    うちに、樫山欽四郎さんの訳もありましたが、樫山訳ではこの部分、こうなってます。
    「かくて精神は、概念をえたのであるから、自らの生命のこのエーテルのなかで、自らの定在と運動を展開し、学〔『論理学』〕となる。精神が動くときの諸諸の契機は、学においてはもはや意識の一形態となっては現われない。むしろ意識の区別が自己に帰ってきているのだから、契機は一定の概念〔『論理学』の諸範疇〕として、自己自身に基づいた有機的な概念の運動として現われる。」
    (講談社学術文庫版で、下の403〜404ページ)

    うーん……これは、まさにオデッセイ……長い旅をめぐってきた「精神」が「学問」に成長して帰ってくる姿……長い長いこの書の、最後のハイライトシーンですね……映画でいうなら、画面が壮大なヒキになって感動の音楽がながれて、全体がフェイドアウトしてエンドロールがはじまるその部分……。私はまだ、途中の山越えで四苦八苦の状態なので、ここに辿り着けるのはいつのことになりますやら(一生ムリかも)……樫山さんの訳では、「学」(ヴィッセンシャフト)を「論理学」としていますが、これは、『精神現象学』が『論理学』の前段として書かれる構想があったからみたいですね。

    バッハの『ゴルトベルク変奏曲』では、長い旅路の末に主題が帰ってきますが……その直前に奏される「クォドリベット」がそんな感じ……"Ich bin solang nicht bei dir g'west, ruck her, ruck her"(「長いこと御無沙汰だ、さあおいで、おいで」)と"Kraut und Rueben haben mich vertrieben, haett mein' Mutter Fleisch gekocht, waer ich laenger blieben"(「キャベツとカブが俺を追い出した、母さんが肉を料理すれば出て行かずにすんだのに」)という二つの流行歌を組み合わせてやってるようですが(wikiより。やっぱりウムラウトは母音+eにしてあります)

    アニキ:もしもし母さん、今日の晩ご飯は?今、いろいろレシピ見てんだけど……
    真ん中:だめだよアニキ、肉料理でないとキャベツとカブに追い出されちゃう……
    弟くん:父さん、どうやら今日も肉料理みたいだよ。たまには野菜食べたいね……

    『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』のご紹介、ありがとうございました。こんな映画だったんですね!ずーっとしゃべり続けているではありませんか……全編こうなのかな?……とすると、映画としてはとっても変わった作品のようですね。たしかにレオンハルトさんの体型どうのの話ではないようです。うーん、このサンプルだけだと三千円払うかどうか、ちょっと迷いますね……まあ、ドイツ語のヒアリングの勉強にはなる感じですが。

    「学」って、やってるうちになんかどうしようもなく「体系化」していく傾向はあるみたいですね。ただ、体系化されていった「学」が「全体の学」になっているかどうか……というと、そこはなかなか難しいのではないかと思います。説明できない部分を説明できるように拡張すると、他の部分と矛盾が生じてきてまた手直し……。『ゴルトベルク変奏曲』みたいになんか「自然発生的に」成長できればいいのでしょうが……これは、やっぱり「意識」と「マトリックス部分」との関係なのかな?とも思います。

    「ピタゴラスのタイル割り」も、単純な平面分割から始まるけれど、それが3D、4D……と無限に拡張していくみたいですね。いったいどっから「実感できない」ものになるのか……ヘーゲルさんの論理を追っていくと、確かにあるところまでは「精神の手」で触れるけれど、ある部分から先、急に「精神の手」が空をつかむ感じになります。まあ、これはやっぱり圧倒的に私の勉強不足ということなんですが……そういえば、昔、朝日出版社から『エピステーメー』という雑誌が出てましたが、いつのまにか見なくなりました。今は、こういう雰囲気の雑誌はなかなか受けないのでしょうかね……。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2010/11/26 2:47 by aakurara

    IKAさん、こんばんは。

    嗅覚神経、はやく治るといいですね。でも匂いが鈍ると本当においしいものが分かる、というのはそうかもしれません。食品に使われる「香料」というのはダテに添加されてるんじゃないんですね(いやむしろダテに添加されてるのか、あれっ??)

    ええと「nebula」は医学用語だと「角膜白濁」とか「尿中綿状物」の意味だそうです。なんか「星雲」のカッコいいイメージが・・・。lamentable→ラーメン食べる、deluge→出る痔、はヒドイですね。いやあ・・・(無言)

    フィヒテについての補足、いろいろとありがとうございます。うーん、フィヒテもカントも、紹介してくださった論文の西田哲学もそうですが、「それ自身は知られないもの」について哲学的に語られたものって、どうもピンとこなくて。ここが私にとって「哲学の壁」になっています。

    もっとちゃんとカントとかギリシア哲学を勉強すればよいのでしょうが、たとえばヌメノンとフェノメノンと主観、との関係がよく分かりません。なんか、いまさらこんな基本的なことを・・・という感じですが、経験や知識の構成によって「これはコップだ」と認識される前のコップそのものがヌメノン、ということもありえるのですか。あるいは、私に見えていないところに存在して私の想像の対象にもなっていないコップも・・・?

    ヒュポスタシス、ウーシア、ラテン語のスブスタンチアなども、なんか大雑把な感覚でとらえておりましたが、その区別はよく分かっていない・・・ですね。というか、みんな同じことを言っているようにも思えますが、やっぱりこういうところが私の哲学の壁ですね。

    プロジェクトグーテンベルクは、英語版は知っていましたがドイツ語版もあるんですね。壁のこちら側からの感慨ですが、うーんヘーゲルさんの『精神現象学』は「精神」のビルドゥングスロマンなのか・・・「学問」に成長して帰還・・・私は壁のこっち側で山にも入れない状態 orz

    『ゴルトベルク変奏曲』の第30変奏、好きです。流行歌がもとネタなんですねぇ。なんだか突然このメロディにビールとソーセージとザワークラウトのかほりが感じられるように・・・そして、つばめグリルでハンバーグを食したくなってきました。(また食べ物ネタになってしまいました。)

    『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』は、きっと変わった作品だろうと思います。同じストローブ=ユイレ監督の『アンティゴネー』という映画も変わってましたから。全編ずっとしゃべり続けということはなかろうと思うのですが・・・とりあえずプロットとかストーリーとかそういうのはなさそうですね。

    『ポーラX』は、夕管にあった音楽の場面が一番面白かったかもしれないです。あの雰囲気はちょっと原作にはなくて、いい意味で「おおっ」となりましたね。ガモフさんの本を紹介しているブログは、ほんとうになんか味がありますね。すごく可愛く物理してる・・・

    ううんと、なんだかけっこう長い間モニタの前に座っている気がしますが、せっかくIKAさんがいろいろとたくさん書いてくださったのに、今日はどうも調子が出ないようです。さっき友人たちとやってる掲示板にいろいろ書いたところなので、なんかそこですでにバテちゃったかもしれません。ええっと、あとキアヌさんとこのスレへの返事も同時に書いていたので、けっこう電池が切れてきました。こちらはとりあえずここで投稿いたします。

    根馬三兄弟の左の人がもってるの、トイレットペーパーに見えますよねやっぱり! 私もそう思っていました。

    右の兄:もしもし。あーはい、受け取りました。いつもありがとうございます。ええ、では失礼します。 ・・・おーい、新曲とどいたぜ、早速演奏してみようや。
    左の弟:ちょっと待って、いま司教から電話で、なんかトイレ入ったら紙がなかったからもって来いってさ。
    真ん中:司教、ケータイもってトイレ入るのかよ。
    左の弟:うん、愛譜音にしてから手放せないらしいよ。
    右の兄:てか、おまえが手にもってるの、ファクス用紙じゃん。
    左の弟:ああ、やべ。ギリシアのアポロンさんからいつも音楽送ってもらってるのバレたら破門されるとこだよ。
    真ん中:大丈夫だよ、司教も愛譜音でマドンナの曲とかダウンロードしてたし。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2010/11/27 11:34 by IKA

    aakuraraさん、こんにちは。

    嗅覚神経の方は、一進一退という感じですね……困ったもんです。はれて「海軍カレー」を食べられるのはいつのことになりますやら……そういえば、嗅覚がおかしくなってから、カレーを食べても辛くないんですよね。これは不思議です……。カレーのあの辛さって、ほとんどはスパイスの「香り」からくるものだったんだ……ということがわかりました。「香り」をマイナスすると、カレーって、なんだかむにゅむにゅしてちょっとざらっとした半液体みたいな変なものに変身いたします……これはこれで、不思議な体験……。

    「nebula」は「角膜白濁」とか「尿中綿状物」……うわあ、こりゃあちょっとイメージ悪いですね……あの変な英単語記憶法の作者だったら「角膜白濁ねびゅらないでね」とかなんとか……うー気持ちわる……(自分で書いてて自分で気持ち悪くなってりゃ世話ありません。すみません……)あの本、私もあとで買ったんですが、もう今となっては見つかりません(結局覚えたのはlamentableとdelugeの2語だけでした。費用対効果としてはかなり悪いです)

    「それ自身は知られないもの」……私もわからないです。私のオジサンは西田哲学が大好きで(といって別に学者じゃなくて普通の人)、私が哲学専攻ということを知ってから合うたびに「絶対矛盾的自己同一とはいかに?」とかの西田哲学の話を持ちかけてこられましたが(学生時代)、うーん、なんのこっちゃ?と……全然乗ってこないのでさぞかし張り合いなく思われていたことでしょう……昔の人って、なぜか西田哲学が好きな人が多かったような気がします(京都だったからなおさらかもしれません)。今はもうあんまりやってる人もおられないでしょうが……

    ヌメノンとフェノメノンと主観……うーん、やっぱり私にもわかりません……でも、なんとなく感じるのは、ヌメノンとフェノメノンは語形的には動詞の分詞だろうということです。古典ギリシア語の場合、中・受動相の分詞の語尾がmenon(中性形)になるので、ヌメノンはおそらくnoeo(oは長母音。考える)の中・受動相の分詞であろうと。したがって、意味としては「考えられたもの」ということになるんだと思います。

    フェノメノンの方は、同じ考え方だとphaino(oは長母音。現われる)の中・受動相の分詞なんでしょう。そうだとすれば、意味としては「現われたもの」。ここから「現象」ということになるんだと思います。(なんか、ハイデガーが『存在と時間』の最初の方でこんなようなことを言ってたと思います。手許にないので確認できないですが)つづりは本来はphainomenonなんでしょうがaiが変化してeになったのではないかと。(aiでaにウムラウト?がかかった状態?)

    あと、主観は、ヒュポケイメノンであればヒュポhypo(下に)+ケイマイkeimai(横たわる)で、ケイマイkeimaiの中・受動相の分詞がケイメノンkeimenonで、同様の解釈になりますが……。ヒュポシタシスだと、ヒュポhypo(下に)+スタシスstasis(立っていること・名詞)で、ほぼ同じ意味ですね。要するに、ラテン語のsubstantiaに対応する言葉ということで……

    ギリシア語の語源で考えるとわりと単純にわかるのですが、そのあと2000年以上の知恵が積み重なってしまって、なにがなんやらわからんものになってるんじゃないか……という気もしますね。(うーん、やっぱりすべての哲学はプラトンの注釈なのか……)なので、「ヌメノン」はここからすればあくまで「考えられたもの」になるので、「認識される前のコップそのもの」は多分「ヌメノン」にはならないのでは……というふうに思うのですがどうでしょうか(考えにのぼっていないので)。

    「私に見えていないところに存在して私の対象にもなっていないコップ」……これは、そう考えた瞬間にいちおう「ヌメノン」になる?……「ヌメノン」が「考えられたもの」であればそうなると思うんですが……「ヌメノン」は「モノ自体」という意味からすれば「延長」の世界の王者みたいな雰囲気がありますが、語源的には完全に「思惟」の世界のもの……ここは、まことに不思議なところだと思います。魔法の蝶番で「思惟」と「延長」がつながる……

    ヒュポスタシス、ウーシア、スブスタンチアの区別についてですが……今、図書館で借りてる『キリスト教神学基本用語集』(J・ゴンザレス著、鈴木浩訳/教文館)の「実体substance」の項を見ると、次のようなことが書いてありました(以下引用です。)
    …………
    三位一体論の定式化の中では、「実体」という用語は、三つの神的位格が共通に持つ神性を指して使われた。これは、神には三つの位格と一つの実体がある、というテルトゥリアヌス(155年頃〜220年頃)の指摘に由来していた。しかし、ギリシャ語圏の東方では、スブスタンティアはヒュポスタシスという言葉にもウシアという言葉にも訳すことができた。スブスタンティアもヒュポスタシスも一つの物事の「下に立つ」という意味だったので、語源的にはヒュポスタシスの方がいっそう近い意味であると思われた。しかし、ギリシャ人は「一つのウシアと三つのヒュポスタシス」という言い方をして、ウシアをラテン語のスブスタンティアと同義語にし、ヒュポスタシスをラテン語のペルソナ(persona)と同義語にした。こうした違いは、東方と西方が三位一体論の定式化で最終的に合意することができるのに先立って解明されねばならなかった。
    …………

    つづいて「ヒュポスタシス」の項をみますと、以下のように書いてありました(以下引用です)。
    …………
    西方ではテルトゥリアヌスの時代以来、神は「一つのヒュポスタシスにおける三つの位格(ペルソナ)」であると宣言されていた。ギリシャ語圏の神学者がそれを解釈したら、字義通りの翻訳では「一つのヒュポスタシスにおける三つのプロソーパ」となったであろう。ギリシャ語の「プロソーポン」(その複数形が「プロソーパ」)は、「位格」(人格)を指すこともあるが、例えば劇場での「仮面」や「配役」という意味でもありえた。このことから、多くのギリシャ神学者は、ラテン語圏の神学者は神を三つの仮面を持ったり、あるいは三つの役割を演じたりする一つの実体であると呼んでいる、と考えるようになった。彼らの考えでは、それはサベリウス主義であった。他方、ラテン語圏の神学者が、ギリシャ神学者が三つのヒュポスタシスという言い方をしているのを聞いたときには、それを三つの実体という意味で、すなわち三人の神という意味で理解した。ギリシャ東方とラテン西方の溝を埋め、「一つの実体における三つの位格(ペルソナ)」というラテン語の定式と「一つのウシアにおける三つのヒュポスタシス」というギリシャ語の定式が同義語であると結論づけるまでには、一世代にわたる時間と、カパドキア教父たちやアナスタシオスらによる基礎付け作業が必要であった。
    ヒュポスタシスという観念は次いで、キリスト論論争において、とりわけ5世紀にエフェソス公会議(431年)とカルケドン公会議(451年)の前後に、一つの役割を果たした。その最終結果は、ヒュポスタシス的一致という形でキリスト論正統主義を定義することであった。
    …………

    うーん、ややこしいですが、別スレで書いて頂いた坂口さんのお話につながっていくような気がします……ところで、ヘーゲルさんの『精神現象学』は「精神」のビルドゥングスロマン……と書いておられるのは、私もそのとおりという気がします。なんか、読んでると、小説、それもまさにビルドゥングスロマンを読んでるような錯覚に陥ることがたびたびありますので……といっても、私も実は、「山に入ってる」という夢を見ているだけの状態なのかもしれません……

    そういえば、「山に入る」ということでいつも思い出す絵があります。カスパル・ダヴィッド・フリードリヒの「月を眺める2人の男」という作品なのですが……ある夜、下宿に友達が尋ねてきて、いろいろ哲学や宗教や文学の話になり……いつしか夜はふけ、散歩にでようとどちらからともなく誘い合い、下宿の裏の山に登る……かなたに月が照り、不思議な形の木々に囲まれて、また議論は続いていく……なんか、そんな感じです。↓
    <リンクURL>

    プロジェクト・グーテンベルクは、私はドイツ語版(プロイェクト・グーテンベルク)の方を先に見つけたんですが、このドイツ語版は独立したサイトではなくて、なんか「SPIEGEL」(鏡)という総合サイトの一角に置かれているようですね。いずれにしても、文学や哲学領域の著名な古典はかなりものものがここで原文を参照できるようです。おしむらくは読解力が全然ついていかない……ので、今のところはイカに原典の状態なんですが……。でも、英語版にせよドイツ語版にせよ、こうやって著作権切れの古典をどんどん紹介してもらえるのはありがたいですね。日本だと青空文庫なんかで少しやってるみたいですが……

    ビールとソーセージとザワークラフトのかほり……いいですね。京都駅の近くにドイツのビヤホール風のビアガーデンがあって、京都にいくとときどき友達と集まるんですが、そこがまさにそんな感じです。これで『ゴルトベルク変奏曲』でも流れていれば最高なんですが……「つばめグリル」は知らなかったのでネットでみてみましたが、関東圏オンリーのようですね。でもおいしそうです。特にあのホイル包みハンバーグ(ハンブルクというんですかね)……今度東京に行ったら寄ってみよう(それまでに嗅覚が戻ってるといいんですが)。

    映画の『アンティゴネー』は、前に少し書いておられたですね。これも同じ監督さんでしたか……本の『アンティゴネー』は学生時代に購読に使ったテキストなので、その関連から映画にも興味はありますが、これもたぶんふつうのレンタル店では置いてないんでしょうね……『ポーラX』の方も根気よくさがしてみます……

    音馬三兄弟の左端人物の持ってるのはFAX用紙でしたか……アポロンさんから音楽配信……そりゃゼイタクな……そういえば、最近DVDで見た『タイタンの戦い』(2010公開)という映画にアポロンさんが出てきましたが、なんか太陽を浮き彫りにした銀の鎧を着ていて、「まんまじゃん」と……この作品ではオリンポスの神々がみな鎧を着てるんですが、これは、「セイント・セイヤ」という日本のマンガの影響だそうでして、うーん、もはや文化はかなり混ざり合ってしまってるんだなあ……と(そのうちに人魚姫の名前が世界共通で「ポニョ」になるかも)。

    あにき:もしもし、アポロさん……なんか、印字が不鮮明でよくわからないんですが……。
    真ん中:おいおい、それってもしかしたらFAX用紙じゃないんじゃ……。
    弟くん:アポロさん、アニキはまたキッチンペーパーをFAX用紙と間違えてます。すんません……。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2010/12/9 18:14 by aakurara

    IKAさん、こんにちは。ちょっとお返事の間隔があいてしまいましたが・・・なんだか1年の疲れがたまってきて、だいぶバテております。

    まずは恒例の(?)食べ物ネタなんですが、「キャベツとカブが俺を追い出した♪」のせいだと思いますが急にカブが食べたくなって、この間料理しました。キャベツも料理しましたが、追い出されなかったです! しかしカブを買ったのは久しぶりでしたけど、葉っぱのところも茹でておけば青菜のように食べられて、なかなかおトクな野菜ですね。

    それで、ねびゅる・・・って語感だけでなんかもう、うああぁ。えーと、古典ギリシア語は少しずつ単語が分かってくると面白くなってきて、この間ポケット・オクスフォード古典ギリシア語辞典を買いました。あと、ここ↓でリデル&スコットの『希英辞典』が使えるのを見つけました。私には使いこなせないですが、すごいです、ホントに便利な世の中になったものです。
    <リンクURL>

    ヌメノン、フェノメノン、ヒュポケイメノン/ヒュポスタシス、について解説してくださって、ありがとうございます。ハイデッガーの『存在と時間』の序論も、ちょっと読んでみました。ハイデッガーは、よく分かる(ような気がする)箇所と、全く分からない箇所とがまだら・・・という感じですが、フェノメノンはなんとなく分かってきました(たぶん)。phaino というのは、phaos(光)に照らす、という感じなのですね。で phainomenon は、照らされて五感でも認識できるように現われた現象、ということでオッケーでしょうか。ヌメノンのほうは、もとになっている nous という言葉自体、いろんな人がいろんな使い方をしているようで、もっとややこしそうです。スタンフォードの哲学事典の「カントの形而上学批判」という項目を読むと、カントが「物自体」という概念で何を言いたかったのかが、なんとなく分かってきたような気もするのですが、いや、やっぱりカントを読まないとダメですね。

    ヒュポスタシス、ウーシア、スブスタンチアの区別について『キリスト教神学基本用語集』をひいてくださったところは、まさに坂口さんの本の内容とかぶりますね。ヒュポスタシスとウーシアは、上の『リデル&スコット希英辞典』で調べると、それぞれの意味や用例が出てきました。面白いのは、ヒュポスタシスには「confidence, courage, resolution, steadiness, of soldiers」なんて意味もあるようです。「肚がすわる」と言うときの「肚」も、ヒュポスタシスなんですねえ。そういえば坂口さんの本では、ウーシアは「本質〜種形相〜実体〜個存在」というふうに意味の幅がけっこうあって、ヒュポスタシスとかピュシスなどと比べると一番哲学的で抽象的な語だ、というようなことが書いてありました。うーん、古代ギリシアのテキストを読みつけると、もっとよく分かってくるのでしょうが・・・

    ところで、また変な動画がありました。細胞の中の様子をアニメーションにしたものだそうです↓
    <リンクURL>
    ・・・これってもう「フェノメノン」というより「ヌメノン」ですよね。あるいは、なんかいろんなデータをもとに「考えられた細胞内分子の動き」を映像化したものらしいので、そのプロセスを経てアニメ化された時点で、フェノメノンになっているのか・・・。いずれにせよ、なんとなく宮崎さんのアニメの雰囲気に近いものがあるようにも思えるのは、気のせいでしょうか。この動画のことは、またNY Timesで知ったのですが、その記事へのリンクはこちらです↓
    <リンクURL>

    ソフォクレスの『アンティゴネー』は、たしかヘーゲルさんの『精神現象学』にも出てきましたよね。えーと、そうそう「共同体精神」のところでした。フリードリヒさんの、山に入る2人の男の絵、どこかで見たことがあります。イイ感じですよね、ちょっとあこがれますが・・・なんかヘビとかクマとか出てきたら、私などはすぐに怖くなって退散しちゃいそうです・・・

    根馬三兄弟の絵では、けっこう遊べましたね。『タイタンの戦い』の鎧は、セイント・セイヤの影響だったんですか。なんか子どものころ流行ってました。『聖闘士星矢』ですよね、なつかしい・・・ 私は漫画もアニメも見てませんでしたが、いま有管でオープニングソングを見てみたら、かなりギリシア的モチーフが多用されているんですね。でも日本のアニメの浸透力には、ときどきびっくりします。このあいだもイタリア人の友人と話をしていて、なんでか『タイガー・マスク』の話になって、彼のほうが私より詳しかったですし。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2010/12/12 6:30 by IKA

    aakuraraさん、こんにちは。こちらでは久しぶりですね。一年の疲れ……私も最近疲れたな……と思うことが多かったのですが、これはやっぱり一年の疲れがたまっていたのか……『魔の山』で忘年会でもやらないと……。

    カブ料理は、私も久しく食べていないように思います。……日本のカブは白いですが、アチラのカブは赤いのがふつうなんでしょうか……ボルシチなんかも赤カブでしたよね、たしか。そういえば、以前にこのサイトでベートーヴェンの名前が話題になったときに(どのスレかは忘れましたが)、結局彼の名は、オランダ語で「かぶらの庭」じゃないか……と。「ベート」がかぶらで「ホーフェン」が庭ということみたいです。なので、彼の名の真中にあるthはギリシア字母のθに由来するのではなく、「ベート」の「t」と「ホーフェン」の「h」がたまたま連続しただけのようですね(でも英語圏の発音はベーソーベンとなるのでしょうか。やはり)。

    リデル&スコットの『希英辞典』のサイトをご紹介いただき、ありがとうございました。うちにあるのもリデル&スコットですが(簡約版)、今ではもうネットで見ることができるんですね!驚きです……しかも、このサイトでは、ギリシア語だけじゃなくて他の言語の辞書も出てくる!これはすごいですね。辞書を買う必要ないじゃん!と思ってしまいました。日本語のも引いてみましたが、ちゃんと出てきました。スゴイ!ここまでやるなら漢和辞典とか日本語の古語辞典もメニューに加えてほしい……

    ハイデッガーの『存在と時間』は、うちの本棚をさがしまわっても見つかりません……ので、とりあえず記憶で……ということなんですが、phainoの説明で、たしか太陽が昇って云々……ということが書かれていたような……つまり、今まで隠されていたものが現われてくる、その感じをphainoという動詞は持っているというようなことではなかったでしょうか?(すみません、いいかげんで)「phainomenon は、照らされて五感でも認識で きるように現われた現象」……私もそういうことだと思うのですが、中・受動相の分詞ということから、特に「照らされる」という意味合いは強くなっているようにも思います。なので、「現われたもの」よりは「現われさせられたもの」なのかな?

    「物自体」は、カントの研究者の間では「カントの悪妻」と呼ばれているみたいで、どうもこれさえなければカントの理論もすっきり整合性がとれるのになあ……というものみたいですね。観念論的な傾向と唯物論的な傾向で、受け取り方は正反対になるみたいですが……結局カントは「形而上学の土台づくり」が自分の役割だと思っていたみたいですから、「物自体」についても、提示しただけで結論は出さずに後の人にゆだねた……ということなのでしょうか。

    ちなみに、私の手許にある平凡社の『哲学事典』(昭和46年版)では、「物自体」の項に次のような記載がありました。
    「われわれが眼前に見る外界や現象は、認識主観が与えられた感覚内容を総合構成した物であるから、物自体ではない。物自体はむしろこの現象の起因となるもの、それ自身は現象せず、ただ感覚に感触 affizieren されたかぎり認識できる不定なある物xである。したがってそれ自身は認識できぬ不可知物であるが、思惟可能な仮定であり、また現象の背後に考えざるをえない思惟の要請 Postulat である。カントは悟性(理論理性)による科学的認識を現象に限って、超感性的な物自体を認識できるとするのは悟性の越権であり、そのとき哲学は独断論に陥るとした。」

    どうも、これからすると、「思惟の要請 Postulat 」というところからヌメノンにつながっていくような気はしますね……なお、「感触」と書かれている「affizieren」という言葉は「触発する」という訳もあって、こちらの方が日本語としてはわかりやすいような気がします。……いずれにせよ、aakuraraさんが書いておられるように、結局「カントを読まないとダメ」みたいですが、今はちょっと読み直す気力も時間もありません……うーん、あの大森林に分け入っていくには相当な心構えがないと……。

    ヌメノンがフェノメノンにくらべてわかりにくいのは、一つにはイメージするのが難しいということもあるように思います。……一般的にいって哲学概念って、イメージするのが難しいのでわかりにくいということがあるんだと思います。たとえば、経済学なんかで「資本」とか「労働」とかいえばとりあえずイメージはできますし、理系でも数学以外なら対応するイメージはつくることができます。でも、哲学と数学は、直感的なイメージが湧かないものが多すぎてナンノコッチャ?ということになりやすいのでは……

    数学は、私にはまったくわからないのですが「数式」という便利な道具があって、これを使ってみなさんさくさくやっておられるようですね。でも哲学の場合にはそういう道具がない……いや、たぶんあるのであって、それは前に書かせていただいた「精神の手」みたいなもんだと思うのですが、これで触れれば「わかった」という気持ちになれるのでしょうが……

    私など手(足?)が10本もあるのに「精神の手」を養うのをなまったために、多くの哲学用語は単なる言葉になっちゃってます。うーん、特に「ヌメノン」みたいな概念は、ふつうではまったくイメージが湧かないから(なんか暗くてぬめっとしたイメージしか湧きません)、これは一体ナンダロウ……と思うのですが……結局ギリシア語のもとの意味(と思われる)「考えられたもの」に戻るしかないのではなかろうかと自分では思っています。

    哲学用語にイメージが涌きにくいのは、もうひとつの問題としては、その用語に対する必然性のようなものがあるのではないでしょうか。つまり、その概念をどれだけ必要としているかという……。私は、こういう哲学概念は、たぶんふつうに日常生活を送っている場合にはあんまり必要ないのであって、必要になってくるのは「肉体の死」みたいな非常時?なのかな……という気がします。

    というのは、こういう概念は必ず「世界全体」に関わるものだから、ある程度システムを閉じて世界全体を相手にしなくてもよいようにふつうの生活を設定しているぶんにはあんまり必要性を感じない。しかし、「肉体の死」は観点を変えれば自分にとって全世界が無くなることなので、どうしてもこういう概念に直面せざるをえないのだという気がします。要するに、ここで、いかにふつうの人でも「セカイ系」にならざるをえない……

    ただ、私みたいな「ふつうの人」(というかイカ)にとってはそうなんですが……職務上「世界」を相手にしないといけないような人においては、生きているうちからこういう哲学概念は大きな意味を持ってくるのではないかと思います。たとえば総理大臣とか国王とか……あるいは、そういう人にアドバイスをする立場の人とか……自分の判断や選択一つでセカイの運命が大きく変わる……となると、これは考えざるをえません。

    ところが、往々にして、そういう人は忙しすぎて、物事をつきつめて考えたり、いろんな本を読んだりする暇がないので……結局、世界についての認識も考えも曖昧なままに決断を迫られることになるのでしょうね……「哲人政治」というのはやっぱり現実には難しいのではないでしょうか……例えば、古代中国の哲学に相当するのは「易経」みたいなものだったかな?と思うのですが、古代中国では、易は天子がマツリゴトを行う際にのみたてられるものであって、庶民が占いに使うものではなかったという話をきいたことがあります。これも一種の「哲人政治」だったのかも。

    ヒュポスタシスやウシアやスブスタンチアについてもやっぱり「肉体の死」のときにはかなり問題になるものであろうと思います。まあ、ふつうの生活では忘れても暮らしていくにそんなに差し支えないものですが……砂時計の砂が残り少なくなってくると、自分は死んだらいったいどうなるんだろう……と考える……大きな実体の中に入っていくのか、完全に無になってしまうのか……自分が死んだあとも「世界」というのはあるのだろうか……。

    ところで、ヒュポスタシスに「肝」という意味があるのは面白いですね。兵士の肝がすわる……というと、なんとなく『300』という映画を思い出しました。テルモピュレーの戦いのお話なのですが、300名のスパルタ兵士の腹が、全員みごとに割れてました(CGで割ったという説もあるみたいです)。うーん、ああいうヴィジュアル面がヒュポスタシスにつながっていくとは意外ですが(というか私が勝手につなげているだけなんですが)、これは日本語でいうと「臍下丹田」というヤツですね。ヘソの下で「気」を養うところ……

    「旦」は水銀からとれる「赤」らしいのですが、これはおそらく血の色……また太陽の色なのでしょうか。ヒュポスタシスを色にすると、こういう「赤」になるのか……これに対して「ウシア」はなんとなく黒みがかった青みたいなイメージです。で、「ヌメノン」はといえば、これは私の中では底の知れない黒……老子が「玄の又玄衆妙の門」といったあの「玄」という自がピッタリです……でも、ご紹介いただいた「細胞内部」のアニメの色もなんとなく「ヌメノン」なのかな……という気もしてきました。うーん、感じとしてはまさに「ヌメノン」です。あの動画……

    なんか、手塚マンガに出てくる登場人物のような歩き方をしている人(?)もいましたね。青いデカイ球体で突起が生えていて、ロープのようなものの先に足みたいなのがついていて、チューブの上をおもむろに歩いていく……うーん、自分の身体の中にあんなものがいるなんて、信じられないです。……ああいう方々が、なんかわからない目的のためにもったいつけて歩きまわっておられる……しかも、音楽もまたちょっとゆるくてヌメノンチックでした。おっしゃうように『ポニョ』の海の中みたいな感じもします。うーん、人は身体の中に海を飼っているのか……。

    ヘーゲルさんの『精神現象学』は、まだ『アンティゴネー』が出てくるところまでいってないと思います。えー、フリードリヒさんの絵の「山」は、もしかしたらすぐ近くに都会がある山かもしれません。たとえば京都の吉田山みたいな……バンカラ学生が夜に吉田山に登る……哲学話をさかなにして、逍遥とどまるところをしらず、やがて悠然と月の照らすを見る……なんて、ちょっと『草枕』を再読しはじめてますので、すぐに影響されまして。根馬三兄弟も、それぞれ智・情・意を表わす……としたら……

    アニキ:オレって、智に働いてばっかだから角が立っていけねえや。
    真ん中:オレよりはいいって。情に流れてゆくえしれずらもの……。
    弟くん:ボクよりいいよ。意地をはるもんで今も四畳半暮らし……。
    (すんません。もうやめます……といいつつ、最後にもう一つだけ……)

    アニキ:もしもし、草枕亭さん?出前お願いね。物自体定食一つ。早くしてね。
    真ん中:おっ、いいね。オレも頼もう。ヌメノン丼一つ、頼んどいてちょ。
    弟くん:もしもし母さん?今日もみんなてんやもんみたいだよ。また一人で微糖こんにゃく食べてね。

    『聖闘士星矢』は、私はちょっとブームがずれてましたのでタイトルを知ってる程度なんですが……昔『パンズラビリンス』という映画で「パン」のことを中国語でどういうのか調べてたら、いきなり『聖闘士星矢』についての書き込みがいっぱい出てきたのでびっくりしました(中国語で出てきた)。うーん、このマンガはかなり世界的に有名なのか……aakuraraさんのお友達のイタリア人の方は『虎仮面』のファンだそうですが、『かもめ食堂』に登場したフィンランド人の豚身・昼斗念くんはたしか『ガンダム』のオタクでした。うーん、日本アニメは強いですね……そのうち「ヌメノン仮面」とか出てきたりして……

  • Re: 森の神が死んだあと ネタバレ

    2010/12/23 20:58 by aakurara

    IKAさん、こんばんは。

    ベートーヴェンは「かぶらの庭」ですか・・・なんとなくベートーヴェンって野菜嫌いそうなので(根拠のない勝手な印象ですが)、ちょっとイメージがちがいます・・・ バッハは野菜も肉も、もりもり食べそうですね。Beethoven の英語の発音は、「ベイトーヴェン」あるいは「ベイソーヴェン」(thサウンドで)になるみたいです。でも「ビーソーヴェン」と読む人もありそうです。ボルシチの赤かぶは、「甜菜=サトウダイコン」ですよね。そういえばこれは英語で「beet」だ。ふつうのカブは、英語圏でも白いですよ。オクスフォード英英辞典でも、カブ=turnip の説明は、「a round root with white or cream flesh which is eaten as a vegetable and also has edible leaves」となっています。あと、それに似た野菜で swede=スウェーデンカブ(別名 rutabaga=ルタバガ)というのもあるらしいです。

    それで、フェノメノンですが。ハイデッガーの phaino の説明には、こうありました。

    ・・・以下引用・・・

    「現象」(Phaenomen)という用語のもとになっている phainomenon というギリシア語は、phainesthai という動詞の派生語で、この動詞は「おのれを示す」ことを意味する。したがって phainomenon とは、「おのれを示すもの」、「現示されるもの」、「あらわなもの」ということである。そして phainesthai という動詞自身は、「日光に当てる」、「明るみに出す」という意味の phaino という動詞の中動相で、これは phoos などとおなじく pha- という語根の系統にぞくするものであるが、その phoos は、「光」、「明るみ」、すなわち「あるものがそこであらわになり、ありのままに見とどけられるようになるところ」のことである。してみれば「現象」という言葉の意義として銘記しておくべきことは、「ありのままにおのれを示すもの」(das Sich-an-ihm-selbst-zeigende)、「あらわなもの」ということである。そこで、phainomena ――すなわち「現象」を複数で表わすと、それは、「日に当たっているもの」、「明るみに出すことのできるもの」の総体のことであり、これをギリシア人はときおり単純に ta onta(存在するもの)と同視していた。

    ・・・以上、『存在と時間』序論 第二章 第七節(細谷貞雄訳)より・・・
    (ドイツ語のウムラウトつきの a は ae と表記、ギリシア文字はアルファベットに置き換えました。)

    このあと、「仮象」とか「Erscheinung」とかの話が続いています。うーん、とりあえずハイデッガーにしてもカントにしても、じっくり読んでみないといけませんね。ホントに気力と時間が要りますが・・・

    ヌメノンのイメージですが、このあいだ『ソラリスの陽のもとに』を読んだのですよ。昨日読みおわったところなのですが、なんかイメージとしては、あのソラリスの海も浮かんできます。

    それにしても、他人の「知性」のはたらきというものも、分からない部分が、かなりありますよね。「ロゴス」によって明らかになる部分は、理解できるわけですが・・・たとえば、別のスレでご紹介したグールドさんの動画で、彼が練習を中断して戻ってきてまた弾き始める、あのあいだに彼のアタマの中で何が起こっているのか、これは全然想像がつきません。数学者が難しい数式を扱うときの思考過程もどうなっているのか想像つきませんし、哲学者が「精神の手」を使って何をしているのかも・・・ まあ、じっくりと「対話」を重ねていけば理解できるようになるのかもしれませんが、どんだけ時間と根気が必要かと考えると、やっぱりIKAさんのおっしゃるように「必然性」がないと、なかなか「分かろう」という気にもならないわけですね。

    「易経」のお話で思いだしましたが、あるビジネス誌の編集をやっている友人にこのあいだ聞いた話では、けっこう企業の社長さんとかって、何か大きなことを決めるときには、占いなんかの結果で決めたりするようなんです。データや理論に基づく判断よりも、案外信頼できるとおっしゃるのだとか。これも、「易」が「哲学」なのだと考えると、そうかもしれないという気がしますね。そして、いまでは政治が易に頼るようになったら、トンデモナイことだとされちゃいますが、実は vox populi よりも信頼できるのかもしれません。ただし、ニセモノとホンモノを見分けなきゃいけなくなりますけどね。

    ところで、先日電車に乗って揺られているときに、ふっと「死」の意味が分かったような気がしたんです。そのときすぐに「ロゴス」に定着することをしなかったので、その印象はもう薄れてしまいましたが・・・なんか「大丈夫だ」という感じがしたのは覚えています。なんかの拍子にスブスタンチアにでも触れちゃったんでしょうか。

    『300』といえば、ジェラルド・バトラー主演の『ベオウルフ』ご覧になったのですね。派手なアクションもCGもないけど、きちんとつくられた、なかなかよい作品ですよね。キリスト教が「征服者」を「救う」役割を果たしたということは、IKAさんのレビューを拝読して、なるほどと思いました。ベオウルフは、たしか改宗しないんですよね。で、実はグレンデルも、直接ベオウルフに退治されるわけではなくって・・・あの土地に「国」ができていく過程そのものに駆逐された。と、そんな感じがしました。『300』は未見なのですが(予告編は見ました)、ああいうアクションとCGてんこもりで、ドルビーサラウンドでガンガン感情を盛り上げる音楽が鳴ってみたいな映画より、なんかこの地味な『ベオウルフ』みたいな作品のほうが好みだったりします。でもジェラルド・バトラーさん、これは気づきませんね、ほんとうに顔も雰囲気も全然ちがってます。

    京都の吉田山には行ったことがありませんが、近くに京都大学のキャンパスもあるんですね。なるほど・・・でも哲学話をしながら歩くには、やっぱり山ですよね。なんか海ではないような気がします。なぜでしょう、波の音で「ロゴス」が洗い流されちゃう感じがするからでしょうか。でもソラリスの海だったら哲学話も盛り上がるかも・・・『ポニョ』の海の中では、どうでしょうね(フジモトさんに、あのドームみたいの張ってもらって)。

    『草枕』、私も読み返してみようかなあと思いつつ、だいぶ時間がたってしまいました。IKAさんは、もう再読しおわりましたか。そういえば『ポニョ』の制作前に宮崎さんは夏目漱石全集を読みふけっていたと、公式サイトに書かれていました。例の、ミレイの(なんか韻をふんじゃいました)『オフィーリア』もテート美術館に見に行ったらしいですね。どういうところに漱石の影響が伺えるか、探してみるのも面白いかもしれません。

    草枕亭のメニウを考えてみます。
    ・物自体定食:ごはん、黒豆のシチュー(ブラジル料理にそんなのがあります)、すり黒ごまのスープ、ひじきの煮物、デザートはコーヒーゼリー
    ・ヌメノン丼:ごはんにこんぶの佃煮と生のりの佃煮がのっている、ワカメのお吸い物つき
    ・フェノメノン丼:ごはんにとろろとしらすがのっている(とりあえず白いもの・・・)、かぶのお吸い物つき
    ・オフィーリアカレー:デンマーク産の小エビとサムソー・チーズの入ったカレー、エディブルフラワーのサラダつき
    ・草枕そば:「智くわ」と「ど情」と「意なり」(油揚げ)のそば

    うーんマジメにちゃんと食べられるモノを考えてしまいました。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2010/12/25 15:25 by IKA

    aakuraraさん、こんにちは。

    ベートーヴェンって野菜嫌いそう……いや実は、私もそう思ってたんですが……もしかして野菜ももりもり食べていたかも……という説を出しておられる方が……マクロバイオティックの創始者の桜沢如一さん(海外ではジョージ・オーサワで通ってる)ですが、この方が<ベートーヴェンの食べ物>を推定した文章があって、それによると、ベートーヴェンは<陰性食物>をかなり大量に摂っていたのではないかというのですね。

    マクロバイオティックでは、食物を陰陽に分けるらしいのですが……肉とか卵とか動物質は一般に陽性、これに対して野菜類や穀物、お酒やお菓子なんかは陰性になるんだそうです。桜沢さんにいわせると、ベートーヴェンの顔相自体は典型的な陽性らしいんですね。しかし、彼は耳の病気を患った。桜沢さんの説では、耳の病気は大量に陰性食物を摂ると起こりやすくなるそうで……それで、桜沢さんの「推理」では、体質的には極陽性であったが、音楽という分野で感覚を研ぎ澄ましていくためには身体を陰性に保たなければならないので、常に陰性食物を大量に摂っていたのであろう……と。その結果、音楽の才能は大いに発展すれど、肝心の耳が……

    まあ、以上はあくまで桜沢さんの御説なのですが、上記があたってるとすれば、それこそ本当に「音楽に身を捧げた」ということになりそうですね……桜沢さんは、さすがにマクロバイオティックの元祖だけあって、どんな人でも顔を見ただけで、その人が日常的にどんな食物が好きで、どんな病気を持っているかぱっとわかるんだそうです……うーん、まあ、一種の超能力者かなあ……と思いますが……でも、マクロバイオティック=「長生き」と言ってたわりに、ご本人は60代でお亡くなりになってしまったのも、またユニークなところです(前に書きましたっけ?)。

    Beethoven の英語の発音は「ビーソーヴェン」と読む人もありそう……うーん、なんか、ベートーヴェンの顔のついた蜂を連想してしまいました。ビーソーヴェン蜂が一杯飛んできて、一斉に「ブブブブーン」と……そういえば、ちょっと関係ないんですが、「ブルービー」という蜂がいるらしいですね。私は見たことがないんですが、青と黒のまだら模様の蜂……世間では「幸せを呼ぶ青い蜂」っていわれてるそうですが↓
    <リンクURL>
    うーん……ここでまた妄想癖で、「ブルービーソーヴェン」というのを考えてしまいました。陰性物を摂りすぎて真っ青になったベートーヴェン……

    ふつうのカブは英語圏でも白いですか……するとボルシチの赤かぶはやっぱり特殊例なのですね。……赤カブでも、中は白いのと中まで赤いのとあるみたいですが、このあたりの品種の違いになるとまるでわかりません。ベートーヴェンの「beet」はどれだったんだろう……いやまあ、どういうふうでもたいした違いはないのですが……スウェーデンカブの別名がrutabaga=ルタバガということは、これも赤いんでしょうか?(rut=赤?)

    そういえば、グールドさんもベートーヴェンとけっこう似てるんじゃないかと思います。彼もやっぱり元々の体質は極陽性で、それをかなりムリヤリ陰性にもっていってる……という感じがするので……なぜ極陽性なのかというと、まずはあの弾き方ですよね。特に別スレでご紹介いただいた『パルティータ第2番』を弾いているところなんか、やっぱり「この人陽性だー」と感じてしまいます。それと「生え際後退」。陽性の人は、やっぱりそういう現象も顕著なんだそうです(うーん、だんだん民間療法?みたいになってきました……)

    ハイデガーの phaino の説明を陰陽いや引用いただき、ありがとうございました。思い出しました。と同時に、ちょっと勘違いしていたところもよくわかりました。私は、語尾のmenonは受動相の語尾とばかり思いこんでおりましたが、中動相の方だったのですね……語形的には同じだから両方あり得るんですが、意味はかなり違ってきて、受動相だと「現われさせられるもの」みたいなふうになるけれど、中動相だと、「自らを現わす」ということで、まさにハイデガーの書いているとおり「ありのままにおのれを示すもの」(das Sich-an-ihm-selbst-zeigende)ということなんですね。……うちのどっかにあるはずなので、さがしてまた読んでみようと思います。

    『ソラリスの陽のもとに』読まれましたか。たしかにソラリスの海はヌメノンそのものですよね。なんせ「知性」を持ってるし……。タルコフスキーの映画の方はご覧になりましたか?小説とはだいぶ違うところも多いですが、こちらもなかなかのものでした。ただ、タルコフスキーにしてもソダーバーグにしても、映画版の方では「海の描写」にはまったく主眼がおかれていないので、今度は「海」自体を主人公にした映画ができないものかなあ……という気はします。せっかくCG技術がこれだけ発展してきてるんだし、ここらで『本家ソラリス』をやったるぜ!という企画は出ないもんでしょうか……。

    ソラリスの海の「知性」のはたらき方もわからないけれど、他人の「知性」のはたらき……これも往々理解不能ですね……グールドさんのあの動画(パルティータ#2)なんかは、もしかしてオルタナティヴだったんじゃないかという気もします。身体表現とピアノ表現の。なんか、表現の方法が一つじゃなくてふたつ以上あるというのは楽であると。……前にきいた話ですが、公用語がふたつ以上ある国の人は、バイリンガル、トライリンガルになる傾向が顕著とか。やっぱり、小さいときからふたつ以上の言葉が相互にオルタナティヴになってるのか……たしかに、日本は日本語だけで、バイリンガルの人も少ないみたいですが……

    これをちょっと延長すると(また妄想エンジン始動!)、たとえば数学者なんかでも、数式と体操をバイリンガル表現として持ってれば楽しいのかな?とも思います。今まで黒板に数式をがんがん書いていた数学者が突然黒板を離れて体操を始めるとか……おんなじように、黙々とお茶を立てていたお師匠さんが突然トランペットをふきはじめるとか……表現はぜんぜん違うけれど、その本質は同一……みたいな……うーん、これはどうも、ぜんぜん何の役にも立たない妄想のように思えてきました。……ここらへんでやめておきます。

    実は、私も、「死がわかった」と思えた瞬間がこれまで何度かありました。「死の霊感」というのでしょうかね。おっしゃるように「大丈夫」という感じが主体でした。……うーん、これと似てるんですが、何年に一回か、「悟った」と思える瞬間があるのですね。ずいぶん前のことですが、3月の終わりころに、電車(くしくも電車です)に乗って外の風景を眺めてましたら、突然「悟って」しまいました。……窓の外は里山風景で、木々が春の準備のために枝の先までエネルギーを伸ばして、さあ萌え!という直前の姿……ここで、なんと「神の心」を悟ってしまいました……でも、だからといってどういうこともなく、その後も宗教家になるようなこともありませんでしたが……。

    易は、まあ占いの一種なんですが、陰陽思想がからんでちょっと哲学ぽいところもあるみたいです。私もよくしらないんですが……八卦で天沢火雷風山地というのがあって、陰陽はロゴスの世界であり、それが現象のエレメントとして八卦になる……みたいな。なんか「易経」というのが全体がこの現象の世界の模型みたいな機械装置になっていて、そこに現われる様相を読み解くことによって世界を知る……というような、一種の「世界モデルスパコン」みたいなものなんですかね。なので、これをうまく使えばビジネスの先読みも……みたいなことになってるんではないでしょうか。陰陽が基本単位になってるところは今のコンピュータの二進法そっくりで、案外基本的な思考の組立方は共通してるんじゃないか……とも思えます(怪しいところも多いですが)。

    『300』と『ベオウルフ』(2005)なんですが……『300』のレビューをみてみたら、私(非登録のころのika)はこの作品にも『ベオウルフ』と同じ90点をつけてました。うーん、今くらべれば『ベオウルフ』の方がかなり上になるかな……と思うのですが。でも、『300』も、CG使いまくりではあるものの、なかなか不思議な映画でしたよ。ペルシャのクセルクセスさんなんか、もうパンク怪物みたいだったし……。だけど、クセルクセスがギリシア諸国に「水と土」を求める使者を遣わし、ダレイオス(の臣下)が使者たちを泉に投げこんだ……みたいなところはちゃんとやってました。でも、エフォロイ(元老?みたいな方々)たちはほとんどオカルトになってましたが……

    『ベオウルフ』(2005)は、レビューには書きませんでしたが、ロケ地のアイスランドの風景は圧倒的に美しかったですね……なんか、アイスランドロケはこの映画においてはかなり重要なファクターだったみたいです。公式サイトの中のプロダクション・ノートにけっこう情報が載っていて、読んでみると(まだ途中ですが)へー……ということがいろいろ書いてありました。↓(hを入れてください)
    ttp://www.beowulfandgrendel.com/site/pages.html
    あと、洗礼って、ほんとにあんなふうだったんでしょうか……あれではまるで格闘技……

    ベオウルフ自身は、たしかにあの洗礼は受けてませんでしたね。彼は、ずっと「酒と魚しか約束してくれない神」を選びつづけたのか……それとも彼の神は別にいたのでしょうか……私は、なぜキリスト教がヨーロッパのすみずみ(というか世界のすみずみ)にまで広がることができたのか、その点が前から不思議だったんですが……この映画をみてその一端がわかったような気はしました。うーん、日本でも、仏教の蘇我氏と神道の物部氏の争いがありましたけど、考えてみれば仏教は世界宗教で神道は民族宗教ですから、キリスト教とデン王の神の関係に似ている部分もあるような気はします。なんか、こういう現象の根底には、それこそ「秘められた」ものがあるような気もするんですが……

    あと、KIN(血筋、血統)みたいなものについても触れられていました。ここのところはあんまりよく覚えていないんですが……プロダクション・ノートの未読のところにもなにか書いてあるかもしれません。この問題は、上の神様の選択の問題とも密接に関連してくるように思いますね。小国であれどデン王の場合には、結局KINでつながる範囲を越えなきゃいけなかったのか……これに対して、ベオウルフの方は、あくまでKINでつながる範囲の王に留まる……ということだったのかもしれません……余談ですが、こういう点からいくと、日本の天皇を英語で emperor と言うのはやっぱりおかしくて、king でないといけないのかな……とも思うんですが、外国人の目にはやっぱり emperor として映っている……ということなのでしょうか。

    京都の吉田山はなかなかいいところですよ。山というよりは丘といった方がいいかもしれませんが……吉田神社という変な?お宮さんがありまして、ここは『鴨川ホルモー』という変な映画の舞台にもなったところなんですが、本殿(大元宮)の形はなんと八角形……↓この形は、なんか中世の「吉田神道」のロゴスをそのまま具体化したものらしいのですが……あと、散策路には和食の元祖みたいな四条流の藤原山蔭さんの碑もあります。
    <リンクURL>#3

    書いていただいた草枕亭のお献立は和食主体ですね。ヌメノン丼が黒で、フェノメノン丼は白……そうすると、ヒュポ丼(ヒュポスタシス丼)は赤かぶとイクラの赤……オフィーリアカレーもおいしそうですね。草枕そばはなるほどです。これって、このメニューでほんとに草枕亭をやれば繁盛しそう……ちょっと範囲を広げて、キリストさんが食べたと考えられるガリラヤ湖の煮魚定食や、お釈迦さんが「鋼鉄のような歯」で噛んだかもしれないブッダルカレーなんかはどうでしょうか。そして、きわめつけは、器になんにも入っていない虚体丼……(ロゴスパイスがかかっていたりします)

    せっかく食べられるメニューだったのに、だんだん食べられない系になっていきそうで失礼しました。『草枕』は、ほぼ半分くらいまで読んだところです。オソロシイ遅読ですが、なんだか文章の一つ一つが俳句になりそうで、おっ、ここはこういう句になる……とか、こうやったら面白い……とか考えているといつのまにかそっちの方に夢中になってちっとも進みません。薄い本なのに、かなり中味は濃いですね。いつまで噛んでも味の抜けないチューインガムみたいな(例えは相当悪いですが)。

    というところで、究極の問題メニューが浮かんでしまいました。
    ポニョ丼。
    うーん、これは怒られそうですが、ハムが主体の丼と考えれば許してもらえるかも……。
    (今回は、野菜ではじまってハムで終わりました)

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/1/5 2:13 by aakurara

    IKAさん、こんばんは。

    そうかー桜沢さんの説をきくと、ベートーヴェンは陽性体質なのにムリして嫌いな野菜をいっぱい食べて耳を悪くした人の顔にも見えてきました・・・ 「先生、たまにはお肉も召し上がったほうが・・・」「いや、肉を食うと感性が鈍るのだ、今日も大量のキャベツとカブを茹でてくれ!」なんて。

    マクロバイオティックについての英語のサイトなんかものぞいてみましたが、日本では「輸入された食品は食べるな」と言っているのに、英語のほうではぬか漬けとか梅干しとか大根とか味噌とかが推奨されていて、日本の食品を海外の人に食べさすのはいいのか、などとヒネクレモノのわたくしは・・・

    「桜沢如一顕彰会」というところのサイトで、「本来、生きることは果てしなく愉快で、素晴しいものです」と言われていますが、この前提が私にはすこし疑問です。本来は、それこそ陰陽のように「愉快で素晴しい」ところと「不愉快でしんどい」ところとのバランスで、これをもっと愉快で素晴しいものにするために文明やら科学技術やらが発達して、その結果、一見バランスが崩れたようにも見えるけど、実はバランスが複雑化しただけで、実は全体として見ると均衡がとれているのかもしれない・・・と、なんか私にはそんなふうに思えます。

    うーん、なんだかやっぱり私がヒネクレているのだと思いますが、「ほんとうの幸福」とか「理想の実現」などをうたう思想にはどうしても懐疑的になってしまいます。「不幸がすべての人に落ちかかっている現代のような時代には、魂への救いは、実際に魂を不幸のためにそなえさせるところまで行かなければ、効果がない」とシモーヌ・ヴェイユが言っているのですが、こちらのほうが共感できますね・・・ まあ桜沢さんのマクロバイオティックも、本来は「不幸のためにそなえさせる」思想なのかもしれませんが。

    それはさておき、ブルービーってきれいですね。真っ青になったベートーヴェンの顔をした青蜂を思い浮かべてしまいました。ボルシチの赤かぶは、ウクライナ語で「ブリャーク」というものらしいです↓
    ttp://ja.wikipedia.org/wiki/ブリャーク
    ルタバガは、もとがスウェーデン語の「rottabagge」であるらしいのですが、そういう言葉はスウェーデン語の辞書をひいても出てこなくて、逆に「rutabaga」をひくと、これはスウェーデン語の「kalrot」(a の上に円い綴字記号がついています)にあたるそうです。ううむ、よく分からなくなってきます・・・
    ttp://ja.wikipedia.org/wiki/ルタバガ

    グールドさんも、たしかに陽性体質をムリに陰性にしている感じ、しますね。「グールドさんあなた、たまにはお肉とか栄養のあるもの召し上がったら・・・」「いや、肉は噛むのが面倒なのでね、今日もビスケットとミネラルウォーターでいいです」・・・てな具合でせうか。なんか、もしグールドさんがカロリーメイトを知っていたら、そればっかり食べていそうです。

    タルコフスキー監督の『惑星ソラリス』、すごく見たいのですが、ちかくのレンタル店においてないんですよね。でも、「海の描写」を主体にしたバージョン、見たいですよね。それこそ、いま流行りの3Dで。クリス・ケルビン役は、テオリアオーラのサム・ワーシントンさんでいかがでしょう。ハリー役は誰がいいでしょうね。ナタリー・ポートマンとか? なんかハリウッドでつくられることを前提としているあたり、我ながらツマラナイような気がしますが。

    数学&体操、お茶&トランペットのオルタナティブ、面白いですね。話を現実的なほうにもっていくと、「医者で作家」という人もオルタナティブっぽいですよね。あと保険会社で働きながら小説を書いていたカフカとか・・・この路線は、探すともっといろいろありそうです。

    「死の霊感」をうけるというのは、どうやらそれなりにありふれた出来事なのですね。おっしゃるように、なんか「悟った」あとも、そのまま変わらぬ日常が続くんですよね。ということは、おそらく「神の心」は「日常そのもの」とかけはなれたものではない、ということなのだろうと思います。陰陽思想も、基本的にそういう認識が前提にあるのかなあという気もします。「絶対」とか「普遍」とかが出てくると、だんだん非日常の世界にはいっていきますが・・・うーん、キリスト教なんかは、だいぶ「非日常」をウリにしているような感じがしますね。相対的であいまいな日常にカタつけたるぜ!みたいな。

    ところで『ベオウルフ』に出てきた洗礼がまるで格闘技のよう、とおっしゃっていますが、ああいうホントにプロレスかいなって感じの洗礼って、たまに映画で見るような気がします。とくに小さいころにあれをやられるとけっこうトラウマになるみたいな描写も、どこかであったような。でもカトリックの洗礼というと、映画『ゴッドファーザー』に出てくるような、教会で赤子にちゃぱちゃぱっと聖水をかけるみたいなのが、一般的なイメージなんでしょうかね。

    KINについてのところは、私もよく覚えていないですが、なんか『ゴッドファーザー』からの連想で、マフィアもモロにKINの世界だよなあ、とか思ったりしました。でも『ゴッドファーザー』のコルレオーネ一家も、子どもが生まれるとちゃんと教会で洗礼をやったりして、いちおう立派なキリスト教徒なのであって・・・やっぱり「ビジネス」としてはKINの範囲を超えていろいろ悪いことをするので、バランスをとるためには教会も必要、ということなんでしょうか。

    日本の天皇がなぜ king ではなく emperor と言われるのか・・・これは考えたことがありませんでしたが、たしかに king でもいいような気もしますね。オクスフォードの英英辞典をひくと、それぞれ
    king: the male ruler of an independent state, especially one who inherits the position by right of birth.
    emperor: a sovereign ruler of an empire.
    という定義になっています。うーむ、定義からするとむしろ king のほうがふさわしいように思われますね。

    吉田神社、こんど京都に行く機会があったら参拝してみようかな・・・八角形の本殿って面白いですね。ちょっと百科事典で調べると、吉田神道にも陰陽道がすこし混ざっているようですが、やはり日本の思想って、なんでも取り込んでまぜこぜにしちゃう原子炉的なところが特徴なのですね。

    それで、新年会用にマクロバイオティック式の健康的なメニューか、あるいはアンチ・マクロバイオティック式の不健康なメニューかを考えようと思っていたのですが、なんかけっこうな時間になってしまいましたので・・・とりあえず新年会はポニョ鍋にしましょうか! いや、もちろんハムが主役の鍋ですよ・・・

  • Re: 森の神が死んだあと ネタバレ

    2011/1/6 18:05 by IKA

    aakuraraさん、こんにちは。

    ベートーヴェンの食生活ですが、陰性食品ということでは、野菜類よりもむしろお酒とかコーヒーとかが多かったのかもしれませんね。マクロの本を見ると、お酒とかコーヒーは野菜類よりはるかに陰性度が強いらしいので。あと、お砂糖たっぷりのお菓子とか。お砂糖は極陰性食品らしくて、大量摂取すると即効で身体ががたがたになるそうです。……アメリカのお菓子なんかものすごく甘いのでびっくりしますが、これは、アメリカの人は陽性食品である肉類を大量に摂るので、極陰性の砂糖を大量に摂って、それでバランスをとっているのだとか。

    マクロの矛盾について書いておられるところ、うーんさすが!と思いました。そのとおりなんですよね。マクロの基本は「身土不ニ」つまり、土地と身体は二つならずということで、その土地でとれたものを食べる。これが絶対のポリシーのはずなんですが……それでいけば、アメリカの人は土地の小麦からできたパンとその土地で飼っている牛や豚の肉を食べればそれでいいわけなんですよね。でも、実際には遠く離れた日本の食べ物、しかも昔ながらの食べ物を摂りなさいと……これは、矛盾以外のなにものでもないわけです。(で、実は、この「矛盾」が桜沢さん独特の「文明批判」のテコみたいな働きをするのがまた面白いところです)

    そもそもマクロの発祥は、実は近畿地方らしく、この地方の人が昔(というのはおそらく江戸期)から食べてきた食物が基本になっているわけです。「食養会」の創始者の石塚左玄さん↓は福井の人で、これを継いでマクロビオティックを立ち上げた桜沢さんは和歌山県の人。で、桜沢さんの無双原理研究所ができたのが滋賀県大津ということで、このあたりの人々が昔から食べていたものが基本になってるわけです。書いておられるぬか漬けとか梅干しとか大根とか味噌とか……およそ、欧米の人々には縁のない食品ですが、これを食べなさいと……
    <リンクURL>

    それがまた、欧米のひとたち(といってもごく一部)に受け入れられたというのが不思議ですが……桜沢さんは各国語に堪能で、いろんな国の言葉で本を書き、世界をまわって講演した……それは、ある種の「現代文明批判」みたいになっていたと考えられます。つまり、単なる「健康長寿法」ではなくて、現代文明の行き着く先を暗示して、あるべき方向を示す……というけっこう先鋭的な視点を持っていたので、それが「東洋の神秘」みたいなものとないまぜになって、「西洋文明」からの「脱構築」を目指す一部の人々に受け入れられた……というのがだいたいのところじゃないかと思います。

    桜沢さんの「脱構築」の方法論は面白くて、それは「食い改めよ」ということなんですね。これを英語でいうとどうなるのか知りませんが「refeed」みたいな感じでしょうか?荒野に「repent!」と叫ぶ洗礼者ヨハネのごとく……彼にとっては、「文明は食から」というのが基本だったみたいで、頭の理論で「脱構築」よりまず「食い改めなさい」と。身体が変われば精神も変わってくる……ということで、これは一種の唯物論ですね。しかもかなり徹底した。「身体に効く」という点では、メルロ・ポンチさんより過激なのかもしれません……

    桜沢さんの「思想」は意外に幅が広くて、各方面に影響を持ったようです。まあ、カウンターカルチャーというのでしょうか、そのあたり、私はよく知らないんですが、ヒッピームーヴメントなんかにも影響を持っているし、太田竜さん↓のような過激な「左翼革命家」にも影響を与えてます。彼のことを本格的に調べてみると、いろんなことがゾロゾロ出てきて面白いと思うのですが、その先は闇の世界にもつながっていくみたいで、それこそ薄暗い喫茶店の二階席でささやかれる「実は……」というお話にもなっていきそうな……
    ttp://ja.wikipedia.org/wiki/太田竜(あたまにhを入れてください)

    えーと、ベートーヴェンの食生活からなんかとんでもない話題にまで広がっていったみたいですが……私は、マクロビオティックはみようみまねでちょっとやってみたけれど、マジメにやったことがないので、実はあんまりなんにも言えないんですよね。でも、知り合いで、一時期かなり厳格にやった人の変貌ぶりを目の当たりにしたので、その影響はけっこう大きいのかも……彼女は、病気直しでマクロに三ヶ月間、厳格にとりくんだのですが(厳格に、の意味は、先生の書いてくれる「食箋」、つまり食事の指示書きどおりにやるという意味)、病気は完璧に直り、おまけに10kg近いダイエット効果まで!しかも、すばらしい「美人」になってしまった……。

    えー、「美人」というのはあいまいな言い方ですが……なんか、「根底からの美人」なんですよね。……ふつうにいう「美しい」というのを通り越して、なんか、身体をつくっている細胞の一つ一つに生命力がみなぎっていて輝いている……みたいな、ちょっと他の美容テクニックではあそこまではムリじゃない?という……ご本人も、身体が軽くなって「疲れ」というものを感じなくなった……と。……でも、病気が直ると人間ってゲンキンなもので、また元の食生活に近いものに戻ってしまったので、「根底美人」も長続きはしなかったのですが(なにせ、肉類全部ダメ、魚もダメ、お酒もコーヒーもお菓子もダメ……これでは続きません、フツーは)。

    私は、結局桜沢さんの「思想」も「実践」も、生涯矛盾に満ちたものだったんだと思います。彼の後継者にはそういう「矛盾」の魅力がなかなか理解できなかったみたいで、整合性や理念的なものにこだわるあまりだいぶスケールダウンしちゃってますが……ご本人はけっこう「怪物」みたいな感じで、私には魅力的な人に映ります。……世の中、理論どおりにはいかないし、人間もそうだし……たぶん「ほんとうの幸福」も「理想の実現」も、それは結局言葉だけに終わる……そういう意味で、懐疑的と書いておられるのは正しいのだと思います。「魂を不幸のためにそなえさせる」という考え方は、そういう意味では、人間に本当にできる最小限かつ最大のことなのかもしれません。……しかし、それさえ実現できていなのが今の世界……うーん、もうどうしようもない感じですね……。

    ルタバガについていろいろ調べていただいてありがとうございました。作物というのは、「身土不ニ」じゃないですが、土地が変わると呼び名も変わるしそのもの自体も少しづつ変わってくるし……同じものに違う呼び名がついたり、違うものが似たような名で呼ばれたりして、本格的に調べようとするとやっぱり「卒論一本」いや、それ以上の努力が必要になってきそうですね……最後は、現地フィールドワークということになるのかもしれません、お料理本を出している会社が資金をバックアップしてくれて……というのは夢のような話……でも、かなりの労力と費用と時間がかかりそうな気がします。

    教えていただいたサイト(ルタバガの方)に出てくるSteckru:benwinter(ルタバガの冬・ウムラウトは:で示します)という言葉のSteckru:benがルタバガになるのでしょうが、この単語に含まれるru:benをドイツ語の辞書で調べてみると、Ru:beはかぶらあるいは人参の意味であると出てました(白いRu:beがかぶらで、黄色いRu:beがにんじんなんだそうです)。ここからの類推に限れば、ルタバガのルタ(ruta)は「赤」じゃなくて「かぶ」とか「根っこ」の意味みたいですね。ルタが「赤」というのは、私の思いこみによる間違いだったようで、失礼しました。英語語源辞典を見ると、英語の「root」の語源として古代ノルウェー語の「rot」が紹介されてますが、これは、もしかしたら、書いていただいたスウェーデン語の「kalrot」の「rot」に通じるものなのか……あくまで推測なんですが……

    グールドさんとカロリーメイトはたしかに相性ピッタリそう。カロリーメイトは、調べてみると発売が1983年からだそうですが、グールドさんが亡くなったのは1982年なので、彼はタッチの差で間に合わなかったことになりますね……もし彼がもう少し長生きしていたら、カロリーメイトのCMに登場していたかもしれません。『パルティータ第2番』を弾いている彼が突如ピアノを離れてテーブルに……そのテーブルにはカロリーメイトとポカリスウェットが(えー、どちらも大塚製薬です)……で、バリバリ食べてむん!と飲んでまたピアノに戻って弾きだす……で、そこにコピーが重なる。「グールドメイトのカロリーメイト」なんて……。

    タルコフスキーの『惑星ソラリス』は、あんまりレンタル店には出ていないかもしれませんね。以前はときどき見かけたのですが……ソダーバーグさんの『ソラリス』が出て、棚から駆逐されちゃったのかもしれません。私は、作品としては圧倒的にタルコフスキー版の方がよくできてると思いますが……タルコフスキー版はまた音楽がすばらしくて、バッハのBWV639コラールの電子音楽版……当時としてはかなり面白い試みだったと思います。まあ、20世紀初頭の現代音楽家によるバッハ解釈の「伝統」の掉尾を飾る試み……と読めなくもないのですが。タルコフスキーの作品自体、そういう解釈をしてみても面白いのではないかとは思います。

    サム・ワーシントンのクリスとナタリー・ポートマンのハリー……これはそそられる組み合わせですねえ……これならハリウッドでも、監督さんを選べばかなりのものができるんじゃないでしょうか? 監督さんは……えー、変化球ですが、デヴィッド・リンチさんなんかいかがでしょう。ただ、彼の場合、人間ドラマの方にこってまたまた「海」の表現がおろそかになる可能性は大ですね……ウォシャウスキー兄弟なんかだったら、「海」のCG表現にも凝りまくる可能性ありそうで、しかもドラマの方も面白くなりそう……『マトリックス』の後の『Vフォー・ヴェンデッタ』も面白かったし……

    オルタナティヴのお話ですが……たしかに現実版ならいろいろありそうですね。「密林の聖者」で有名なシュヴァイツァー博士も「医者で音楽家」だったし……そういえば、桜沢さんはシュヴァイツァー博士にも会ってるんですよね。わざわざアフリカまで行って博士にマクロ理論を説明したけれど、理解してもらえなかった……とか。このあたりの「ズレ」はいろいろ面白そうですが……あと、特許庁の役人をやりながら物理学の研究をしていたアインシュタインとか(若いころですが)、外交官でもあったライプニッツとか……前にも書きましたが、ヘンデルももしかしたらハノーファー選帝候のスパイだった可能性も……

    「キリスト教」は、おっしゃるように「非日常」をウリにしてる感じはしますよね。……陰陽思想でも、両者を統一する「太極」というのがあるので、この部分はけっこう「非日常」かなという感じですが……でも、ふつうは「太極」は登場せず、すべて陰陽でカタをつけるので、やっぱり基本は「日常」なのでしょう。……洗礼について思い出すのは……昔、モルモン教の宣教師さんたちにちょっと英会話を習ってたんですが、彼らはむろん「勧誘」が主目的で、私は入りませんでしたが、入信させられてしまった人の話(ウワサ話)をききました。それによると、なんかプールに投げこまれたそうで、それが「洗礼」なんだとか……ホントかどうか知りませんが、ホントだとしたら過激だなあ……と。

    『ゴッドファーザー』はちゃんと見ていないのですが(TVでやってたのを切れ切れに見た)、やぱり熱心なカトリックではあるのでしょうね。それが「荒稼ぎ」や「殺人」と同居するのは不思議といえば不思議ですね……でも、ローマ教皇の中にも強行な方もおられて、「聖戦じゃー、異教徒は殺せー」なんて……うーん、結局人間って、どこまでも矛盾に満ちた存在なんですね。で、その矛盾を力づくで解決しようとしてますます矛盾に陥っていく……それを覆い隠すためにやることがさらに矛盾を生み……これはもうきりがない矛盾の連鎖ですね……それこそ「食い改める」必要があるのかもしれません。

    king と emperor について調べていただき、ありがとうございました。日本の天皇を emperor と訳すようになったのは、もしかしたら中国の「皇帝」からの類推かもしれませんね。……でも、中国の「皇帝」と日本の「天皇」は、だいぶ意味が違っているようにも感じます。ただ、幕末から太平洋戦争の終戦までのおよそ百年間は、日本の天皇の位置づけも以前とはかなり変貌してしまったようなので、この時期の「天皇」は、諸外国の方々にとってはまさに「emperor」あるいは「emperor」を目指すものと映っても不思議はなかったかもしれません。まあ、今の「天皇」はどちらかといえば「king」に近いのかもしれませんが、そのあたりも政治的にはなかなか微妙なものがあるようで、難しいですね……

    最後にちょっとベートーヴェンの食生活にもどりますと……彼は、やっぱりお肉もどっさり食べていたような気がしてきました。しかし、そのお肉の陽性作用を打ち消し、上回るだけの陰性食物を摂った……これが彼の音楽の精神に霊感を与えるとともに、彼の耳を冒して聴覚を奪い取った……そういう気がします(音楽を聴いていると)。……そういう意味で、彼の身体は彼の「音楽」そのものになっていて、主題の提起と矛盾相克、そして解決……という彼の弁証法的作曲法そのもの……これはまた同時代のヘーゲルの中に荒れ狂った暴風のような精神の運動そのもの……であったような気がします。そして、その「精神の運動」は彼らの外に飛び出し、世界中を巻きこむ巨大な矛盾相克運動として今に続いているのでは……(えー、またまた妄想が……)

    で、妄想ついでにさらに想像の翼を広げますと、結局それは、地球という一つの遊星が自己認識をしようとしてかなでる夢みたいなものに至るのではないか……地球の海が引き起こす矛盾相克は潮の満ち干になって現われますが、その矛盾が地殻に至ると造山運動となり、海洋底で大地は裂け、動き、それが陸に押し寄せて山を造り……人間の精神は、遠くそういった海や大地、さらには月の力までを取りこんだ「大きな矛盾相克」に、実は強い影響を受けているんじゃないか……そしてまた、人間の精神の相克も、この星の根本のところになにかしら影響を与えるのではないか……『ポニョ』では宮崎さんはごく控えめに描写しておられましたが、もし「人類の役割り」みたいなものがなにかしらあるとすれば……(ここで妄想ストップいたします。すみませんでした)

    新年会用マクロビオティック健康メニュー!……それはもう「玄米餅雑煮」で決まりのような気がします。おせちはごぼうきんぴらとひじきの煮付け……お雑煮のだしは昆布オンリーで、むろんアルコール類はいっさいなし。食後は梅干し入りの三年番茶をすする……うーん、なんかものすごく貧相なことになりそう……これに対して「アンチ・マクロ不健康メニュー」はだいたいふつうのおせちでいいのではないかと……これにステーキ、トンカツ、スキヤキを加え、アルコール飲み放題、食後にはショートケーキや大福をたらふく……なんか、仕事始めには10kgくらい肥えてそうな感じ……やっぱりハム入りポニョ鍋くらいが一番いいのでしょうか……。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/1/19 23:55 by aakurara

    IKAさん、こんばんは。

    やっと仕事がひとだんらくしました。なんかちょっと以前までは、すこし仕事を怠けてもすぐ取り戻せたんですが、だんだん怠けタイムがだらだらのびてきているのか、やっぱり集中力・持続力ともに落ちてきているのか、さいきんは怠けるとどーんとそのツケがきてイケマせん。

    それで、マクロビ・・・。これもグールドさんと似たパターンで、なんか私はよく知らずに勝手に「オサレ」なイメージを抱いていました。なんとなくマドンナとかもやってそうですし、けっこうマクロビ本ってオシャレな感じのが多いような気がしますし。でも桜沢さんのお顔を拝見すると、ぜんぜんオシャレ系じゃなかったので、あらっと思いました。IKAさんがおっしゃるように「矛盾が魅力」というのも、ちょっと分かってきたような気がします。

    でも、現代にあってマクロビを実践できるのって、わりと「ぜいたく」っていう気はします。やはり庶民は安い輸入食材に頼らざるをえませんし、たとえば全世界がマクロビ処方の「身土不二」で「食い改める」というのも、絶対無理ですよね、おそらく。食料生産やら流通やらの体系を根本的に変えないと・・・そのあたりもマクロビの「矛盾」の一部なのかもしれませんが。だけど「キレイで健康になるために」マクロビ実践するのだとしたら、ちょっと自分勝手かなあ、という気もしてしまいます。やっぱり「食が歪んでいるという現代の不幸」にもそなえさせる、というのでなければ「魂の救い」への効果はないんじゃないか・・・と。あと「健康で美しく」というのが、「本来的な」理想の生き方であるのかどうか、これも実は分からないんじゃないか、とか・・・

    でも石塚左玄さんのサイトにある「肉と野菜をバランスよく」批判なんかは、面白いです。「日本人の霊的波調に合わない低次元なもの」なんて言い方も、キライじゃないですし。あ、でもそうか要するに「上から目線」なんですね、これ。うーん、こういうところも面白い「矛盾」かもしれないですね。

    太田竜さんも知りませんでしたが、なんか「白痴製造機」というのは聞いたことがあるような・・・そして、またイルミナティが出てくるんですねー。喫茶店の二階席ですねえ。

    ルタバガの「ruta」は、おっしゃるように北欧系の言語で「根」の意味になるようです。根菜系には「ruta」とか「rot」とかがつくのかもしれませんね。

    グールドさんのカロリー友CM、いいですね。そういえばこのあいだ友人の家におじゃましているときにテレビを見ていたら、なにかのCMに故フレディ・マーキュリーが出ていました。故人がああやってCMに出られるんなら、ぜひグールドさんも・・・大塚製薬の宣伝部のかた、いかがでしょうー(って絶対大塚製薬の人はここ読んでないですが)。

    タルコフスキーの『惑星ソラリス』見たいです・・・もう面倒だからDVD買ってもいいという気もするんですが、レンタル屋になかなかないだけじゃなくって、なかなか販売もしてないみたいなんですよね。いっそ輸入版を買っちゃうのが早いかも、ということで調べてみたのですが、あまり安くもなくって、ううむ微妙です。あ、でもなぜか日本語字幕も表示できるみたいです。ちょっとお小遣いをためて『メトロポリス』完全版といっしょに注文しようかな・・・

    陰陽思想の「太極」というのは、いわゆる「太極拳」のたいきょく、なのですよね。太極拳というと、私はなぜか「日常化した宇宙」という言葉が浮かぶのですが。いつものブリタニカで「太極」をひくと、この説明ってまるでプラトン哲学・・・「すべての物の実在を規定する唯一の根元」とか、「朱子が『無極にして太極は理である』と規定するにいたって、太極は宇宙または個々の物の本体、つまり存在ならびに主体の唯一の真理であるという重要な概念となった」とか・・・ 「無極にして理」というあたりは、ちょっとエックハルトぽくもあります?かねえ。

    あと、ベートーヴェンから地球の「矛盾相克」のことを書いてくださってますが、なんだかやっぱり、分かりやすく見える範囲での「調和」とか「健康」とか「美」とかっていうのは、一種の「アノマリー」なのではないかという気もします。「矛盾相克」がアノマリーなのじゃなくって、むしろ逆で。だから「人間の精神の相克も、この星の根本のところになにかしら影響を与えるのではないか」とおっしゃっているのも、ちょっと遠い目でぼやーっと考えてみますと、そうかもしれないと思えてきました。

    結局「矛盾相克」してるのが、地球にとっても人間精神にとっても「ノーマル」なのであってそういう状態こそが「調和」とも言えるのだけど、人間理性にとっての「調和」というのもあって、人間は一所懸命人間理性バージョンの「調和」をこの星に刻印しているのか・・・でも人間理性もやっぱり「矛盾相克」の影響を受けていて。うーん、なんだか話が循環してきてわけがわからんったい。(いきなり博多弁)

    「人類の役割」は、私にはさっぱり見えません・・・

    ええと、この時期ですと、そろそろ節分ですね。節分パーティはポニョ恵方巻きにしましょうか。もちろんハムがはいってるんです。生ハム入りとか、けっこう美味しそうです。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/1/21 9:44 by IKA

    aakuraraさん、こんにちは。

    お仕事一段落……よかったですね。……たしかに若いときは集中力も異常で、私も20代のころは、20時間近く机に座りっぱなしで、食事もとらずトイレにもいかずずーっと文章を書き続けていたことがありました(そのころは企画書作成とかのお仕事でした)。今考えてみれば超能力のようなもので、今では1時間PCの前に座ってるともうだめです。この調子で行くと、10年後には10分が限界になるかも……です。

    桜沢さんのお顔……あの顔相は、長期間マクロをやった日本人の典型的なルックスなんですよね……私は、知り合いに連れられて何度かマクロの講演会とかに参加したことがあるんですが……会場におられる中年男性陣が、かなり「あの顔」でした。マクロでは、身体を陽性にもっていくことが薦められているようで(それだけ現代人は陰性過多ってことでしょうが)、玄米とキンピラで身体を締めていくと、顔つきはだいたいあんなふうになっていくみたいです。(女性はあの顔の女性版になります)

    それと、もう一つには、マクロでは「よく噛め」が推奨されているようで……桜沢さんの著書なんかみても、「一口最低200回」なんて書いてあります。で、そのとおりにやると……頬骨がごんと出てあごががっちり締まってあんな顔に……私も「200回」やってみたんですが、一週間くらいすると歯ががたがたになって歯医者通いのはめに……で、「200回」はやめまして……おかげで「マクロ顔」にならずにすみました。

    でも、幕末から明治時代の日本人の写真を見ると、なんか「マクロ顔」がやたらに多いんですね。頬骨がでっぱって出歯で目つきが精悍で……武士も農民も町人もあんな顔ですが、お殿様なんかだとけっこう現代人に近いやわらかめの顔つきの人もいます。この違いはやっぱり「銀シャリ」のようで、庶民や下級武士は玄米、お殿様は白米……玄米と味噌と野菜(賢治食)で身体を締めていくと桜沢さんみたいなお顔になり、白米や砂糖を多用して緩めていくと殿様顔になる……うーん、これはどっちがいいのかよくわかりません……。

    私のイメージでは、マクロはどっちかというとダサい系なんですね。……私が「マクロバイオティック」という言葉をはじめて聴いたのが、1960年代の終わりに出たピンク・フロイドのアルバム『原子心母』だったんですが、このレコードのB面に入っていた曲の中で、食卓の準備をする音とか目玉焼きを焼く音とかにまじって「マクロバイオティック・スタッフ」というつぶやきが聞こえてきました。……辞書を引いてみてもこの言葉は載っておらず、ホンヤクもついてません。で、英語に堪能な人に聞いてみても「わからん」と……。

    この「マクロバイオティック」が桜沢さんの「マクロ」らしいということは後に知ったのですが……なんかそれ以来、「マクロ」はヒッピー文化とともに私の中に定着してしまいました。……ヒッピー文化が「ダサい」というのではないのですが、マドンナみたいなイメージに比べると圧倒的に土着で……しかも、「マクロ」の集まりで拝観?した方々のお顔のイメージも重なってしまって……ところで、マクロの目的は「健康で美しく」というのはそのとおりなんですが、桜沢さんの著書を読むとはるかにスケールがでかくて、対象は「人類文明」になっちゃってます。

    「健康で美しく」はあくまで個人次元のお話ですが、書いておられるように食料生産や流通の体系……となると個人次元ではすまない……桜沢さんは、晩年には「生体内原子転換」ということを考えておられて、このアイデアを松下だったか三菱だったか、とにかく巨大企業に売りこもうと暗躍?されておられたみたいです。要するに「生体内原子転換」で人類の物質面での生産方式に一大革命を起こす!ということで、これは「産業革命」をはるかに上回る画期的な大変革なんだ……と。でも、その研究のさなかに突然お亡くなりに……

    まあ、このあたりの「人類史変えたるで!」みたいなところに太田竜さんなんかは惹かれたのかもしれないですが、世間ふつうの感覚からいえば殆ど狂気の世界……まさしく「トンデモ」の栄冠を受けるにふさわしい……ところで、石塚左玄さんが「上から目線」なのは、やっぱり「明治の男」だったのと、もしかしたら軍人さんだったのも関係するかもしれません。肉食はノーとおっしゃってますが、最近の「草食男子」とはほど遠いお方であったことはまちがいないと思います。

    現代でマクロの実践ができるのはゼイタク……これは私もたしかにそう思います。マクロのものって、なんでもやたら高いんですよね。お味噌もお醤油も油も塩も……でもそれは、結局現代の食糧流通機構の……とやっていくと結局太田竜さんみたいなところに行き着きそうですが、究極的には「自給自足」かこれに近いスタイルになっていくようです。……まあ、江戸時代くらいの日本の食糧供給体制みたいなものが「理想的」ということなのでしょうが……おそらくは、「食が歪んでいるという現代の不幸」をなんとかしたるで!というのが桜沢さんの本来の目的だったんだと思いますが、今跡を継いでいる方々は「私がキレイで健康になるために」というところどまりのようですね、残念ながら。

    マクロの話ばかりになってすみません。ちょっと話題を変えまして、『惑星ソラリス』ですが、やっぱり見つかりませんか……輸入版でも高いというのは、世界中どこでも需要がないということなんですかね……レンタル店にリクエストしてみるというのはどうでしょうか。ついでに、タルコフスキーの他の作品も(もしごらんになっていなければ)。『ストーカー』とか『鏡』とか『サクリファイス』とかもなかなかすばらしい作品だと思います。

    「太極」とプラトン哲学の類似……たしかに似てると私も思います。でも、易では、太極は「宇宙の根元」であるはずなのにその後はあんまり活躍もせず、大きな顔をしているのは陰陽二極……このあたりは、「一者」とはかなり違うものを感じます。まるで「論理的要請」にすぎないもののような……日本神話だと「アメノミナカヌシノカミ」という方がおられて、この神様が一応「太極」、宇宙の中心なんですが、まったくなんの活躍もなさいません。……なんか風土的に、やっぱり一神教は受け入れがたいのかなあ……という気もします(中国も日本も)。

    調和や健康や美がアノマリー……これって、易経思想に通じるところがあるような気がします。易だと、6コウ(漢字がでません)の全部が陽は「乾為天」(けんいてん)といって、最強の卦になるはずなのが、「昇りすぎた竜は降るしかない」ということで、かえってだめみたいですね。
    <リンクURL>
    要するに、振り子が上がりきった状態は、「いちばんてっぺん」なんだけれど、あとは「下り」になるということで……逆に、一番上昇加速度の強い点は最下点……易では、すべてをその「位置」や「速度」で見るのではなく「加速度」で見ているような気がします。……これは、光が最も弱まる冬至の日をクリスマスにしてしまった考え方とも一脈通じるような……

    まあ要するに、「世界はダイナミックだぜ」ということなんでしょうか。ヘーゲルさんの「弁証法」もやっぱりこんな考え方なのかもしれません……易とヘーゲル思想の関連について研究した本はみたことがないのですが、これはやってみれば面白そうな分野かと……。ついでに「加速度」を扱う微分の分野とも組み合わせて文系*理系*西洋*東洋のアマルガムの探求……ということになると、これは「ハイ、トンデモ一丁!」ということになりそうですが……

    すみません。矛盾相克に満ちたもろもろのことを妄想しておりますと、だんだん文章自体が矛盾相克そのものに……で、すべては「ポニョ恵方巻き」に止揚されていくわけですね……なんか、イメージとして「生ハムとメロン」が巻いてあるような気がしてきました。マクロでは、これは一番いけない組み合わせのようですが、この際「矛盾相克」なのですべてはオッケー……

    *えー、『ドクターストレンジラブ』(長いので、この呼称でごめんなさい)の掲示板の書きこみを拝見しました。ここに書いておられる「人間理性」の問題も深く関係しているようで、興味深く読ませていただきました。ただ、私はこの映画を見たのはずいぶん前なので、かなり忘れちゃってます。この作品は幸いレンタル店にありそうなので、今度借りてみようと思います。再見できたらまた書きこませていただきたいと思っています……

  • Re: 森の神が死んだあと ネタバレ

    2011/2/4 10:18 by aakurara

    IKAさん、こんにちは。

    「マクロビ顔」は、玄米とキンピラのお顔ですか、なるほど。でも噛みすぎで歯がやられちゃうのは困りますね。ピンク・フロイドの曲に出てくるというのも知りませんでした。アメリカではヒッピーのイメージ・・・ヒッピーというと、どうしても私は「サイケデリック」で、わりと土着とケミカルの融合みたいなイメージが浮かびます。

    それで桜沢さんの思想は、やはり後代にひきつがれることでだいぶスケールダウンしてるのですね。「生体内原子転換」・・・うーん、なんか昨今の「遺伝子組み換え」とかの流れなどを考えると、現実はそれと真逆の方向に進んでいるようですね。でも、「生体内原子転換」がダメで(世間に受け入れられなくて)、「遺伝子組み換え」がオッケーなのは、なぜなんでしょう。こういうところにも「人間の業」みたいなものが感じられなくもありません。

    『メンフィス・ベル』のところで、道元の「川の声や山の色は長いお喋りだ」という言葉を教えていただきましたが、食べ物の「栄養」も、「長いお喋り」ですよね。それを人間が勝手に操作してしまうというのは、やはり・・・

    タルコフスキーの『惑星ソラリス』は、近所の図書館にビデオテープの所蔵がありました。しかしビデオデッキをもっていないし、図書館には視聴コーナーもなさそう・・・どうしたものか。他の作品もさがしてみましたが、けっこうDVDをレンタルしているところが少ないみたいですね。あー、どこかの映画館でタルコフスキー特集とかやってくれるといいんですが。

    「太極」は、けっこう東洋では不遇なんですね。「一者」の思想と、「陰陽二極」の相対的な思想とのちがいって、かなり大きいですよね。東洋思想については、まったく私は勉強をしていないので、いつかゆっくり勉強したいのですが。ともかくこの映画(『ポニョ』)なんかにも、やはり一神教的な要素は皆無ですし(というか、宮崎さんの作品はだいたいそうみたいですね)、むしろ宮崎さんはいつも、「世界のダイナミズム」というものを観客に感じさせるよう腐心されているように思います。うーん、そしてやっぱりすべての矛盾相克が「ポニョ恵方巻き」に止揚されて・・・(ぱくっ)

    いや、でも易とヘーゲル思想と「加速度」の研究、かなりそそりますね。中沢新一さんあたりだったら、ひょっとしたらできるかも・・・というかIKAさんがそういう本をお出しになったら買いますよ。ええと、私たちのバロックレストランでも売りましょう。

    「加速度」というのは、もしかしたらグールドさんの演奏でも、けっこう重要な要素になっているのかもしれない、ということを、いまホントに思いつきなんですが考えました。なんか、たとえば早弾きのところは実は「慣性」にのっとって弾いているので、潜在的な「加速度」は低い。そしてゆっくり弾いているところに実は潜在的な「加速度」が充満している。・・・ううむ、いかがでせうか。

    ともかく、「世界はダイナミック」ということを、やはり「全体」の問題として考えるためには、惑星地球という視点が必要になりますね。そして「水中族・地中族・空中族」、あと「プランクトン族」「バクテリア族」などもろもろの声をも聞き取る能力が要請される・・・で、そういう視点があるということじたいに加え、実際に「世界のダイナミズム」を感受したり表現したりできる人というのが、案外いろんなところにいるのだということがさいきん分かってきて、私は驚いております・・・

    *『ストレンジラブ』(さらに省略しました)の書きこみですが、なにかまた、お感じになることがありましたら、ぜひお願いします。(というのを、まだ申し伝えていませんでしたよね。)

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/2/6 9:43 by IKA

    aakuraraさん、こんにちは。

    「マクロバイオティック・スタッフ」のつぶやきが入ってる曲を見つけました。↓長い(十分以上)ので2部に分かれています。「つぶやき」は、パート1の3:38くらいのところで聞こえます。(ロサンジェルスの朝飯だ……とか言った後でぼそっと入ります)
    <リンクURL>
    <リンクURL>

    この曲のタイトルは「Alan's Psychedelic Breakfast」なんですが、付けられている映像もなかなかサイケぽい……最初の方は環境ビデオみたいな感じなんですが……それにしても、ちょっと曲に「つきすぎ」で、もうちょっと俳諧ぽくやるといいなあ……と思うのですが、これは日本人の勝手な好みかもしれません。あちらの方にはこれくらい「つきすぎ」がピッタリくるのかも……

    「サイケデリック」で、わりと土着とケミカルの融合……これは、この映像にも、なんかぴったりですね。……ところで、桜沢さんの「生体内原子転換」は、桜沢さん独自の発想ではなくて、元々はルイ・ケルブランというフランスの生理学者の唱えた「生物学的元素転換」という理論がもとになっているみたいですね。↓ ケルブランさんは一時はノーベル賞候補にもなったみたいですが、結局受賞できたのはイグノーベル賞の方だったようです。桜沢さんは、このケルブランの著書『自然の中の原子転換』を仏語から日本語に訳して出版されておられるようです。
    <リンクURL>

    受賞したのはイグノーベル賞の方でしたが、ケルブランの研究はけっして「トンデモ学」ではなくて、かなり真面目なものだったみたいですね。……要するに、「核分裂」とか「核融合」とかは、原子炉内部とか原水爆の爆発みたいな通常からはかけはなれた状態を作ってやらないと起こらない……と思われていたのが、実は生物の身体の中でそれが起こっているんだ……という実証的な研究のようでして、そこには、原水爆や原子炉なんかを「力」のゴリ押しで進めてきた「西洋科学」の発想とはかなり異なった「世界の見方」が感じられます。

    ケルブランの研究は、「キエフ・グループ」というロシアの科学者たちによって受け継がれているみたいなんですが……そこで行われているのは、なんと、あの『地球が静止する日』の冒頭に出て来たヘレンの研究テーマそのものでした。↓
    <リンクURL>

    つまり、「過酷な環境でも生きられるバクテリアの謎は?」ということなんですが、キエフ・グループは、その回答の一つとして、「放射能下におけるバクテリアによる元素変換」を取り上げているようです。つまり、バクテリアたちは、放射能を持つ元素を生体内の反応によって安定的な元素に転換している……ということで、これはまさにケルブランの仮説を実証したようなもの……『地球が静止する日』では冒頭にちらっと出ていただけですが、あの映画は、こういう理論もかなり勉強して作られたものだったのかもしれません……そうなると、宇宙人クラトゥの「実体」も俄然面白いものになってきそうな気がします……(この点については、まとまれば『地球が静止する日』のスレに書いてみたいと思っています)

    桜沢さんのお話からクラトゥさんに話題が跳んでしまいましたが……桜沢さんは、ケルブランの理論が、なにか「人類文明の枠組み」自体を根底から変えてしまう可能性を持っていることに着目して、その研究を自らの「食」の領域で引き継いでいこうとされたのかもしれません……「遺伝子組み換え」はまさに今までの「西洋科学」の理論の延長線上に出て来た「鬼子」みたいなもんですが、「全体」への視線を失わない「ケルブラン―桜沢」路線では、全く違う「世界」の可能性を感じます……それこそクラトゥさんやポニョの世界のような……。『地球が静止する日』のヘレンは、そういうテーマを追求する科学者として設定されていたのだと感じます。

    こういう点から見てみると、「macrobiotic」を「長生術」とか「長寿法」と訳しているのは、本当は間違いなのかもしれません。……この言葉は、もしかしたら、現在の「遺伝子組み換え」なんかに走っちゃってる「バイオテクノロジー」が、実は「micro-biotic」であることへの批判みたいなものとして読めるのかもしれないな……と思いました。つまりは、巨視的な視点を失って、「バイオ」よりも「テクノ」に傾いちゃってる現在の「バイオテクノロジー」は「ミクロ」の袋小路に入ってるのかもしれない……と。本来は、「生命」というより全体的な視点(マクロ)で見ていかないととんでもないことになりますよ……ということかも。

    道元の『渓声山色』(こういう見出しだそうです)の稿も、結局はこの「生命観」みたいなものなのかもしれません……『ポニョ』における(戻りました!)あの、海の溢れるような豊かな生命の描写にもそれを感じさせられますが……ただ、道元の方は、真夜中の暗闇に聞こえてくる渓谷のせせらぎ……春から夏、そして秋、冬と移りゆく山の景色にもその豊かな生命感を見てとりなさい……ということで、これは『ポニョ』の「全方位生命発散!」に比べるとなんと自制的で厳しい……しかし、やっぱり両者は共通して一つのことを語っているようにも思います……なにせ、日本の「山」は、ホントは「海」なので……

    タルちゃんの『ソラリス』ご覧になったのですね!……原作のある映画って、なかなか原作を越えられない宿命みたいなものがあるみたいですが、この作品に限ってはそういうことはない……「これぞ映画!」というのは、おっしゃるとおりであると思います。
    遊中風で見られるシーンをいくつか見つけました。さすがに?コメントはほとんどロシア語……
    <リンクURL>
    <リンクURL>

    ブリューゲルの絵とバッハの音楽に感動したというコメントも……
    A painting of Pieter Bruegel (The hunters in the snow, 1565) and J.S. Bach`s "Ich ruf zu dir..." BWV 639 in Tarkovskij`s film "Solaris" - a scene that moves me to tears.
    あと、私の大好きな首都高シーンも……
    <リンクURL>
    おまけは、二番目の動画の動画レスで見つけたものですが、なかなかいい感じでした。「タルコフスキーに捧ぐ」となっているのですが……
    <リンクURL>

    「太極」は易なんかでは「陰陽」に比べると影が薄いように思うのですが、「太極図」(陰陽魚)はすごくポピュラーですよね。この図はもう、なんか「東洋的なもの」を象徴する?みたいなイメージがあるのかも。
    <リンクURL>:Yin_and_Yang.svg

    でも、これはあくまで「陰陽合一」であって、新プラトン主義の「一者」とかキリスト教の「神」とは基本的に違うように思います。……東洋思想については私も聞きかじり程度ですが、なんかこの図を見ていると、「一者」や「神」はあくまで「1」が中心にあってそこからすべてが発しているのに対して、「太極」の場合には、まず「陰陽」があってその合一と考えられているような……つまりは、ベクトルが正反対ということでしょうか……

    ところで、節分には「ポニョ恵方巻」を食べられましたか?うちは、結局サバ巻になりました。なんか、売場でいちばんおいしそうだったので……でも、ハムがメインの「ポニョ恵方巻」を作ったら子供たちには大評判になると思うのですが……ジブリに支払う権利の使用料が高すぎて商売にはならないのでしょうかね……。易+Hegel+加速度の本は、たしかに中沢さんなら書きそう……さらにチベット密教とモーッアルトが加わったりして……私が書こうとしたら、まず易経を全部読んで、Hegelを全部読んで、数学の微積分のお勉強……ということで、まあ百年かかってもムリだと思います……。

    グールドさんの弾き方で、ゆっくりのところほど加速度が大……というのは、映像を見ているとまさにそんな感じですね。彼の場合、早弾きのところは鍵盤の上空10cm以内で指をぱらぱら動かしているけれど、ゆっくりのところはモーションが大きくなる……特にバッハはそんな感じがします。なんか、ピアノ自体、アクションが過敏に調整してあるという話を以前にどこかで読みましたが、打鍵の強さの範囲を最小限にして、その中でピアニシモからフォルテシモまで打てるようになってるんではないでしょうか。……なんか、コンピュータのキーボードを叩いているような感じのとこともありますが……

    グールドさんは、前にも書きましたが、その曲が作られた時代に会わせて打鍵の全体的な構成を変えているみたいな感じで、それは結局、現代のピアノで、その曲が作られた当時の鍵盤楽器のアクションの働きを再現するみたいなことになっているのかな?という気がします(むろんある程度ですが)。この点は、ピエール・ロラン・エマールさんも『フーガの技法』の解説で良く似たことを書いておられたように思いますが……ピアノという楽器は、奏者と調整次第でかなりの幅の表現力を持たせることができるようですね。

    現代のピアノ、19世紀のピアノ、チェンバロ、クラヴィコードのアクションの働きを動画で見られるサイトを見つけました。うーん……これを見ると、なんか、音楽って、楽器の開発と切り離せないもんなんだな……と。まあ、当たり前のことなんですが……
    <リンクURL>
    グールドさんがもっと生きておられたら、ピアノのアクションのさらなる改良にまで進んだか……いや、むしろ電子楽器とか打ちこみの方に行ったのか……あるいは案外ガンコな保守主義になったのか……これはまったくわかりません……

    世界をスタティックではなくダイナミズムで捕らえる観点は、なんか昔から哲学の基本にあったような気もします。アリスト師匠の「デュナミスとエネルゲイア」もそうなのかもしれませんし、ヘーゲルさんなんかだと一晩中寝返り打ちどおしの大男のような(ベッドが壊れる!)……「バクテリア族」の声を聞くと、そこには「生体内原子転換」の秘密が語られていたりするのかもしれない……最近の火山爆発で地球のマグマの力も実感させられましたが、なんか、大気とか海とか、大地とか、この地全体を覆っている「媒質」の中を伝わってくる振動を聞いていると、いろんなことがわかってくるような気がしますね……人の「思念」もまた「思念圏」nousphere(造語です)としてこの惑星を覆っているのかもしれませんし……「ネットの海」は、その不完全な現われかもしれない……他の宇宙からの来訪者から見れば、「ネットの海」はソラリスの海のごとく……うーん、ソラリスと比較するにはまだまだ圧倒的に貧弱ですかね……でも、地球のすべての生命の発する総体としての「生命球」みたいなものは、全体としてソラリスの海のように見えてくるのかもしれません……

    えー……『ストラブ』(もいっこ、縮めました)の再見はまだ果たせず……なんか、見たいものがたまっちゃって時間はない……みたいな状況でして……さらにいかんことに、『ソラリス』もまた見たくなってしまった……うーん、もうちょっと時間がかかりそうです……。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/2/6 9:48 by IKA

    太極図のリンクがうまくいかないようなので、hを抜いて再掲します。
    ttp://en.wikipedia.org/wiki/File:Yin_and_Yang.svg

  • Re: 森の神が死んだあと ネタバレ

    2011/2/15 11:28 by aakurara

    IKAさん、こんにちは。

    「アランくんのサイケな朝飯」、面白かったです。なんかpart 2のコメントにありましたが、レコード盤だと、最後の水滴の音が延々とループするようになっているらしいですね? うーん、こんな朝飯だと、毎朝仕事に行かずに、畑を耕したくなるかもしれません・・・俳諧風味の映像つきも、よさそうですね。

    ケルブランさんのお話も、面白いですね。クラトゥの「実体」について、IKAさんの書き込みも楽しみにしています。しかし桜沢さんにしてもケルブランさんにしても、なんか「全体」への視点を貫くというのは、なかなかしんどいことであったろうなあと思います。「ミクロ」の袋小路に入っていくほうが、ラクなんですよね。そのほうが「世間」と話も通じやすいし・・・「全体」への視点そのものを伝えるのもタイヘンなことだし・・・

    「キエフ・グループ」の研究なんかは、放射性廃棄物処理に「役立つ」ということでガッチリ支援を受けられそうですけど。『地球が静止する日』のヘレンさんの研究も、なんかけっこうちゃんと学会に受け入れられているような雰囲気でしたね。バーンハート教授の「生物学的愛他主義」の研究は、もしかすると現実ではいちばん支援がつかないタイプの研究なのかもしれません・・・

    ところで、先日岩波ジュニア文庫の『人類が生まれるための12の偶然』という本を読みました。話は「宇宙の誕生」からはじまって、重力とか電磁力といった力の値とか、中性子や陽子の質量などの「自然定数」が、たまたま実際にそうなった値に決まっていなければ、そもそも「物質」というものができていなかったかもしれないし、とにかく今あるようなかたちの宇宙にはなっていなかった。とか、太陽系の中でも地球に生命が誕生するのに必要な条件となった、いろいろな偶然の話とか、生命のもととなる「水」の特異な性質についてとか・・・なんか知らない話ばっかりでかなり面白かったんですが、全体としての話が、なぜか『死霊』第7章の「解説」になっている・・・というふうにも思えたんですね。

    まあ、だからといって『死霊』がすらすら読めるようにはならなくって、まだ第7章も読了していないのですが。ええと、とにかくそれを逆に言うと、『死霊』第7章には、「宇宙の誕生」からはじまる「生命の物語」がまるごと詰めこまれているということでもあって・・・ふむふむそういうことか。と、なんか一人で納得しているところであります。

    この『人類が生まれるための〜』で紹介されている「偶然」のうち、ちょっとビビったのが、過去一万年のあいだの地球の気候が、それまでにないほど継続して安定している、というものでした。一万年前というと、ちょうど人間が「農耕」をはじめたころらしいんですよね。ウィキにも、気候変動のグラフがありました(↓)。ブルーの線が気温を表す線で、グラフの縦軸の左端が「現在」ということになります。で、実際に不自然?なくらい、ここさいきんの気温だけがプラスマイナス2度くらいの範囲で安定しています。
    ttp://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Vostok-ice-core-petit.png
    (h抜きです)

    で、ビビったというのは、これがいつまで続くのかというのもあるんですが、なぜこの一万年間に・・・ということですよね。うーん、なんかこれには「モノリス」よりも大きななにかの力がはたらいているような・・・(トンデモ妄想路線です)

    それから「月」の話も面白かったです。なんか地球の自転は、月の重力の影響で、もともと6時間に一周くらいだったのが現在の24時間になったのだとか。月が地球の海を引っぱっていて、それで海水と海底とのあいだに摩擦がおきて、地球の自転にブレーキがかかっているんだそうです。すると、この『ポニョ』にあったように月が近づくと、たぶん月からの引力も強くなって、1日が長くなる・・・ってことになりそうですね。

    道元の『渓声山色』・・・タルさんの『ソラリス』冒頭も、なんかそんな感じでしたよね。『ソラリス』、もう一度見てみたんですが、よく見るとおわりのほうで出てくる湖は、水面が動いていないんですね。なので、あれはスチール写真を使っているのだと思うんですが、同じ画面の中でクリスさんが動いている箇所もあって。すると、フィルムにひとコマずつ、スチールのネガを貼りつけているのか? とか、なんか技術的なことが気になってしまいました。

    首都高シーンは、一度目は途中で一瞬目を離して(お菓子をとりに行った)、お菓子をぼりぼり食べながら見ていたんですが・・・二度目は、とりあえず細部を気にせずに、あの流れに乗るようにして見てみました。IKAさん(ikaさん)が掲示板に書いてらした「回遊速度」が、ちょっと体感できたと思います。(その証拠に、やや「車酔い」しました。)

    ブリューゲルの絵は、原作にはなくってタルさんのアイデアですよね? よく思いついたものだという感じです。いや、バッハのコラールもですが。ホントに完璧ですよね。

    「太極図」って、そうかコレを見るとたしかに、新プラトン主義の「一者」とか一神教の「神」とは別モノですね。なんだか、またヘンなものが思い浮かんでしまいました・・・「Sachiko's Taoistic Breakfast サッちゃんの道教的朝飯」。(サチコは適当です、語呂がいいかな、と。)ええ、これはきんびらゴボウのゴボウを切る音とか、糠床をひっくり返す音とかが入ってですね、「東京の朝飯」とかささやくわけです。あ、節分は恵方巻とか忘れていて、なんかうっかりしているうちに終わっていました・・・次のイベントはひな祭り。えー、ポニョちらし寿司ですよね。

    ヤマハの「ピアノアクション展示館」も、面白いですねー。なんかチェンバロやクラヴィコードまでは、「職人魂」みたいなものでできているという感じですが、クリストフォリ以後のは、「エンジニア魂」でできている、という感じになってます。

    世界のダイナミズム・・・そういえば以前に、古代ギリシアの音楽のCDを図書館で借りました。なんか不思議な感じの音楽でしたが・・・「職人」以前の世界、というふうでもありました。うーん、古代ギリシアの音楽って、地球を覆う「媒質」がたてる音を秩序づけたもの、だったのかもしれません。「思念圏」nousphere というのも、すごくアリそうな気がしてきました。過去一万年の地球の気候を安定させているのも、人の「思念」がもつデュナミスなのかも・・・

    あと、IKAさんが教えてくださった『めぐり逢う朝』も見ました! なんか私はちょっとジェラール・ドパルデューさんを見直しちゃったんですが・・・原題は『世界のすべての朝』みたいなタイトルなんですね。うーん、どういう意味が込められているんでしょう。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/2/17 10:27 by IKA

    aakuraraさん、こんにちは。

    水滴のループ……下のコメントは読んでなかったのですが、たしかにそう書いてあるのがありました。……???私は、この曲の日本版のレコードを持ってるんですが、日本版ではちゃんと普通に終わるようにつくってありました。……うーん、日本版の担当者が「深い意図」を理解できなかったのか……それとも、苦情が来るのを恐れたのか……いずれにしても、「無限ループ」になってるレコードがあるのですね。……なるほど、これはたぶんアナログレコードだけにできる芸当……

    と考えてみて、レコード盤の「終わり方」を思い出しました。(もう何十年もかけてなかったので忘れてました)アナログレコードって、どんなものでも最後の溝は円環になっていて、プツン、プツン……と無限ループになります。人が針を上げない限り……ターンテーブルによっては自動的に針の上がるのもあったような気がしますが……とすると、もしかしたら、あのラストのプツン、プツン……という音(最後の溝が円環に合流する地点の機械的な音)を「水音」に見立てた投稿者さんのしゃれかいな?……と。

    「全体」への視点を貫く……これはやっぱりタイヘンでしょうね……。でも、研究者の中には、どうしてもそれでなくちゃヤダ!という人もいて、こういう人は学会の異端児……イグノーベル賞候補となるしかない……前にもちょっと出てきたステラさんとか、テルミンさんとか……でも、異端児じゃなくてもアインシュタインなんかは常に「全体」を考えていたように思います。彼の理論は全くわからないのでなんとなく……ですが。サイバネティックスのノーバート・ウィナーさんもそんな感じの人ですね。今は、こういう「巨人科学者」はいなくなってしまったのか……。

    「キエフ・グループ」の研究はホントに放射性廃棄物処理に役立ちそうですが、では!ということでどんどん培養すると、なんかトンデモないことになりそうな気もしますね。バクテリア連中が「放射能をくれー」とかいって原発を襲うとか……(うーむ、これは映画になりそう……キエフ・シンドロームというタイトルはいかがでしょう?)ヘレンさんの研究もまたしかり……
    ヘレンさんの研究していたバクテリアについて、詳しく書いてあるサイトがありました。キエフ・グループの研究対象になったチェルノブイリの菌も紹介されています。
    <リンクURL>

    バーンハート教授の「生物学的愛他主義」の研究は、もしかすると宗教団体から支援されるかもしれませんね。……いずれにせよ、他の研究に比較するとかなり文系寄りというのか、純粋に理系の研究範囲内では納まらないような気もします。別スレのNY金魚さんのブログにエラノス会議のことが紹介されていましたが、このエラノス会議なんかだと格好のテーマになるような……まあ、お話の中ではノーベル賞をもらってるので、かなり支援してくれる人もいるのかもしれません(あくまでお話の中で、ですが)

    岩波ジュニア文庫の「自然定数」のお話は面白いですね。これで思い出したのが、昔読んだ小松左京さんのSF。タイトルは思い出せないのですが……なんか、「宇宙の果て」に様々な「物理定数」(自然定数と同じだと思います)をコントロールしている「装置」があって、例えば重力加速度の定数なんかで今の値(1G=9.8m/s2)と違う値をその装置にパパッと打ち込みますと、宇宙が新たに打ちこまれた定数の宇宙に変化してしまう……というオソロシイ?ものでした。

    装置で決められているのかどうかは別としても、いろんな物理定数(自然定数)って、なんか理由なく「その値」に決まっていて、それは宇宙のどこでもそうなんですよね。不思議なことに……だから、小松左京さんみたいに「もし違う物理定数の宇宙ができちゃったら」と考えることは自由にできるわけで……これは、たしかに書いておられるように埴谷さんの「虚体」につながるものなのかもしれません。……たまたま今の定数の宇宙だけが存在しているんだけれど、いろんな定数がいろんな値を取れる宇宙が無限にある……

    ご紹介いただいたサイトのグラフ、たしかにこわいですね。まことに不自然……うーん、では、その原因を究明してやろう!と大胆なことを考えましてグラフをよく見てみました……。なるほど、青と緑の山はきれいに連動している……青が気温で緑はCO2ですか……ということは、CO2が増えれば気温が上がり、減れば気温が下がる……ここまでは当たり前。……では、なぜこの青と緑が連動するのか……

    おそらくは、これは、地上を覆う緑の植物に関連するのでしょうね。植物が増えれば光合成が盛んになってCO2濃度は減少……すると気温が下がってきて、だんだん植物の生育には適さなくなる……と同時に氷河が発達してきて植物の領域はますます狭められる……青と緑のグラフが連動して下がっていくのは、おそらくはこういう過程で説明がつくと思うのですが、難しいのは両方のグラフの急激な上昇部分ですね。一体なにがあったのか……

    ここで、赤のグラフに注目してみますと、青と緑のグラフの上昇する直前の時期に、だいたい赤のグラフのピークがきていることですね。つまり、どういう原因かはわからないけれど、大気中のダストが急上昇する時期があって、それが引き金になって二酸化炭素が増え、気温が急上昇する……うーん、どうも、この赤のグラフが鍵を握っているような気がしてきました。

    赤のグラフは、青と緑のピーク時には概しておとなしいのですね。これはなにを意味するのか……大気中に二酸化炭素が増え、気温が上昇すると大気中のダストは減る。そして、二酸化炭素が減り、気温が下がってくると大気中のダストが増えてくる……ということは、植物は、光合成で二酸化炭素を炭水化物に変化させるだけではなくて、大気中のダストも身体の中に取り込んで大気を浄化する役割りを果たしているということなのでしょうか……

    あるいは、もう一つ考えられるのは「氷河の発達」ということで、氷河が発達して海水面が狭められると大気中のダストが増加してくる……これは、今まで海水に溶け込むことによって「処理」されていたダストが、海水に溶け込むことができなくなった結果なのか……もしくは、「火山の活動」ということですが、氷河期になるとなんらかの原因で火山活動が激しくなって、結果として大気中のダストが増えるのか……

    いずれにせよ、大気中のダストの増加が引き金になって気温の急上昇と二酸化炭素濃度の急上昇が行われているような感じを受けますね。そして、直近の大気中のダストの増加があったのが、このグラフでいうと2万年くらい前……このころは気温も大気中の二酸化炭素濃度も底を打ってますから、これが直近の氷河期ということでしょう。で、一万年くらい前から青と緑のグラフの急上昇……これは氷河期が終わって縄文海進期に入った地質学的歴史とぴたりと符号しています。

    それで、書いておられるように「農耕」の開始が一万年くらい前とするなら、それくらいから二酸化炭素濃度が急上昇して下がらなくなっている原因はそれかもしれません。急上昇部分についてはこれまでと同じ原因だと考えるのが自然ですが、気温と二酸化炭素濃度が高い水準に保持される原因の一つとしては、「農耕」が考えられるのでは……

    なんで農耕が……ということなんですが、農耕の場合、まず耕作地をつくらなくちゃならないので、その分森林を潰していきますが……切り倒した木や刈った草は、一部は肥料にするのでしょうが、大部分は焼いてしまう……これは、かなり空気中の二酸化炭素濃度を上昇させる原因になるんだと思います。焼畑なんかは大規模で、衛星からもその煙が見えるくらいなんだそうですが、個々の農家が自分たちが伐った木や刈った草を焼く煙も、全部合わせるとすごい……これは、田舎に越した私の実感としてそう思います。

    むろん、開墾した土地には農作物を植えるのだから、一見すると「緑の量」的には変わらないみたいに見えるのですが、農作物は結局人類に食べられて消化される……人類は光合成をやりませんから、農作物の中に取り入れられた二酸化炭素は、土に返るか海に溶けるか、あるいは空気中に放出されるかのいずれかになる……こうして、人類は年々、農作物という形で植物の取り込んだ二酸化炭素を空気中に放出し続けた……これが、二酸化炭素濃度と気温を「不自然に」安定させる大きな要因……とは考えられないでしょうか。

    以上は素人考えなのでまちがいなく間違っていると思うのですが……でも、エジプトなんかも昔(一万年くらい前)はかなり緑豊かな地であったという話も聞きましたし、例のレバノンシダーのお話も……レバノンシダーは農耕地の開墾のために伐採されたのではなくて、建築材や造船材として伐られたのですが……しかし、街を造り、船を造る力ももともとは「農耕」によってできた「余剰」と考えれば、やっぱり根本原因は「農耕」……

    ということで、なんか、一言書いてくださった「農耕」という言葉に乗っかってトーシローゴス(しろうと推理のこと・造語です)を目一杯展開してしまいました……月の重力が地球の潮汐に影響を与えて、結果として地球の自転速度に関係しているというお話は、私もどっかで読んだことがあります。うーん、これで、も一つ考えられるのは「マグマの潮汐」ですよね。……マグマも海と同じように液体だから、そして、地球全体に分布しているから、これは潮汐力を持っていそうで、そうなるとやっぱり月の重力に影響されるのでは……そう思って調べてみましたら、やっぱり関係があるみたいです。以下のサイトの中に、次のような一文がありました。

    「十勝岳の1988-1989年噴火と雲仙岳の1991年噴火では,爆発や熱雲の発生時刻に約12.5時間の周期がみられた.臨界状態にあったマグマが潮汐力の変化に感応して噴火に至ったらしい.古記録にかかれた伊豆大島の噴火開始日が旧暦の朔日と15日に集中する傾向があることも,潮汐力が火山噴火のひき金を引く場合があることを教えてる.」
    <リンクURL>
    あるいは、次のサイトにも似たようなことが書いてありました。
    <リンクURL>

    なので、『ポニョ』にあるみたいに月が地球に接近すると、海が膨らむばかりじゃなくて、世界中の火山が大噴火を始めるかもしれない……そうすると、大気中のダストが大きく増えて、結果、気温がさらに上がる……なんか、だんだん「カンブリア爆発」の様相が濃くなってきました……。道元さんの『渓声山色』もサイケデリックになったりラスタカラー化してしまうかも……。

    『ソラリス』のラストシーン……あの時代だとCG合成はないから、おそらくはブルーバックとか使って合成したんじゃないでしょうか……こういう技術的なことは私もよくわからないのですが、フィルムにひとコマずつ、スチールのネガを貼りつけるのは、やっぱりものすごくタイヘンな労力のような気がします……あと、あら探しになっちゃうんですが、クリスがハリーをロケットに入れて打ち上げるシーンで、ロケットがわずかに揺れながら上がっていった……あ、吊り下げてるな……と。

    もうだいぶ前の『SFマガジン』に、ちょうどこのシーンの撮影中にモスフィルムを訪れた日本人の方の手記が載ってました。それによると、公報の方だったかえらいさんだったかにお話を聞いている最中にすごい音がしたのでなにかと思ったら、「モスフィルムの命運をかけたロケット発射だ」とかなんとか……当時、モスフィルムとしてもかなりの予算をつぎ込んでつくった「超大作」だったみたいですね。『2001』のMGMと、なんかちょっと似てたりする気もしますが、当時はソビエト時代だったので、やっぱり「国家の威信」みたいなものもからんでいたのでしょうか……共産圏でもこんなスゴイSF映画ができるんだぞ!みたいな……

    それにしては、東京の首都高で「未来都市」でいいのかなあ……なんて思ってしまいますが……でも、そういう「国家の威信」みたいなものも予算とかも抜きにして、あの首都高シーン、いいですよねえ……あれは、あの『ソラリス』の中にあるから、タルコフスキーさんの目が入ってるので、あんなにいいんだと思います。別にふつうに首都高を撮っただけじゃ、あんな感じにはならない……かな?いや、なるのかもしれませんが、なんか不思議なオーラがくっついているような気が……(気のせい、気のせいといわれそうですが)

    ブリューゲルの絵は原作には出てきませんでした。むろんバッハのコラールも……あれはもう樽さんオリジナルで余人には思いつかない(かもしれません)。それはともかく、ブリューゲルのあの絵とバッハの639コラールは、『ソラリス』以後、映画では使いにくくなったでしょうね……というか、使った作品を私は知らないのですが……マーラーのアダージェット(『ベニスに死す』でキメ)は、いろんな映画に使われて、その都度批判を受けているみたいですが……

    ちょうどこの前の日曜日に『日曜美術館』(NHK教育)でブリューゲルの特集をやっていましたが、そこでもあの独特の「視点」に言及していました。解説の方によりますと、ブリューゲルくらいまではあのような「群像視点」の作品はけっこう多かったらしいのですが……やっぱり、ヨーロッパ世界の「なにかが」変わってしまったのでしょうか、あの頃……ちょうど「大航海時代」が始まるころだと思うのですが……ということで、けっこう面白い番組だったんですが、『雪中の狩人』の紹介のところの音楽がバッハの639コラールじゃなかったのでがっくり……うーん、もう私の中では、『雪中の狩人』と『639コラール』はセットです。

    「Sachiko's Taoistic Breakfast サッちゃんの道教的朝飯」……おお、ついにタオの飯が……でも、テーマが「TAO」だといろんな音楽家が音楽をつけたがると思いますね。なぜか、音楽をやってる方は「TAO」がお好き……これは、NY金魚さんのブログに良く出てきた「オショー・ラジネシ」の影響が大きいんだと思いますが……私の知り合いのミュージシャン(ロック)でも、
    オショー・ラジネシの安居で修行をして、ホーリーネームといってましたが、なんか独特の名前を伝授された方がけっこうおられます。で、そういう方は、みんな「TAO」大好き人間で……

    突然、ここで前に戻るのですが……あのグラフ、あれで、大気中の二酸化炭素濃度と気温が比例し、大気中のダストが反比例する原因……がひらめきました!もしかして、マグマの潮汐作用なのでは……。気温が下がって氷河が発達すると海が縮小しますから、当然月(と太陽)による潮汐作用の効果が海に働きにくくなります……というか、今まで月と太陽の重力作用を受けて潮汐によってそれを処理してくれていた海が縮小されると、その重力効果は直に地中のマグマに及ぶようになり……つまりは、緩衝材としての海を失った地球のマグマがより潮汐作用の影響を濃く受けるようになって火山爆発が盛んになる……その結果、大気中のダストが増加する……うん!こういう図式じゃないでしょうか!

    ……えーと、また大々的にトーシロロジーを展開してしまいました……悪いクセですが直らない……で、ピアノのアクションのことなんですが、たしかにクリストフォリ以後のピアノアクションって、ちょっと今までのものと違う感じがしますね。「エンジニア魂」……なるほどそうかもしれません。ピアノは、楽器の中でもメカニック部門が特に高度に進化したもののように思えます。発音部分はハンマーが弦を叩く……それだけなんですが、奏者のタッチが完璧に音量に反映されるようにする……今ならデジタル機器で簡単に?やっちゃうところですがさすが19世紀!(拡大版で)これをメカニックで実現させてしまう……今の技術者には絶対出てこない発想だと思います。

    考えてみるとパイプオルガンなんかもそうですよね。今だったら音波の波形をいじってやってしまう倍音の合成を実直にいろんなパイプを組み合わせて実現しようとする……パイプオルガンはピアノより古いですが、やっぱり発達したのはバッハの頃(あるいは少し前)かなと思います。こちらは、19世紀に電気式になりましたが、発音方式は従来のまま……発音方式を電子化したのがシンセサイザーということになるのでしょうが……

    古代ギリシアの音楽のCD……もしかして、パニアグアさんのものではないでしょうか?……とすると、私の持ってるのと同じかもしれませんが……私のうちのディスクを聴いた感じでは、あれ、かなりエスニック……と感じました。古代ギリシアの当時の演奏はわからないので、現在の中近東の音楽の演奏方法をだいぶ参考にされたんじゃないかと思うのですが(パニアグアさんの演奏の場合ですが)

    それで思い出したのですが、フレッド・ホイルという方(天文学者でSF作家)の『10月1日では遅すぎる』という変わったタイトル(原題もこのとおりです)のSFでは、もろに「古代ギリシアの音楽」が登場します(なにせ、主人公が音楽家という設定)。このSFのことは以前に書いているかもしれないのですが、もしそうでしたらご容赦……ということで、ちょっとご紹介まで。かなり上品?なSF作品で、いろんな点で面白かったです。

    『めぐり逢う朝』ごらんになりましたか……原題は、そういう意味だったのですね。『世界のすべての朝』……うーん、なにを意味しているのでしょうか。私はどうも「鼻先」が気になったんですが、ジェラール・ドパルデューさんは、やっぱり彼しか出せない独特のオーラを持っておられる方という気はします。なんか『ナポレオン』という映画(テレビ映画)の主人公も彼でしたっけ?(未見なのですが)なんとなくナポレオン役ならピッタリ!という感じはします……

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/2/17 14:51 by IKA

    すみません、またまた訂正です。

    上に、パイプオルガンが電気式になったのが19世紀と書きましたが、これはまちがいでした。
    正しくは、19世紀に蒸気を利用したものが現われ、電気式は20世紀になってから……ということのようです。(送風機構のことです)

    お詫びして訂正いたします。失礼しました。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/3/6 1:35 by aakurara

    IKAさん、こんばんは。

    水滴のループの件、たしかにレコードの最後の溝の「プツン、プツン」を水音に見立てたしゃれ、かもしれませんね。うーん、すごくそんな気がしてきました。

    ノーバート・ウィナーさんの本はこれまた読んだことがありませんが・・・サイバネティクスというと、なんか私は反射的にグレゴリー・ベイトソンとかが思い浮かびます。ベイトソンもわりと「全体」志向というイメージがあるのですが、私が大学院でちょっとお世話になった先生がベイトソンの影響をかなり受けていらしたみたいで。もしかするとIKAさんと同世代くらいかもしれません・・・なんか、「巨人科学者」はずっとどこかにいるのかもしれませんが、ある世代から、そういう科学者を受けつけないようになっていったのか、というような気もします。私の世代とか、私たちよりひとまわり上の世代とかは、どうも「巨人」とか、いわゆる大風呂敷を受けつけないようになっている気がします。う〜ん、たまたま私の周囲だけがそうなのか・・・?

    「放射能をくれー」といって原発を襲うバクテリア・・・これは怖いではないですか! 映画になりますね、十分。でもキエフ・グループの研究の記事をよく読みなおすと、彼らが開発した「微生物触媒転換体」というのは、いくつもの微生物が集まったモノなんですね。放射線耐性菌は、「一種類よりも多くの種族で共生コロニーを形成した方が、協同作用として耐性が増強することが報告されている」とも書いてあります。なんだか、これも面白いです。『地球が静止する日』のクラトゥさんも、何千種類かのバクテリアの共生コロニーだったのかもしれませんね。うーん、でもクラトゥさん、ふつうに単数一人称を使ってましたかね・・・

    そういえばバクテリアといえば、レムの『虚数』には、バクテリアに言葉を教えた細菌学者というのが出てきました。

    物理定数(自然定数)が、可能性としては無限にどんな値をも取れるというのは、もしかすると・・・スピノザが『エチカ』で、「神の本質からは無限に多くのものが無限に多くの仕方で生起しなければならぬ」と書いているのと同じことなのでしょうか。いや『エチカ』をぜんぶ読んだわけではないので、スピノザが「虚定数」(?)のことまで考えていたのか、スピノザの言う「神」が、あくまでいま存在している宇宙の定数の神さまなのかは分からないのですが。

    気温とCO2濃度とダスト量のグラフ解析、面白く読ませていただきました! 「農耕」の影響は、それこそ微生物界にもそうとう及んでいそうですよね。で、微生物の活動も大気中の二酸化炭素濃度にかかわってくるでしょうから、そういう点からしても農耕の影響は大きそうです。でもマグマの潮汐作用というのも、ありそうですね。うーん、なんかやっぱり地球は「全体」のバランスで生きているのだなぁという感じです。

    『ソラリス』のラストシーン、これ↓なのですが
    <リンクURL>
    ふーむ、ブルーバックでしょうかね。改めてよく見ると、水面は動いていないけど、木の枝はちょっと揺れたりしていて、なんだか妙な感じです。首都高シーンは、やっぱりタルコフスキーさんの目のマジックが効いていると、私も思います。IMDbにも、あのシーンについてのスレッドがあったのでちょっと投稿しようかと思って作文してるんですが、あのシーンは、分かりにくい言い方になりますが、「象徴」とかを含めた、人間的な言語体系というか「概念」みたいなものを全く欠いていながら「未来の人間」を描けている、ってところがなんかスペシャルなのかなーと。
    いやホント分かりにくいですね・・・

    ハリーを乗せたロケット発射のところは、なんか、かすかに彼女が「クリス! クリス!」と呼ぶ声が聞こえるんですよね。あれがすごく不気味で。揺れていたのは、ハリーが中からがんがんロケットを叩いているからだと解釈しておりました。まあ、でもいろいろ細かく見ると「あら」はあるようで、IMDbにもあら探し専用のページがありました。↓
    <リンクURL>
    どれも、私は気づきませんでしたが・・・

    『雪中の狩人』と『639コラール』はセット・・・いや、たしかにこの映画を見てしまうとそうなっちゃいますね。

    オショー・ラジネシのことは、これまた知りませんでしたが、やはりラジネシ師、音楽にTAOというのは、なんでしょう、後期ビートルズ世代ですか、またはピンク・フロイド世代(なんてありますか?)的な感じがいたします。うーん、なんかいいですね。私などは、前にちょっとご紹介したニルヴァーナとかの世代なわけですが(思春期に流行ったバンドで代表させるとしたら)・・・インド風味を効かせていても、どうも「開けていく」感じが皆無です。

    古代ギリシアの音楽は、おっしゃるようにパニアグアさんのだったと思います。たしかに、かなり中近東ぽかったです。なんというか、もっとロゴスっぽい(?)ものを予想していたのですが。この動画↓には、古代ギリシアのいろんな楽器の絵とか写真とかが出てきて、面白かったです。なにやら、水力を利用した?オルガンみたいな?ものも・・・
    <リンクURL>

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/3/6 1:43 by aakurara

    追記です

    ええと、やはりあれはオルガン(の前身)のようです。ちょっと下の方にスクロールすると出てくる、「Hydraulis」というやつです。
    <リンクURL>

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/3/8 12:50 by IKA

    aakuraraさん、こんにちは。

    グレゴリー・ベイトソンに関しては、私は何も知らないんですが、いろんなサイトでちょっと見てみると現代思想に大きな影響を持った方のようですね……ノーバート・ウィナーはサイバネティクスの創始者として有名だけれど、今日彼の本を読んでみようという方はあんまりいないのではないでしょうか……「サイバネティクス」という言葉だけを残して、その「思想」は時の彼方に去っていったような印象です……「大風呂敷」でいうと、「武谷三段階論」なんか、私たちの学生時代には超有名?でしたが、今ではもう、誰も知る人はいない……

    最近のノーベル賞の傾向なんかを見ても、なんだかけっこう「実用」方面に傾きつつあるような気がするのですが……つまりは、どれだけ「実用」方面への展開(貢献)が期待できる理論かということで……でもまあ、科学のことはあんまりわからないので、これは私の思い過ごしなのかもしれません。「巨人科学者」が活躍できる時代というのがいいのか悪いのかも、これまたいろいろ問題はあるのでしょうし……最近のもう一つの傾向としては、純粋な?物理化学よりは、どっちかというと「生命現象」に傾斜していく傾向はあるように思いますが、これも定かではない……

    共生コロニーのお話は面白いですね。われわれの体も、ある面からすると何兆もの微生物の「共生コロニー」であるともいえるような気がします。その「共生」具合がかなり過激になってるのでもはや「一個の生物」としか見えず、しかも「人間」になると「統覚」という不思議なものまで備わってるので、もはや自分でも自分を「一個の生物」としか思えません……でも、クラトゥさんたちからすれば、もしかしてそういうのは「異常な状態」なのかもしれませんね。「まずはこの体に慣れなくちゃ」というのは「単数一人称にも慣れなくちゃ」ということだったかもしれない……

    バクテリアよりもうちょっと目に見える連中としては「粘菌」というのも不思議ですね。森やなんかで見かけると、まったくなんだか分からないものなんですが……動物なのか植物なのか、はたまた菌類なのか……南方熊楠の研究で有名ですが、昭和天皇も興味を持って研究しておられたみたいですね。最近では「粘菌コンピュータ」の研究というのがあって、これを研究している人はイグノーベル賞をもらったようです(ウィキによる)。うーん、サイバネティクスならぬサイバネンキン……そういえば『ポニョ』では出てきませんが、宮崎さんも粘菌がお好きなようですね……

    「神の本質からは無限に多くのものが無限に多くの仕方で生起しなければならぬ」……確かにそういう一節があったような気がします……でも、私は、根拠はないんですが、物理定数は「現在の値」しか取れないように思います。……これは、「多次元宇宙」と同じことで、やっぱり人間のスペキュレーションにおいて起こってくる問題であって、実際には宇宙は一つだし、空間も時間も「今、ここ」しかないし……物理定数とはちょっと違いますが、πは、あの「さんてんいちよん」から始まる無限小数の値しか取れないんだろう……と。球面幾何なんかだとまた変わってくるのかもしれませんが、どうなんでしょうねえ……

    それにしても、スピノザの「神」って不思議ですね。あそこまで「神」をふつうにいう「神様」から遠ざけてしまえば、もうほとんど「無神論」といっていいのに、なぜか『エチカ』には、ふつうの宗教の本なんかとても及ばないくらい神々しい雰囲気が漂ってます。うーん……やっぱり彼は、本質的にはものすごく神に対して敬虔な人だったのかもしれないなーという気はするのですが……彼の「神」は、宗教でいう「神」とも違うし、かといって哲学的に要請されたものでもないし……ヴィトゲンシュタインの『論考』が、結局どこかしら神秘的になっちゃってるのとおんなじような傾向性を感じます……(えーと、今『論考』に再挑戦中で、1ページ目です)。

    『ソラリス』のラストシーンもやっぱり「神々しい」ですよね……ご紹介いただいたリンクでじっくり見て見ましたが……エレメント、特に「水」……そして「放蕩息子の帰還」……昔見たときは、最後のソラリスの海に浮かぶシーンは余分だなあと思いましたが……今見てみても、やっぱりそんな感じはしました。カメラが父にすがるクリスから引いていく……そこでやめておけばさらに余韻が残ったと思うのですが、どうでしょうか。見る人は、「ああ、帰れたのかな……」と思うんでしょうが……「やっぱりソラリスの海のなせるワザか」というどんでん返しはこの際必要なかったような……

    それに比べると、首都高のシーンは際立って見事ですね。やっぱ、単に「あれだけ」なので。私が感じたのは、『ソラリス』の掲示板にも書いたことなのですが、やっぱりあの「回遊速度」でした。あれはまことに不思議な感じで、車と首都高と東京の街並みが揃ってはじめて味わえる「宇宙の素粒子」になったような感覚……太陽を回る地球は日数がかかりすぎてあんまり「回遊感」はないのですが、首都高(のC1)みたいに数十分で一周(といっても渋滞にはまらなければですが)という速度感は、なんか原子核をゆったり回る素粒子のような……作文が完成しましたら、ぜひ日本語訳をここ(あるいは『ソラリス』のページ)に投稿してください!お待ちしてますよー……

    IMDbのあら探し専用ページ、拝見しました。うーん……私もすべて気付かなかったですね……「ギバリャンの死体にかけられたシーツが呼吸とともに動いてた!」というのもあったけれど、これについては別の映画の「アラ」を思い出してしまいました。『ローマ帝国の滅亡』というスペクタクル史劇なんですが、最初の方で5賢帝最後のマルクス・アウレリウス帝(アレック・ギネスさん)の遺体に掛けられた毛布が、やっぱり呼吸に合わせて見事に動いてました!この映画は『ソラリス』よりちょっと前と思いますが、こういうことはあんまり気にしないおおらかな時代だったんですかね……これと対照的に「見事に死んでる!」のがテレビシリーズのシャーロック・ホームズ(ジェレミー・ブレットさん)で、だいたい毎回「死者」が出てきますが、ホントに見事に死んでてピクリとも動きません。でも、ロー人形みたいな感じもしないし、役者さんがやってるんだと思うんですが、毎回感心してみてました。

    オショー・ラジネシのことは私も詳しくは知らないんですが、ビートルズ世代からもっと若い方々(現在30、40代?)まで、なんか幅広く人気があるみたいですよ。私自身はあんまりピンとこないんですが……インドに行って彼に接した人はみんな「信者」になってしまうみたいです。で、彼らの間では互いをふつうにホーリーネーム?で呼び合ってるので、ちょっと例の危険な集団みたいな感じですが、思想的には穏やかな人たちばかりで、逆にそんなんで今の日本で生きてけるんですか?とこっちが心配になるような……でも、彼らは、日本で生きてけなくなったら、またインドに行きゃいいや……と思ってるようですが……

    古代ギリシアの音楽は、やっぱりパニアグアさんでしたか……1つ前に触れた『10月1日では遅すぎる』というSFでは、ピアニストの主人公が神殿で「古代ギリシアの音楽」と音楽対決するシーンがあるのですが(って、このこと前にどっかで書きましたっけ?)、ここは圧巻でした。パニアグアさんの音楽とはたぶんまったく違う「古代ギリシアの音楽」で、主人公はベートーヴェンとかリストとか繰り出して対戦するんですが……(あとはネタばれになるのでやめときます)

    このSFで、私が面白いなと思ったのは、「時間」がジグゾーパズルになっちゃった世界で、ヨーロッパのどっかではまだ「第一次大戦」なんですね。で、主人公たちが、自分たちは未来の人間だということを明かして、戦争やってる人たちを説得してやめさせようとするんですが、彼らはいうことをきかない。そもそも主人公たちが未来人ということに懐疑的なんですね。で、どういう手段をとったかというと、パズルピースが「現代」になってるイギリスから最新鋭のオーディオ装置を運搬してきて、彼らにステレオレコードを聞かせる。すると、今まで頑強に信じなかった人たちが一発で「未来」を信じてしまった……

    というように、この小説では、「音楽の力」が全編を支配していて、そのあたりが面白いです。……「水オルガン」のことは以前にどっかで読んだことがありますが、要するに水圧で「一定の風」をつくっているところにミソがあるみたいですね。人が吹いたりする楽器はどうしても「呼吸」が入ってヒューマンな感じになってしまうけれど、水力で「一定の風」が音源になると、ものすごいメカニックな印象があったのでしょう。しかも、人力では出せないような大きな音も出るので、仕組みを知らない人が聞いたら、それこそ「神の声」と思ったかもしれません。

    でも、オルガンは、バッハの頃(というかルネサンスの頃から?)は「ふいご方式」になってますよね。で、それが蒸気になって電気になる……結局「メカニック」はずっと後までついてまわるようです。あと、オルガン特有の発音方式として、「倍音合成」というのがありますが、これはもう現代のシンセの先取りのような……「カプラー」で複数のパイプを同時に鳴らして倍音合成をやっていろんな種類の音色を作っていくわけですが、こういうことを考えるのは、さすがヨーロッパ人……他の種族ではちょっと思いもつかない論理性は、やっぱりたいしたもんだなあ……と。(まあ、「オルガン」という名前自体がそうなんですが)

    考えてみれば、スピノザの先の御言葉、「神の本質からは無限に多くのものが無限に多くの仕方で生起しなければならぬ」というのは、まさにこのオルガンの構造にピッタリですね。論理的には、パイプの数をどんどん増やしていけばそれだけ音色もどんどん豊かになって、それこそ「無限に多くの音」が奏でられる……こういう考え方は、結局現在のシンセサイザー(音響合成?)みたいなものに至ると思うのですが、現在のシンセサイザーって、原理的にはオルガンよりはるかにすごいのに、なんだか「神々しさ」はすっかり失っちゃってますよね……うーん、やっぱり「神」には「身体」が必要なんでしょうか……

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/3/9 11:02 by IKA

    追伸です。

    スピノザの御言葉がちょっと気になったので、調べてみました。これは、第1部「神について」の中の「定理16」ではないかと思うのですが……。ウィキソースに原文もありました。ちょっと、覚えのために写しておきます。
    <リンクURL>
    定理16 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で(言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが)生じなければならぬ。
    PROPOSITIO XVI : Ex necessitate divinae naturae infinita infinitis modis (hoc est omnia quae sub intellectum infinitum cadere possunt) sequi debent.

    で、これの「証明」なんですが……便利なサイトがありましたので、そこから引用してみます。(上の定理16の訳文もこのサイトのものです)
    <リンクURL>#note1p16
    証明 この定理は次のことに注意しさえすれば誰にも明白でなければならぬ。それはおよそ物の定義が与えられると、そこから知性は多数の特質を〜〜実際にその定義(言いかえれば物の本質そのもの)から必然的に生ずるもろもろの特質を〜〜結論すること、そして物の定義がより多くの実在性を表現するにつれて、言いかえれば定義された物の本質がより多くの実在性を含むにつれて、それだけ多くの特質を結論すること、これである。ところで神の本性は、おのおのが自己の類において無限の本質を表現する絶対無限数の属性を有するから(定義六により)、このゆえに、神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で(言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが)必然的に生じなければならぬ。Q・E・D・

    このサイトは、例えば上の(定義六により)というところがリンクになっていて、クリックだけで跳べます。……これって、ものすごく便利です。岩波文庫で読んでたときは、いちいちページを繰って参照してましたが、それだけでどっと疲れてしまって……なるほど、『エチカ』は、ネットではじめて著者想定の百%の姿になるんですね。『エチカ』を読むときは、絶対にネット(こういう内部リンク付きサイト)がいいのではないかと。

    で、その定義6ですが、次のように書いてありました。
    六 神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する。
    説明 私は「自己の類において無限な」とは言わないで、「絶対に無限な」と言う。なぜなら、単に自己の類においてのみ無限なものについては、我々は無限に多くの属性を否定することができる〈(言いかえれば我々はそのものの本性に属さない無限に多くの属性を考えることができる)〉が、これに反して、絶対に無限なものの本質には、本質を表現し・なんの否定も含まないあらゆるものが属するからである。

    うーん……こうなると、定理16と定義6は、結局おんなじことを違う言い方で言ってるみたいにも思えるのですが……
    ちなみに、定義6の原文は、こんな感じでした。
    VI. Per Deum intelligo ens absolute infinitum hoc est substantiam constantem infinitis attributis quorum unumquodque aeternam et infinitam essentiam exprimit.

    ちなみに、定理16をパイプオルガン的に言い換えますと……
    「音楽の本性の必然性から無限に多くの音が無限に多くの仕方で(言いかえれば無限のパイプによって共鳴されうるすべての音が)生じなければならぬ。」
    また、定義6は……
    「パイプオルガンとは、絶対に無限なる音列、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くのパイプから成っている実体、と解する。」

    これは、そのまま『ポニョ』の「海の世界」(産みの世界=能産的自然の世界)にもあてはまりそうです。

    どうも失礼しました……

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/3/9 11:05 by IKA

    追伸の追伸

    日本語訳のサイトは、トップページに行ってしまうようなので、hぬきでかかげます。
    ttp://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1p16

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/3/19 22:32 by IKA

    aakuraraさん、雨天さん、こんばんは。

    雨天さん、おひさしぶりです(というか、トトロに書かせて頂いたばかりでした)。

    雨天さんは、関西の方でしたか(以前に聞いていたらすみませんが、なんとなく関東方面の方のように思っていました)。私も出身は関西(京都)ですが、愛知県住まいが長く、人としては中部の人なのか……(それとも三河湾のイカなのか……)今回の震災のときは名古屋におりましたが、実に長い揺れでしたね。最初は地震とは思わずに、自分のアタマがくらくらしているのかと思いました(こちらでは震度4でした)。阪神のときの感じと似ていたので、どっかで大きな地震が……と思いましたが、まさか東北とは……。

    『死霊』7章、読み終わられたのですね。私はご紹介しておきながらすっかり忘れていたので……雨天さんのまとめてくださった文章を読ませて頂いているうちにちょっとずつ思い出しました。たしかに「無出現の思索者」というのは不思議な存在です。まあ、「無出現」といっているので、ホントはまだ生まれていない……ということなのかもしれませんが……別の章に書いてあったかどうかも覚えておりません。スミマセン、無責任なことです(無責任の思索者?)私もぼちぼち読み返してみます。

    ジブリ新作は今年の7月に公開なんですね。今、東日本はちょっと混乱しているみたいですが、そのころには収まっているといいですね……吾朗さんの2作目、楽しみです。

    それでは、とりあえずご挨拶ということで……こちらこそよろしくおつきあいお願いします。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/3/20 0:04 by aakurara

    雨天さん、IKAさん、こんばんは。

    雨天さん、お元気でよかった! そして書き込みありがとうございます。
    さいしょの地震のとき、私はデパートの6階にいました。ビビりました。そのあと当然電車は動かないだろうと判断して、幸い歩いて帰れる距離だったのですぐに歩いて帰宅し、家の中は鏡が倒れて割れて(あとちょこっと本やらパソコンやらが床に落ちていたりして)いるくらいの被害ですんだのですが、その夜からこれはもう大変だと思って暖房をずっと消してラジオとPCにはりついて・・・幸いというか運悪くというか、仕事が長期休暇中でしたので。そうでなかったら、あんまり考えすぎてパニクることもなかったかもしれないのですが。

    『死霊』第7章の「自在宇宙」のお話は、スタニスワフ・レムの『虚数』でも、多少似た感じのことが言われていたように思います。「無出現の思索者」というのは、「作られたもの」ではない存在――したがって「出現するもの」でもない存在ということ――なのかなと私は感じました。みずからは「出現する」ものではなく、あらゆるものを「出現させる」もの、みたいな・・・

    私もまた後日、IKAさんが前に書いてくださったこともふくめてゆっくりお返事します。さしあたって、こちらこそお願いします!

    そうそう、今日は家族に『地球が静止する日』を見せました。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/3/21 15:06 by aakurara

    雨天さん、IKAさん、こんにちは。

    雨天さん、迷惑だなんてとんでもないです! ただ現在の私の頭の中が、原発のことでいっぱいでして・・・

    昨日は雨が降っていたのですが、ちょっと散歩をしていたら母校の高校で文化祭をやっていまして、なんとなく中に入って職員室を訪ねてみました。私が在学していたころからいらした先生をお一人だけお見かけしたので少し話をしてきたのですが、何百文字もの回文をつくっちゃうような、とても頭のいい先生で、ひとつ面白い回文を教えていただきました。「死んでいる電子・死んでる遺伝子」というのですが・・・

    なんとなくですが、『死霊』第7章に出てくる「無出現の思索者」というのは、電子の死も遺伝子の死も超越した存在、逆に言えば、電子を生かし遺伝子を生かす「もとっこの力」にもなっている存在なのではないか、というような気がします。

    なんか「無」というと、「有」の世界に住む我々にはなかなかピンとこなくって、「有が一切ない」状態なのかなと思ったりするわけですが、そうではなくて「無」というのは、「有が生み出される前」とイメージするといいのかなぁと。そうすると、「虚」というのは「有になる可能性」(潜在的な有)のことでしょうから、実際に出現した「有」よりも「虚」というのは、はるかにたくさんあるわけです。(ゲーム理論的にもそういうことが言えるんじゃないでしょうか。)それで物理定数にも、実際の値と実現しなかった「虚」の値があって・・・スピノザが『エチカ』で言っている「神の無限性」と、このことが関係するのかどうか分かりませんが、なんとなくこれらのことはつながるんじゃないかと、そんなことを思ったわけなのですが・・・

    しかし「多次元宇宙」みたいな話になると、たしかに人間のスペキュレーションでの問題になっていきますね。スピノザの言う「神」とか埴谷さんの「虚体」とかは、もっと「実体」に近いものなのではないかという気もします。でも『エチカ』にしても『死霊』にしても、ホントに読むのが難儀なんですよね・・・

    前に私が引用した箇所は、IKAさんが調べてくださったとおり、第1部の定理16です。なるほど、内部リンクつきで読める『エチカ』というのは便利ですね。リンクしてくださったトップページをブックマークしておきました。ありがとうございます。

    『エチカ』は、私もこれから少しずつ読もうと思っているのですが、「神々しさ」ということと、あとパイプオルガン的にスピノザの定理・定義を言い換えてくださったのをうけて考えてみますと、パイプオルガンからシンセサイザーへの移行と同じように、人間の「思考」も、どこかで「神々しさ」が抜け落ちてしまうと、それは「実体」から離れていますよという徴なのかな、と。なんだかそんなことを思いました。

    『地球が静止する日』は、「地球はあなたがたの惑星ではない」とか「人類から地球を救うために来た」とか、リアルすぎてもう・・・クラトゥさんが去っていったのは、人類が持つ「愛」に免じて今回はゴートプログラムを停止させたけど、「このまま放っておいても彼らは地球より先に滅びるな、可哀想だけど」ということだったのかなーとも思いました。とくに昨日からのリビア情勢を見ていて、そういう印象が強まっています。

    ところで、『10月1日では遅すぎる』に出てくる「音楽の力」のこともIKAさんが書いてくださいましたが、私は昨日「音楽の力」で目薬を買わされましたよ。どういうことかっていうと、近所の商店街を歩いて帰宅していたら、どこからかバッハの曲が聞こえてきまして・・・よく探すと、薬局の入っている建物のスピーカーから聞こえていたのでふらふらとその薬局に入って、目薬を購入・・・というワケでした。店内と街路にバッハを流している薬局。なんかここのお薬は効きそうではないですか。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/3/22 12:19 by IKA

    aakuraraさん、雨天さん、こんにちは。

    昨日テレビで、「スタジオジブリのすべて」みたいな番組(正確なタイトルは忘れましたが日テレ系)をやっていて、宮崎さんが東映動画に入社されたころから最新作の『コクリコの旗』まで……それぞれのアニメが作られた当時の時代状況ともからめながらいろんなエピソードが紹介されて、なかなか面白かったです。『コクリコの旗』では、吾朗監督が、「われわれの今の時代をつくってきた時代のことをきちんと押さえないといけないと思った」という内容のことをおっしゃっていて、どうも1960年代がテーマになるみたいですね。なかなかのツボだ……目のつけどころのいい人だなあと思いました。

    『死霊』については、私はホントに忘れてしまっているので、きちんと読み直してからお話に参加させていただくことにします。ただ、ちょっと思ったことは……「無から」ということなんですが、前に読んだなにかの本に「クレアチオ エクス ニヒロ」ということが書かれていました。これは、ラテン語で「無からの創造」ということなんだそうですが……この言葉を用いたのは、どうもアウグスティヌスのようですね。……キリスト教の教義は、当時の新プラトン主義やグノーシス主義と論戦をかわすうちに今の姿に鍛え上げられていったようですが……それに決着を着けたというか、キリスト教としては「これどす!」(なぜか京都弁)というのがアウグスティヌスの「善の欠如としての悪」、「無からの創造」、「三位一体」ちゅうお考えやったらしいどす。↓
    <リンクURL>

    埴谷さんの『7章』がこのあたりとどれだけリンクしているのかはわかりませんが、やっぱり最終的には「虚体」の影を感じますね。……この小説では、書かれなかった(それこそ未出現!)『12章』で、ついにご本尊?!の「虚体」が出現するそうなのですが、そこまでのさまざまな物語は、すべてがこの「虚体」を導き降ろすためのベースになっているわけで……「無出現の思索者」は、たとえば救世主のイエスの出現の前ぶれを行う役割の洗礼者ヨハネのような存在なのでしょうか……うーん、やっぱりきちんと読み直してみます。

    aakuraraさんの先生は、何百字もの回文を作られる方なのですか……それはすごいですね。私も一時期、いろいろ作ってみたんですが、何百字はとても……当時作ったので今でも覚えているのは「この紳士は紳士の子」とか「水、命の泉」とかカンタンなものばかりでした。(もうちょっと長いのも作りましたが、忘れてしまった……)先生の応用になりますが、「泣いている遺伝子死んでいる痛(いて)いな」とか「病んでいる遺伝子死んでいる遺伝や」とか……うーん、くだらないものしか出てきません……(「病んでいる遺伝子」は、最近の放射能を連想するとちょっとオソロシイですが……)

    「無」というのは、「有が生み出される前」……これを読んで思い出したのが、昔読んだ本に書いてあった東洋的な「世界の創造」のことで、その本によると、まず「無の世界」があり、ついで「有の世界」に移るのですが、「有の世界」は「魂・こん」と「魄・はく」のふたつの世界から成るそうです。「魂・こん」はプラスであり、精神の世界。これに対して「魄・はく」はマイナスで、物質(デカルト的にいうなら延長)の世界なんだとか。……これは、易でいうならまさに「太極」と「陰・陽」に相当する世界観なんですが……ただ、「無の世界」には「有の世界」にあるような「内容」が一切ない(というか、未出現!)ので、「無」というしか表現がしようがないもののようです。

    ここでちょっと面白いなと思ったのは、今読んでる(といってもやっと2ページ目!)ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』に書いてあることで、ヴィトゲンシュタインは、「世界は事実(タートザッヘ)の総体であり、もの(ディング)の総体ではない」と言ってるんですね。そして、「論理空間の中にある諸事実、それが世界である」とも。では、この「事実」(タートザッヘ)とはなにかというと、それについては、「成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態(ザッハフェアハルテン)の成立である」なんですと。では、「事態(ザッハフェアハルト)」とはなにかといえば、これは「事態とは、諸対象(もの)の結合である」と……

    つまりは、「もの」(ディング)が結合して「事態」(ザッハフェアハルト)になり、それが成立すればそれは「事実」(タートザッヘ)となる。この「事実」(タートザッヘ)の総体として「世界」が成立していると考えていて、その「事実」のあり方は「論理空間の中にある」のだと。なので、まず「もの」が結合されて「事態」となり、複数の「事態」が「成立」することによって「事実」となるけれども、「事実」は「論理空間」の中にあるので、論理、つまりロゴスを無視できない……となるのかな?うーん、全体を読むにはまだ何十年もかかりそうですが、この最初の1ページに書かれていることだけでも十分に示唆的でした。

    つまり、ヴィトゲンシュタインにとっては、「もの」だけでは、それは「無」に等しい。「もの」は結合されて「事態」となるけれども、それも「成立」しないと「事実」にはなれない。なので、この段階でもまだ「無」なのでしょう。で、「事態」が成立してやっと「事実」になるけれど、それは「論理空間」の中にあるので、真であることも偽であることもできる……ということで、「無」を脱出するためにはいっぱい関門があるみたいです……私のイメージでは、ヴィトゲンシュタインは、現代的な論理で『エチカ』と同じことをやろうとしているようにも思えるのですが……とりあえず、もう少し読んでみて、またわかったことをご報告します。

    リビア情勢は、地震と原発のニュースに隠れてどうなっているのかはっきりわかりませんでしたが、最近やっと報道がはじまりましたね。……これだけではなくて、日本でも原発に関することは、なんかずっと隠蔽し続けているみたいで、これじゃあ、クラトゥさんがいくら「愛」に動かされても「やっぱ、こいつらあかんわ」と見放しちゃうのもムリないかな……と。
    「根はいかん子よ、またまた来てんかクラトゥと楽観的。たまたまよ、今回はね。」
    (えー、楽観的を「らくかんてき」と読んでもらうところなど、ちょっとムリがありますが……)

    「バッハ薬局」、すごいですね……ぜんぜん関係ないんですが、『千と千尋の神隠し』の「不思議の街」で「め」とただ一字だけ書いてあった看板を思い出しました。……「音楽の力」は日常無意識の行動にかなり影響を与えているのかもしれませんね。

    そういえば、なんとかいう作家(評論家)の方が、田舎に住んだら毎朝毎晩防災無線で村中に響く大音響で音楽を流すので、差し止めを訴えて裁判になったそうです。村側は、防災無線はいざというときに使えないといかんので、毎日の音楽は機械の「点検作業」です……というような答弁をしたらしいのですが……そのときは村の対応も詭弁だなあ……と思ったんですが、今回のようなことがあると、ちょっと考えてしまいました(ちなみに、私の今住んでる村では、朝6時の音楽は数年前からやめたみたいですが、夕方5時には大音量の音楽が鳴り響きます……)

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/3/26 17:05 by aakurara

    IKAさん、雨天さん、こんにちは。

    ジブリの新作のテーマは1960年代・・・東京オリンピックとかのころですね。ちょうど私は昨日、1960年につくられた『裸の島』を見たところです。なんか、「日本が選ばなかった日本」がここにある!という感じの作品でした。

    IKAさんがご紹介してくださったオリゲネスのお話は、まだ読みかけなのですが、グノーシス主義の考えだと「精神・霊の世界」と「物質・感覚の世界」とがあって、後者は悪神デミウルゴスの創造と支配の下にあるということなので、「魂と魄」のふたつの世界という考え方と近いようですね。ううむ、しかし『死霊』第7章は、このあいだ読んだばかりなのに、私もよくは覚えておりません・・・「無出現の思索者」について前回いろいろ書きましたけど・・・「虚体」ってどんななんでしょう。すごく気になりますが、それが出てくるはずの12章は書かれていないんですね。余計に気になってしまいますね。

    ヴィトゲンシュタインの「もの」「事態」「事実」のお話は、論理学の基本なのでしょうか、とても興味深いです。私もこれから読み始めれば何十年かあとに全体を読み終えられて、ちょうどよいかな・・・

    このあいだは家族と『惑星ソラリス』を見たのですが(父は途中で脱落して寝ちゃいましたが)、「ソラリスの海」にとっては、どこからが「事実」になるのでしょうね。そしてソラリスステーションにいる人たちにとって、おそらく主人公のクリスを除いては、「お客」の存在はやっぱり「事実」にはなっていない(「論理空間」の中にはない)のでしょう・・・それで、なんだか今回思いましたのは、放射能「汚染」という言い方は、ソラリスの「お客」という言い方に似ているなあと。

    つまり、ソラリスで記憶の中のモノが物質化するというのは、ある意味では自分でそのモノを生んでいるのと同じだと言えるわけですが、それをまるで外からやってきた「異物」のように見なして「科学的」にそれを扱うという態度が一方であるとしたら、他方でクリスはそれを「人間」として扱おうとする・・・これは、相手が「人間かもしれない」という「実感」にもとづいた反応なのだろうと。で、人工の放射能というのは人間がつくりだしたモノですが、それを「汚染源」と見なしてやはり「科学的」に扱おうとすると・・・これは「実体」から離れていくことになるのだと思います。

    しかし、私たちが生み出した大量の人工放射性物質を、あるいはもっと話を広げれば、<19世紀>を経て膨大にふくれあがったこの文明を、どういう「事態」として、そしてどういう「事実」として認識すればよいのか・・・そこのところの「理性」が、まだ私たちには出来上がっていないのでしょうか。

    ところでIKAさんも回文がお得意なんですね。私は全くダメです。脳の構造がそういうのに向いてないみたいです。あとやっぱりバッハの鍵盤曲の楽譜が実家に2冊ほどあったので、両親が出かけているあいだに(いるとうるさいと言われるので)ちょっとグールドさん風にとか思いつつ弾いてみていますが、うーん、当たり前ですけど全然あんなふうには弾けません。2声ぽっちの簡単な練習曲でもダメなので、どうも脳の構造がポリフォニー向きにもなっていないようです。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/3/29 9:29 by IKA

    aakuraraさん、雨天さん、こんにちは。

    『裸の島』は、私は知りませんでした。……たしかに、1960年代は日本の「分岐点」だったと思います。この時代に、社会を担っていた人々の選択が、結局は今の日本を形成していった……ということなのでしょう。……当時は私はこどもでしたが、「暮らし」がかなり急速に変化していったことはよく覚えています。暖房一つとってみても、うんと小さなころには火鉢とか行火みたいなもので暖をとっていましたが(田舎では囲炉裏だったのでしょう)、石炭ストーブが家にきて、その暖かさにビックリ……しかし、それも数年で石油ストーブにとって代わられ、電気コタツとかも入って、1970年頃にはほぼ今の暮らしに近い感じになってたように思います。

    冷蔵庫も電気洗濯機もテレビも……そしてちょっと遅れてエアコンも加わり、その頃には自家用車も……新幹線ができ、各戸に電話がつき……1950年代と1970年代では、日本は全く「別の島」のようになってしまいました。地下鉄に高速道路、火力発電所が海岸線にべったりとはりつき、そして原子力発電所というやっかいなものまで急増殖……「日本が選ばなかった日本」では、おそらくこれらすべてはないのでしょうね。……さあ、はたしてどっちが幸せだったのか……その答は、これからおもむろに現れてくるような気がします(というか、もうすでに現れはじめてますが……)

    そういう点では、やっぱり吾朗さんって、着眼点のいい方だなあ……と思いますね。まあ、内容がわからないので、まだなんともいえないのですが……。『アリエッテイ』の米林さんはアニメータ系の方で、とにかくそちらに徹しておられましたが、吾朗さんの方は宮崎駿さんの「文明批評」的な観点もけっこう受け継いでおられるようにみえますので、ジブリとしては、宮崎監督の二つの面を「分割相続」して、二人の個性的な作家を持つことになったともいえるのでしょうか……まだお二人とも監督としてのキャリアは始まったばかりなので、すべてはこれから……ということなのでしょうが。(欲をいえば、宮崎さんの持っておられる強烈なエンタメ性……お客さんを楽しませる能力……を受け継ぐ人も必要と思いますが、これは難しいのかな)

    それと、私は前の書き込みで『コクリコの旗』と書いてしまいましたが、これは『コクリコ坂から』のまちがいでした。お詫びして訂正します……どうも、宮崎駿さんの描かれた絵の、旗を揚げているイメージが強くて勝手に『コクリコの旗』になっちゃったみたいです……でも、あの絵はステキですね。あれだけで充分に想像力がふくらみます。さすが宮崎さん……。「スタジオジブリ物語」は、たしかに雨天さんのおっしゃるように宮崎さんに焦点を当てたように見えましたが、よく見てみると時代背景とか他のいろんな方のこともけっこう盛られていたように私には感じられました。

    アニメータは激務だから、当時の「労働運動」と結びついていったのも自然な流れかなと思います。アニメ界もそうでしたが、当時は印刷工、旋盤工など「ものづくりの現場」にはけっこうドップラー現象が強烈にかかっていたように思います。そして、それに呼応して学生運動も盛んでしたが……高度経済成長期をすぎて1970年代に入るとみんな暮らしが豊かになってきて、それとともに働く人も学生も急速にプチブル(死語です)意識に……この番組ではちょっとそういう流れにも触れていて、ジブリの作品の淵源なんかもそれとなく暗示されていて、そういう意味ではユニークだなあと思いました。まあ、今という時代からすると、これくらいが限界なんでしょうが……

    オリゲネスのお話は、私も読みかけでして、ちょうど半分くらいまでいったところなんですが……これ、興味深いですね。ここまででは、ユングの次の文章がかなり気になりました(ちょっと長いですが、引用します)。

    「しかしルシフェルがいなかったなら、創造も、そしてまさに救済史も起こらなかったことであろう。影と対抗意志は、あらゆる現実化には避けられない条件である。場合によっては自らを創造した者に対しても逆らうことのできる自分固有の意志と属性をもたない対象は、倫理的な決断を下せるだけの独立した存在ではありえない。もしそれが機能するにしても、せいぜい創造者がネジを巻かねばならない時計細工にすぎない。したがって、ルシフェルは、世界創造を志向している神の意志をおそらく、もっともよく理解し、もっとも忠実に遂行してきたのであろう。彼は、神に逆らって自らを主張し、それによって、神に対して、異なって存在しようと意志する何者かとして対抗する被創造物原理となったからである。神はこのことを望んだからこそ、創世記の第三章に明らかなように、(神の意志に)逆らう意志力を人間の内に置いたのである。そうでなかったなら、彼は機械以外の何者をも造っていなかったであろう。そうなると、受肉や世界救済は、まったく問題にならなかったであろうし、三位一体もけっして啓示されることはなかったであろう。というのは、すべてが常にただの一者にとどまっているはずだからである。」(C・G・ユング「三位一体の教義にたいする心理学的解釈の試み」(村本詔司訳『ユングコレクション3 心理学と宗教』人文書院所収)から)

    ユングは、長年の臨床経験から、やっぱり人の心の中の「悪」というものを熟知していたのでしょうね。「善の欠如としての悪」という考え方が、実際の人間を前にしたとき、いかに頼りのない思弁的なものにすぎないか……先に、ジブリの後継者に、宮崎さんの「エンタメ性」が欠如しているのでは……と書きましたが、その件はなんとなくこのユングの文章にも関連しているように思います。……つまりは、吾朗さんも米林さんも「優等生」なんですね。……ものを創る人には、やっぱりどっか強烈な「ルシフェリック・パワー」がないとつまんない……「釈迦に会えば釈迦を殺し……」というあの迫力。

    「闇の力」に関して私が思い出すのは、おそらく以前に一度書いていると思うのですが、「魂は闇から誕生する」ということです。……このことは、日本における神々の「みあれ」(誕生)が、必ず夜の深い闇の中で行われる……ということとも深く関連していると思うのですが……たとえば、以前にも例として出している(と思うのですが)京都の上賀茂神社の「ワケイカヅチノカミ」は、五月のある深夜に神山(こうやま)と呼ばれる神体山にみあれするとされるのですが、その際の神秘的な儀式は、神職数人のみが山に登り、漆黒の闇の中で行われるといいます。5月15日の葵祭の行列は有名ですが、このお祭りのもとになっている「神のみあれ」は報道陣もシャットアウトで、神職のみで暗闇の中で執り行われるということです。

    われわれの心の中の「悪」や、あんまり表に出したくない闇の部分とか……そういうものを「善の欠如」としてみてしまうのか、それとも「実体を持った悪」としてみていくのか……それは、なんか大きな差になってくると思います。魂が、その初元から「闇」を背負ったものであったとしたら……『死霊』における「虚体」は、もしかしたらこういうところにも関連するのではないかと思いますが……オリゲネスのお話の、バタイユが出てくるところで、「唯物論」をグノーシス的に解釈する……みたいなところもあって、そこらへんも興味深かったです。埴谷さんの思想の出発点はやっぱり「唯物論」なので、彼の「虚体」は、もしかしたらそういうところにも関連を持つものなのかもしれません。

    そういう点からすると、現代の科学技術というものも、やっぱりその生まれ出た淵源に遡って検討するときがもうすでに来ている(あるいはだいぶ過ぎている)のかもしれないと思います。例の原発事故にしてもそうなんですが、「鉄腕アトム」的な、「科学が未来を拓く」みたいなノーテンキな「思想」では、もうこれ以上はバックアップできなくて、やっぱり「科学技術とは本質的になんなのか」そして、おそらくはその元にある「マテリアリズムとはなんだったのか」……このあたりについては、どうしても徹底的な検証が必要なんだと思います。「科学技術は諸刃の剣」ということで、倫理的問題とは原理的に分離して進めていけるとしていたこれまでの無邪気な?考え方は、もう限界に来ていて……そこには、どうしても「闇」や「悪」の問題が不可避的に入ってくる……その壁に、直面しているような気がします。

    aakuraraさんが書かれている『ソラリス』のお話でも、やっぱりそのことを感じました。人間の「科学」は、それを生み出された「壷」にまで一旦帰って、なにか絶対的に忘れていたもの、「進歩」には有害だと思って切り離していたものをもういっぺんくっつけて、「完全な姿」になって歩み直さないといけないときにきているのだと思います。そうしないと、事故が起こると「反原発」が力を得て、しばらく事故がないと「推進派」が元気になる……シーソーゲームをくりかえしているうちに、いつか取り返しのつかない事態に……(まあ、そうなったらそうで、それも運命かもしれませんが)

    このことで思い出したのが、昔聞いた「百点を取らないと次に進めない教育」のお話……このお話は、仮に「ある星でのお話」として語られたものなんですが……その星の教育では、百点(満点)を取らないと、絶対に次のカリキュラムに進むことができないんですって。地球の教育だと、たとえば百点満点で60点以上取れば「ハイ、合格!」ということで次に進むことができるのですが……その星では、たとえ99点でも次に進めない。「はじめからも一回やりなおしてください。」ということになるんだそうです。うーん、ずいぶん厳しい教育だなーと、お話を聞いたときは思ったんですが……

    でも、よく考えてみると、もしかしたらそっちの教育の方が本当の姿なのかもしれません。……たとえば、なにか新しい技術を発見したとすると、それを実施する前に、その技術が「百点」を取れるものなのかどうか、厳しいテストをする……たとえば、地球上の技術なんかだったら、環境影響評価なんかやるにしてもそれはきわめて限定的です。範囲を区切って、無限にある指標の中からいくつかを選んで、時間的影響もある程度に区切って、それでコンピュータにチャカチャカ計算させて、「はい、影響ありません」と……そこでは、「人の心」とか「倫理観」とかに与える影響なんかはむろん一切考えない……よく言われる「御用学者」が入った場合は、もうまったく論外ですが。

    でも、「百点教育」の場合には、そうはいかないんですよね。範囲は地球全体(もしくは宇宙全体)、指標も無限、時間も未来永劫(もしかしたら過去も……)人の心や社会に与える影響も全部考えて……という条件でテストをやって、そのすべてを満点でクリアできないとその技術は実施できません……と、こういうことにすれば、「想定外」という言葉さえなくなってしまうのでしょう……。今の考えでは、はたしてそんなことがホントにできるのか……ということになるのですが、「その星」ではちゃんとそれをやっているということでした。じゃあ、その秘密はなんだろう……ということになるのですが、それは、案外、地球の思想でも、過去に忘れてきちゃったものの中にあるのかも……オリゲネスのお話を読んでいると、なんかそんな気もしてきました。以前に別スレaakuraraさんがでいっておられた「アナムネーシス」ですね。

    レムの『ソラリス』では、おそらくはそういった世界と人間の科学技術の世界が平行的に、互いが互いを反射する2枚の鏡のように描かれてるのかもしれません。……ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は、まだ2ページ目!を読んでいるところなので大きなことは言えないんですが、彼は「言語」というものに、やっぱり徹底的にこだわったんだろうと思います。……人間が、脳の中でなにかを考える……そのときには、どうしても「言語」を使用するので、彼にとっての「世界」とは、言語とその論理構造を抜きにしては考えられないもののようです。『語り得ざるものについては沈黙しなければならない』これは、『論理哲学論考』を結ぶ有名な言葉ですが……彼にとっては、「存在」も「無」も、言語とその構造を離れては意味のないものだったのでしょう……。

    このあたり、埴谷さんの「虚体」は、なんかその「言語」の問題を逆手にとって提出しているよな気もします。人間が言葉で考えられる限り考えたものが、それが「実在」になるのだとすれば、「虚」について考えた「すべて」は「虚体」となる……彼は、「念速」というのも考えていて(前に書きましたっけ)、これは「光速」よりも早い……「アンドロメダ星雲のことを考えたとたん、人はアンドロメダ星雲に行く」ということで、どんな距離でも即ゼロに……雨天さんが書いておられる「虚の自己弾劾」は、こういう「考えられたことすべて」に対する弾劾なのかもしれませんね……で、それがすべてなされたときに、はじめて「虚体」は、この「実」の世界に姿を現す……つまり、マイナス×マイナスはプラスということで……

    雨天さんの「並に難し」回文に触発されて、いっぱいできてしまいました……
    ★回文このダム無駄の昆布以下
    (えー……雨天さんの真似っぽいです。以下、オリジナルで……)
    ★神の意 神の 虚無良きジブリ 無事清む良き 飲み会のみか
    (ま、結局は飲もっかーということで)
    ★無と有(ゆう)と虚 良き灯油富む
    (かつては哲学の本拠地であったアラブも今では……)
    ★父なる神の自己弾劾 胃癌だ孤児のみ刈るな父
    (なんのこっちゃ……)
    ★読めや生も 駄目だ回文 昆布イカ駄目だ もう止めよ
    (ハイ、もうおしまいです。スンマセン……)

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/4/2 20:44 by aakurara

    雨天さん、IKAさん、こんにちは。

    なんだあ、お二人とも回文つくれちゃうんですね・・・
    ちょっと私も挑戦。
    「電気はいらないかな、仲居なら意は金(きん)で」
    うーん・・・

    昨日、東京に戻ってきたのですが新幹線の中で、シモーヌ・ヴェーユのマルクス批判のことを思いだしていました。この批判は、(おなじみの)岩波文庫にも入っている『自由と社会的抑圧』第1章で展開されていて、問題が社会・経済・政治・科学と多岐にわたるのでややこしいのですが、ところどころ引用しながらできるだけ噛み砕いてみます。

    まず、冒頭のあたりをちょっと長めに引用します。

    ===以下引用===
    なるほどマルクスは、労働者が搾取される真の理由が、享受と消費にむかう資本家の欲望ではなく、競合する他企業をしのぐべく、可及的すみやかに自企業を拡大せねばならぬ必然性にあることを論証した。ところで、競合相手の集合体と戦う武器を鍛えるのに最大の時間をつぎこむべく、配下の成員の消費を極限まできりつめる必要があるのは、企業だけではない。労働者を擁するあらゆる種類の集合体も同じである。したがって、この地表に権力闘争が存在するかぎり、そして勝利の決定要因が工業生産であるかぎり、労働者は搾取されつづける。じつをいうと、社会主義がすべての工業国に樹立された暁には、あらゆる種類の権力闘争が消滅するだろうことを、マルクスはたしかに推測したけれども証明はしていない。

    (中略)

    資本主義的抑圧の他の様相を考えるならば、なおいっそうおそるべき困難、より正確には、なおいっそうあからさまな光に照らされた同一の困難があらわれる。労働者を搾取し抑圧するためにブルジョワジーがあやつる力は、われわれの社会的生の基盤じたいに依拠しているので、いかなる政治的・法制的な変容をもってしても殲滅されえない。この力とは、第一義的かつ本質的に、近代的な生産の体制そのもの、すなわち大工業である。
    ===引用おわり===

    なんか、生産者も生活者も発電(原発にかぎらず、なんでもです)に従属するという構図も、労働者が資本に従属するという構図と根本は同じだと私は思うのですが、これは「私的所有」の問題というより、工業中心の社会・経済・政治構造の問題だということです。

    で、こういう構造を支えているのは「専門化」のシステムだとヴェーユは言います。このシステムにおいては、「調整者」の指示することをそのまんま「遂行者」が隷属的に遂行するようになっている。こういうシステムを基盤にしているかぎり、抑圧の「組織化」とか「精緻化」はできても、抑圧の「軽減」はできない。そして別のシステムに切り替えるためには、まず生産と文化そのものが変わらないとダメだ、と。

    そしてマルクスが、こういうシステムの上に「抑圧ナシ」の文明を打ち立てられる(「革命」によって、ですね)と信じたのは、生産力を向上させる技術を駆使して、労働者の労働を軽減させることができればオッケーだ、と考えていたからだとも言います。

    ===以下引用===
    マルクスの眼には、つまるところ生産力の発展こそが歴史の真の動因であり、この発展にはほとんど限界がないと映っていたことを、われわれは知っている。そのときどきの社会体制や支配階級は、ついにあらゆる進歩が社会の枠により阻止される日がくるまで、生産力を不断により高い度合へと押しあげることを、自己の「責務」とし「歴史的使命」とする。枠の抑止をうけるその瞬間、生産力は叛乱をおこし、枠をうち砕き、新興の社会階級が権力を奪いとる。
    ===引用おわり===

    「生産力の叛乱」とは、ある時代においては「ブルジョア革命」、ある時代においては「労働者革命」として表れたものにあたるわけですよね。・・・現在起こっているのは、「社会の枠」どころか、もっと根源的な「物質の枠」によって進歩が阻止されるような、「原子革命」とでも言えるものでしょうか・・・原子の叛乱・・・

    ともかく、ヴェーユによるとロシアのボルシェヴィキがとった立場(労働者民主主義の実現をどーでもよいとしていたこと)も、彼らが「生産力の限界のない発展」を前提としていたからこそであり、(以下引用)「一方で、生産力の発展に寄与しない社会的活動の企ては、あらかじめ頓挫する運命であることを、他方で、あらゆる生産力の進歩は、たとえ一時的な抑圧の代償を払うにせよ、人類を解放の道程において前進させることを、だれよりも確信していたから」だと。

    そしてヴェーユが問うのは、「生産力の限界のない発展」などという発想が、そもそも誤謬なのではないかという問題です。このあたりが「唯物主義」の問題になってくるのだと思いますが、ここでやっぱりヘーゲルが出てきます。つまり、ヘーゲルは歴史の動因を「世界精神」だとしたのですが、マルクスはヘーゲルの思想を「足で立たせる」と称して、歴史・進歩の動因は「物質」だとした。

    この先は、「エネルギー問題」にもなっていって、数年前に私がこの本を読んだときにも、「ああ原子力発電にも言えるな」と思ったのですが、まとめるのに少し時間がかかりそうなので、いったんここで投稿します。

    オリゲネスのお話は、私もいま半分くらいのところで・・・哲学的に考えると、やっぱり「悪」とか「闇」の問題も重要ですね。「百点」をとらないと次に進めない教育は、たぶん「そんなことをしていたら、<進歩>を否定することになるじゃないか」っていう反論がくるのだと思います。なんか、血液型の話をすると、これも「科学的根拠がない」とか言われちゃうのですが、私はO型でして・・・O型って、わりと「進歩とかどうでもいいし」というタイプが多いような気がするんですね。世界の人間がO型ばかりだったら、いまでも人類は洞窟に住んで火をおこして暮していたかもしれない、なんてことを考えたこともあります。(ただ、O型はへんなこだわりだけはあるので、なんかやたらオシャレな洞窟にはなっているかもしれないです。)というか、ほんとうの<進歩>とはどういうものなのか、プラトンの『国家』とかを読めば、「生産力の発展」に基づいた生活スタイルの構築などではないことは分かるんですけどねえ。

    えーと、投稿する前にひとつ、この(↓)ブログの3月28日の記事で紹介されている『生態系存在論の構築』という本が、なかなか興味深いです。この方のブログで紹介されている本は、どれも面白そうなのですが。
    <リンクURL>

    あっ、あと『ON Your Mark』のスレで言及した『時代の風音』、面白かったです。とくに堀田さんの言われていることは、いろいろと示唆的なものを含んでいるように思われましたね。この本の感想は、また後日ということでよろしくお願いします。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/4/5 10:48 by IKA

    aakuraraさん、雨天さん、こんにちは。

    雨天さん、ちょっとお先に……

    とりあえず(恒例の?)回文から……

    ★リアクター ポンでいのちもちりあくた 痛くあり 知も痴の意 電報焚くあり
    (オソロシイ……でも、なんで電報焚くのか……)
    ★神の国 原子炉パンで死の国よ 世に苦の死伝播 炉心げに苦のみか
    (これもオソロシイ……美しかった神の島も今は……)
    ★死体だ みなこの死の電気 ふるえる付近での死の子 涙痛し
    (それでも死の電気を使い続けるオソロシさ……)
    うーん、なんか重苦しいのばかりですみません。思考回路がこうなっちゃってるので、こんなのしか出てこない……

    aakuraraさん、シモーヌ・ヴェーユのマルクス批判、読ませていただきました。

    なるほど、この批判によれば、マルクスはやっぱり「人間」しか視野になかったんですね。……それはまあ、当然のことなのかもしれませんが。それと、「社会の枠の無限の拡大」という発想も、「人間中心主義」と密接につながるのでしょうが、いかにも19世紀的……ただ、引用してくださった部分からだけの印象なんですが、ヴェーユさんはやっぱり根っこの部分ではマルクスに共感していて、ただマルクス主義の駄目なところを指摘して、その点から考え直すことによって「新しいマルクス主義」みたいなものにしていくことを考えていたのでしょうか……今の日本にも、知識人の中にはそういう考え方はけっこうあるみたいですが(たとえば吉本隆明さんなど)。

    なぜ「人間」しか眼中に入ってこないのか……これは、私はとても不思議に思うのですが、他の生命も非生命も、すべて「人間」のためにある。これは、マルクス主義でもおそらくはヘーゲルでもキリスト教でも「説明不要の前提」になっていて、「社会の枠の無限の拡大」という発想もやはりここから出てくるんだろうと思います。もし、人間以外のものもすべて平等に扱うという前提があるのなら(つまりはクラトゥさんみたいな視野ですが)、人間の「枠」が広げられた分、他のものの「枠」はぜばめられてしまう……要するに、その「枠」自体が人間をあらわしているのであって、それはまた一種の「思考の限界」なのでしょう。

    ここで問題になるのが、「枠」をつくっておかないと、なんだか「学問ぽく」ならない……ということではないかと思います。そういう意味で、マルクス主義は、ものすごく厳格な「枠」を設定したがために、かえって「枠」の嘘っぽさを際立たせる結果となったのかもしれません。……マルクス主義みたいに「絶対」の厳格な枠をつくっていない他の考え方だと、そこにできている「枠」は中途半端であるがゆえになんとなく本物ぽく見えてしまうのですが……マルクス主義みたいにとことん徹底的に「人間中心」を貫いてしまうとそれは「無限の枠」になり、人間という概念自体を無限に拡張してしまうことになるので、もうだれにでも「変だな?」というのが見えてくるようになる……

    私は、「思想の強靭さ」ということをつくづく考えるのですが……「実体」から離れた思想は脆弱ですね。人間は、その多すぎる脳細胞でついつい理念や概念や理論に流れるけれども、そして、そうやって形成された「むなしい枠組み」が一時期、人の心を捉えることもあるのかもしれませんが……でも、結局、実体から離れた思想はいつか実体に裏切られるときがくる……ただ、そのときに「実体にやられた」とみるか、それとも「枠が弱かった」とみるかで以後の対応はけっこう変わってきますね。いつまでも「実体にやられた」ことを認めないで、枠だけをどんどん補強していく方向に走ると……まあ、今がそうなってるわけですけど……さらなる災厄を自分で準備しているようなものですね。

    私は昔、関西地方のいろんな自然史博物館をめぐったことがありますが、その折に、丹波の山の中で、すばらしく立派な温室を主体とした施設にでくわしました。「ゴージャス」という形容詞がぴったりで、うーん、これは金かかってるなあ……と思ってパンフレットを見てみますと、その施設の建設・運営主体は、なんととある大手企業(東電じゃないです)の労働組合……労働組合がつるつるぴかぴかの施設を建てちゃだめということはむろん言いませんけど、なんかそのとき、私の頭の中にあった「船こぐ人はー鎖にーつなーがれー」というロシア民謡に象徴されるような「労働者像」が、がらがらと大音響をたてて崩壊……

    変な言い方になりますが、大手企業の労働組合のほうが、中小企業の社長さんなんかよりはるかに「お金持ち」かもしれないです。……まあ、組織と個人は比べられないですけど……実感として、あの立派なつるつるの輝く植物園を見たとき、そう思いました。うーん……東電なんかも、会社の上層は自民党とつながっていて、労働組合の方は民主党とつながっているという話をききましたが……どっちもどっちで「大手」なんですね。数の力で言い分を通して自分たちの幸せを確保しようとする。で、下受け孫受けの会社とそこで働く派遣労働者たちは、原発の中で、放射能をいっぱい浴びて「原発ジプシー」として各地の原発をさすらう……

    私は、マルクス主義を唱える人々には昔から大きな「欺瞞」を感じてきましたが、ヴェーユさんの文章は、そういう意味で充分に納得のいくものですね。……これからは、ものすごい「実体」の氾濫になって、その中で、今までかたちづくられてきたさまざまな「思想」がその強靭さを試されるときじゃないかと思います。……なんか、今までは、「実体」がすべてを受け入れて優しかったんですよね。でも「人」はそのことも知らずに次々と矢を……「実体」が耐え切れる限界以上に「矢」を打ち込んでしまった結果を、やっぱりわれわれはこれから見ることになるのでしょう……

    そういう意味で、今回のできごとは、震災も原発も、結局は「実体」の側からの「文明批判」になってるんだと思います(「実体」の方にはそんな意図はまったくなかったとしても)。「9.11」のほうは「人間の敵」がいたのでその本質はなかなか明らかにならなかったけれど、「3.11」のほうはもう明白ですよね。だれのせいでもなく(極限的な「責任」は個々に生じるでしょうが)……人類の「文明」自体が人類の存立を危うくする……マルクスは、歴史・進歩の動因を「物質」とした……とありましたが、そういう意味では、21世紀は「物質の反乱の世紀」になるのかもしれない(人間が「反乱」とうけとるだけですが)……19世紀が「理念建設の世紀」で20世紀が「理念実験の世紀」だったとしたら、21世紀は、その「実験」の結果をたっぷりうけとって、「19世紀的理念」の正体を、文系理系を問わず考え直す時代……むろんそれは、大先生から一人間に至るまで。

    えー……私は、マルクスさんのお考えと昔から肌合いが合わなくて、そっち系の勉強もほとんどしていませんので、学問的にはけっこういいかげんなことを書いていると思うのですが……ただ、科学哲学に興味を持ってた関係から、「武谷三段階論」なんかはわりと熱心に読みました。……でも、読んでみた結果の感想は「なんと荒っぽい理論だろう」ということで全然感心しなかった……「武谷三段階論」はマルクス主義の唯物史観を科学史に当てはめて分析したものだったと思いますが、やっぱり「結果ありき」といいますか、議論のもっていく先がもう決まっているので、なんでもそっちに向けて解釈して強引に流れをつくっていく……「これが学問といえるの?」と思いましたが、今にして思えば「実体」からうんと離れてしまうと、いくら頭のいい人でも「思考の罠」に陥ってしまう……ということだったのかもしれません。

    ご紹介いただいた『生態系存在論の構築』、面白そうですね……さっそく図書館でさがしてみることにします。「パルメニデスと生態学というこの一見唐突な組み合わせが、ある種の強度をもって語られていく。」……なるほど、この「ある種の強度」という部分が当面はぜひとも必要なところなのかもしれません。「実体」を論理化して、ある程度共通した「学問」の土俵に乗せるための「強度」と理解していいのでしょうかね。……まあ、根本的には、今の「学問」の構造自体が問われていくわけだけれど、その作業を始めるためには、まず今の「学問」の場に出せるだけの「強度」が必要……ということで、これは迂遠ながら必要不可欠のプロセスなのかもしれない……でも、その間にも「実体」の側からの「実力行使」が今回のようにありますから……それは、大変オソロシイけれども、本質的な面から見ると「頼もしい」援軍なんだろうと思います。

    「この方のブログで紹介されている本は、どれも面白そう」……いやホント、そのとおりですね……嶋崎正樹さんという翻訳者の方らしいですが(どっかの大学の先生みたいな感じも受けますが)……つらつら見ていましたら、この方の翻訳で、なんか面白そうなのがありました。↓(hぬきです)
    ttp://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000032119922&Action_id=121&Sza_id=C0
    これも図書館で探してみよう……。『時代の風音』は今少しずつ読んでいますが、この本、発行が1992年なんですね。ソ連崩壊の翌年……世界が「これで平和になる!」という幻想を一瞬でも持つことのできた稀有な時期……今となればホントに懐かしい時代……この後、まさかこんな世界になってしまうとは。1991(12.25)、2001(9.11)、2011(3.11)……なんか、10年単位で新しいステージの幕があく……

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/4/5 14:10 by aakurara

    雨天さん、IKAさん、こんにちは。

    まず訂正です。
    前に引用した、私の母校の先生の回文ですが、正確には「死んでいる電子 と 死んでる遺伝子」でした(これで5・7・5)。

    嶋崎さんのブログで4月2日に書かれていることも、なかなか示唆的です。「想定」というものを「範囲」ではなくて「あるかないか」で考えていくと、本当なら起こる可能性の低いリスクでも、「有」の想定であればすべて検討して対策をとらなければいけなくなる・・・それをやったら、原発を安全に稼働させることそのものが「不可能」になるでしょう。嶋崎さんは、原発についてはシステム全体を包むようなリスク管理体制をつくっていく必要があるのでは、と提言されていますが(これも結局「想定範囲」を確定することのようにも思うのですが)、それだけでも、「そこまでして原発を稼働させる必然性はあるのか」という議論につながっていくかもしれません。

    ヴェーユのマルクス批判からはじまるエネルギー論も、基本的には「システムの生産性」と、「そのシステムから生産力を引き出すための労力」とが釣り合うのか、ということを問題にしています。

    ちょっと、ヴェーユの論をベースにしながら、自分の言葉で書いてみます。

    たとえばの話・・・梃子を使うと、少ない力で重いものが持ち上げられる。そこだけを見ると、梃子という技術によって生産力が格段に上がったように見えるのだけれども、ほんとうは梃子を作るために木材を探す手間、木材を加工して梃子をつくる手間、梃子をつくる技術を獲得したり伝えたりする手間、など、梃子という技術を利用可能にするための労力も、計算に入れないといけません。そこまですると、梃子の「出力」と、それを引き出すために投入した「入力」の大きさは、プラスになるのかマイナスになるのか・・・

    石炭や石油を燃やしてエネルギーを得る場合も同じことで、結局自然のエネルギーを人間が利用できるようなものに転換するまでの手間をすべて考えると、実際に収益と経費の収支はマイナスになっている・・・ヴェーユはこれを、「自然がエネルギーを無償で与えることはない」と表現しています。

    私が思うに、技術の「成果」だけを見ると、収支がマイナスになっていることが見えにくくなるのですね。たとえば、梃子やら滑車やら手押し車を使えば、巨大なピラミッドをつくれたりもする。その成果だけを見ると、「おお、技術の進歩だ」という印象を受ける。石炭や石油を利用するようになると、ピラミッドやらお城やらよりも、はるかに巨大で複雑なものがつくれます。それで、さらに「技術がまた格段に進歩した」と思う。

    しかし、全体を見ると、実は収支がどんどんマイナスになっているのではないか、ということですね。この点をしっかり研究した人はまだ誰もいない、とヴェーユは指摘しています。

    ただ、1970年くらいからということになるんでしょうか、「科学」もだんだん環境とか生態系の問題を意識するようになってきて――というのは、「自然破壊」というかたちで収支のマイナスが目に見えるようになってきたからなのですが――、なんか石炭や石油を利用するのは「損」なんじゃないかという疑念が出てくる・・・

    ところで、その前に原子力というものが発見されていたわけです。石炭や石油は、そのうち鉱脈が枯渇して、どうせ収支もすでにマイナスになっているし、もう「リミット」を越えているだろうと、ヴェーユは1934年(『自由と社会的抑圧』が出版された年)には気づいていたようです。で、そのうち何か新しいエネルギー源が発見されるかもしれないけど、それを活用するのに石炭とか石油とかを活用するのより、少ない労力で済むかどうかはわからない、とも言っています。彼女の言葉を引用すると、「いうならば自動的に、人間のあらゆる欲求をみたし、ほぼ無媒介に活用できる」ような<夢の>エネルギー源が、科学の発達によって発見されるなんてことは、まああり得ないだろうと。

    1942年にフェルミがウランの核分裂の連鎖反応をコントロールすることに成功したとき、「これは夢のエネルギー源だ」と思ったかどうかはわかりませんが、1日たった3キログラムで100万キロワットの原子炉を稼働できるウランという鉱物は、まさに<夢の>エネルギー源として人の目にうつった・・・あるいは、そう見えるように操作された・・・具体的にいつからそうなったのか、私には知識がないのでわかりませんが、まあそういうことが起こったのは全然不思議なことではありません。

    しかし、ピラミッドを見て感心するのと同じで、やっぱり原発の場合にも、その「出力」の大きさとか「成果」が非常に目立つかたちで現われたので、リスク管理や核廃棄物の処理を含め、原発施設を安全に稼働させて維持するための「入力」がどれだけ膨大なものになるかが、等閑視されてきたのではないかと私は思います。

    そして、これまでに何度か起きた原発事故・・・これは、原子力エネルギーの「リミット」を示す出来事だったのだと思います。つまり、安全管理、稼働・維持するためのシステムの構築、それに関わる人的労力などの「入力」と原子力エネルギーの「出力」の収支じたい、事故が起こる前からすでにマイナスになっていたかもしれないが、安全管理が破れたときに環境にかかる負荷があまりに大きいことが明らかになった(ほんとうは、「安全」に管理されている過程でも環境にかなりの負荷がかかっているはずですが)。

    それで、ヴェーユのエネルギー論で鍵になるのは、この「リミット」という概念だと思います。マルクスに根っこのところでは共感していたのかどうか、というIKAさんのご質問ですが、その答えは「否」だと私は思っています。というのは、マルクスの唯物論は、物質の「限定/限界」を考慮しないで、無媒介に「生産力は無限に発展する」ということを前提としたけど、たとえば海の波はいくら高くなっても必ず「頂点」を越えると落ちていくように(これもヴェーユの比喩です、ちょっと出典が見つからず)、物質にはかならず「リミット」がある、とヴェーユは考えていたからです。

    ヴェーユの「リミット」という概念は、物理学的なものというより、神秘的でもあり倫理的でもあり、ギリシア哲学的でもあります。まあ、私はヴェーユの専門家ではないのでこのあたりのことを論証はできないのですが・・・彼女の思想が「人間中心」かというと、これもそうではないと思います。たとえば「人間はみずからを再生産するが、鉄はみずからを再生産しない」というような言い方には、人間と鉄を同等に見る視線が感じられます。

    えー。ちょっと「学問ぽさ」ということを意識して緊張して書いてきましたが(でも全然学問ぽさが足りないかな?)・・・「なぜ『人間』しか眼中に入ってこないのか」というのは、私自身もそうだったのでわかるのですが、単純に言ってしまえば、「実体」から離れた生活がひとつの原因になっていると思います。・・・なんか、この「実体」という言葉は、次第に私とIKAさんの間では了解事項になりつつあると思っておりますが、これを定義するのはかなり難儀ですね。私自身、これは時間をかけて取り組んでいきたい課題です。

    ここらあたりから「学問ぽさ」から完全に離れますが、これまでの原発事故が、いわば純粋な「人災」だったとしたら、今回は「天災」と「人災」が組み合わさった、偶然的な(あえて、「神秘的な」と言ってもいい)事故だったように思います。もうこれで「実体にやられた」と思わずにどうする!という感じですが、なんか「まだ枠が弱かったんだな」という考えが主流ですよね。

    「今までは、『実体』がすべてを受け入れて優しかった」というのもおっしゃる通りだと思います。なんだか私は、いま「実体」が泣いているんだなというふうに思えてきています。低レベル放射性の水をやむをえず海に流すことが決まりましたが、あれは「ウランが流している涙」なんじゃないかって・・・なんか放射能はふつうに「怖い」と思っていましたが、恐怖感はだんだん薄れてきました。

    これからどれくらい先になるのか・・・数年後か十数年後か・・・いまの結果が見えるようになってきたときに、「なにが/誰が悪かったの?」ということを誰もが考えるようになると思います。そのときのためにも、IKAさんがおっしゃる「実体」の側からの「文明批判」というものを、「実体」から離れないように言語化していくことが大事になっていくと思います。それは、もしかすると「学問」にはあんまり適さない課題であって、芸術のほうが適任なのかもしれません。宮崎駿監督も、結局アニメーションを通してそれをやってこられたのですよね。残念なことに、私には芸術的な才能やテクニックがひとつもないので・・・うーん・・・

    嶋崎さんが翻訳されている『哲学者、怒りに炎上す。』は、ホント面白そうですね。図書館でさがしてみようかな・・・『時代の風音』については、また次のときに! たしかに新しいステージの幕が10年単位であいてますね・・・

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/4/6 15:03 by IKA

    aakuraraさん、雨天さん、こんばんは。

    ええと……また回文から。

    ★死んでない遺伝子 死んでいいな 電子
    (aakuraraさんの先生の回文のヴァリエーション……)
    ★よくよく肥えた遺伝子 死んでいたエコ くよくよ
    (くよくよしてるヒマがあったらダイエット!……私のことです)
    ★想定外は意外てウソ
    (嶋崎さんのブログを読んでると、そんな気がします……)

    4月2日の嶋崎さんのブログ、面白いですね……これは、ロボット工学なんかにおいても示唆的な内容である気がします。……プログラムしたことしかできないロボットに対して「発見的算法的」な人工知能であるHALはつくれるのか……短絡的に「結果」を求めてしまう今までの科学技術は、やはりもう根本的な「改変」を迫られているようです。……これは、結局、ある工学のシステムに対してそれを「対象」として見るのではなくて、そこに関わっていく人間の社会全体を含めた「意味空間」みたいなもので見ていく……ということにつながっていく発想ですね。したがって、今までのようにすぐには答もでないし、効率的でもないけれども、そのかわり多少は「強靭」になっていくような気がします。

    ただ、書いておられるように、どこまでいっても「想定範囲」を延長していくだけであるかもしれない……という危惧みたいなものは残りますね……「新しい方法だ!」と胸をはって叫ぶまでには、もひとつなにかが足りない……でも、その「なにか」を付け加えようとすると「科学」ではなくなってしまう……そんな微妙な位置にあるような……「システムの生産性」と「そのシステムから生産力を引き出すための労力」のお話は、わかりやすいたとえでよくわかりました。以前にエネルギー関係の本を読んでいたときにもこのことは触れられていて、「全体で損か得か」を考えていくと、だんだんなにがなにやらわからなくなってきます。なので、科学技術は常套手段である「切断」と「単純化」をふりかざして「わかりやすく」する……

    現実には、その「切断」は「部品や材料を買う」というところにあるような気がします。つまり、なにかのシステムを組上げようとした場合、そのものにかかる「コスト計算」は「お金で調達できるところ」で止まる……という考え方……以前に、都市計画事務所の仕事のお手伝いをしていたとき、「建設物価」というぶ厚い電話帳みたいな本を見せられてビックリしました。……要するに、ありとあらゆる「建設資材」の今のお値段をビッシリ書きこんである資料集で、建設関連の積算にはなくてはならないものだそうです……担当者は、たとえばなにか建物を造るとすると、この「建設物価」と仕様書や図面を見比べてコツコツ積算していって全体の予算をはじく……大量仕入れとか合同仕入れとかの「裏ワザ」もあるみたいですが、基本的には「建物」のお値段はこうやって出すのだとか……

    つまり、「部品や資材を買う」ということで……その部品や資材に含まれている「コスト」は、結局その「お値段」に全部反映されているという考え方なんですね。だから「コストの追求」はプツンとそこで切れてしまいます……工学系の人たちは、こんなふうにして何の疑いもなく、「そのシステムのコスト」を機械的にはじき出してしまう……今ではもう「建設物価」を自動的に読みこんで計算するプログラムがあるのかな?という気もします。つまり、図面や仕様書を入力するだけで計算は全部コンピュータがやってくれてハイいくら、と……こうなるともう、「全体のコスト」なんかますます闇の中ですが……。

    これって、「おカネ」の便利なところでもあればオソロシイ面でもありますね。「その先」の事情は一切問わない。「お値段」という無味無臭の数字だけのマスクで、全部きれいに覆い隠されてしまう……たしかに、ヴェーユさんのご指摘のとおり「その先」にはだれもが無関心で……なんかの事情(今回のような災害とかテロとか)で特定の部品や資材の価格に異常な動きがあったときだけ、はじめて「ン?なんかあったかね?」ということになります。おカネのホメオスタシス……カネオスタシスは、まったく無表情に、降る雪のごとくにすべてを覆い隠してならしてしまう(太郎の屋根にも次郎の屋根にもカネの降りつむ……うちの屋根だけはなぜか降らない……)

    私が子供の頃に読んだ本には、フェルミさんの「はじめての核反応」のお話がのっていて(前に書きましたっけ?)……それによると、第1号フェルミ炉は煉瓦製で、なんか覗き窓がついていて、ちっとも核反応が始まらないので、みんなで昼メシを食べにいこうじゃないか……と。で、ランチを食べて帰ってくると、なんと炉の中では核反応が……「やったー!」とみんなで大喜び……まさに「夢のエネルギー」と思ったんでしょう。……なんか、まことに素朴な感じだったんですが……でもそれはすぐに政府が目をつけることになってあっという間に国家管理に……たしかに、リスク管理や廃棄物の管理まで含めれば全体的にはマイナスになるはずの「原子炉工学」がなんでこんなに地球上を覆い尽くしてしまったのか……というのは、考えてみればまことに不思議な話なんですが、私は、そこに、「秘密」とか「隠蔽」ときわめてなじみのよい「原子力」の特性があったんじゃないかなと思います。

    要するに、「コスト」では考えられていないんですね。おそらく。そこに働くのは「どれだけ<隠蔽>に向いているか」という特性であって、こちらの方が「コスト」よりはるかに強力に働く……それは、アメリカでもソ連でも日本でもフランスでも……だから、純粋なエネルギー政策じゃなくて、不純な権力集中と独占支配のために「エネルギー」という手段を用いたという方が正解ではないかと思います。……電力産業は、国家の基盤にかかわるものだし、「送電線」でひっぱるという特質を考えると、「権力と利益の集中」は絵に描いたごとくに……国中に引き回された「送電線」がそのまま権力と支配の構造を3Dグラフィック化しているわけで、極めてわかりやすい。それで、このグラフィックのノードとして一番なじみやすいのが「原発」だったと……

    過度集中システムという意味では、火力や水力の延長にあるわけですが、「放射能」という他の手段では得られない「特性」を持ってるので、秘密や隠蔽がきわめてやりやすいんだと思います。「放射能は危険だから」「テロリストに渡ると大変なことになるから」キケン、アブナイ、ダカラ専門家しか触れるな!全部われわれにまかせておけ。そうすれば安全でクリーンなエネルギーを送ってやるから……ということで、隠蔽と秘密の何重ものシールでぐるぐる巻きにしておいて、地元には札束攻勢……あらゆる産業の中で最もオソロシイ、そして中央集権のきわめてわかりやすい例となってしまった……やっかいな「放射能」は、ある意味きわめて有効な「脅し」の手段となったんだと思います。

    だいたい、原発の「技術」って、そうたいしたもんではないと私は思うんですよね。……イカブンのくせに生意気なこと言ってますが、どうしてもそうとしか思えない……原子炉って、要するに「原子の火」でお湯を沸かしているだけのことであって……ホントに「発電」という仕事をしているのは蒸気タービンと発電機……そこんところは「火力」と全然違わないじゃないですか。なのに「原子力」というだけで、なんか「未来のエネルギー」みたいな感覚があるのはなんか変だなあ……。「原子力」で一番技術的に難しいところはおそらくウラン燃料の精錬や再処理、そして廃棄の過程にあるのであって、そこがクリアーできればあとはお湯を沸かすだけ……鉄の釜に燃料を入れておけば、勝手に反応が始まるので手間もかからない……暴走すると困るのでちょこちょこっと制御棒を差しこむという極めて姑息なシステム……

    NY金魚さんのブログで紹介されていた広瀬隆さんが出ておられる番組で、広瀬さんが原子炉圧力容器の底の部分(要するにお釜の底)を外側から撮った写真を紹介しておられましたが、そこにはバロックの虚飾かイスラムの空間恐怖的アラベスクのような配管と制御棒が……なんですか?これ?って感じですが、あれだけいろんなものが刺さっていたら、いくら16センチの厚さの鋼鉄でもあんまり頼りにならない……とくに制御棒は摺動しますから、制御棒が刺さっている穴はおそらくパッキンかなんかで塞いでいるのでしょうが、地震の揺れでわずかにでも狂えば……と、素人でも心配になります。結局はそういう弱点から溶けた燃料が滲みだして漏れているのでしょうが……中身があんなもので、よく「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と言えるもんだと……。

    今、低レベル汚染水の放出が世界的にも話題になってますが(そりゃ、韓国は怒ると思います)……このことを最初に発表した記者会見のときの東電のおじさんの悔しそうな顔が忘れられません。おそらくは技術者の方であろうと思うのですが……「絶対に漏らさない」という自信とプライドに満ちておられたのでしょうが、それが、自分の手で漏らさねばならないはめに……まさに、技術者にとっては「痛恨の極み」で、昔なら切腹していてもおかしくないでしょう……その、なんとも、どこにももっていきようのない悔しさはダイレクトに伝わってきましたが、漏らされる側にとってはそんなことどうでもいい。「だいじょうぶだというから信頼してきたんじゃないか。それがこのザマはなんだ!」という怒りにしかならない……

    要するに、技術者の方々も自分で自分をごまかしてここまで走ってこられたのでしょうね。だから「リスク計算」なんかも真剣に考えなかった……コストの問題は、いくらかかっても最終的には全部国がなんとかしてくれるから考えなくてもいいし……「民はよらしむべし。しらしむべからず」というのがこの国の為政者のテーゼですが、「原子力」ほどこのテーゼになじみやすいものはなかったと思います。それでまた民の方も「安全だ、大丈夫だと言ってくれ。そうすりゃ信じるから」ということでここまで来てしまいました……もうこれは、日本人の歴史的にしみついた「悪しき面」がもろに出た災厄としかいいようがありませんね。

    今回の震災で、日本人が礼儀正しく忍耐強いことを海外で高く評価する声がありますが……これは一面はそのとおりだけれども、別の面から見ると「いかに自分で考えない国民であったか」ということを如実に示しているものとも受け取れます。お上が「だいじょうぶ」というならだいじょうぶさ……ということで、一人一人の国民はもとよりジャーナリズムまで「原発アンタッチャブル」の雰囲気の中で、しずしずと今回の事態になってしまいました……で、事態がここまできても、やっぱりその雰囲気はぜんぜん変わっていないように思えます。誰も騒がないのは、結局東電や学者や政府をいまだに信頼しきっているからなんでしょう。いったい誰のせいでこういうことになったんだ!ということだと思うんですが。

    えー、ちょっと論旨から外れてしまいましたが、要するに「リスク」の問題は、おそらくは「原子力村」の方々もちゃんと気づいている(リスクまで含めれば原子力のコストはひきあわない)と思うのですが、それよりも「放射能→キケン→隠蔽」という魅力の方がはるかに大きかったのではないかと……ただ、今回のようなことがあると、これはもう「多大なリスク」をコストに組みこまざるをえないので、そこらへんは大きく変わってくるものと思います。それだけの膨大なコストを払ってもなお「隠蔽」の魅力の方が大きいのか……このあたりは東電さんとか現在ちょっと真剣に考えていると思うのですが、「民」の方は上に書いたように相変わらずみたいですね。どっかのテレビ局のアンケートでは「安全対策を万全にしてこれまでどおり原発推進」という意見が50パーセントくらいあったとか……

    こんなになってもまだ信じるの?ということなんですが、たとえばこういうことが外国で起こったとして、おんなじようなアンケートの結果は日本とあんまり違わないかもしれない。しかし、その中身は大違いではないかと思います。要するに、賛成するにしても反対するにしても、それは自分でよく考えて導き出した結論……でも、日本では、「大丈夫と言ってくれ。そしたら信じる」ですからね。……なんで、こんなに「自分でものを考える」ことの苦手な国民なんだろう……つくづく不思議です。今はもう、インターネットでかなりの情報が得られるので……むろん、その情報についての判断も自分自身でということになりますが、自分で考えて「自分の意見」をきちんと表明することは、時として「和」を乱すことになってもやっぱり必要と思いますね。そうでないと、レミングのように集団で自滅しかねません……

    うーん、またまた論旨から外れました。ヴェーユさんとマルクス主義の問題が根幹でした。そして、その奥には「実体」をいかにしたら「学問」に乗せられるか……という大問題が……ヴェーユさんがマルクスに共感していなかった(根っこのところでも)というお答は、大変よくわかりました。なるほど、そうすると、やっぱり「人間中心主義」にはならないですね。……でもまたそれゆえに、「学問」ぽさからは離れていかざるをえない……むろん、今の「学問」ということなんですが……私が今まで読んだ範囲内ですが、「学問」ぽさからあんまり離れないで、しかも「人間中心主義」を脱し得ているのはやっぱりスピノザではないかなあと思います。カントもちょっと「人間以外の理性」に言及してますが……ヘーゲルさんはちょっとわからないですね。なんか得体の知れないところがあって……

    なぜか、19世紀に入ると「人間中心主義」はどんどんひどくなっていったような気がします。それまでの西欧思想では、どことなく人間以外のものも入れる余地みたいなものを感じるんですが……19世紀って、ギリシア・ローマ文化への憧れみたいなものがまたどどっと噴出した時代ですよね。それが、ドイツではゲルマン神話になっていきましたが……日本でもやっぱりおんなじような動きはあって、日本人とはなにかという命題は、最初は国としての独立性を保持するために必要だったのかなと思いますが、それがどんどん暴走して20世紀にはとうとう……人間中心主義は、不思議なことに「普遍的人間」への探求にはならなくて、むしろ「オレんとこの先祖が、実は普遍的人間だったのだ!」みたいな偏狭さとくっついてしまった……このあたりもまことに不思議なことだと思います。

    えー、またまた話がそれかかっておりますが、ヴェーユさんの「リミット」という概念は面白いですねえ。「神秘的でもあり、倫理的でもあり、ギリシア哲学的でもある」……これまでに何度かおきた原発事故は、原子力エネルギーの「リミット」を示す出来事だった……と書いておられるのは、たしかにそのとおりですね。これが、「人間中心主義」になると、いくら大規模な事故が起こっても、それを「リミット」としてとらえられない……「科学技術のさらなる進歩で……」とくるわけですね。それでいうと、原子炉から出る「死の灰」の処分についても、やっぱり「リミット」は考えてなかったんですね。「未来の科学技術に託す」なんて、もし未来の人々が、今の「人間中心主義」を放棄した社会を形成していたら、その「死の灰」は大変なお荷物になることがわかっていない……というか、もう今でも充分に大変なお荷物なんですが。もうとうに「リミット」は越えちゃってるわけですし。

    NY金魚さんのブログの中に紹介されていた「ビデオニュースドットコム」という番組の中で、NPO環境エネルギー政策研究所所長の飯田さんという方が面白いことをおっしゃってました。飯田さんの話によると、今後、原発に対しては保険会社が保険を扱ってくれなくなるだろう……つまり、原発は保険に入れなくなる……ということで、すでに海外ではそういう動きも出ているのだとか。うーん……これって、結局「お金」の側からの「リミット」ですよね。アメリカの宇宙開発に、お金の側からの「リミット」がかかっちゃったみたいに……かくして、20世紀に発展した「巨大技術」はことごとく限界をむかえ……そして、それを準備した19世紀の「大思想」も根源から問い直されるときに……

    この問題は、以前にもちょっと話題に出た「人類力」の問題ともからんでいるように思います。人類の男性って非常に不思議な性質をもっていて、「どこまでも行ける」と思いこんでしまうんですね。なぜだかわかりませんが……で、限界にぶちあたるとそれを「試練」ととらえ、限界を課してくるものを「敵」として、相手をやっつけることでさらに先に進む……まるで少年マンガそのものですが、より強い敵、それより強い敵……とやっていくと、最後にものすごく抽象的になってしまって、そのあたりで読者に見放されてなんかうやむやの形で連載終了……「マルクス主義」も結局そういう典型的な少年マンガの隆盛と滅亡の道を辿ったような……そこに自らのすべてを賭けてしまった知識人はやっぱりタイヘンですね。『時代の風音』にもそんなようなことが出ていましたが。

    ここで思い出すのは、『マトリックス』3部作……この作品では、主人公のネオと敵役のスミスが戦うシーンが何度も出てくるんですが、戦いのたびに双方がパワーアップして、もう最後は絶対にありえないような超人技の応酬……これについて、「最初はまだ実感できるが、最後になると実感から離れてしまって迫力がない」みたいな感想を書いていた人がいました。私もまったく同じように感じたんですが、より強く!もっと強く!とやっていくと、どっかで「実感」と切れてしまうところがあるのですね。それで、その実感と切れるところというのは、つまり、自分の身体感覚から離れていってしまうところじゃないかと思います。要するに、ここらへんまでは修行すればもしかしたらできるかもしれないけれど、こっからはもう絶対ムリだな……みたいな。

    ということで、とりあえずの「実体」の定義は、「自分の身体感覚」みたいなものになるのかな?という気もします。おフランスの思想家たちが「身体」にやたらにこだわるのも、やっぱり「実体感のある思想」を求めるところからくるんではないか……と思うのですが、でも、他人の身体はわからないからとりあえずは自分の身体……ということで、自分自身の身体感覚から出発するしかないのかもしれません。……タルコフスキーではない『ソラリス』(リメイク版)で、主人公役のジョージ・クルーニーが一人でアパートに帰って料理をするシーンがあるんですが、そこで、彼はキュウリを切ろうとして指を切ってしまう……そこのシーンがなぜか生々しくて記憶に残っているんですが……スタイリッシュで生活感のないアパートの台所で指に染む血の赤……たしかにそんな感覚が出発点になるのかもという気がします。

    ただ、「自分の身体」を一歩離れると、いろいろなことが実感しにくくなることは事実ですよね。でも、普遍化していくためにはどうしても通らなければならない関門であるように思います。……で、ずーっと辿っていっても、さすがに「原発」みたいになってしまうともうまったく実体感がありません。……今回自己をおこしたF1の1号機でしたか、まだ格納容器がむき出しになっている状態で、神主さんが地鎮祭をやっている光景が一度だけテレビで流れたことがありますが……その映像を見たとき、なんだか少しだけ「原発」というものの「実体」に近づけたような気がしました……その段階では当然燃料棒は入ってないんですが……そこでは原発も、なんか「ふつうの子」という印象なんですね。神主さんが他の建物とおんなじように地鎮祭を行えるふつうの子……

    それが……オソロシイもの、怪物のような鬼子に変身させられちゃうのは、やっぱり燃料棒が入れられて連鎖反応が始まってしまってから……そこから、燃料棒にとっても原子炉にとっても「地獄の苦しみ」が始まってしまう……おそらく、その悲惨さは、われわれには到底理解できないものなのでしょう。「オレを悪魔にしたのはだれだー」という声が聞こえるようです。……フクシマの場合、彼らはそうやって40年間耐えに耐えてきたので……彼らにしてみれば、今回の地震と津波はまさに「解放のとき」だったのかもしれません。これで、長い苦痛が終わってようやく自由になれる……まさに「ウランが流している涙」そのものですね。でも人間はまだ理解しようとしない……人間が「原発」に実体感を持つためには、少なくとも「放射能汚染」は欠かせないことなのかもしれない。これで、彼らの苦しみの何兆分の一かはしらないですが「実感」できるときがきたということですね……

    私は、もしかしたら「実体の普遍化」は、こんなふうにして行われていくのではないか……とも思います。「学問」の中に「実体」を普遍化して引き入れようとする試みはたしかに大事だと思うのですが、でも、なにより「実体」はまず自分の身体を通じてわかってくるものなので……身体は、まわりのさまざまなものと常に交感を行ってますから、「身体の声」は結局「実体の声」を届けてくれるものになる……つまり、「学問」の方が、もしかしたら大きな脱皮を迫られているのかもしれないです。なので、「学問」に適さないというよりは、「実体」をきちんと扱えるように「学問」自身が変化していかざるをえないときに入っているのではないか……そんなふうにも感じます。

    10年間隔で次々に示される「リミット」……この計算でいくと、次は2021年ということになりますね。はたしてなにが待っているのだろう……それはわからないけれど、確実に「さらに目を開かれること」だろうと思います。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/4/10 7:41 by IKA

    aakuraraさん、雨天さん、こんにちは。

    「6m」の想定根拠なんですが……
    いろいろ調べてみますと、どうやら日本土木学会というところが2002年に策定した「原子力発電所の津波評価基準」というドキュメントが元になっているようですね。
    この「原子力発電所の津波評価基準」という書類は、ネット上で公開されていて、だれでも見ることができます。↓
    <リンクURL>

    で、のぞいてみたんですが、もろにテクニカル・ジャーゴンというやつで私みたいな理科系オンチにはまったく読解不能……なんですけれど、とにかくこの書類を元にして、最大規模の津波の高さを
    1F……5.4〜5.7m
    2F……5.2〜5.2m
    とはじきだして、それで6mにしとけば大丈夫だろう……ということみたいです。↓
    <リンクURL>

    要するに、「責任をどこへなすりつけるか」ということで、「責任のなすりつけ先」が明確な数字を採用して決めたというところではないでしょうか。……たとえば、6mではいかにも安心できないので雨天さんが挙げてくださった過去の津波のデータをもとにして決めようとすれば、当然この中では最大の38.2mをカバーできる数字として39mとか40mとかが出てくるわけですが……その場合、なかなかそういうすごい津波が来なくて、そのうちに「あの世界一高い堤防はなんですか?予算のムダ使いじゃないんですか?」なんて事業仕分けで追求されてはたまらん……と。

    6mだったら、「日本土木学会さんの原子力発電所の津波評価基準という書類が元になっとりまして……」と堂々と言えるわけです。でまた、この書類というのが、のぞいて頂ければわかりますが、数式と解析図と内外文献やら資料やらの重装備で、こいつをつき崩そうと思ったらなみたいていのことではありません。まず専門家でないと、理論的にやっつけるのは難しい……でも、現実って単純ですよね。いくら理論の重装備でも、あっという間に乗り越えてすべてを流してしまいました。

    ということで、この書類をつくった土木学会の先生方は、今ごろ首を洗って待っているのかいないのか……状況が一段落すれば、おそらくは法的な責任の追求も始まると思いますが、その際には、この書類をつくった先生方がなんらかのかたちで呼び出されるんじゃなかろうか……と素人は考えるのですが、どうなんでしょうねえ。「想定外でした」ではたぶんすまないんじゃないかと思うんですが。

    日本土木学会というのは、大学の先生や企業の研究者や土木関連の出版社とかが会員になっているかなり歴史のある団体のようですが、東電との関連を指摘する声もあるようです。もしそうであれば「原子力発電所の津波評価基準」は、いくら理論武装が堅固でも、客観的な見地からの基準とはみなしにくいということですよね。……まあ、そのあたりは私にはわかりませんが、責任追及が本格化してくれば、そのあたりもマスコミにとりあげられることになるかもしれません。場合によっては国会に証人喚問される可能性もあるのかもしれませんが。

    いずれにせよ、土木学会の出した「低すぎる基準」は電力会社には有利に働いたことはまちがいないですね。要するに「原発を造りやすい基準」だったというわけで、原発で避難した人たちがこれを知ったら、「そんなもんにオレたちの命と財産がかかっとったんか!」といって怒ることでしょう。もし事態が悪化して日本中に高濃度の「死の灰」が降ってくるようになれば、日本中の人が怒る。……でも、その場合にはもう怒ってもムダですよね。日本という国自体がなくなってしまうわけですから。

    国敗れて山河あり……戦争で負けても、「山河」が残っていれば復興は可能ですが、「山河」がなくなってしまえば復興はありえません。……今回の問題は、経済発展に酔いしれて、いつのまにか「山河」を忘れてしまった日本人全体の「奢り」が招いたものではないかと私は思います。……法的責任の追求はきちんとなされるべきですが、それとは別に「文明論的責任」みたいなものは、多かれ少なかれ全員に関係してくるように思います(5才以下のこどもは除いて……なぜ宗介が5才なのか、わかったような気がします)。

    ということで、回文……回文病がとまりません。
    今回は、短文で……。

    ★伊作、タイヤ焼いた。くさい。
    (伊作さんは産廃業者だったのか……)
    ★岩子、大麻播いた。こわい。
    (岩子さん、麻薬Gメンが……)
    ★この苦ゴジラ地獄の子
    (オソロシイ……)
    ★妻帯は怖い敗退さ
    (この独身ノン死苦どの子?)
    ★物で丸くマルクス車来るまで飲も
    (マルクスタクシーのお迎え)
    ★もうよし電気椅子水金で使用も
    (月木は燃えるゴミの日です……)

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/4/10 10:31 by IKA

    補足です。

    日本土木学会の「原子力土木委員会津波評価部会」の委員名簿がウェブで公開されていますが……電力会社の方々のお名前がずらーっと……。これはマズイ……ふつうの感覚だと、もうこの名簿を見ただけで絶望的に……。↓
    <リンクURL>

    この委員会には、ポニョを入れるべきだったでしょう。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/4/10 19:57 by aakurara

    雨天さん、IKAさん、こんばんは。

    カネオスタシス・・・なんか、ずっと前に別のスレでご紹介したイヴァン・イリイチさんも、そういうことを言っていたと思います。彼はほかにも、「キョウイクスタシス」「イリョウスタシス」のことを批判したりもしているんですが、まあ要するにカネも近代のキョウイクもイリョウも、「実体」から離れすぎてるんではないかね?という提言だったのだと思います。

    「実体」というのを、私も「実感」に即してホンヤクしようと考えてみたのですが、結局は「私たち人間も、地球の生命活動の産物なのであり自然なのだ」というような結論に至りました。これだと、たとえば埴谷雄高さんの『死霊』第7章の、「審判」の最後のほうまでは全然届いてないですが、「ガリラヤの魚」と「チーナカ豆」と、もうちょっといけば「原生生物」の気持ちにはなれるかなーというところです。

    でも、これまでふつうに無自覚に送ってきた「モダンライフ」においては、「自分の身体感覚」さえ薄いものになっていて・・・それこそスタイリッシュなアパート(ウチは、スタイリッシュじゃないですが)で、冷蔵庫をあけてスーパーで買ったキレイな食材をキレイに料理して、包丁で指を切ると「あっイタイ」とか言って絆創膏貼って、何もなかったようにそれまでの生活を続け・・・せめて指を切って血が出たときくらい、気づかないといけなかったのかもしれません。

    人類の「男性」という問題もありますね・・・女性は子どもを産んだり、産まなくても毎月自分のからだが「自然」だということを思い知らされるので、なんか「自分が自然であるという実感」から、比較的離れにくいように思います。

    ところで、ここ数日、これまでお世話になってきた先生方の言葉をいろいろ思いだしているのですけれど・・・ひとつは、大学院でお世話になった先生が、たしかゼミのあとみんなで食事をしているときにおっしゃっていたことと記憶しているんですが、小学校とかで教室の掃除をするときに、机と椅子を教室の片側に集めて、教室の半分を掃除して、終わったら机と椅子を反対側に寄せて、残りの半分を掃除する、ってやるじゃないですか。で、先生が「あれをやってきてない人はダメだね」みたいなことをおっしゃったんですよね。そのときは、「アッなんかわかる」と思ったんですが、これは、普遍化してみると、「モノが有る」というのがどういうことなのかを、からだで実感してない人はダメだ、ということだったのだろうと思います。

    もうひとつは、高校のときの数学の先生がおっしゃっていたことで、数学は「細々一本道ではダメだ」ってことなんですが・・・「細々一本道」というのは、問いから正解に至る論理的な道、ということで、それではダメというのは、数学の世界の「全体像」を理解した上で論理の道をたどるのでなければ、道を間違えたときに間違えていることに気づかない、ということなんですね。先生はこれを数学のお話として教えてくださったのですが、なんか数学だけでなくて、いろんなことに言えるお話であるように思えます。大雑把でもいいから、自分が生きている世界の「全体」を把握していないと、道に迷ったときにとんでもないところに進んでしまって、着いたところで「あれっ?」ということになる・・・

    このように、「からだで実感する」ということと「全体を知る」ということを疎かにしてしまうと、「自分で考えない国民」が出来上がりやすくなるような気がします。時事通信のニュースで、フランスの世論調査では今回の日本の原発事故のことを受けて、8割の人たちが原発依存を減らしたいと望んでいるという結果が出ている、というのを読みましたが、フランスはアレバ社のようなオソロシげな会社がある一方で、教育はかなりちゃんとしているのだなあと思いました。

    「学問」自身の変化・・・コレも、これからの教育にかかっているのだと思います。

    子ども、といえば・・・先月実家に帰ったときに、母の友人とその娘さんも子連れで何日か来ていたので、その子(2歳くらい)のことを見ていて面白かったことがありました。なんか、ニンジンが好きでトマトも喜んでよく食べてたんですね。そうかあ、赤い食べ物が好きなのねと思っていて。で、ある日いっしょに友中部でアニメの動画をいろいろ探して見ていたときに、いろんな色の光がわーっと飛んでいる映像が出てきて、その子が紫色のを指して、「これがイイ」って言うんです。たまたま私はそのとき、桜沢如一さんの『魔法のメガネ』を読んでいて、そこに赤い食べ物は極陽性で、色の紫は極陰性、ということが書いてあったので、「おぉなんか桜沢さんスゴイかも」と思いました。それで、やっぱり小さい子どもというのは、まだ「文明」よりも「実体」に近いところにいるんですね。

    津波の高さの想定基準、土木学会、原子力の「隠蔽」の魅力・・・このへんはもう、セイジの話になってきますね・・・いまちょっと不思議に感じはじめているのは、「これからどうやって電力供給のロスを取り返すか」についての議論が、基本的に供給量を減らさないという前提で進んでいることです。電力消費を減らす方向での発想があってもいいと思うのですが・・・まあ、政治的にも経済的にも、ソレは難しいのでしょうけど。でも「山河」のことを思えば、むしろ電力消費を減らそうという方向に行くはずなんですが、やっぱり「国」の対策が先になっちゃうんですね。

    ああ、『時代の風音』のお話まで行きませんでした・・・また延期ということで・・・

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/4/11 23:54 by IKA

    aakuraraさん、雨天さん、こんにちは。

    早いもので、今日であの震災から一ヶ月……世界はまったく変わってしまいました。1F(こっちがよく使われているようなのでこっちの表現に)の今後の行末次第では、キリスト紀元以来の文明的線引きになるやもしれず……風雲Qを告げ筍万里をゆく……なんのことかわかりませんが(タケノコがキノコになるとえらいことですが)、とにかく大変な一月間でした。(まだ状況はぜんぜん終わってないですが。福島では今も地が揺れている……)

    たしかに、1F以前では「実体」は遠かったですね。「靴の上から足を掻く」どころか、わざわざロボットをつくってそのロボットの足を掻いてその感覚情報をこっちに送ってもらってパソコンに表示して「あ、足を掻いてるみたい」なんてやってたんですから迂遠なことはなはだしく……1F以後も直接被災していないところは表層的にはそのままみたいですが、もう「奥」が変わってしまっているので、その変化はこれからじわじわっと出てくるように思います。

    昔はスーパーなんてなくて、母親が体調の悪いときには買物メモと財布を買物籠に入れて近くの市場に行きました。市場では「お使いえらいねえ」なんて言われて、それぞれのお店でメモのものを買ってそのつどお金を払い、おつりと品物をもらって買物籠に入れる……その品物も新聞紙とかざら紙とか竹の皮とかに包んであって、プラスチック製品はほとんどありませんでしたね。お豆腐なんかはお豆腐屋さんが自転車でまわってきて、大きな鉢なんかを持って出てそこに入れてもらったし……

    こういう生活がいつごろから激変してしまったのか……スーパーで、勝手に品物をカートに入れるということが最初はなじめなくて、なんか泥棒しているような気分になったものですが……で、集中レジで、今度はなんか悪いことをしてつかまって調べられているような気分……やっぱり、買物なんかも、一軒一軒お店の人にお金を払って包んでもらって買うほうが、ちょっとでも「実体」に近い気がします。……うーん、「実体」って、案外こういうささやかなところからはじまるのかもしれません。

    要するに「スタシス」のラインをどこに引くか……という問題なのかもしれません。前にもどこかで書きましたが、飛行機のコクピットなんかでは、いちいち全部の計器を見るのが大変なので、「定常ライン」が横に揃うように計器を配置して、全計器が「スタシス」にあるかどうかを一目で確認可能につくってある……とか。これはたしかに便利なんですが、そのかわり、一つ一つの計器の状態に目配りが効かなくなるおそれもあると思います。要するに、なんか、だれがつくった基準かしらないけれど「スタシス」があって、それ以外のことはわからなくなってしまう……

    もともと「計器」は「実体」の状態を反映させるはずのものなのに、いつのまにか「スタシス」を反映させるものに置き換えられてしまっています。で、その「スタシス」の設定は「専門家」におまかせ……前に出ていた原発の「堤防の高さ」もやっぱりこうやって決められていったのかなという気がします。「想定津波の基準」といわれても、その皮一枚下がものすごい手国駆ル邪権になっちゃってるのでは、ふつうの人はもうお任せするしかない……ので、長いことその「基準」が「実体」を反映したものであると信じこんできたわけですが……「実体」はやすやすと乗り越えてしまいました。

    原子力土木委員会の津波評価部会にポニョが入っていたら……「で、ポニョさん、偉い先生方が計算されて、想定の津波の高さはこれくらいということになりましたが、ご意見は?」「ん?宗介好きー」と叫んだとたんに「想定外」の大津波がどばーっと……偉い先生方は全員流されてしまいました……でも、ポニョだと、ランチにハムサンドなんか出されたとたんに懐柔されちゃう可能性もありますね……「ポニョ委員には絶対にハムサンドを忘れるなよ。ハムをいっぱい入れとけよ。」なんて……。

    こどもたちが「赤い色」を好むのは、まず最初に認識できる色が「赤」だからという話を聞いたことがあります。でも、「紫の光」がイイというのは、なんかちょっと不思議な感じもしますね(そういえば、『魔法のメガネ』にこどもは陰性とありましたっけ)。たしかに桜沢さんにいわせると「赤」は極陽で「紫」は極陰……私は、歯磨き用なんかに時々「ナスのヘタの黒焼き」を使うんですが、これは、ものすごい「極陽」になってるんですね。「ナスのヘタ」は極陰なので、いうなれば陽性物をたっぷり吸いこめるスポンジみたいな作用があるらしい……

    で、これを塩漬けの黒焼きにすると、「火」と「塩」という極陽物をたっぷり吸いこんだ陽性のカタマリになる……口中の病はもともと陰性の口の中が砂糖とかでさらに陰性になって起こるものらしいので、これはてきめんに効きます。昔は家で作ったりしてたらしいですが、今はもう、都会ではナスなんかつくらないので、なんと刑務所に行って、大量にナスを使ったときに出るヘタを集めてきて作っているんですとか。……数十グラムが千円とめっちゃ高いですが、よく効くので手放せません……。

    話がそれましたが、小さいこどもが「文明」よりも「実体」に近いところにいる……というのはそのとおりだと思います。今回の大変な「災厄」で文明の質自体が変化していけば、これから生まれてくる子どもたちは、より「実体」に近い部分で育っていけるかもしれないですね。それは、やっぱり一つの希望じゃないかなと思います。われわれはもう、「実体」から遠く離れた「文明」の中に漂って、ほんとに「実体」に触れるのは「自分の死」くらいしかないわけですが……これからの子どもたちは、「実体を回復した世界」に生きてほしいですね。そういう点では光が見えてきているような気がします。

    aakuraraさんが書いておられた、「教室の掃除」の話ですが、遠い記憶を遡ってみると、私たちは机や椅子をまず教室の奥に集めて前半分を掃除し、次に前に寄せて後ろ半分を掃除していたような気がします。あるいはその逆だったかもしれませんが……いずれにせよ、これって、「実体」に触れていく場合の明確な「手続き」ですよね。

    「実体」って、頭で考えるだけではなかなか触れることは難しいけれど、「実体」に触れた経験のある人がつくりあげた「手続き」というのがあって、その「手続き」にそってやっていけば、だれでも触れることができる……今はもう、その「手続き」がかなり失われてしまっているわけですが……今回の震災みたいなことで「スタシス」を形成していた「文明」がほころびを見せると、そこの部分はもう一度「実体」まで遡って「日常」につなげてゆかねばなりませんから、これは一つのチャンスかもしれないです。「災転じて福」にできるかどうかはこれから次第ですが……やっぱり、日本人全員がもう一度そのあたりを考え直すまたとない機会なんだと思います。

    田舎で生活していると、けっこうこのことは感じることが多いです。……村には鎮守の森があって、年に何回か、そこの境内をみんなで掃除するんですが……私がこの村に来たころは、みんな竹ぼうきで落ち葉をせっせと掃いてきよめていたんですよね。ところがほどなく……なんと呼ぶのかはしりませんが、小さなガソリンエンジンのついたブロワーというのでしょうか、ドライヤーの巨大化したみたいな機械をぶら下げてやってくる人がいて、その人がぶわーっとやるとあっという間に落ち葉が吹き飛ばされていく……もう、竹ぼうき10人分くらいの仕事をあっという間に片付けちゃいます。

    で、毎年毎年、その機械をぶら下げてくる人が増えて……もう実質はその人たちだけでやってるようなもんですね。竹ぼうき班は掃除してる真似をしてるだけみたいなことで……私は今でも「お宮の掃除にそんなん使っていいの?」という違和感が去らないのですが、あっという間に片付くのでたしかにラクチン……ああ、こうやって人は「実体」から離れていくんだ……と。まあ、でも、この場合には、石油がなくなればまた竹ぼうきに戻ればいいだけだから簡単ですけど、原発となると……これは問題は難しいというか、ややこしいですね。

    一言でいえば「電気、いらんのか」という脅しになると思うのですが、このとき「いらんわい」と言えるのかどうか……昔、友人に、「原発の電気はいやじゃ」といって、極力電気を使わない生活をしていた人がいましたが、さすがにゼロ使用は難しかったようです。早い話が、自分ちをゼロ(電力会社と契約しない)にしても、電車に乗れば即アウトだし、じゃあ歩こうといっても原発電気で照らされた道は歩けない……それに、その道自体がたぶん「原発電気」を使って造られてますし……もう、山の中で「原人生活」をするしかありません。

    このあたりのことでは、NY金魚さんのブログに紹介されていた京大の小出先生をはじめとする「熊取六人衆」のビデオがとても示唆的でした。もうご覧になっているかと思いますが、とりあえずURLを貼っておきます。
    <リンクURL>#
    京大の小出先生は、まだ日本に原発が2、3基しか稼動していなかったときに、原子力の研究の道を目ざされたそうで、そのときは多くの若者と同じく「資源の少ない日本の将来のエネルギーはこれだ」ということで、夢と希望に燃えて原子炉の研究を進めていった……

    ところが、しばらく研究していくうちに、「原子力の正体」が明らかになっきて、「こんな危険なものは絶対にやめなきゃだめだ」と思うようになられたそうです。……しかし、彼のように考える研究者は少なく……やがて彼は「孤立者」の道を……万年助手の地位に甘んじなければならず……それでも細々と「原発反対」の立場から研究を続けてこられた……その研究室は、夏の盛りにもクーラーを入れず、電灯も必要ない限りはつけない……なんか、その研究と生活には「誇りに満ちた隠者」の雰囲気があって、いやあ、こんなすばらしい人が、研究者の中にもおられるんだ……と、かなり救われた気持ちになりました。

    小出先生が原子力研究の道を歩まれてすぐに、「原子力」に疑問を持たれた……それは、やはり「実体との乖離感」があまりに大きかったからじゃないかと思います……自分の研究という狭い範囲にばっかり閉じこもらずに、いつも広い視野から、自分の研究というものを含めて世界全体を考える……それは、明らかに研究を進めていくには不利になると思うのですが……でも、そこで、やっぱり「実体」を選べるかどうか……そのあたりが、他の多くの研究者たちと「世界」を分けた大きな点だったんだと思います。aakuraraさんの高校の数学の先生がおっしゃってたとおりですね。

    特に、原子力の世界では、「原発推進」という国是(だれが決めた国是かしりませんが)ががん!とあるので、もうほとんど選択の余地はないみたいですね。研究を続けて認められていくためには「推進派」になるしかない。ここで、多くの研究者たちは「実体」から離れて「流れに沿う」道を選らんだのでしょう……その結果、彼らによって確立された「アトムスタシス」のもと、日本は一気に「原発増設」に突き進んで、もう取り返しのつかないところまで来てしまいました。小出先生の、1F事故後の講演を聞いてみると、つくづくそのことを感じますね。↓
    <リンクURL>

    「私たち人間も、地球の生命活動の産物なのであり自然なのだ」ほんとにそのとおりですね……なぜ、人間だけこんなに「変」なんだろう……あるいは、いつから「変」になったんだろう……これは、永遠の謎ですね。ただ、このあたりのことは、「人類史」としては難しいけれど、「個人史」として考えれば、だれにでもまあまあ思い当たることはあるのかもしれません。……うちの子がちょうど5才くらいのときでしたか……なんか、体の調子が悪くなって病院に連れていったことがありました。で、待合室で待っているときに、急にこどもが不安そうな様子で、私に「死んじゃったらどうしよう」と聞くんですね。……今から考えると、これが「死」を意識した瞬間だったのかも知れません。本人はもうそんなこととっくに忘れていると思いますが。

    生まれて、生きて、死んでいく……ただそれだけのことなのに、人間の高度に発達しずぎた頭脳は「死」を考え「生」を考え……やっぱり「パスカルの不安」が目覚めはじめるのは、5才くらいのときなのか……そして、あれこれ考えれば考えるほど「実体」から遠ざかってしまう……ところで、ネットのニュースを見ていましたら、1F以来、スイスでも8割以上の人が「原発停止」を求めているとのことでした。1F以前は「原発推進」が5割以上だったらしいので、反応は早いですね。うーん、日本人って、「実体」との間を埋める処理を、いまだに「お国」とか「専門家」に依存したい……この点はけっこう絶望的です。おっしゃるように「教育」の問題なのかもしれません。

    電力供給のロスを「基本的に供給量を減らさない」で取り返す……これについては、少しずつではあるものの、反対の方向(つまり電気を使う量を減らす方向)に進んでいかざるをえないのではないかと思います。今回のことで、みんなの心の中に、「今までみたいな電気ヅケの暮らしでいいのだろうか……」という思いが、やっぱり植えられたと思うんですね。まあ、中には「もっと電気よこせー原発じゃんじゃんつくれー」という天の邪鬼もいるのかもしれませんけど、ふつうの人の心は、やっぱりちょっとは変わったのではないか……と。うーん、これってやっぱり究極的には、人間の「紳士度」の問題なのかもしれません。

    先の小出先生のビデオを見ていてつくづく感じたんですが……彼は紳士です。なんか、心の中に、常に歩んでいる道に対する「敬虔な反省」みたいなものがあって、それがすべての言動の核になっているような気がする……おそらく、少し前までの日本には、こういう「紳士」がたくさんおられたんだと私は思うんですね。……それは、なんかやっぱり「教養」の問題なのかな……と。今の人は、当然昔の人よりものをたくさん知っている(と思いこんでいる)けれども、実は「教養」の部分はものすごく貧しくなっている……もう既に、私たちの世代の前の世代くらいから「教養の死」ははじまっていたのかなと感じます。

    そう考えると、この半世紀、日本人は夢の中で踊らされて、かなり心が傲慢になっていたんじゃないか……と。チェルノブイリであんなにひどい事故が起きても「日本の原発は大丈夫さ」と……これって、ロサンゼルスの地震のときに倒れた高速道路を見て「日本の高速は大丈夫」と言ってたのと全く一緒ですよね。阪神淡路大震災で見事に倒れましたが……「技術立国」とか「世界第2の経済大国」とか言って威張っているうちに、「危機」は足下まで忍び寄っていたわけで……6mの堤防で「大丈夫」と言ってたのも、今から思えば「何の根拠もない奢り」だったわけです。

    この半世紀の間にどんどんひどくなる日本人の「奢り」を、日本の地の神々はどう思っておられたか……「奢り」が、祖先から受け継いだ山河をいのちの住めない地にしてしまった……私は、ここでぼっきり折られたのは、かえって幸せだったのかなと思います。日本人の「強いアイデンティティ」を求める動きが最近とみに盛んになってきて、不気味だったけれど……ほんとの「日本人」って、なんなんだろうか……それは、やっぱり「一歩引く」敬虔さを持ち合わせている「紳士」ということだったんじゃないでしょうか……なんか、こんなになるまでそれがわからなかったなんて、情けない話だなあと思います。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/4/16 16:33 by aakurara

    雨天さん、IKAさん、こんにちは。

    まずは延び延びになっている『時代の風音』のお話を・・・
    私が「へ〜なるほど」と思ったのは、ひとつはヴァチカン放送とパレスチナのPLO放送の話です。湾岸戦争のときに、このふたつのチャンネルが他と比べて非常に落ち着いた冷静な報道をしていたという話で、堀田さんが、これはヴァチカンもパレスチナも領土を持たないからじゃないか、って言ってますね。なぜかアルバニアのチラナ放送も冷静だったとのことですが・・・なんか、「失うもの」が少ないと、やっぱり人は冷静になれるということなのでしょうかね。

    あと、これも堀田さんの話ですが、イギリス人の友人にサントリーのウィスキーをすすめたら、「なにもウィスキーまで作らんでいいじゃねぇか」と言われたというのも面白いです。ちょっと本の対談の流れからは外れるかもしれませんが、なんかマクロビの「身土不二」にもつながる話のように思います。わざわざ外国のモノを真似して作らなくてもいいんじゃないかという・・・で、なんだか最近は、何でもかんでもエネルギー問題に結びつけちゃう頭になっているので、ホントは作るものだけじゃなくて、いろんなものを世界のあちこちに移動させるのも、よくない(エネルギーの無駄遣いになっている)のじゃないかとか私は思うようになっていて・・・日本人は器用なので、ウィスキーでも何でも上手に作っちゃうし、安い板チョコとかもすごく美味しいのですが、なんか、チョコレートが食べられなくなっても(かなり淋しいですが)、それで石油を使わないで済むようになれば、そっちのほうがいいんだろうという気がします。

    『時代の風音』の最後に、草だけをエネルギー源にしているモンゴル高原の話が、ちょっと出てきますね。いざとなったらそこに戻れる・・・と司馬さんがおっしゃっていますが、その「いざ」が見えてきても、本格的に来る前にちょっとずつでも戻りましょうとは、ならないんですねこの国は・・・

    これからの子どもたちが、「実体を回復した世界」に生きられるのかどうか(モンゴル高原、イイねという感性で生きられるのかどうか)、希望を持ちたいところですが、相変わらず受験だゲームだって世界のまんまだと、ダメかなあとも思ってしまいます。それも、少しずつ変わってくるのかな・・・?

    教室掃除は、IKAさんのおっしゃるとおり、前半分と後ろ半分に分けてやってました。学校でも、いろんな「手続き」が「受験勉強優先」という考えに駆逐されてしまっているのではないかと心配なのですが、今でも教室掃除って生徒たちでやってるんでしょうかね。私が学校の掃除イベントで一番楽しかったのは、高校の床のワックスがけでしたね。当時は木の床だったので、一年か半年に一度やっていたと思います。やっぱりワックスをかけると目に見えてピカピカになるので、なんか校舎との一体感みたいなものが湧いてきて、思い返すと、ワックスがけの後は授業にも新鮮な気分で臨めていたように思います。

    ところで、「熊取六人衆」のビデオは、私もブックマークしていましたが、まだ未見なのです。先に、小出さんの講演のビデオを見ました(IKAさんがふたつ目にリンクを貼ってくださっている動画でした)。

    「ビデオニュースドットコム」の番組で小出さんが電話で出演されていたときのお話を聞いたのが私は最初でしたが、この方はまさに「紳士」だなというのは、ホントに感じました。なんか、番組のホストの方々の誰かが、「原発を推進してきた研究者たちに言いたいことは?」みたいな(ちょっと意地悪な)質問をしたときにも、批判めいたことを一切おっしゃらなかったんですよね。それで、『ザ・ウォーカー』の掲示板でIKAさんが「シビリアンコントロール」について書かれていることも拝読しまして、「文」というものについてもいろいろ考えさせられたのですが・・・講演でのお話を聞いていると、小出さんという方は理系なのだけど、かなり「文」の感性も持ってらっしゃるというふうにも感じました。

    どうも「理」と「武」というのは仲が良いといいますか、わりと両者結託して「暴力装置」を生み出して、それをどんどん洗練させて「力」を伸ばしていくという傾向性があるように思われるのですけど、そういう「力」って、「理論」で統制しているつもりでも、どうも実はエントロピーが高くなっていくのではないかという気がしますね。「文」の感性というのは、そこに「負のエントロピー」を持ち込んで、もっと「実体」に近い秩序をもたらすはたらきがあるのかもしれないと思います。

    今週は、志村史夫さんの『こわくない物理学――物質・宇宙・生命』(新潮社)という本を読んでいました。これが、「物質」と「生命」との関係について、ギリシア哲学とかインド思想とかにも言及しながら、でも「科学」という基本を踏み外さずに探究した内容で、とてもいい本でした。志村さんは、半導体エレクトロニクスの研究をされていた方で、やっぱりバリバリの理系なのですが、「文」の感性もお持ちの方で、「実体」とか「全体」にたいする敬虔な心配りがあります。で、「物質」がどうして「生命」になるのか、というのは科学の世界でもやはり「神秘」なのですが、志村さんの書かれていることの要諦は、ミクロの物質世界(原子を構成する電子・陽子・中性子の動きなど)は不確定なのだけど、それが集積してマクロ世界を形成していく過程で、「秩序」が生じてくるポイントがある(雪の結晶が例として挙げられています)・・・それが、結局「生命」の誕生の鍵になるのではないか、と。しかし、無機体の結晶にも「秩序」はあるけど、それはやはり有機体の「生命」とは違う。その違いを生むのは何かというと、そのヒントは、「物質(質量)とエネルギーとは相互に転換され得る」という、アインシュタインの特殊相対性理論から導かれた公式にあるのではないか・・・と、そういうお話でした。

    それで、この本で「生物体は負エントロピーを食べて生きている」というシュレーディンガーの言葉が何度か引用されているのですが、これは、「物質」が負エントロピーによって「秩序」(=自己組織化のはたらき)を獲得して「生命」になり生き続けるということだ、と言い換えられるわけですね。「秩序」から「生命」への移行がどうなっているのかは謎のままなのですが・・・ともかく、そうすると、たとえば「理+武」が生命を破壊する方向に走りやすいのにたいして、「文」のほうがはるかに生命に寄り添うことが多いとすれば、やはり「文」にはエントロピーを減少させる力があるということなのではないかなあと・・・なんか、そんなようなことを考えたりしたのでした。

    あ、それからIKAさん、『ザ・ウォーカー』の主人公の名前についての解釈を詳しく書いてくださってありがとうございました。また作品を見る機会があって何か思うことが出てきたら、改めてお話に参加させていただきたいと思います!

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/4/19 12:31 by IKA

    aakuraraさん、雨天さん、こんにちは。

    『時代の風音』は、今ちょうど半分くらいまで読んだところです。
    ヴァチカンもパレスチナも「領土を持たない」から、冷静な報道ができる……これは、私もなるほどなあと思いました。……うーん、あんまり考えたくないことですが、日本も、この調子で地震のたびに原発がポンポンいってしまうと、すぐに「領土を持たない国」になってしまいそうですね。まあ、正確には「人の住める領土のない国」ということですが……かろうじて残るのは沖縄くらいでしょうか。でも、日本で住めるところが沖縄だけになった場合、朝鮮半島も同じ運命に……わーっ……、これは大変ですーぅ……

    これで私が思い出したのは、小松左京さんの『日本沈没』です。あの作品は、誤解されている部分が多いみたいですが、本来は「日本民族が領土を持たない民になったらどうなるか」という思考実験がテーマで書き始められたのだそうです(ご本人がどっかでそんなことを言ってみえました)。映画版の方は、2作とも「カタストロフィー」がテーマになってしまって、特にリバイバル版は「カタストロフ恋愛もの」になっちゃってましたが……本来は、日本列島から日本人が追い出されてしまった場合、「日本人」というのはどう変化していくか……とか、そのあたりがテーマだったそうで。

    日本列島が「死の島」になったら、外国のどっかに仮住まいしたNHKから「冷静な報道」が流れるか……これは、案外そうかもしれませんね。……日本人って、今まで「日本の山河」と切り離すことのできない特有のメンタリティを持った民族だったと思うのですが……その「山河」を失ってはじめて自分たちのことも、世界のことも、冷静に……というか、クリアに見えてくるのかもしれません。と同時に、失ってしまった「山河」に対する思いは、これは強烈なものとなるのでしょうね。かくも自然豊かで天地と綿海の恵みあふれる国……祖先から受け継いで育ててきた「山河」を、われわれは一挙に失ってしまった……嘆いても嘆き足りるということはないのでしょう。

    サントリーのウィスキーのところはまだ読んでないのですが……日本の文化は、もうすでに明治期からアマルガムになった西洋文化が「和」の中に取りこまれて、一体化してしまっているような風情もあります。……でも、意外に頑固なのが「言葉」で、私もそうなんですが、英語がしゃべれない人の割合がダントツに多いのが日本……とか聞きました。これだけ自国の言葉に対して頑固に保守的ということは、やっぱり「なにかある」と思うのですね。……こんだけ諸外国とおつきあいのある国であれば、とっくに英語とかのバイリンガルになってても不思議はないのに。……やっぱり、言葉も「山河」と分かちがたく結びついているものなのかもしれません。そこが「頑固」なので、あとのものは表面的になんでも受け入れる……ということなのかも。

    移動させるためのエネルギーの問題……これも大きいですね。……私は、常々思うんですが……PCやネットワークに「心」があったら、きっと「人間の肉体」というのを一番やっかいなものと思うんじゃないかと。すべてが「情報」になってしまえば、移動のエネルギーなんかもごくわずかですみます。人間の場合、「肉体」を移動させなきゃならないので、そのために車や電車が要る……鉄道網に高速道路……そして「肉体」は「住む家」を必要とし、そのための都市インフラの整備……PCたちからみれば、結局「人間の肉体」のために原発なんかつくってんじゃん!ということになりかねません。

    要するに、「肉体」は鈍重なんだと。だとすれば、その鈍重な肉体を「高速」で移動させようとするのがそもそもの間違いだし、「肉体」の快感のために過剰なサービスシステムを構築するのもおかしい。要するに、人間の肉体というものは、なんかそれなりに移動においても維持においても「最適」みたいな技術があるのではないかと思いますね。……たぶん、日本の江戸時代くらいの技術なんでしょうか。とりあえず急ぎたい人は馬に乗ってくださいと。街も、人の手で切り拓ける程度の土木技術で造るし、蛇口をひねれば水が出てくるとかいらないし、電気もガスも下水道も要らない……そのかわり、エネルギーと物質の循環システムはきちんとつくっておく……これで良かったのかもしれないですね。

    私は、今の文明の姿よりもたぶん江戸時代の方が、今のレベルでの「満点」に近かったのではないかと思います。文明の誤りは、おそらく「動力系」を独立させたシステムをつくったところからなのでしょうか。『ナウシカ』の中に、「ガンシップは風を切り裂くけれどメーヴェは風に乗る」というナウシカの言葉があったように記憶していますが……メーヴェにも小さなエンジンはあるものの、「移動」の主体は「風に乗る」ということのようですね。これに対してガンシップは強力なエンジンで風にはほとんど関係なく突進する……エンジンを知りながらも、その使い方はできるだけ控え目にする……というのは、今の文明を基本的に変化させていくためのかなり有効な考えかたなのかもしれません。

    これに関して思い出すのは、ずっと以前に読んだ1950年代のアメリカのコンタクトストーリー……。前に「原子力の平和利用はありえない」という例の「宇宙人のメッセージ」をご紹介したあの本なんですが、そこに、彼らの宇宙船の動力について、「われわれの宇宙船は共振電磁場に乗って滑空するように宇宙空間を飛ぶ」という一言がありました。……共振電磁場……原語では、たしか「resonating electric-magnetic field 」ではなかったかと思うのですが、これは、「地球人のまだ知らない第4の力」なんだそうです。

    宇宙人に言わせると、この宇宙には4つの「力の場」があるそうで、そのうち地球人に知られているのは「電場」、「磁場」、「電磁場」の3つなんだとか。4つ目の「共振電磁場」は地球人にとっては「未知の力」なんだけれども、実は宇宙はこの「共振電磁場」に満ちていて、宇宙船はこの「共振電磁場」の流れに乗って滑空するように宇宙空間を飛ぶ……なるほど、そういうことであれば、これはかなり納得いくなあ……と思いました。地球のロケットエンジンみたいにバリバリと空間を切り裂いて無理矢理突進していく……宇宙人から見れば、これは「野蛮の極み」なんでしょうね。莫大なエネルギーを浪費して、宇宙空間にもおそらく多大な損傷を与えているのでしょう。まさに今の地球の文明を象徴しているような……

    もうちょっと宇宙船の話をさせていただきますと、彼らの宇宙船は、地球の乗り物のように部品を組み立てて造るのではなく、なんと「結晶」を成長させて造るのだそうです(前にご紹介したかもしれませんが)。結晶体的成長(クリスタル・グロウス)という言葉が使われていましたが……どうやって成長させるのかはわかりませんが、とにかくそうしてできた宇宙船は一種の生命体であって、乗組員の第2身体(セカンド・ボディ)として機能するのだということです。なので、乗組員の意志を即座に反映して自由自在に飛び回る……宇宙船に「乗りこむ」というよりは、宇宙船を「着る」といった方が近いのかもしれませんね。まあ、アニメに出てくるモビルスーツみたいなもんなんでしょうが、もっと密着度は高いのかもしれません。結晶に包まれているような感覚(エヴァンゲリオンの操縦席のようなもの?)……

    宇宙船のお話ばかりになりましたが、このあたりは、aakuraraさんが書いておられるエントロピーのお話や、生命と結晶のお話にも深く関連しているように感じます。……エントロピーは、もともとは熱力学から出てきた学術用語らしいですが、それが生命現象、そして情報科学なんかにも転用されているみたいですね。……大元のエネルギーのお話でいうなら、以前なにかの本で、いろんなエネルギーとエントロピーの関連を書いてあるのがありまして……それによりますと、一番エントロピーの高いエネルギーは熱エネルギーで、一番エントロピーの低いエネルギーは電気エネルギーなんだそうです。

    エネルギーは、自然にほっておくとどんどんエントロピーが高くなって、最後にはぜんぶ熱エネルギーになってしまう。ところが、この熱エネルギーというのは一番使い勝手の悪いエネルギーなんだそうで……とにかくものを暖めたり焼いたりするのにしか使えない。逆に、一番エントロピーの低い電気エネルギーは最も使い勝手がよくて、電熱にすれば熱エネルギーになるし、情報処理用にPCなんかでも使えるし、モーターに通せば回転力になるし、コンプレッサーに使えば気体を圧縮できる(冷蔵庫やクーラー)……ということで、みんなが一番欲しがるのは電気のかたちのエネルギーなので、それをつくる発電所が要となる……

    要するに、発電所って、エントロピー側面から見た場合、エネルギーのエントロピーを下げるための施設ということになるらしいですね。それで、その仕組みはというと、とにかく元は火力でも水力でも原子力でも、太陽光発電以外はみなタービンを回して発電機を回転させる……そこから先は発電機の力になるわけですが、この発電機は、結局「電場」と「磁場」によって生じる「電磁誘導」現象によって回転力を電気に変えて出力する……このあたりで、ようやくちょっと「宇宙船のエネルギー」に近づいていくわけですが……ただ、われわれが「電気エネルギー」と呼んでいるものの「正体」が完全にわかっているわけではないので、ここでもかなり「乱暴」なことをやっているのかもしれません。うーん、「百点」にはまだまだかなり距離がありそうな……前にあげたニコラ・テスラなんかは、この一歩先を知ってたのかなあ……という気もします。

    志村史夫さんの本の「秩序が生じてくるポイント」のお話は面白そうですね。ここでもやはり「結晶」が登場……そういえば、前にあげたライアル・ワトソンの本の中に、「粘土」のお話が出ていました。彼によると、粘土というのは自分自身によって結晶化を行っていくはじまりの物質であって、これが地球上の生命現象の誕生に大きなかかわりをもってくるのでは……という、なんか、そんなような話だったと思います。これは結局、無機の結晶と有機の結晶をつなぐ橋のところのお話だったのかもしれません。……宇宙人の宇宙船の「結晶」も、なんとなくここの部分に関連してきそうな気がするのですが……。

    この間、教育テレビで、イギリスのカズオ・イシグロという作家のことを紹介していました。彼は現在はイギリス国籍の日系人で、イギリスで売れっ子作家らしいですが(おそらくaakuraraさんはよくご存知だと思いますが)彼の話で、人間というのは、その身体はとどまることなく変化していくから、物質的に見れば一人の人間は拡散してきわめてあいまいなものだ。では、一人の人間を「個」たらしめているものはなんだろう……それは「メモリー」ではないか……ということを言ってました。どうやら、その「メモリー」は生まれ育った「場所」にも関連しているみたいなのですが……彼は、5才まで長崎で育ったらしいのですが、そのこともどうも関連しているようです……番組途中で寝てしまったので、いまいち良くわからないのですが。

    そんなことも考えると、もしかしたら「結晶」というのは「物の記憶」であり、また「場の記憶」でもあるのかな?……とも思いました。生命現象も、そういった「物と場」あるいは「生命と場」の交感の中に、はじめて現われてくるものなのかも……情報科学でいうエントロピーはきわめて面白い性質を持っていて、なんか絶対的に存在する量、みたいなものではなくて、情報の「送り手」と「受け手」の間にはじめて存在できる量(というか数値)みたいなものらしいです。このあたりは、なんとなくカズオ・イシグロさんの人間観というか生命観みたいなものともつながっているような気がしましたが……どうなんでしょうか(全然読んだことがないので、あてずっぽうで言ってますが)。

    小出先生が「文」の感性も持ってみえる……というのは、ほんとにそのとおりだと私も思います。たしかに、推進派の研究者の批判は絶対にされませんね……それと、常に「科学は生命とどうかかわっていくか」という視点をもって研究をされておられるようで、このあたりが、原子力の研究者でありながら、それを否定せざるをえないという難しい立場をずっと維持してこられた源でもあるような気がします。きっと、推進派にならざるをえなかった同僚研究者の気持ちも、痛いほどにわかるのでしょう。そういう中で、自分は自分の気持ちと信念に正直に研究を続けてこられたのはまさに僥倖……という思いもあるのかもしれません。

    やっぱり、研究者って、純粋に研究を続けていければ幸せだけれど、現実社会においては、なかなかそうもいかないみたいですね。特に大学という閉鎖社会では……私が研究生だったころの先生は、「異端」のレッテルを貼られてとうとう大学を追い出されてしまったみたいですし、私の友人の息子さんは、優秀な研究者だったそうですが、指導教授から「アカハラ」を受けて自殺に追いこまれてしまいました。指導教授からうとまれた結果、研究の道をあきらめて、北海道に行って酪農家になった……という話も聞きましたし、こういう話は、数え上げればきりがないようです。そういう厳しい環境の中で、志を曲げずに研究を続けてこられた小出さんのような方は、ほんとに珍しいのではないかと。

    なんか、人間の科学って……文科系の学問も含めて、どっか欠陥があるというか、ある段階の「ピース」が全部嵌りきらないうちに次の段階に進もうとするので、結局「全体」がめちゃめちゃになってしまっているような気がします。……核分裂を起こした原子の中で、一体ほんとに何が起こっているのか……そういうことも全然わからないうちに原発を造って、壊れた原子から出るエネルギーでお湯を沸かす……こういったことは、宇宙人からみればもうまったく恐ろしい冒涜であって……「核分裂」の正体を知れば、それはもうとても畏れ多くて、それで「お湯を沸かす」などとんでもない……そういうことなのかもしれません。でも、人類の未成熟な頭脳は平気でそれをやってしまいます。

    小出先生みたいな研究者の場合には、なんかそこでストップ……というか、抑制力が働くのでしょうね。「ちょっとまてよ、このまま突き進んでいいのだろうか……」というような。私は、これが本来の科学者の態度であると思うのですが……小出先生は、また、わからないことは正直に「わかりません」とおっしゃいますが、これも「突き進んでしまった」科学者には、なかなかできないことであろうと思います。よくわからないことでもわかったふりをして次々と前に進みたがる……そうしないと「競争」に生き残れないからなのかもしれませんが……ほんのちょっとのこと、わからないことを正直に「わかりません」といえるかどうか……そこで、道ははっきりと分かれてしまうような気もします。

    うーん……これからは、人類は、わからないのにわかったことにして次々に扉を開いてきた「つけ」をすべて支払わされるのではないか……という気もします。……日本は雛形みたいになって、その「盲目の行進」の「つけ」を「山河の喪失」という形で支払うことになるのかもしれませんが……やがて、これは全世界に及んでいくのでしょうね。……19世紀の理論と、それに基づいた20世紀の実践……その全体の「つけ」を支払うまでは、新しい時代は開けないのかもしれません。

    次の時代は、この作品の「ポニョ」に象徴されるような「生命感」の時代になるのかもしれません。みんなが、まず「生命」や「実体」や「全体」というところからいろんなことを考えて、全体のピースが全部揃ってからはじめて次の段階の扉を開ける……時間はたっぷりあるので、そんなにあわてなくてもいいんじゃないかと思います。……なにか、「場」から受け取る「豊かさ」みたいなものが、歩む道の指標になるような気もします……そういう時代になれば、小出先生のような研究者が「本来の科学者」としてみんなの尊敬を受けるようになるのでしょう。……「試練の時」がいつまで続くのかはわかりませんが……早く、そういう時代が来ればいいなあと思いますね。

    雨天さんは、『ザ・ウォーカー』みたいな作品はお好きでしょうか。私的にはちょっとお勧めなのですが……aakuraraさん、雨天さん、もしこの作品、ごらんになりましたら、また、ご感想お聞かせいただければと思います。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/4/22 9:00 by IKA

    aakuraraさん、雨天さん、こんにちは。

    「本当は現地のものは現地で食べる方がいいんじゃないの?」……これは、マクロバイオティックでいう「身土不二」とちょっと似てますね。ただ、「身土不二」は自分の地域のものを食べましょうということなので、遠くに行ってその地のものを食べる……ということではないようですが。たしかに同じ国内でも、「にしんそば」なんかはやっぱり京都以外のところで食べてもあんまりおいしくないような気がします。……まあ、うにとかいくらとかは、たぶんどこで食べてもおいしいのでしょうが、でも現地に行ってとれたてを食べる……これがベストなんでしょう。

    スーパーなんかで「駅弁大会」なんかときどきやってますが、ああいう催しで珍しい駅弁を買って食べても、なんかいまいちおいしくない……駅弁は?そら汽車の中で食べるにかぎりまっせ!ということなのかもしれません。しかも、できれば蒸気機関車……駅のホームで、売り子さんから駅弁とお茶を買って、ごとんごとんと動き出した汽車の中でおもむろに包みを解いて……最高ですね。新幹線で通路を行くお姐さんから買っても、なんかいまいちおいしくない……食べ物の味には、なんかそういうロケーションみたいなものは密接にからんでいるようです。

    日本人の身体って、乳製品を消化できる酵素だったかアミノ酸だったかを持ってない人が多いという話を前に聴いたような気がします。なんか、アルコール消化酵素も持ってない人がヨーロッパの人に比べて多いらしいんですね。……そういう点では、日本人は「食」に関してつつましやかな民族なのかもしれません。「牛乳は牛の飲むもの」という話はマクロでも聞いたことがあります。……戦後、どれくらいまででしたか、小学校の給食の牛乳は、悪名高き「脱脂粉乳」というもので、これがまた、これ以上はないほどにまずいものでした。あれで牛乳まで嫌いになった子はけっこう多かったのではないかと思うのですが……(いつの時代の人やねん!といわれそうですが)

    牛乳は、ずっとそれを飲んできた人たちにとっては「身土不二」に合う食品なんですね。でも、かたや「牛乳は牛の飲むもの」ということで、マクロの内部でもこの「矛盾」は解消されていないように思います。また、日本人が海外に行けば、やっぱりずっと日本食で通すわけにもいかないので、当然海外のものを食べるし……人間は植物みたいに根が生えてなくて自由に動けるので、なかなか植物みたいに「身土不二」にはなりませんね。まあ、それをいえば動物はみなそうなんですが、ただジェット機で空を飛んで地球の裏側にまであっという間に行ってしまう動物は人間以外にいないので……人がものを食べるというのは、生物の歴史始まって以来の不思議な実験になっているんではないかと思います。

    『時代の風音』は、ようやく半分をちょっと越えたところまできました。堀田さんがガウディがあんまりお好きじゃないみたいなことを言っておられるところがあって、ちょっと意外でしたね。「日本人はみんななぜあんなにガウディが好きなのか?」ということを言っておられて、うーん、なるほど……と。宮崎さんはどうもお好きみたいですが……たしかに、宮崎さんの作品の飛行機や船や建物なんか、ちょっとガウディぽいところはあります。ガウディは、スペイン全体ではやっぱり異端と見られているのか……細かいことは、やっぱりその地に住んでみないとわからないものですね。以前に、あるミュージシャンの方が、バルト3国のどこか(エストニアだったか)でコンサートをやることになって、当時はソ連領だったからロシア語を覚えて挨拶しようとしたら止められたとか。反感を持たれるだけということが、当時はわからなかったんですね。

    今読んでいるところで、明治10年くらいの「軍人勅諭」はすごく低姿勢で、軍人のみなさん、こんなふうにやってね、というようなものだったけれど、10年くらいたって「教育勅語」になるとものすごい高圧的で強権的になってしまった……と。この10年の間に日本の国はがらりと変わったんだ……ということが書いてあって、面白いなと思いました。われわれのイメージの「明治」って、やっぱり中ごろくらいにそれらしくなってきたみたいですね。「昭和」も真ん中くらいで大きく変わってますし……「平成」はどうなるのかな?なんか、この間の震災と原発がものすごく大きな境界線になってしまったような気もしますが……

    雨天さん、『ザ・ウォーカー』、ご覧になってましたか!……たしかに考えさせられるところの多い作品でした。……なるほど、『デスノート』の一方の主人公の名前もエルでした。そこには気づきませんでしたが……もし神の「エル」だったらちょっとすごいですね。おっしゃるように古い神と新たな神の対決……しかし、なんか、あのお話を覆っている通奏低音みたいなものはニーチェだろうと思うので(このことは『デスノート』のスレにも書きました)、古い神と新たな神が、「神殺し」の手の中で対決している……ということになるのでしょうか……壮大です。

    神の名「エル」は複数形になると「エロヒム」となるようで、これはもう『悪魔くん』の世界……「エロイムエッサイム、我は求め訴えたり」……そういえば、悪魔くんもカバラの研究をやってました。アリストテレスも読んでいたようで……。ユダヤ教の神様も、もともとはいろんな神様の集合体みたいな感じであったようですが、いつのまにか一神教に……でも、セフィロトの樹には、なんか「いろんな神様の時代」の名残が感じられますね。

    「神」は、「働き」の方から見ると、やっぱり人間の数だけできてしまうのかもしれません。みんな、自分に働きかけてくる不思議な「神の手」を感じる……しかし、それが、多くの人々の命運を巻きこんだ総合的な「働き」に至ると、どうしても「唯一の神」を考えないと収まらないような気もします。『ザ・ウォーカー』の主人公のイーライは、常に「自分に働きかけてくる神」を感じていたようですが、そのつながりを保持したままで、いかに普遍的な「神」に至れるのか……そういう物語であるようにも感じました。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/4/23 22:54 by aakurara

    雨天さん、IKAさん、こんにちは。

    小松左京さんの『日本沈没』は、私の母が若いころに読んで、けっこう影響を受けたみたいです。ちょうどノストラダムスの予言とかが流行っていたころでもあって、「子どもをつくるのはやめよう」と思っていたそうなんですが、でも、たまたま父の仕事でタイに行くことになって、タイの人々の生活を見て、まだ世界にはこういう場所もあるなら・・・というふうに感じて私を産んだのだと話していました。そんなこんなで私自身の出生にもゆかりある(?)小説なので、いつか読んでみたいと思っていました。連休中に読んでみようかな・・・

    日本人の「言葉にたいする保守性」というのは、たしかに強いように感じられますね。カズオ・イシグロさんの小説は、実は読んだことがないのですが、イギリスに移住されたのが5歳のとき、とのことなので、日本語はほとんど話せないそうなのですが「日本語のメモリー」はどこかに残っているのではないかと思います。「言葉の記憶」というものも、「物の記憶」とか「場の記憶」と関連して、「結晶」のように存在するような気がします。子どものころに使っていた言語って、あとで忘れてしまったとしても、なんかどっかで残ってるのを自分でも感じますし。

    しかし、「言語」をふくめ「情報」というモノは、いったい何なのでしょうね? 「情報」の送り手と受け手のあいだにも、何かよく分からない「エネルギー」らしきモノが生じたりして、こういうネットの掲示板なんかにはいろんな形の文字列として現われるわけですが・・・うーん、コレは何なんでしょう。ネットの場合、紙という「物質」を介さないので、余計に得体が知れないというか、やっぱりエントロピーが増大した状態になりやすいというか・・・

    ともかく、「肉体」のための移動手段やサービスシステムには「最適」のラインがあるのだろう、というのはIKAさんのおっしゃるとおりですよね。そのラインを踏み越えさせるものは何なのか・・・コレもよく分かりません。

    昨日は『白鯨』という映画(同名の小説が原作のものです)を見ていたのですが、これは鯨からとれる油が重要なエネルギー源になっていた時代の捕鯨の話でして・・・主役になる捕鯨船のエイハブ船長が、まさにその「最適ライン」を踏み越えようとするわけなんですね。ふつうに鯨を獲っていれば船員の生活も成り立つし、十分な鯨油も供給できて十分儲かるのだけど、自分の脚を食いちぎった白鯨に対しては、過剰な執着心を燃やす・・・

    その動機は、表向きは「白鯨に対する復讐」ということなのですが、なんか実はもっと深い哲学的な動機もひそんでいて、言ってみれば「実体」への挑戦みたいなものがもうひとつの大きな動機になっているように感じます。つまり白鯨は、ただの鯨ではなく、ただのエネルギー源でもなく、ただの収入源でもただの「自然」でもなく、あえて言うなら「神的」な力を象徴するもの・・・このあたりは、映画よりも原作の小説のほうが上手く表現しているのですが、映画でエイハブを演じたグレゴリー・ペックが語る「実体としての白鯨」も、なかなか迫力がありました。

    ええと、ですから「科学技術」という観点からすると、IKAさんがおっしゃるように「動力系」を独立させたところから「文明の誤り」がはじまったということになるのだと思いますが、『白鯨』を書いた作者のメルヴィルなんかには、「満点」の状態を越えていこうとする人間の動機の根幹のところには、エイハブ的な「形而上学的狂気」のようなものがひそんでいるというふうに見えていたのでしょう。それは要するに、人間の「観念病」とでも言うべきものなのかもしれませんが。

    ところでIKAさんが教えてくださったジョージ・ハント・ウィリアムスンの本ですが、これなかなか見つからないですね。共振電磁場に「結晶」の宇宙船・・・なるほどまだ宇宙には人類の知らないことがたくさん・・・

    いま、松井孝典さんの『宇宙人としての生き方――アストロバイオロジーへの招待』という本を読んでいますが、なかなか示唆的なことが書いてありました。松井さんいわく、人類が生まれたのは、「宇宙を認識するため」なのではないかと。だとすると、宇宙を認識してしまったら我々の存在理由がなくなるので、それを認識しはじめた現代になって、人類が「文明の問題」に直面して存続の危機にさらされるようになっているのは、「文明のパラドックス」というよりも、むしろ必然なのではないかということです。

    松井さんは、人類は「生物圏」から「人間圏」を分化させて生きることを決定したときから、「ヒトとして生きのびるために生きる」のではない、別の存在理由(つまり、「宇宙を認識すること」)を選択したのだ、と考えているようです。生きのびるためだけなら、「生物圏」から分化しないほうが持続するので・・・。人間は、自然に書き込まれた宇宙にかんする「情報」を解読しているのだ、という書き方もされているのですが、そういう「解読」の作業は、この地球上では人間の頭脳にしかできない、ということでもありますね。

    しかし「19世紀の理論」と「20世紀の実践」とを通して人類は、中途半端な解読で、しかも人間中心的に自分たちの欲望を満たすために「人間圏」を組み替えてきたので・・・うーん、これからの百年くらいは、本当にその「つけ」を支払う時代になるのかもしれません。

    本来なら身体に合わない食べ物を食べられるようになっている、というのも雨天さんのお話にあるように、「19世紀〜20世紀」がもたらした「恩恵」なのか、実はそうでないのかって、ちょっと分からないですよね。

    『時代の風音』のヴァチカンといえば、ローマ法王が「テクノロジー」にかんして17日にコメントしていますね。「軍人勅諭」と「教育勅語」の話は、私も面白いと思いました。「平成」の後半は、日本人が「敬虔さ」を取り戻す時代になるといいと思いますが・・・はてどうなるのでしょう・・・

    今週はうっかりDVD半額の日を逃してしまいましたが、来週にでも時間ができたら、『ザ・ウォーカー』見てみたいと思います。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/4/28 15:05 by IKA

    aakuraraさん、雨天さん、こんにちは。

    『日本沈没』は、私もこの間、図書館で借りてきました。……この本は出版後まもなく読んだのですが、そのころは、ちょうどオイルショックのあとくらいで(初版1973)、なんか「沈没」というのが「経済的沈没」みたいなイメージになってましたね。怒涛のような高度経済成長が「万博」を契機にスーッと引いていって……まるで、太平洋プレートの押し上げ圧力を失った日本列島が海洋底に呑みこまれていくような……そんな感じで、フィクションの「地殻変動」と現実の「経済変動」がきれいにリンクしていたような感はあります。

    でも、そのころは、日本列島の「地質的な地殻状態」は比較的安定していたような印象……大きな地震も少なかったし、人々は、これは完全にフィクションであろうとまあ安心して読んでました。もちろん作者の小松さんも完璧にフィクションとして作っておられたと思うのですが……それが、今になって、特に3.11後、余震なんかの起こり方になんとなく奇妙なリンク感が出始めてきまして……それで、確認というか、小説の『日本沈没』では、どういう風に日本を沈めていたのかな……と。なんか当時は最新であったプレートテクトニクス理論にのっとって……ということのようですが……

    aakuraraさんのお母様のように、ノストラダムス大予言とリンクさせて読まれた方もおられたのですね……うーん、たしかにあのころは、ノストラダムスの方も大きな社会的影響力を持っていたと思います。ただ、私は、著者の五島勉さんの記述(奇しくも同じ1973年)の中では、「アメリカとソ連の同質性」について言及した箇所が印象に残っています。……当時は、戦後、知識人に吹き荒れていた「コミュニズムの嵐」がようやく下火になって……まあ、現在の日本の「思想的状況」みたいなものへの「地ならし」がちょっとずつ進んでいたと思うのですが、この「ノストラダムス」もやっぱりそういう動きを準備するものの一つではなかったかと思うのですが……。

    お母様がタイに行かれて、タイの人々の生活を見て……そうですね。当時、日本は、なんかかなり「緊迫した空気」みたいなものが全体的に漂っていたような気もします。「このままじゃすまない」とか「なにかあるんじゃないか」という……『日本沈没』の方はまだ客観的?なサイエンス・フィクションだったんですが、「ノストラダムス」はやっぱり「大予言」……しかも、年限を区切っている……でも、タイの人々は、そんなことまったく関係なかったんですね。私は、当時ずっと国内にいましたから(今でも国内だけど)そういう感覚は実感としてはわかりませんでしたが、かなり解放感というか、それこそ「実体に近い」感覚を得られたのではないでしょうか。

    カズオ・イシグロさんの紹介番組では、私は、彼がイギリスに渡るところくらいから寝てしまったので、肝心なところがわからないのですが、やっぱり「日本語」に対する思いには複雑なものがあるみたいですね。……「言語」をふくめ「情報」というモノ……これは、ほんとに不思議ですね。情報理論は学生時代に工学部の講義を聞きに行ってちょっと勉強した記憶があるのですが、そこではもう完全に数式で構成される世界でした。……今から思えばあれが、コンピュータ理論や情報通信理論のよちよち歩き時代の姿だったんだろうと思うのですが……なんせ「数式」なので???とやってるうちに終わってしまいました。

    ネット上の「情報」のやりとりは、古来から「ラング」として用いられてきた文章というものを「パロール」として用いてしまってる不思議な現象で、これは、人類の歴史において、もしかしたらはじめてのことでは……しかも、たいがいの場合には世界中に「公開」しているわけなので、「ささやきながらの会話」がマイクで放送されちゃってるような奇妙な世界ですよね。でも、みんながあんまり違和感なく使っているのは、「文字列」が自分が使っているモニタ上に表示されるから……なのかもしれません。

    私は、文字−書かれた言葉−文章というものには、なにか独特の「魔」みたいなものが潜んでるように思います。自分ではよく「文章の魔」なんて言ってるんですが、最初は「自分の思い」を言葉の列に乗せて表現しているつもりなのに、いつのまにか並んでいく文章の自己完結力とか文章自体の目的因みたいなものにひきずられて、自分の思いとはちょっとずつ乖離した状態で文章がどんどん生成されていく……うーん、問題は、ここでコントロールができるか否か……だと思うんですが、コントロールがうまくできないと、なんかとんでもない文章ができあがったりします。エントロピーもどんどん上昇……

    「マクスウェルの魔」じゃなくて「うまく仕上げる魔?」みたいなものかな?と思うのですが……「マクスウェルの魔」はエントロピーを下げる働きをするけれども、「うまく仕上げる魔」は逆にエントロピーを上昇させる……あと、それと、おっしゃっているように、「紙という「物質」を介さない」という点は大きいのかなと思います。「紙」があると、なんかクールになりますよね。それに、「紙」の場合には、「公開」となると「印刷」という手段がどうしても必要になってきますし……それに加えて、印刷したものを流通させる手段や配布(販売)する手段も要る……ということで印刷や出版や取次の仕事が成り立っている……

    これは、また、「肉体」を移動させるのとパラレルの現象のようにも思われますね。印刷技術がない場合には、「写本」という手段しかなかったわけですが……おそらくは、「書き手」の対応範囲は、この「写本」という技術の段階を、現在でも出ていないのかもしれません。それが「印刷」になり、ついには「紙」を要しない「ネット」まで来てしまいました。これに対して「書き手」の意識は、やっぱり自分と、誰か特定の人のコミュニケーションのレベルを出られない……相手が「不特定多数」になった瞬間に、なんか「術」みたいなものが必要となって、それが「文章の魔」のささやきによって肥大化していく……

    やっぱり、人間も地球の生命体の一種であるという点からは、私はかならず、ある「制限」を受けると思うのですね。……というか、その「制限」というものは、人間以外の生命体においてはまったく「制限」と感じていないのだけれども、人間の場合にのみ、それが「制限」と感じられる……これは、私はとっても不思議なことだと思います。『白鯨』のエイハブ船長にとっては、「白鯨」がその「制限」の象徴的な存在だったのかもしれません。彼は、やっぱり自分の相手にしているものがなんであるか……それをよくわかっていたのでしょう。……それはまた、人間という種が、この地球上の生命体としての「枠」を越えようとする試みであったけれども、その「枠」を作り出していたのも彼自身であった……

    このことについては、私は、何年か前に出雲大社にお参りした経験を思い出します。出雲大社は、よく知られているように「地の神々」の集まられるところで、ここに地の神々が集まられている期間は、日本の各地では「神無月」になるけれども、出雲では「神有月」というとか……なんか、そんなイメージと、もう一つは『古事記』のアマテラスさんの「岩戸隠れ」の記載なんかから、お参りする前には、地の神々の飲めや歌えの饗宴で、とっても賑やかでかつちょっと猥雑感もあるようなところかな……と想像していたんですね。……なんか、「地の神々」って、「天の神」に比べると、統御されないエネルギーが渦巻いているような感覚……半ば無意識にそんなイメージを持っていたのですが……実際にお参りしてみると、これはもう、全然違いました。

    社殿の前でお祈りしていますと……私の心の目に見えてきたのは、無限に続く歯車の秩序整然たる動き……一つ一つの歯車やクランクや……いろんな部品が完全に統御された空間の中で、自分自身の役割りを過不足なくきちんと果たし……それによって全体が一糸乱れず秩序正しく整然と動いていく姿……それは、まさに「整序」という2文字が本当にふさわしい、見事な律動……この姿を見たとき、私の今まで思い描いていた「地の神々」の御姿が完全に間違いであったことに気づかされました。この「地の神々」の見事な「整序」は私の心の中に深い印象となって残り……それから、いろいろなことを考えさせられました。

    うーん……お参りまでの私の「地の神々」のイメージは、それこそ『千と千尋』の湯屋のようなものだったんですね。賑やかで猥雑でエネルギーに溢れている……でも、現実の「地の神々」は全く違っていました。……私は、今まで、あれほど「正確」なものは見たことがありません。……「実体」って、実は、こういうものだったのか……と。「実体」は、人間から見れば、まさに「整序」そのもので、それはスピノザが描いているあの正確にして静謐な、すべてが決定論的に統御されている世界……ここには完全に「神の意志」が浸透している……まさにそういう感じでした。

    ただ、ここで私が思ったのは……「人間」がいるから、「地の神々」がおられるのだろう……と、そういうことでした。もし「人間」がいなかったら、「自然」は「自然」のままであって、わざわざ「地の神」となる必要はなかったんじゃないかと思います。そういう意味で、「地の神」は「自然」と「人間」の間を取り持つ存在なのではないか……エイハブ船長がいるから「白鯨」がいる。もし、「人間」がいなかったら、「白鯨」は、なんというか、「自然」という「地」から浮かび上がってくる必要がなくて、すべては「神の意志」のままに、完全に統御された世界には波風ひとつたたず……(というか、波風自体も統御されたもの……決定論ですね)

    私は、人間もこの惑星地球の上の生命体の一つであるのならば、必ずなんらかの「役割」を持ってここにいるのであろうと思います。それで、その役割のヒントになるのは、やっぱり「地の神々」ではないかな……と。……エイハブさんの前に「白鯨」が「地の神」として現われたのと同様に、われわれの目の前には、日常生活においてもやっぱりたくさんの「地の神々」が現われておられると思うんですよね……われわれの祖先の時代には、それらの「地の神々」をきちんと「そのもの」としてお祀りする習慣がありましたが……いつのまにか、われわれはそれを失ってしまいました。人間は、「地の神々」をお祀りすることによって「自然の整序」に触れ、なんとかその「整序」の一員であることができたのですが……

    私は、かつて、敦賀の気比の大神が巨大な岩によってまさに潰されんとして苦しんでおられるお姿を見て、人間って、ここまで「地の神」をないがしろにするようになってしまったんだ……と、なんか途方にくれる思いがしました。……19世紀の考え方だと、「人間」と「自然」の2項対立になってしまうわけですが、これだと双方がつながることはけっしてない。人間は、「自然」を直接に「実体そのもの」として見ることはできなくて、必ず「人の言葉」によって「理解」しようとしますから……だから、自然を「征服の対象」として見る考え方も、「自然にやさしく」という不気味な発想も、根は一つになってしまうんだと思います。そして、自然の方は、例えば今回の地震のように、突然「実体」の圧倒的なパワーを……

    「地の神々」はまことに不思議な存在で、「整序」という点ではまさに「自然そのもの」でありながら、「人の言葉を持つ」という点で、神話なんかできわめて人格神的に描かれたりします。……今の世界は、「地の神々」の果たす大切な役割を見失って、とことん無視したり押しこめたり……でも、考えてみれば、われわれの日常のささいな行動の一つ一つがすべて「地の神」に支えられている……われわれが「肉体」をもって行動できるのも、すべて、無限に細分された要所要所に「地の神」が立って、そこできちんと働いておられる、その働きがあってこそ……マクロの食の技術なんかは、本来は、まさにそういったところにおられる「地の神」のお働きをきちんと認識していこう……ということが主眼だったと思うのですが、今では、なんか美容と健康のための実践方法の一つになりさがっているようで……

    それでは、地の神々がそこまでフォローしてくださるこの「人間」という存在、その役割はなにか……ということになるのですが……これについては、ご紹介くださった松井孝典さんの考え方とほぼ同じになるかもしれませんが、私は、「遊星地球を越える」ということではないかと思います。まさに、松井さんのおっしゃっておられるとおりで、「別の存在理由」なんですね。……「自然」も、「言葉を持った自然」である「地の神々」も、すべてこの惑星地球という範囲に限定されてしまっているのだけれど、なぜか「人間」だけは、肉体はこの地球に限定されていても、少なくとも精神の面では、この惑星地球という限界を超えてしまいます……そしてまた、もしかしたら、この「限界を超える」という人間の能力が、「自然」や「地の神々」においても、ある時期になると必要になる……人の役割って、そういうところにあるんじゃないかなあ……と。

    なので……ここからはトンデモ飛躍の世界になるのですが(というか、今まででも充分にトンデモでしたが)、私は、「人類の起源」は、もしかしたら、この遊星地球に限定されたものではなかったのかもしれない……と思うんですね……むろん、肉体的には、人類は、まさにこの地球の「塵」から取られたものなのかもしれませんが……SF的な意味ではなく、論理的に考えて、人類のよってきたるところを、この地球の範囲内に限定することは難しいのではないか……と。

    うーん、これ以上は、もうホントにトンデモ領域に突入していきそうですので、ここらへんでやめますが……ところで、ジョージ・ハント・ウィリアムスンの本は、やっぱり見つけるのはものすごく困難だと思います。というのは、この本は、一般書店に流通していた本ではなくて、当時(1960年前後)、CBA(Cosmic Brotherhood Association 宇宙友好協会)という団体が会員の方向けに出版した「宇宙シリーズ」の中の一冊でして、出版部数も自費出版なみに少なく、おそらく古書店にもネットにもまず絶対に出てこない……図書館にもまずないと思われる出版物ですので……当時、この団体の会員だった人の家の片隅に埋もれている……というケースしかちょっと考えられません。もしかしたら、原著ならアメリカのどっかに残っている可能性もありますが……

    松井さんの本、一度図書館でさがしてみようと思います……(うーん、『時代の風音』もまだ全部読んでない状態ですが……そこに『日本沈没』が重なり、さらに松井さんの本が……ホント、読みたい本はふえるばかりで……)

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/5/6 1:17 by aakurara

    雨天さん、IKAさん、こんばんは。

    三連休の最終日。私も読まないといけない本が山積みで、結局小松左京さんの本はまだ読めておりません・・・。五島さんのノストラダムスの本は、当時の大ベストセラーということだけで、中身についてはまったく知らなかったのですが、なんかウィキとかで見ると五島さんってすごい多作な方なんですね。

    えーと、それで小松さんの本を読まずに、いくつか並行して読んでいるんですが、一冊はカール・ポラニーの『大転換』(原著は1944年刊)という本です。副題は「市場社会の形成と崩壊」なんですが、コレは<19世紀文明>の基盤となった制度のうち、いちばんの元にあったのは「自己調整的市場」だということを述べた大著でして・・・なんか政治経済の話が主体なんですが、前近代的な文明においては、経済というのは社会全体の機能の一部でしかなくて、そういう文明では「人間」と「自然」の実体(ポラニーの用語では「human and natural substance of society」)が大きく損なわれることなはいのだけど、19世紀の文明では人間と自然が「商品」として(それぞれ、労働力、売買される土地として)市場のシステムに包摂されて、結果として社会システム自体が市場経済システムの内部に埋め込まれるということが起こる。そして「社会の実体」そのものが、市場の法則に従属するようになる・・・というお話で、なかなか興味深いです。

    こういう視点から見ると、「人間」と「自然」の二項対立も市場経済システムの中では実質的にはなくなっていって、どちらも「所有・交換の対象」になっていくという・・・このへんは、「アメリカとソ連の同質性」という話にもつながりそうです。「自然の征服」とか「(資源としての)自然にやさしく」というスローガンとかにしても、そう考えるとかなり滑稽なものになってきますね。しかし市場経済システムの影響に対する耐性が、(先進国の)人間のほうはかなり弱くなっているのに対して、自然のほうは、人間が思うほど弱くなってはいないのだろうと、さいきんは思えてきました。

    ところで近代から現代にかけて「自然の整序」に対する人間の信頼が失われていったのにも、19世紀的な政治経済学の言説が多少は与ったのではないかという気もします。「人間は利己的な動機で行動する生きものであって、経済的利害を優先させがちである」という通念がほとんどの19世紀的な思想にあった前提で、実際に労資の対立だとか植民地の問題だとかイロイロ出てくると、「やっぱり人間は生来利己的で、ほっとくとこんなにめちゃくちゃな社会になっていくんだ!」ということになって・・・でも、実は人間って、ほっとけば必ず何らかのかたちで「地の神」を通して「自然の整序」に触れようとする生きものなんではないかと思うのですよね。「人間は利己的な生きもの」という通念が「普遍の真理」のように言われて、実際にその通念を内面化させられてしまうようになったのは、「市場経済システム」に取り込まれてしまった結果でしかないんじゃないかなあ、と・・・あと、「学校教育システム」も影響力大かもしれません。(公教育も、イヴァン・イリイチさんなんかによると市場経済に従属しているものということになるので、市場経済の影響も学校教育の影響も、同じことになりますが。)

    そして、そういうシステム(「金の輪」ですね)の中で生きているかぎりでは、やっぱり「地の神」の力よりも「お金」の力のほうが目立つので余計に、社会の整序は「地の神」によってもたらされるのではなくて、きちんと統制された政治・経済の原理によってもたらされるのだ、と思わされてしまいます。

    なんか、この連休に「どんどん遊んでお金を使って経済をまわしましょう」と政府が宣伝するのを見ていても、そんな印象を受けます。これって、「地の神」の声は無視して、「市場システム」の秩序と流れをとにかく維持しましょう、ってことですよね。それが結局すべての人のためになる、というのは何か前提が間違っているような気が、どうしてもしてしまいます。

    そういえば、ちょっと前に流行った「利己的な遺伝子」という学説も、そういう意味では「19世紀的」だなあと思います。

    あと、これは別のスレでしたでしょうか、少し前に面白そうと言っていた、八木雄二さんの『生態系存在論の構築』も読んでいます。八木さんは、種の進化は「競争原理」では説明できなくて、競争原理から導き出されるのはむしろ種の「絶滅」であって、進化は「共生原理」によって説明される、というようなことを書かれています。それで面白かったのは、八木さんによると、人類は自らの文明に「競争原理」を導入したことによって、すでに絶滅のプロセスに巻き込まれていて、それを決定しているのは植物!なのだそうです。クラトゥさんは、「葉緑素」だったのかもしれません・・・

    で、ややムリヤリ話をつなげますが、「遊星地球を越える」という課題も、「競争原理」に則ってアレコレやっているうちは果たせない・・・どころか、そういう課題を認識すらできないですよね。まあ、いまのこの「迷い」の時期もいつかは乗り越えられて、人類は本当の役割を見出してゆくのかもしれませんが、自分たちの「起源」を認識することも、そのために必要な手続きのひとつなのかもしれないですね。

    なんか、読書報告みたいになってしまいましたが・・・ジョージ・ハント・ウィリアムスンさんの本は、アメリカでは1995年くらいにペーパーバックで再版されているようです。でも日本の本屋さんでは(私が調べたかぎりでは)扱っていないみたいです。でも、もしかしたら、いつか出会うことがあるかもしれないので覚えておこうと思います。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/5/8 9:21 by IKA

    aakuraraさん、雨天さん、こんにちは。

    長かった連休もそろそろおしまいですね。私は、読みたかった本が読めたのは、小松さんの『日本沈没』だけ。それも、まだ読了はしてなくて、下巻の半分くらいまでいったところです。……この調子だと、読了は連休明けにずれこむでしょう。……今回、再読してみて、改めて感じたのは、SF作家ってやっぱり直感力、すごい……ということでしょうか。主に、「沈没のメカニズム」に関心があって再読したわけなのですが……今回の東北の大震災を奇妙になぞっている(というか時系列的には逆ですが)ところがありまして、なかなか興味深い……いや、興味深いなんていうと「不謹慎だ」と怒られるかもしれませんが、まあ、純粋に地学的な興味から……ということでお許しいただくとして、そっくりだったのは今のところ次の二つの点です。

    まず一つ目は、今回の東北の大地震のメカニズムをかなり正確に言い当てていること。この本に書かれた当時は、プレートテクトニクス理論が最先端の学説だったようですが、そこでは、「地殻の平均的な弾性限界から、そこにたくわえられるエネルギーの限界が計算され、それはまた、一回の地震によって放出されるエネルギーの理論的限界値をも導き出す」と書かれ、その「エネルギーの理論的限界値」は「5×10の24乗エルグ、つまりマグニチュード8.6を越えることはないはず」であると。しかし、この「自然科学の常識」に対して、田所博士(この小説の中で、理論的支柱として登場する野人科学者)は、次のように語ります。(以下引用です)

    「これまではM8.6以上の地震は起こらなかったかもしれん。これまでの知識にもとづいた理論によるなら、それ以上の地震は、起こり得ない、と考えられるかもしれん。しかし、--------これから、過去において、一回も起こらなかったようなことが起こるかもしれない。たとえば--------一単位地震体積あたり、5×10の24乗エルグのエネルギーの最大エネルギーをたくわえた地殻がいくつもならび、それが一斉にエネルギー放出をやったらどうなるか?そんなことは絶対起こり得ないといいきれるか?--------未来は絶対に、完全にデテイルにいたるまでは、予測しえない。たとえ過去、および現在の状態がラプラスの魔神のごとく、全部わかったとしてもだ……』(引用おわり。ただし原文にあった傍点は省いています。また、「24乗」は原文では上付き数字です)

    これって、まさに、今回の東北の大地震で起こったこと……今回は、M8クラスの大地震を起こす地殻が複数、連続的に崩壊してM9というとてつもなく巨大なエネルギーの放出になったと報道されてました。なお、現在では、チリ地震(1960,M9.5)やアラスカ地震(1964,M9.2)など、この本の出版以前に起こった地震でもM9クラスとされている地震がいくつかあるようで、田所先生の「過去に一回も起こらなかった」という発言は修正を要するようですが……要するに、当時の最先端学説で「常識」とされていたことは現在では乗り越えられてしまったということで、「M9クラスの地震」は「SF作家の妄想」ではなかったわけです。……現在想定される「東海地震」は、東南海、南海が連動して起こってもその規模はM8クラスで想定されているみたいですが、果たして……。ホント、「浜岡停止」は間に合ってよかった……(でも、中電はウンとは言ってないようですが)。

    で、二つ目は、東日本が東南東方向に滑り動きながら沈下する、ということをやはり正確に描写していること。『日本沈没』では、沈没のプロセスは、日本列島が中央構造線から東西に裂けて、東日本は東南東に滑りながら沈下し、西日本は南に滑りながら沈下する……ということですが、今回の地震後、まさに東日本は東南東に滑りながら沈下する動きを見せているようです。もっとも、その動きの規模は、「沈没」というようなおおげさなものではありませんが……ただ、かなりの地盤沈下は起こっているみたいで、ちょっと不気味ですね。……長野や静岡など構造線のすぐ東側でも大きな地震が起こっていますし……「M9地震」は田所博士の言葉どおりになりましたが、こっちの方の「予言」は当たってほしくないものです。

    で、もうひとつ気になるのが、やっぱり田所博士の発言で、「地球の変貌、地殻変動の歴史そのものの中に、単に過去にあった変動の周期的なくりかえしではない“進化”の様相があらわれているのだ」と語らせているところ……まあ、これは、日本列島を「年単位」という短期間の間に沈没させなければならない「作家的要請」と受け止めることもできますが、それにしても最近、急に巨大な地震が頻発するようになってきたように思えますので、やっぱりちょっと不気味な点ですね……どうなるのでしょうか。「むかしはものをおもわざりけり」……ということになるのか……。

    ということで、以上、小松先生の本の読後(正確には読中)感想文みたいなことでした。aakuraraさんの読書中のカール・ポラニーさんのことは、私は知りませんでしたが、ウィキでみると『大転換』は古典的名著みたいですね。未読なのでなんともいえませんが、aakuraraさんのまとめてくださった内容からするとなかなか面白そうな……たしかに、「自己調整市場」というものが現われるのは19世紀以降なんでしょうね。出版が1944ということなので、これは、1929の世界的な大恐慌を、そのメカニズムから分析する……ということなのかもしれませんが、なんか充分に今に通用する……というか、現在であればこそ、なお威力を発揮するような内容なのかも。

    私はまったくの経済オンチなんですが(なので大貧民ですが)、素人目にも「市場」って、怪物的だなあ……と思います。なんか、「サキモノ」とか、ものすごくいかがわしくて、なんで法律で禁止しないんだろう……とまで思うのですが……でも、いくらいかがわしくても、法律で禁止したりすると、別のところで思わぬ悪影響が出たりするのでしょうね。「経済」だけは、全体がだれも予測できなくて、限られた智恵で「規制」を強めたりするとかえって別のところでもっと悪い現象が出る……ポラニーさんは、「社会システム自体が市場経済システムの内部に埋め込まれる」ということを、ただ淡々と分析しておられるのでしょうか……それとも、それについて、それは好ましいとか好ましくないとか、「評価」を伴って語っておられるのか……そのあたりは興味のあるところです。

    「社会の実体」そのものが、市場の法則に従属するようになる……これはもう、今、起こってしまっていることですよね。結局は、日本の「減反政策」も、国際的な市場原理に抵抗できなくなった日本の農政が場当たり的に打ち出した政策のように思えますし……日本の農業は、今、ちょっとずつ、「品質で勝負」しようという方向にシフトしているようですが……その矢先の、あの放射能汚染騒ぎ……これで当分、「品質で勝負」もダメになっちゃうでしょう。……小松さんが『日本沈没』の中で、「これからの政治家には、科学技術に対する感覚が不可欠になる」というようなことを書いておられますが、そこのところもやっぱりちょっとした「予言」になっていたのかな……とも思います……ということで、ムリヤリ小松さんとポラニーさんを結びつけてしまいました……

    「人間」と「自然」の二項対立も市場経済システムの中では実質的にはなくなって、どちらも「所有・交換の対象」になっていく……これもすでに現在進行中のことですね。……日本の特許法では、特許の請求範囲の中に「人間」を入れてはいけないということになっているのですが(要するに、人間を技術的な手段として用いたものは特許査定できない)、実際には、工場のラインで働く人々は、もう完全に「所有・交換の対象」である技術システムの中に組みいれられてしまっています。……最近、焼肉店の社長さんの「逆ギレ謝り」が印象に残りましたが、第3次産業も徹底したマニュアル化によって「人間」をビジネスモデル中の単なる一要素として組み込んでいる……第1次産業は、もうほぼ完全に「自然」を市場経済システムの中に組み込み終わったようですし……。

    19世紀以降の「市場経済」は、今や、すでに「完成の域」に入りつつあるようですね。「原発」なんかも、結局は「コストの問題」で「市場経済」の中から排除されていくのではないかという気がします。……ただ、私が思うのは、「市場経済」はどんなに幅をきかせても、やっぱり「パラサイト」であるということには変わりがなく……そちらがあんまり巨大化すると、宿主の方の息の根をとめてしまい……結局は、自分自身も滅んでいくしかないのではないのかな?ということですね。そのあたりは、ポラニーさんはどのように分析しておられるのでしょうか……。それと、この場合「宿主」に当たるのは「人間」と「自然」ということになるのでしょうが、基本項目として「人間」と「自然」を立てるというのは、やっぱり西欧思考に独自の問題の立て方のようには感じました。

    「人間は利己的な生きもの」……たしかに、この「大前提」自体に「思想的問題」が山のように含まれているなあ……と感じます。なぜ、そのように「無意識に」前提できてしまったのか……これは、結局、常に「最悪のケースを考えてそれに備える」という一種の思考のクセからなのか……まあ、「外交」ということなのかもしれませんが……外交馴れしたヨーロッパ人の発想……われわれ日本人には強い違和感のあるこの考えも、欧米人においてはごく当たり前の「疑うことのできない前提」になっているのかもしれません。こういう考え方って、私の中では典型的な「矢的思考法」なのですが……「セルフィッシュ・ジーン」も、やっぱりこういう考えの延長で出て来たものなのかもしれません。

    母の子に対する愛、そして同胞への愛……そういう「無償の愛」も、個人的なレベルを離れて「種」のレベルからみれば、やっぱり「利己的」なんだということなのでしょうか。そうすると、以前に話題になっていた「生物学的愛他主義」でしたっけ、あの考え方は、これの対極に位置するもののようですね。八木さんの『生態系存在論の構築』もやはりそういう考え方(愛他的)に立つものなのでしょうか。「絶滅のプロセスを決定しているのは植物!」……うーん、これはどういうことなのでしょう。やっぱり、人間の「森林破壊」と関係があるのでしょうかね。森林をどんどん破壊して農地に変えていく人間の活動……それが、結局は地球の生態系のバランスを崩し……ということでしょうか。そうすると、焼畑なんかはるか昔から行われているから、人類の絶滅は文明の誕生とともに定まった……ということなのか……

    いずれにせよ「競争原理」はクセものですね。……兄弟の多い人なんかだと必ず経験しているらしいですが、ごはんもおやつも競争原理……うっかりしているとありつけなくなる……ということで、これは、昔の日本人の方がかえって西洋的考え方に近いものを子供のころから養われたのかもしれません。今の子は、こどものころから王子様、王女様のように育てられるから……日本経済がこれまでのようにはいかないこれからの時代においては、もう手も足もでない……小松さんの『日本沈没』にも、そういう「ひ弱な」若者に対する批判みたいなものがいろんなところで出て来て興味深いのですが、一方、主人公の小野寺青年などは、そういう日本に新しく育った、過去の価値観にとらわれないさわやか青年として、期待をこめた描き方がされています。

    そういう見方をすれば、なんか、「競争原理」ばかりではないこれからの子供たちの可能性……みたいなものも信じられるような気がしてきます。……なんか、大人たちが競争原理で明け暮れて、ついにはこんな無茶苦茶な世界をつくってしまった……そういう有様をこどもの頃からみながら育った子供たちは、もう「競争原理」にはあきあきして、なんか次の、もっと高次?の価値観を求めていくのではないか……という一種の期待感なのですが……そういうものが、もしかしたら本当の「遊星地球を越える」という働きにつながっていくのではないかな……と、これもまあ、まったく根拠のない「期待感」なのですが……

    おっしゃるように「起源」を認識することは、かなり重要なことではないかと思います。それについては、なんか「徹底的反省」が必要になってくるようにも思いますね。「起源の底割れ」というのでしょうか……今まで、「うーむ、起源はこれくらいのところかな?」と思っていた、その考え方そのものの「起源」を迫られる……そしてまた……の繰り返し。で、その「反省を促す力」は、これからますます厳しくなる(であろう)「自然」の方からやってくるものかもしれません。……そういう意味では、これから、「自然」と「人間」は「協力」して、遊星地球の「これからのあり方」を探っていくことになるのでしょうね。……地の神々とクラトゥさんとポニョが見守る中で……

    ジョージ・ハント・ウィリアムスンさんの本、アメリカでは再販されていましたか……でも、日本ではおそらくだめでしょうね。なんせ、邦訳発行元のCBAという団体が、同業の?UFO研究家たちの間でも蛇蝎のごとく嫌われてタブー視されているようなので(なんか、某教団扱いに近い……もう今では団体そのものが消滅しているかもしれませんが)。要するに狂信的トンデモ団体ということで、自分たちはマジメにUFO研究をやってるんだい!という研究家諸子は、「あんなのがいるから、ぼくらの研究までトンデモ視されるんだ」ということのようです。……まあ、一般世間的に見れば、どっちも同じ穴のなんとやら……なんですけど。

    うちにある本の宣伝ページに載っていた、「宇宙シリーズ」のタイトルと著者名をちょっと挙げておきます。なんか、タイトルだけでもなかなか面白そうです。
    1. 精神感応(テレパシー)/ジョージ・アダムスキ
    2. われわれは円盤に乗った/ダニエル・フライ、ロブサン・ランパ、バック・ネルソン
    3. 宇宙交信機は語る/G・H・ウィリアムスン
    4. 地軸は傾く?/レイ・スタンフォード、レックス・スタンフォード
    5. 宇宙人は呼ぶ!/ジョン・マッコイ
    6. 宇宙の彼方より/ダナ・ハワード(近刊)

    私の持っている本の宣伝ページにはこの6冊だけですが、実際にはこれ以降も刊行され、『宇宙語 宇宙人』(G・H・ウィリアムスン)、『土星の恋人』(ハワード・メンジール)など、ユニークな内容のものが多いようです。……なお、ちょっと前に書いた、円盤の「結晶体的成長」のことは、ウィリアムスンさんの本ではなく、スタンフォード兄弟の『地軸は傾く?』に書かれていました。
    宇宙シリーズの写真の載ったサイトがありましたので、ご参考までに……
    <リンクURL>

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/5/12 13:30 by aakurara

    雨天さん、IKAさん、こんにちは。

    「周期的なくりかえしではない“進化”の様相」・・・コレは、ありえますよね。なにしろ、人間がこの数百年間でものすごく暴れてきたわけですし・・・それなりの「進化」を促進してしまっている面もあるのかもしれません。ところで、ちょっと古い記事なのですが、またNY Timesでこういうのを見つけました。
    <リンクURL>
    地熱エネルギーに関する話なのですが、地熱エネルギーを利用するには地面に穴を掘るわけなんですが、それが地震を誘発することがわかっているらしいんですね。スイスのバーゼルで、2006年にそのことがわかって、発電所の設置計画が撤回されているそうなのですが、アメリカではそれでも地熱エネルギー発電をやっていて、カリフォルニア州のアンダーソン・スプリングスなんかでは、やっぱり地熱発電所ができてから、地震が増えたと住民たちは言っているとか・・・

    なんか、日本もこれから太陽光発電と地熱エネルギーに期待、とかいう声をよく聞きますけど、地熱エネルギーの利用と地震との関連について、日本では誰かが指摘しているのを見たことがないですね。専門家のあいだでは、研究されているのかもしれませんが。

    ポラニーさんの本は、なかなかでした。ご推察のとおり、1929年の大恐慌までが問題になってます。ここに至って、列強国間のバランス・オブ・パワーと、国際金本位制と、自由主義的国家体制と、自己調整的市場システムという4つの制度に基礎をおいた19世紀の文明が崩壊した、ということで、その19世紀文明の成立から崩壊までの道すじを淡々と分析した本なのですが、「社会システム自体が市場経済システムの内部に埋め込まれる」ということについてはですね、「評価」は抑制していて、そういう文明が維持されえるはずがないし、実際に維持されなかった、という記述に終始している感じです。そのあたりが、読んでいて頼もしいといいますか、なんか安心できるところがありました。

    限られた智恵で規制、というのが、ポラニーさんによると「社会の実体」からの抵抗ということであって、それがなかったら、自己調整的市場による社会の実体の破壊は、もっと壊滅的なスピードで進んでいたであろう、と。そんなことも言っています。2001年に書かれた解説文では、1980年代以降、イギリスのサッチャーさんとかアメリカのレーガンさんとかの「新自由主義」の政策によって、ポラニーさんが批判的に分析した自己調整的市場の論理が復活して、さらに冷戦後のグローバリゼーションによって「市場」の規模とその影響が大きくなっている中で、やっぱりいまでも通用する、というか、いまこそ重く受け止めるべき内容だと評価されていました。

    あと面白いと思ったのは、ポラニーさんは「社会主義」というものを、イデオロギーだけではないものと見ているんですね。社会主義というのは、「自己調整市場を意識的に民主主義社会に従属させることによって、自己調整的市場を超克しようとする産業文明に内在する性向である」というふうに定義していて(つまり、これも「社会の実体」からの抵抗)、他方で、民主主義を破壊してでも自由主義の行き詰まりをイッキに解決しようとすると、ファシズムになるとか・・・いろいろと示唆に富む指摘がたくさんありましたね。

    「破壊のスピード」ということで言えば、今回のフクシマの原発事故は、新しい自由主義経済の破壊のスピードを遅らせることにはなるのかもしれません。でも「原発パラサイト」は、軍事なんかともからむためなのか、なかなかしぶとくて、なんかひょっとしたらモンゴルにも寄生するかもしれない勢いですね。

    八木さんの、人類絶滅のプロセスを決定しているのは植物だというのは、人類の存在理由は地球上の生態系に奉仕することだ、という前提から導かれているんですね。人類に突出した頭脳が与えられたのは、生態系の全体を考えて整序してゆくためであって、生態系の実体を支えているのは植物だから、植物が人類の命運をも握っているのだと。それで、絶滅のはじまりは、おっしゃるように文明の誕生(=農耕の開始)なのですが、文明を生んでしまったので植物が人類絶滅を決めた、のではなくて、逆なんだそうです。「植物が人類の絶滅を考え始めるとき、植物は人類のなかに競争原理を持ち込むはずである」。ということで、絶滅プログラムの開始によって土地の所有と人間どうしの競争、つまり文明が生じたのだと・・・

    でも、この「競争原理」のせいで人間も科学も文明もダラクしたという面はあっても、そのおかげで生態系とか宇宙とかに対する認識が広がった・・・というところもあったのでしょうか。誰の意志であるにせよ、もしかしたら人類に文明を与えたのは、ひとつの「賭け」だったのかもしれないですね。人類の文明が毒となって自家中毒を引き起こすことになるか、それとも当初の目的を果たすものに成長していくか。

    なんにせよ、人類の存在理由が人類の「外」にあることは間違いなさそうですね。「起源の底割れ」も、これからどんどん起こっていくのでしょうね。ほんとうに、これからの人たちに期待です。いまの現実を見ていると、なんか『ポニョ』のフジモトさんに共感したくなってしまいますが(私の世代でコレはいかんかな・・・)、宗介くんのような子たちがこれから活躍してくれるといいですね。

    宇宙シリーズの本、表紙が50年代ぽいですねー。ウィリアムスンさんの本のレビュー(↓ Roy Cokerさんという人の)に書いてあるんですが、なんかアダムスキーさんとかは、話をしているうちに「化けの皮」がはがれてきて、「こんなことみんなが信じてるなんて、信じられる?」みたいなことを言い出したりすることがあったそうだけど、ウィリアムスンさんにはそういうところが全くなかった、らしいです。
    <リンクURL>

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/5/14 9:36 by IKA

    aakuraraさん、雨天さん、こんにちは。

    雨天さん、「ちょっと」といわずに、どうぞどんどんご参加ください(といって、スレ主はaakuraraさんで、私もお客の身ですが……)

    もし植物が、人類のなかに競争原理を持ち込んだのだとしたら、それは「照葉樹林」もそうなのかもしれないけれど、むしろ日本では、スギ林とかヒノキ林だったような気がします。なんせ、江戸時代でしたか「木一本、首一つ」とかいう言葉があったようで……商売用の森林は、世界中どこでも単相林が多かったと思いますが、『時代の風音』にも出てくるレバノンシダーなんかも紀元前から伐りまくられて、今ではもうほぼ絶滅状態とか……主に戦艦とかの船舶用が多かったのだと思いますが、ベニスの街を支える支柱にもこれが使われていたとははじめて知りました。

    実は、「ベニスの支柱」を描いた絵があるんですよね。ファブリツィオ・クレリチ(Fabrizio Clerici)という絵描きさんの作品。(現代の人・イタリア人だと思います。年譜には1913 Nasce a Milano il 15 maggio.とありますが、これは1913年5月15日ミラノに生まれるということ?)タイトルが「水のないヴェネチア」(原タイトルはVenezia senz'acqua?)ということで、海水が失われて、海底から無数の杭に支えられたヴェネチアの街が夢のように立ち昇っている……なんか不思議な光景……ネットで探してみたら、ありました!モノクロームなんですが、雰囲気は充分伝わると思います。↓うーん、この柱がレバノン杉だったとは……イタリアは、ローマ時代からレバノン杉を使い尽くしているんですね……
    <リンクURL>
    ↓クレリチさんの公式サイト?ただしここには「水のないヴェネチア」はないようです。
    <リンクURL>

    ちょっと脱線しましたが、植物が人類の中に持ち込んだ最大の「絶滅因子」は、やっぱり「農耕プログラム」だったと思います(「照葉樹林文化」でも焼畑などごく初期の農耕はあるみたいですけど)。「採取」だけではあきたらず、植物を計画的に「栽培」しようとしたところから、「農地の確保」の必要性が起こり、それは洋の東西を問わず「森林の開墾」ということにつながり……開墾による土地所有の問題と、そのための道具としての「鉄」の製造……それはまた、優秀な「武器」を生み、刀や銃、そして大砲からミサイルまで……

    ということになりますと、『2001』で猿人の放り投げた「骨」は、まだ植物にとっては許容範囲だったのか……放り投げるのが「鋤」や「鍬」になるに及んで、「これはいかん、絶滅じゃー」ということに……農耕による余剰の備蓄は権力を生じ、支配するものと支配されるものとの2極構造が……かつて、エジプトのヨゼフは豊作のときに余った穀物を倉庫にたっぷり備蓄しておいて、その「穀物の力」を飢饉のときに存分に利用してエジプトの周辺諸国に対する支配力を強化したとのことですが、こういう行為がまさに「絶滅の引き金を引く」ものとなったのでしょうか……

    しかし、aakuraraさんのおっしゃるように、競争原理によって「生態系とか宇宙とかに対する認識が広がった」ということもまた事実ですね。ケネディさんがむらむらと「競争意識」を燃え立たせなければ、人類はまだ月には行っていなかったかもしれません。……ワトソン+クリックの「二重螺旋」も激烈な競争の果てに得られた成果のようですし、エジソンとテスラの「競争」もまた……なんか競争して燃えないとだめというのも情けない気もしますが、事実としてはまさにそういうことだったのでしょう。

    「人類の存在理由は地球上の生態系に奉仕することだ」というのは、まさにそういうことだと思います。「生態系の自己認識」、さらには「地球自体の自己認識」……それが、ついには「原子力」みたいなものに至るぎりぎりのところまで……まさに「賭け」以外のなにものでもないですね。……人間って「要らんこと」をやりたがりますから、ここんところがもしかしたらかなりモンダイなのかもしれません……まあ、「要らんことやりたがり」のカタマリみたいな私が言っても説得力がないんですが……人間たちが真剣にやっていることのほとんどは、よく考えてみたら「要らんこと」なんだろうと思います(おカネで取引されるもののほとんど?)。

    諸星大二郎さんの『孔子暗黒伝』でしたか、「なんでも知りたがって限界を知らず知識を求める」という人類の業が孔子によって自己批判されているシーンがあって、なんか印象に残っています。饕餮(トウテツ)という怪物が出てきて……これは、殷代の器の模様(トウテツ紋)にもなっているのですが、際限なくむさぼりくらって飽くことを知らない人類の性向を象徴するものらしいのですが……孔子は「知識」において、このトウテツに苦しめられる……なんかそんなようなお話でした。

    aakuraraさんが紹介してくださった「地熱エネルギー」のお話……これもオソロシイですね。私は、今まで「地熱エネルギー」は地熱を利用するんだから「自然エネルギー」の一種でいいんじゃなかろうか……と思っていたんですが、とんでもない!……これじゃあ、「ゲンパツ」とあんまり変わらないですね。しかも、天然の地震と判別しがたいところから、責任モンダイも極めてあいまいになってしまうし……日本でもすでに「地熱発電所」がいくつかあるみたいですが、大丈夫なのかなあ……もし断層の上にあって、しかもその近くに原発でもあれば、もうこれは最悪……ほとんど自殺行為ですね。

    メカニズムで、高圧水を岩盤に送り込んで破砕するみたいなことが書いてありましたが、そんな無茶なやり方とは知りませんでした。人類絶滅はさらに近く……ところで、ポラニーさんの本は、やっぱり「大恐慌」が一つのゴール?なんですね。……でも、実際は、そこで「19世紀」が崩壊したんじゃなくて、まだ延々と問題は解決されていないような気がします。まあ、だからこそ、後で書いておられたようなポラニーさんの本の「現代的価値」というのもあるのでしょうが……「社会システム自体が市場経済システムの内部に埋め込まれる」ということは、先ほどの「人類のなかに絶滅因子が埋め込まれる」ということと、なんかパラレルになっているような感じもします。

    そういうことであれば、「社会の実体」からの抵抗は、「自然の実体」からの抵抗……ということになるのでしょうか。しかし、こちらの場合は調整的に働くのではなくて、むしろ「絶滅」を加速する方向に働くような気もします。ただ「自然の実体」に人類の肉体も含めた場合には、やっぱり自分の肉体は大事だから、調整的に働くのでしょう。今回の原発事故においても、危険が「人間の肉体」に及ぶ段になると「そんな危ないもんだったのか!」という認識が急に高まって「脱原発」の方に振れていく……そういう点では、「原発推進」も「脱原発」も同じ穴のなんとやら……なのかもしれません。

    ちょっと脱線しましたが、「社会主義」というのが「イデオロギーだけではない」というのは、実は学生時代から私がずっと感じていたことでした。ポラニーさんの定義は、ずーっともやもやと心中で思っていたことをズバリと言葉にして頂いたような気がします。……なるほど、だから、戦後の日本の急激な経済成長も可能だったのか……と。日本って、民主主義が遅れているような印象が一般的にあるけれど、「自己調整市場を意識的に民主主義社会に従属させる」ということについては、どの国も及ばないくらいに先天的にそういう能力を持っていたんじゃないかと思います。まあ、今は、そういう点では中国の方がずっと巧みにそれをやっているような気もしますが……。

    「原発パラサイトのモンゴル寄生」……これはたしかにオソロシイ問題……なんも人の国に核のゴミを棄てることないじゃん!と思いますが、当のモンゴル政府も「いいよ、持ってきて」というのだから、これはもう始末に負えない……なんか、その土地で毎日暮らしている人々の思いとはまったくかけ離れたところで重大なことが決定されていくというこの「悪しき性癖」も、やっぱり「人類に埋め込まれた絶滅因子」の一つなんでしょうか……そうだとしたら、あまりにも悲しすぎというか情けないというか……なんか、暗澹たる気持ちになってしまいますね。うーん……これはやっぱり、どっかが根本的におかしいんだと思います。植物たちが、こういうことを喜んでいる……とも思えないのですが……。

    フジモトさんは、やっぱり「人類の外」の人になってしまっているのでしょうか……「人間はしかたのないものだ」と思ってるのもやっぱり人間ということになると、これはもうどうしようもないですが、そう思っているのが「地の神」(あるいは海の神?)なのだとしたら、これはある程度「仲介」を頼めるのかもしれないですね。……そういえば学生時代に、ニヒリズムに傾倒していた友人がいて、ニーチェやハイデガーや西谷啓治なんかをさかんに論じていましたが、ものすごく熱心で何時間でもしゃべり続ける……その情熱は、とうていニヒリズムとは相容れないのではないか……と妙に感心した覚えがあります。まあ、おそらくは、「ニヒリズム」を語るのではなく、「ニヒリズムを超える」ということに情熱を燃やしていたのでしょうが。

    ……ということで、私もようやく『時代の風音』を読み終わりました。……あと、小松さんの『日本沈没』もようやく読了……一ヶ月くらいかかってしまいました。今回、この本(日本沈没)を再読してみて思ったのは、書かれてから40年近くたった現在では、もう「古典」みたいになっちゃってるのではないかと。日本政府の組織や名称なんかもだいぶ今と違いますし、なにより全体から感じる雰囲気が蒼古として……なんか「古き良き時代」の遠くから響いてくる波の音のような……でも、この本、やっぱり今の10代20代の方にはかなり読みにくいのではないかと思いました。『源氏物語』とはいかないにしても……そのうち、注釈がないとわかりにくい本の部類に入るのかもしれません。

    aakuraraさん、ウィリアムスンさんの本のサイトのご紹介ありがとうございました。ロイ・コッカーさんの書評は面白いですね。たしかにウィリアムスンさんはものすごく生真面目な人だったみたいで、ある意味豪放磊落なアダムスキさんとは対照的……ウィリアムスンさんは、1961年だったかに日本にきて、講演を行っているんですね。そのときに、CBAの案内で、日本の「宇宙遺跡」も見て回られたらしい……九州のチプサン古墳とからしいですが……彼は、「宇宙考古学」の元祖みたいにもいわれますが、後のデニケンさんなんかとはかなり違って、けっこう「学問的」です。といってもやっぱり一般的には「トンデモ」になることは変わりはないのですが、今でいうイコノロジーに近い面もあって……

    そういう彼の側面が一番良く出ているのが、『宇宙語・宇宙人』(原題は Other Tongues - Other Flesh )という本で、膨大な「象徴の体系」になっています。ロイ・コッカーさんの書評にも出て来た「ソレックス・マル」(邦訳では「太陽語」)がたくさん紹介されていまして、その絵文字みたいな文字がとても面白い。しかも、その文字が、なんかアメリカ大陸のインディアンの洞窟壁画にあった文字とそっくりなんですね。ウィリアムスンさんの本の中ではその点には言及されていないのですが……なんか、インディアンと宇宙というのは、不思議な結びつきがあるのかもしれません。(ということで、どんどんトンデモに……)

    ロイ・コッカーさんの書評では、『地球の静止する日』にも言及がありましたね。例の「クラトゥ バラダ ニクトゥ」という言葉ですが……ウィリアムスンさんたちは、ソレックス・マルで「ウドゥム レーガン(リーガン?)ヴェック ヨントゥ ニクチム バラッガ」と受けたと。そのとき二人は少しも慌てず……たしかに、なんとなく似てますね。……『地球の静止する日』は、おそらく、ウィリアムスンさんたち1950年代のコンタクティからかなり大きな影響を受けてつくられた作品だったと思います。……それにしても、このロイ・コッカーさんという方も、なんかいろいろ知ってそうで、ただの読者とも思えませんが……

    雨天さん、ゴキブリにはホイホイでキマリ!ですか……うちのチュウ吉くんたちに効いたのは、「ペストコントロ」という、超音波を使った小さな機械でした。掌に入るサイズなんですが、これを電源コードにつないで屋根裏に置いとくだけで、あれほどひどかったネズミの被害がゼロに……。この機械は、人間の耳には聞こえない超音波を出して「ネズミの居心地を悪くする」ものだそうです。しかも、ランダムに周波数が変わるので、チュウ吉くんたちが超音波に慣れるということもなく……ついには「ここはあかん。よそいこ」ということで逃げ出してしまうのだとか……ネズミの肉体には一切キズをつけない究極の「平和兵器」なんですが、人に本当に影響がないのか……はわからないですね。どうでしょうか……私の文章がだんだん変になってきたら、超音波の影響かも……いや、もともと変なので、そのあたりは?です。自然の地震と地熱発電の地震の区別がつきにくいように……

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/5/19 20:16 by aakurara

    雨天さん、IKAさん、こんにちは。

    雨天さん、邪魔とかどうかお気になさらずに・・・おそらくIKAさんもそうであろうと勝手に想像してますが、私もここを利用しているのは人と対話したいがためなので、ホントにどんどんご参加ください。

    対ゴキブリ戦で何を使うか・・・コレはとても重要ですね。そこでちゃんと悩まなくなると、ヒトを相手の戦で何を使うかにも悩まなくなってしまうのではないかと。で、人類はだんだんそういうことに悩まなくなって、ほんとうに「要らんこと」にばっかりかかずらうようになっていった結果、いまのような世界に・・・

    IKAさんの、『ヴェルサイユの子』のレビュー、拝読しました。私も震災以来、あの映画に出てきたヴェルサイユの森のことをよく思いだしていたのですが、ダミアン青年・・・彼は、20世紀フランス版のヘンリー・デイヴィッド・ソローですね。ソローも、「要らんこと」に対しては批判的で、人間がやっているほとんどのことは「要らんこと」ばかりだと看破していた人でした。ソローは、家畜を飼って畑仕事をさせるのですら、「要らんこと」だと言ってますから、原発という機械については、もし生きていたら何と言っていたか・・・

    クレリチさんの絵、不思議ですね。ヴェネチアは、いずれ水没するというのはよく言われていますが、逆に水がひくと、そうかこうなるわけですねえ。ヴェネチアも、共和国時代はかなり力があったみたいですし、国が力をもつと、森林が失われていくということになるんでしょうか。最近では、ブラジルの熱帯雨林なんかが、かなり縮小しているようですけれど。そういえば八木さんは、「国家」というものがそもそも、土地を所有するという「不正」のうえに成り立っているものなのだから、「国家」を前提とする限り、実体と現実との矛盾は解消しない、というようなことを書いていました。

    ところで、「自然エネルギー」の中で、実はヤバいんじゃないか?と思えるのは地熱エネルギーだけではなくて、バイオ燃料というのもヤバそうなんですよね。やし油でもとうもろこしでも、あと最近はタピオカノキとかも、燃料としての需要が出てきてから価格が上がっていて、食料の値上がりの一因になっているのだとか。これは、先進国に住む人にとっては、ちょっと物価が高くなって困るくらいの影響で済むのですが、もともと食料不足の途上国にとっては大打撃という・・・なんか、エネルギーを手に入れるためのあらゆる方策は、必ずどこかで誰かの「不幸」を生み出しているようにも思えます。やっぱりシモーヌ姐さんが言うように、「自然がエネルギーを無償で与えることはない」ということですね。

    それにしても、いったい何のために人間はこんなにエネルギーが必要なのか、と考えてみると、どうも「市場経済システム」のためなんではないかという気が、私にはしてきています。そして、ポラニーさんが言うように、「社会システム」そのものが「市場経済システム」の中に埋め込まれているという現状においては、人間の「社会的生活」もその中に埋め込まれているということなので、そういう状態が転換されない限り、「社会的生活」を基盤として、いくら「エネルギーはそんなにいりません」と言っても無駄なのではないかと・・・そうすると、市民が「リパブリック」を捨ててみんなダミアン青年になるか、あるいは「社会システムの中に経済が埋め込まれている」という状態への転換を果たさなければ、もしかしたら原発もなくならないのかもしれません。

    それでは、市場経済システムの中に埋め込まれてしまうようなヤワな社会システムではない、もっと基盤のしっかりした社会システムを構築するには、どうしたらいいのか・・・逆に考えると、どうして社会システムが市場経済システムの中に埋め込まれるという事態になったのか・・・これはおそらく、人類と「生態系」との関係の問題になってくるのではないかというふうに思われますが、なんか「脱原発」を言うにしても、そういうところまで考えてみないといけないような気がします。

    それから、『日本沈没』読みました! なんだか、出てくる人たちが、学者も政治家も、あと謎の渡老人とかも、けっこう立派な人たちばかりで・・・IKAさんがおっしゃるように、「古き良き時代」という感じがすごくしました。それに「国鉄」「電電公社」ですしね、たしかに注釈が必要になってきそうです。でも、「国土」を喪失しないと日本人は「大人」になれない、というのは、そうなのかもしれませんね・・・

    アマゾンでウィリアムスンさんの本をレビューしているロイ・コッカーさん、プロフィールをのぞいたら、テキサス大学の理論物理学者なのだそうですよ。「太陽語」・・・うーん、アメリカ大陸は、たしかに宇宙との結びつきがある土地なのではないかと、私にも思えます。わりと19世紀のアメリカ文学には、ロマンティシズム経由で、なんか宇宙的な実体に触れているようなのが多い気がするんですね。それは、作家たち自身の起源(ヨーロッパ)に由来するのではなくって、アメリカ大陸の「地の神」由来の傾向かもしれません。

    ネズミよけの超音波は、なんかディズニーランドで働いていたことのある知人に聞いた話なのですが、ディズニーランドでも使っているらしいです。それで、コレが子どもたちを「躁」状態にする効果もあるらしく、しかも中毒性があるらしく・・・子どもたちがディズニーランド大好きなのは、そのネズミよけの超音波のせいなのだとか。(富士額のネズミの魅力のせいではないのですね!)まあ、子どもへの影響というのは「都市伝説」の部類に入る話なのだろうと思いますが、でもそういう影響がないとは言い切れない・・・かも?

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/5/21 11:31 by IKA

    aakuraraさん、雨天さん、こんにちは。

    対五木戦……うちではやっぱり「ホウ酸団子」かな。原子炉の再臨界を防ぐための物質が五木くんたちにも効くなんて、なんか「自然の神秘」を感じちゃいますが(大げさです)、ホント、よく効きます。以前に住んでいた家は五木くんたちの巣になっていて、借りるときに大家さんが「とにかく五木くんだらけ」といってましたが、まことにそのとおり……でも、ホウ酸団子を各所に配置したら効果てきめんで、ほとんど見かけなくなりました。化学兵器の一種なので、平和的とはあんまり言えませんが……開発者には感謝あるのみで……。三木くんたちには今のところ超音波兵器がベストみたいに思いますが、aakuraraさんのディズニーランドのお友達のお話を聞くとヤバいかな……とも思います。ディズニーさんみたいに共存共栄すれば一番いいんでしょうが……

    「照葉樹林」について、ちょっと補足的に……「照葉樹林文化」についてなのですが……これは、そういうものが「ある」と考えるより、むしろ「考え方」の問題ではないかという気がしてきました。……どういうことかといいますと、要するに、日本の文化というものを、日本の中で育ってきたもの……として考えるのではなくて、東アジア全域の中で考えてみたいという、いわば「学問的必然性」から生まれてきたもののような気もするのです。……これは、おそらくは、「神道」というものが、明治期以降に外国の風に吹かれた結果として、「日本」というものをあまりにも強調するようになってしまった……その「反動」の一つなのかもしれないなと思います。

    照葉樹林の中に立ちますと……たしかに、なにかがいる、なにかの気配……そういうものを感じます。
    それは……スギ林やヒノキの林の中で感じるものとは全然違うもの……言葉にすれば「神の気配」なんですが、それは、なにかとても原始的といいますか、ほんとに「なにかがそこにいる」という気配そのもの……その、原初に立ちのぼる素朴な感覚……これは、本当は言葉にも理論にもならないものなのですが……その素朴な感覚が、「異国の神」にさらされた場合、あまりにも弱い……そこを「理論武装」しようとして産み出されてしまったのが、「神道」なのかもしれません。まあ、「砂漠の神」の脅威に対して「森の神」を守ろうとする反射反応みたいな……

    私は、昔、照葉樹林の中で、まさにこの「気配」を感じたことがあります……ごくふつうの林なんですが……背丈よりちょっと高い榊の木の横あたりに、ホントになにかがいる……気配を感じ……でも、いくら見てもなにもいない。明るい林なので、すべてはクリアに見えるのですが……でも、気配だけで、目には何も見えません。あまりに気配が実在感があったので、そこの写真を撮りましたが……写真には、やっぱりなんにも写っていませんでした。……ホントは、すべてはこういう「気配」であって、「神」といっても、それ以上なんにもない……「照葉樹林」の神様って、こういうものだと思うんですよね。でも、それではあまりに素朴すぎて、外国から入ってくる神様に簡単にやられてしまう……ので、いろいろと理論武装を施して「神道」になった。

    そういうプロセスで、素朴な感覚から始まったものが、結局「日本」が強調されすぎて、その結果、かなり高い「壁」をつくってしまったと思うのです。「日本文化」というものに。……でも、本来は局限されていくのはおかしな方向なので、それを開こうと。日本って、今まで考えられてきたような「日本」じゃなくて、ほんとはもっといろんな要素の複合体ではないのか……と。それで要請された「もう一つの日本」が「照葉樹林文化」論ではなかったかと思うのです。

    『もののけ姫』は、時代的には日本の戦国期のお話ですが……戦国期を扱ったNHK大河ドラマなんかとはまったく違っています。これはもう、時代も場所も、別の国のお話ではないかというくらいに違う。この「違い」はまさに意識的なもので、宮崎監督の中に、明確に「照葉樹林文化」をベースとする「日本のもう一つの可能性」を柱にして物語をつくりたいという意識があったものでしょう……そして、その淵源を監督に個人的に求めるならば、監督の若いころに経験された「左翼思想の嵐」もまったく無縁ではなかったのではという気もします。

    考えてみれば、スタジオ・ジブリをひっぱってきた御三方のうち、高畑さんと宮崎さんは若い頃に「左翼思想の嵐」にたっぷりと晒されているんですよね。鈴木Pさんは知りませんが……ジブリの世代交代で、そういう色合いは払拭されて、これからは「無色透明」の若い世代の場となりますが、考えてみれば、日本全体がそうなのかもしれません。……ということは、もしかしたら「もう一つの日本」を求めてさまよう……そのエネルギー源もなくなってしまって、文化全体がかなり変わっていくのかもしれませんね。そういう予感はいろんなところから感じますが……「もう一つの日本」は、実は「中間項」であって、これを失うと、あとは極端なナショナリズムか、あるいはコスモポリタニズムか……の二者択一を迫られることになるのかも……

    aakuraraさん、『日本沈没』を読まれましたか……ウィキによりますと、小松さんが『日本沈没』の第一部を書き上げて、そのあといよいよ本筋の第二部を書こうとしたけれどなかなか進められなかった……その迷いの根幹も、実は「ナショナリズム」か「コスモポリタニズム」か……国土を失った「日本人」のゆくすえがそのどちらになるのか決めかねたところにあったそうです。……第二部は、小松さんの主宰する執筆チームが構想をつくって、実際の執筆は谷甲州さんというSF作家が担当して2006年に刊行されていますが……図書館から借りてきて読んでみますと、まさに「N」か「C」か……ということが、大きなテーマになっていました。第一部でD計画を精力的に推進した中田さんが、25年後の世界では、なんと分散日本の首相に……まあ、これ以上はネタばれになるのでXXX……

    私は、一世代前に日本中を席巻した「左翼思想の嵐」は、そのとき意識的に考えていた目的(日本の共産化)には失敗したけれど、全く考えていなかった効果を持ってしまったのだと思います。それは、一言でいうなら「目を開く」ということで、ナショナリズムとコスモポリタニズムのバランスをとりつつ現状に対処していく能力……今、その世代は急速に老いて第一線から退いていますから、これからの日本は、「中間項」を失って、ナショナリズムとコスモポリタニズムの厳しい対立にさらされることになるのかもしれません。……そういう意味では、2006年に刊行された『日本沈没』の第二部は充分に示唆的だなあと思いました。つくりはSFですが、「現代的課題」をうまくとらえているという意味で……

    八木さんの本では、国家は、「土地を所有するという不正」のうえに成り立っていると書かれているわけですね……そういう意味では、『日本沈没』で国土を失った日本は、この不正が正されて、より「現実」に近づくことになったのか……。ただ、私は、「土地」と「山河」は違うのではないかと思うのですよね。「土地」には「地の神」はいないけれど「山河」は「地の神」と一体なので……したがって、本来はこれを「所有」するということはできない。なんか、間借り人が母屋を「所有」することができないみたいなことがあるのではないかと思うのですが……うーん、八木さんのおっしゃってることも、本来はそういう意味なのかもしれませんが……

    「社会システム」と「市場経済システム」の関連についても同じようなことを感じますね。「社会システム」というものは常に開かれているけれども、「市場経済システム」は、科学の「実験室」みたいに、条件を限って閉じられたシステムだから……私は、ちょっと飛躍するかもしれませんが、人間の「脳」と「肉体」にも同じようなアナロジーを感じてしまいます。「肉体」って、固い骨の部分が中心にあって、そのまわりに肉が付き、皮膚をまとい……というように、なんか環境中に開かれているじゃないですか。ところが、「脳」だけは全く逆の構成で、固い頭骨でがっちりシールドされている……まさに甲殻構造……人の脳が、もし、今の構成じゃなくて環境中に開かれたつくりになっていれば、「土地の所有」も「市場経済システムののさばり」も起こらなかったかもしれません。

    甲殻の「脳」が、かわりに発明したものが、いろんな情報伝達手段……とくにPCとネット網はまさに脳の甲殻構造の代替物のようにも思えます。「脳」は「ネット」という身体を持つことによって、それまで知らなかった「環境」そのものを直接に知るのか……となると、これはもう『攻殻機動隊』の素子さんの世界ですね……でも、人間って、これからの進化の過程において(進化というものがあるとすればですが)、必ず「脳を開く」という事態に直面するような気がします。それは、社会システムにおいても文化においても……そして神との遭遇をテーマにした宗教面においても……ということになると、これはまさに雨天さんに以前にご紹介頂いた瀬名さんの本みたいですが……

    ところで、人間の「脳」とやっぱり共通した構造物として、どうしても思い浮かべてしまうのが「原子炉」……いや、こういう連想をするのは私だけなのかもしれませんが、「甲殻」にがっちり固められて中でなにが起こっているかわからないところはそっくりだと思います……「原子炉」は、まさに人間が、自分の脳の模型として(デカイ模型ですが)つくりだした構造物……であるとすれば、人間が自分の脳の構造を乗り越えられない限り、原発がなくなることはないのかもしれません……なんか絶望的な気もしますが……もし原子炉が人間の脳のシュミレータであるとするならそういう(変な)ことに……宇宙にもし「開かれた脳」の知的生命がいるとすれば、その人達は絶対に「原子炉」なんかつくっていなかったでしょう。

    ところで、以前にも書いたことですが、今回の原発災害で避難した地元の方へのインタビューで、「原発はありがたい。7号機8号機の建設はやめないで」という声があったのには心底驚きました……発言者はふつうのおばさんみたいな方でしたが……われわれは「原発停止」とか「脱原発」とかいうけれど、地元の方々の思いはかなり複雑なのですね……要するに、「原発」が生活の一部になってしまっている……「要ること」と「要らんこと」に分けるとするなら、おばさんにとっては、原発は、まさに「要ること」だったんですね。……これって、問題はどうしようもなく複雑だと思います。「おばさん、それは変です。あんな超危険なものとの共存はあり得ないです」というのは簡単だけれど、それは、もしかしたらかつて、共産党の「農村工作員」が失敗したのと同じことになるのかもしれない……(小松さんも「農村工作員」の体験があるそうですが)

    うーん……「要ること」と「要らんこと」って、やっぱり難しいなあと思います。ソローさんの「家畜を飼って畑仕事をさせるのも要らんこと」というのは、たしかに主張としてはわかるのですが、では実際にに家畜を飼って畑仕事をしている人にそれを言ったらどういう反応になるのか……。このあたりのことをどんどんやっていくと、「原発」みたいな「究極の要らんこと」でさえ、地元の人(の一部)にとっては「要ること」になってしまう……。ヴェルサイユの森でのダミアンくんの生活は、たしかに「要らんことはやらん」で徹底していましたけれど、その徹底ぶりが、結局は父親との軋轢の根幹にもなったのではないか……という気もします。うーん……これは難しいです。(『ヴェルサイユの子』見ましたー。いろいろ考えさせられる作品でした。)

    ただ、今のわれわれの生活が「要らんことづけ」になってしまっているのは、これはもう動かしようのない事実だと思います。うちの家計を見てみても、ローンの支払いやらなんやらで自動的に口座から引き落とされていくお金の割合の多いこと……実際に食べ物や着物等々、「要るもの」に回せるお金は、毎月どどーん!と引き落とされるお金の、ほんの残りかすみたいな……いや、「どどーん!」というほどの大金ではなくて実際は「ぽちょん」と引き落とされるくらいなので、その残りはさらに少なく……なんか、家計の愚痴みたいになりましたが、以前に三河湾の佐久島という小さな島に行ったとき、行き会った老人夫婦が、「うちは毎月必要な現金は2万くらい」とおっしゃってたのを思い出します。まあ、もう何十年も昔のことなのですが、それにしても「2万」は優秀……ほぼ「要ること」で固めた生活のような気がしました。

    いずれにせよ、現生人類は、たぶんその肉体的な構造の中に、致命的なウィークポイントを抱えているのだろうと思います。……恐竜みたいに身体の各所に脳が分散している構造がいいのかどうかはわかりませんが……今の人間の身体の仕組みからすると、これ以上の「進化」ができるのかどうかは非常に疑問に思います。閉鎖された構造の脳が、開放された身体をコントロールする……という今の仕組みは、結局限界に突き当たらざるをえないのではないか……なんか、もっと、「全体」をきちんと反映されやすい仕組みにつくりかえていかないと……身体は「要らんこと」と思っているのに、脳が勝手に「要ることじゃー、手に入れろー」ということで身体を無理に動かし、私の手は満腹なのにご馳走やお菓子に手が伸びて、「要らん」脂肪が身体中に……

    そういえば、桜沢さんの『魔法のメガネ』の中に、まさにこのことに言及した箇所がありました。aakuraraさんはもうお読みかもしれませんが、子供たちが「まことのくに」に行くお話で、「まことのくに」に着いたこどもたちは、ある木からとれる「いのちのおちち」を一杯ずつもらいます。その味がとてもおいしいので、一人の子が「おかわり」を注文する。管理人は「一人一杯だけ」に決まってるのだけれど、まあいいだろうといって、その子に「おかわり」を与えます。「おかわり」を飲んだ子は「おや、これは最初ほどおいしくない。それどころか、まずいや」という。で、しばらくすると、その子の体には一杯の吹き出物が……原本が手元にないので正確ではありませんが、なんかこんなふうなお話でした。

    管理人の説明では、ここは「まことのくに」なので、結果も早く出るんだと……「おかわり」を欲しがった子の「欲望」は、吹き出物の形ですぐに現われ、その吹き出物もすぐに脱落して、その子の肌は最初よりすべすべになってしまうのですが……「まことのくに」ではなくて「ことのくに」に住んでいるわれわれにとっては、「結果」が出るのにもすごく時間がかかりますね。「原発」も「結果」が出るまでに40年もかかってしまった……で、その間にわんさか増えて、もうどうしようもない状態に……「ことのくに」では、人間が恣意や欲望によって「結果」が出るのを引き延ばすことができるので、まことにやっかいですが、「結果」は必ず出る。40年の間に増殖してしまった「原発群」の「結果」も、これから必ず出てくることでしょう。もはや逃れようもない状況……

    話がそれましたが、このお話は、「要ること」と「要らんこと」について、まことに示唆的であると感じました。……ようするに、固定された「こと」ではなくて、瞬間瞬間に反応する「まこと」の方なんだと思います。答があるのは……われわれの「固定されたアタマ」は「こと」にこだわるのだけれど、むしろ開放構造の「肉体」は瞬間瞬間の「まこと」に反応する……誤解をおそれずにいえば、先にあげた避難したおばさんの「原発要ること」発言も、まさに「まこと」の反応だったのでしょう。これを「こと」で理解しようとすると、もう「とんでもない」と思ってしまうのですが……解決のヒントは「こと」にとらわれないこと(うーん、これ自体矛盾の文章)……なのではないかと思うのですが……

    要するに、「原発推進」も「脱原発」も「こと」で考えるかぎり、同じ穴のなんとやらになってしまうのではないかと思います。……絶対対立のように見えるけれど、実はおんなじ根元から出ている二本の草……人類がこのまま生存を続けて、なんとか他の生命や環境とうまいことやっていって、地球という星を次の世代につないでいくためにはなにが必要なのか……「エネルギー」も「社会システム」も「ナショナリズム」も「コスモポリタニズム」も、その淵源は、なんか一つのような気がします……いったい、ホントに「要ること」とは、なんなのだろうか……実は、これは、これからはじまる「やさしくなくなった自然」が徹底的に教えてくれることではないか……と。エイハブ船長は、ある意味、「人類のほこり」というかプライドみたいなものを賭けて白鯨=自然と戦いますけれど、なんか、これまでは、自然の方がものすごく譲歩してくれていたというか……

    なぜ、今までそういうふうに「譲歩」してくれていたのかはわかりませんが、ここで、以前にaakuraraさんにご紹介頂いた、大気中のダストと二酸化炭素と気温のグラフを思い出してしまいました。……あのグラフでは、まさにここ数十年の「自然の譲歩」といいますか、なんか「人間の愚行」が「実りの時」を迎えるまで待ってやろうとでもいうような「執行猶予」がちょっと不気味だったのですが……『日本沈没』の第二部では、まさにこのテーマを扱っていました!巨大なスパコン「地球シュミレータ」が登場して……(あとはネタばれ回避)……やっぱりこのことを考えていた人はいたのですね。おそらくは、世界中でいろいろ問題になっていることなのかもしれません……。

    うーん……地球は、実は巨大な「人間ホイホイ」だったのか……人間が、狭い頭脳でホイホイ浮かれているうちに、実はトンデモないことが……

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/5/29 23:31 by aakurara

    雨天さん、IKAさん、こんばんは。

    ちょっと時間があいてしまいました。お久しぶりです。

    ホントに「要ること」は、なんなのか・・・考えておりますが、やっぱり分かりません。自分にとって「これだけあればいい」というものは挙げられるのですが。それでも、なんかいろいろたくさんあります。家があること。お風呂に入れること。布団で眠れること。ふつうにごはんが食べられること。好きなように本が読めて、音楽がきけて、映画が見れること。贅沢なことに、いまのところこれらすべて欠けてない生活を送ることができていますけど、それらのものに見合う労働を自分がしているかというと、ぜんぜんしていないような気がします。

    まあ、一応子どものころからそれなりに勉強をがんばって、国立大学に入って、などの「積み重ね」はしてきたんですが、それも「学歴社会」という、本来は「要らんこと」の上に積んできたものにすぎないので・・・ですから、「原発は要らんこと」とも、軽々しくは主張できないですね。

    人間の脳が頭蓋骨という堅固な「圧力容器」におさめられているというのは、構造的な「欠陥」なのでしょうかね・・・もしかすると、「使い方」を誤っているだけなのかもしれない、と思われなくもないですが。

    先週は、ライアル・ワトソンさんの本を読んでいました。彼の書くことは、なんか「開けてる」感じでたいへん面白いですね。それこそ「こと」にこだわる「科学者」からは、いろいろ批判もされるようですが。あと、寺田寅彦の随筆なんかもちょっと読みました。寺田寅彦のは開けかたが「素朴」で、そういう意味でライアル・ワトソンとは対照的なんですが、なんか「脳を開く」というのは、実はそんなに難しいことではないのかも、と思わせるという点では、共通しているような気がします。

    結局、「身体」を「脳」に従属させるのではなくて、むしろ「脳」を「身体」とその外の「環境」に対して開く、というふうにすると「まことのくに」のこともよく分かってくるようになるのかもしれません・・・桜沢さんの『魔法のメガネ』に出てきた「おかわり」の話は、覚えています。ちょうどこのスレでしたが、「本来、生きることは果てしなく愉快で、素晴しいものです」というふうに桜沢如一顕彰会のサイトに書いてあって、それは違うんじゃないかみたいなことを前に書きましたが、『魔法のメガネ』を読んで、それが意味することが分かったような気がしました。

    つまり、「まことのくに」においては、「生命」は愉快で素晴しいものだということなのだろうと。でも、人間の脳は、なぜか「こと」にこだわるようにできているので、人間の身体も「ことのくに」と「まことのくに」とのあいだで矛盾する立場に置かれてしまうのでしょうか。(ちょうど、いま読んでいるトルストイの『人生論』――実際には『生命論』なんですが――が、そういうことをテーマにしているように思います。)

    でも、本当は人間の脳も、「中間項」としての役割を期待されていたのかもしれませんね。すると、脳を拡大代替する「ネット」も、市場経済システムと社会システム、ナショナリズムとコスモポリタニズムの中間項になりうるのか・・・

    「土地」と「山河」は違う、というのは、なるほどおっしゃるとおりですね。「山河」は、本来「所有」できないもの・・・ただ、IKAさんが度々問題にされている「重機」の登場によって、「山河」もあたかも人間の「所有物」であるかのように、利用されるようになってきてしまったのかなとも思います。なんか「山河」も次第に「市場システム」に包摂されつつあるような。しかも、小出裕章さんの本を読んでいたら、日本の場合自国の森林は温存しておいて、他国の森林を伐採しまくってきたということが書いてありまして、うーん、これはよほどタチが悪い・・・こういうことの「結果」が、今回の原発事故だったような気もします。某都知事が言ったように「天罰」という意味ではなくて、論理的な結果として、ですが。これから、否応なく土も海も空気も、食べ物も汚染されて、国際賠償なんかも支払うことになるかもしれず、まだまだすべての「結果」は出ていませんが。

    それで、この地球は「人間ホイホイ」だったんですか! 『日本沈没』、第二部もあるんですね。また借りてこなければ。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/5/31 23:19 by IKA

    aakuraraさん、雨天さん、こんにちは。

    ホントに要ること……これは難しいですね。おそらく、これこれである!ということはできなくて、人によって違うんではないかなと思います。

    以前にネットで『熊取六人衆』のビデオを見ましたが、小出さんが出てこられて……研究室はまっくら。家にはテレビもないと……。電気は必要のないかぎり使わないようにしているということでしたが(このことは前にも書きました)……小出さんにとっては「要る電気」と「要らぬ電気」が、きわめてはっきりしているんだと思います。

    だけど、それではテレビは万人にとって「要らぬ」ものかといえば、私はそういうきめつけはできないように思いました。やっぱりテレビは「要るもの」という人もいる。それは、その人にとって「要るもの」なので、それを他の人がどうこういうわけにもいかないんじゃないかと思います。

    以前に「なんでも鑑定団」(テレビ番組です)で有名になった中島さん(骨董店主)がラジオで面白いことをおっしゃってました。「骨董を買うコツ」みたいなことなんですが、それは、「自分が欲しいと思ったものを買う」ということなんだそうです。で、そのとき当然「お値段」が問題になるのですが、中島さんは「値段よりも、自分が最初にそれを欲しいと思ったときの気持ち」を大事にしてください……と。

    私は、このお話を聴いていて、なるほど……と思いました。最初に「欲しい」と思った気持ちはとても純粋なもの(いのちのおちちの1杯目)なんだけれど、そのあとでむらむらと湧いてくる「ちょっと高いなあ」とか「こんなに払ってニセモノだったらどうしよう」とか「持ってりゃ値が上がってもうかるかも」とかいう気持ちはそれこそ「要らん」もの……考えてみると、「いのちのおちち」の「おかわり」には全部「金」(欲望)が入ってます。

    再び小出さんのことを考えてみますと、彼は、若いころに夢を持って原子力の道に志した。資源の乏しい日本にとって、将来のエネルギーの決め手はこれだ!ということで……やはり多くの研究者の「初発の思い」はここにあったのでしょう……しかし、研究が進むにつれ、「原子力」というものが、実はトンデモナイものであることがわかってくる……。

    小出さんの心情を考えてみると、やっぱりものすごく複雑な思いがあったんじゃないかと思います。自分が情熱を持って一生の研究テーマにしたいと思った相手が、実は……しかし、彼は、「科学者」として研究の道を続けた。放棄して他の道を探すという方法もあったでしょうし、あるいは「科学者の殻」をかぶって「原発推進」の道を行くということもできたのでしょうが、彼は、そのどちらも選ばず、ひたすら「科学者」として原子力を研究していく道を選んだ。

    うーん、結局は「視座」の問題なのかもしれないなという気がします。数字や理論や……そういうものに自分の視野を極限していけば、いつのまにか心が死んで「原発は安全です」といいながら推進のための研究を続けていくことはできたのでしょう。他の多くの人がそうやっているように。でも、やっぱり小出さんの心には「本当の科学者とはなにか」という思いがいつもあったんじゃないかと思います。

    そういう厳しい目からすると、「要るもの」「要らんもの」はやっぱり自然に明らかになるのかもしれません。しかし、それは、彼が、自分の人生をかけて養ってきた「目」なので、その結果だけを私が真似したとしても、それはなんにもならない……私は、やっぱり私自身の人生の中で「要るもの」「要らんもの」をきちんと見分けていく目を養っていくしかない……だれかに「おまえ、それ、要らんじゃないか」といわれても「要る!」ときっぱりと答えられるように……。

    ところで、「国立大」はやっぱりご両親にとっては孝行だったと思います。私なんか私大(でしかも下宿)でしたから、親には迷惑をかけっぱなしでした。まあ、昔は私大でも学費は今みたいに天文学的数字?ではなかったので、それほど「大迷惑」ではなかったのではと思っていますが……でも、その親にかけた迷惑の分はきっちり子供に返されました……うちの子も私大……それも、やたらにモノいりの美術系(でやっぱり下宿!)……ということで、卒業後何年もたってるのに、いまだに教育ローンを返し続けるはめに……

    いや、これは余計なお話でしたが、「勉強」はやっぱり「要ること」だったとつくづく思ってます。学生時代の不勉強の日々のつけがあとになって……でも、勉強もやらなかったけれど、遊んでいた記憶もないのです。一体なにをやっていたんだろう……と思うほどなんにもない学生時代でした。「勉強」は、「要るもの」「要らんもの」を見分ける目を養うためには絶対に必要であったと痛感しております……

    人間の脳の構造は、いろいろ考えてみましたら、必ずしも「閉鎖構造」ではないのかな?という気がしてきました。たしかに脳自体は頭蓋骨で堅くガードされているけれど、その分眼や耳や……各種の感覚器官が外部に開かれているし、手足や体表にも神経が隅々まで……そういうもの全体を「脳」と考えれば、これはもう立派に「開かれている」ということなのかもしれません。CPUだけは頑丈な箱に入れているけれど……

    ライアル・ワトソンさんの本は私も何冊か読みましたが、なんか面白いですね。1ページごとに目を開かれる感じがして……これほど面白くていいんだろうか……というくらい面白かったことを覚えています。寺田さんの随筆は学生時代に読んだのであんまりよく覚えていないのですが、漱石の『猫』の中に寺田さんをモデルにしたような科学者が出てきたのは覚えています。なんか、レンズを磨いてましたっけ?……まるでスピノザみたいです。

    「本来、生きることは果てしなく愉快で、素晴しいものです」……いかにも桜沢さんらしいお言葉……こどもたちを見ていると、最近とくにそう思うようになりました。自分のこどものころもたぶんそうだったんだと思います。要するに、まわりのすべてが「要ること」のみで成り立っている世界……おそらく今われわれが暮らしている世界も基本的にはそうなんだと思いますが……

    最近『マイマイ新子と千年の魔法』という映画を見たんですが(DVDで)、この映画の中のこどもたちはまさにそんな感じでした。こどもの世界でもやっぱり愉快じゃなかったり苦しいことはあるのですが、なんせ細胞が若いので、結局それがどんどん「愉快なこと、すばらしいこと」になっていってしまいます。うーん……おそらくスピノザにおいても「レンズ磨き」はやっぱり「愉快なこと、すばらしいこと」だったのかなあ?(ちょっと飛躍ですが)

    「山河も市場経済システムに……」そうですね。なんかどんどんとりこまれつつあるような気がしますが、一方でマーケットにとって「おいしくない」と思われればポイと棄てられてしまう……私の今住んでいるところはちょうどその境界で、となり町(といっても今は同じ市ですが)は住宅が建ち、人口は増えつつありますが、私の村は限界集落的になってきて人口も減りつつあるようです。うーん、ほんの小さな峠を挟んでいるだけなんですが、この差。まあ小さいといっても峠は峠で、車に乗っていても気温が急に2、3度下がるのがわかります。この差がシビアに「マーケットの興味」に反映されている……

    日本が自国の森林を温存して他国の森林を伐採……これはまさに戦後の日本が行った最も悪質な行為だろうと思います。きいた話ですが、戦後すぐは日本の里山はほとんどがハゲ山になっちゃってたそうです。今から60年くらい前のことですが……戦中戦後で里山の木を伐り尽くして、そのころは山村もかなり明るかったようで……ところが高度経済成長で相対的に日本の木の値段が上がり、しかも化石燃料がじゃぶじゃぶ入ってくるようになって里山の燃料としての存在意義もなくなった……今はもう、日本の森は荒れ放題です。一見「自然」が戻ったように見えるのですが、実はまことに悲惨な状況になってます。他国の木を伐り尽くした報いは確実に日本の山野をむしばんでいます。

    おっしゃるとおり、今回の福島の原発事故は、こういう日本の「構造的悪」と密接にリンクして、起こるべくして起こったものだと思います……前にもどこかで、「一票の格差」について書かせてもらったのですが、この問題の根は深いですね……都市への人口集中と鄙の荒廃……都市は直接世界に結びついているので、都市の論理は常に国際マーケットに左右されてしまいますけど、それでも実は、都市を支えているのは鄙の山河なんですよね。このことは、結局日本の多くの人にはわかってもらえないみたいですけれど、私は人口だけではなく「面積」を加味して「一票の格差」を考えていかなければという気がするのですが……。

    「要ること」「要らんこと」……キリストは、「ローマに税を収めるべきか?」と問われたときに「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」と答えましたが、結局はそういうことではないかな……と。今回の原発の「賠償額」はきちんと計算していけばやがてとんでもない額(百兆越すかも?)に到達するでしょうから、結局「賠償」は支払われないような気がします。そのうちまたどこかで「ポン」といけば(意地でも停めないのでそうなると思いますが)もう放射能が混ざって「これはあんたのとこだ」「いやあんただ」と言ってるうちに世界中でポンポンいって、もうなにがなんだかわからなくなって結局「チャラ」になってしまうんでしょう……

    うーん……「人間ホイホイ」で最終的に効いてくるのは「放射能」だったのか……『日本沈没』第二部では別の原因だったのですが、なんかそっちの方がまだましなような気がします。「放射能」で亡ぶのだけはいやじゃー(虚しい叫び……)

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/6/10 11:05 by aakurara

    雨天さん、IKAさん、こんにちは。

    先週は、有吉佐和子の『複合汚染』という本を読んでいました。1974年に朝日新聞で連載されていたものですが、これ、IKAさんは読んでらっしゃいますか。

    いろんな話が出てくるんですが、私はなんか農薬とか家畜飼料の話が印象深かったです。どうも日本の政府はこの頃から、第一次産業をはなはだしく軽視・・・というか、あえてわざわざ国内の第一次産業を潰す気かと思えてしまうような政策をとってきてるんですね。農林省や農協の指導にしたがって、指定通りの農薬を使っていると、土中のミミズや微生物が死んで、土そのものがダメになってしまったり、家畜はホルモン剤・抗生物質・防腐剤を大量にぶちこんだ配合飼料を食べさせられて、多頭飼育の方針のもと劣悪な環境で育てられて、癌や胃潰瘍になるもの多数。

    まあ、個々の汚染物質の問題は、ひとつひとつ危険性が明らかになるたびに(あるいは代替のものが開発されるたびに)、おそらく規制されてきてるのでしょうけれど、どうやら当時は(今でもあまり変わってないのかもしれませんが)農薬会社や飼料会社と、農協、農林省の利権に都合のよい指導がなされていたのだなあ、という印象です。なんか、国と電力会社と原発施設建設関連企業の利権がモノを言う原発産業の構造と、とっても似ているような気がします。

    でも、面白かったのは、当時から有機農業を実践していた人たちのことも、この本では紹介されているところでした。埼玉の須賀一男さん(まだご存命のようです)とか、慈光会の梁瀬義亮医師とか。こういう話は、「要ること」について、いろいろ考えさせてくれますね・・・やっぱり、お国のほうは、「この農薬/配合飼料を使えば、ラクして儲かりますよ」と言って押し掛けてくるんですよね。それにのってしまうと、農薬も飼料も知らないうちに値上がりして逆にコストがかさむわ、土も家畜も弱っていくわで・・・梁瀬先生なんかは、そういうやり口を「死の農法」と呼んでいたそうです。(↓第一章のおわりのほうに出てきます)
    <リンクURL>

    なんだか、本当はこれから自然エネルギーの開発だけではなくて、梁瀬先生が提唱したような「完全無農薬有機農法」の研究にも、どんどん国費を使っていくべきだという気がします。震災津波と原発事故がおこって、被災し被害をうけた農家や酪農家や漁師たちを真っ先に助けないような国には、そういうことはあんまり期待できなさそうですけど・・・というか、もういろいろなことが手遅れなのかもしれませんが。

    結局、「山河」を市場経済システムにとりこんでおいて、搾取するだけという姿勢なのですね、この国は。たしかに、「山河」にも面積に応じて投票権を認めるくらいの意識が必要かもしれません。システムとしては、どうしても「山河」を人が代表するということになるわけですから、そうなったらそうなったで、また人の利権がからんできて、ややこしいことになりそうではありますが。

    小出さんは、ちょっとした有名人になってきて、支持者もふえてきているみたいですが、数字や理論「だけ」の科学のほうに、より信憑性を認める人たちも、やっぱり多いようにも思えます。これも「視座」の問題であって、同じ専門家でも、そういう人たちと、数字や理論「だけではない」科学の立場をとる人たちとでは、なんだかまったく話がかみあっていないように見受けられます。(例えば、下の動画とか)
    これって、どうしようもないのでしょうかね・・・
    <リンクURL>
    ↑まあ、コレは、いま見ると小出さんのほうに分があるように見えるかもしれませんが、「科学」のあり方そのものを反省するところまでいかないと、大橋さんのようなタイプの「科学者」が幅をきかせるという構図は、変わらないのではないかという気がします。

    「要るもの」「要らんもの」を見分ける目を養うのに「勉強」は必要、というのはそうですね。むしろ、それが「勉強」の最大の目的だとさえ思います。私は、これから「要らん」と思ったものをちょっとずつ捨てていこうと考えているところですが、考えているうちに、やはりいろんな「欲望」が忍び込んでくるもんですね。でも、「要ること」のみで成り立っている生活に近づくようにしたい・・・うーん。とりあえず、来年の春にはひとつの決着を・・・

    『日本沈没』第二部は、まだ読めておりません。読んだら、また感想を書かせていただきます!

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/6/11 23:33 by IKA

    aakuraraさん、雨天さん、こんにちは。

    有吉さんの『複合汚染』は読んでませんでした。1974年頃には、私は新聞もテレビもない生活だったので、「外界」のことはまったくといっていいくらいわからなかった(というか、関心がなかった?)んですが、かなり早い時期に重要な指摘がされていたんですね……。慈光会の梁瀬先生のサイトを見ましたが、ここに書かれていることには若干ですが思い当たることがあります。うちは、ほんとに小さな畑があるんですが、肥料の鶏糞を直接撒いてました。しかも、気温の高い時期に。アブラムシがわんさかわいたのは、そのせいだったのか……。ちょっと本筋とはずれたところで感心してしまいましたが、ここに書かれていることは、きわめて大事なことばかりだと思います。

    結局、問題になってくるのは、やっぱり「マーケットにのっける」ということなのかなという気がします。そのものの価値を「お金」という抽象的なものに変換するということなのかな……。こどものころに「なぜお金ってあるんだろう……」と疑問に思いましたが、その疑問は今だに解けていません。前にも書きましたが、2.26事件の折に昭和天皇が「為替が停止になると困ると思った」とおっしゃったそうですが、私たちがお店でお金を払う、その行為は、為替を介してすぐに国際マーケットにつながってしまうんですね。国というものは、そこが基本になって成り立っている……ということが、昭和天皇のご発言でとてもよくわかりました。

    最近のテレビで原発のことを見ていますと、「それでも原発は必要」とおっしゃる方は、だいたい「国際マーケット」に強い(と自負している)方が多いみたいですね。要するに、「国際マーケット」で負けないためには、原発をどんどんつくってエネルギーをじゃぶじゃぶ使えるようにして工業生産力をアップして……ということになるようです。で、そういう方から見ると、「脱原発」なんて「国際マーケット」を知らないもののいう幼稚なたわごとなんだ……と。エネルギーをつくるだけじゃなくて、原発技術の輸出でも競争していかなくては「国際マーケット」で負けまっせ……ということになってしまう。

    こういう考え方を見ていて、私はつくづく思ったんですが……世の中には「マーケット」には絶対に乗せてはならないものが2つあって、それは「いのち」と「いのち」の真逆の「原子力」なんだと思います。この2つを平気でマーケットに乗せてしまうところから、すべての悲劇は起こってるんじゃないか……と。「いのち」の問題は農業生産や医療なんかにかかわってきますし、「原子力」は発電(エネルギー)と原子力の技術(原子炉の製造とか燃料の精製とか)にかかわってきますが、この2つのものをマーケットに乗せてしまうと、あとはとめようもない暴走が起こってわれわれの日常の暮らしは深いところから破壊されてしまうのだと思います。

    要するに、「いのち」と「いのち」を潰す「原子力」は、ふたつとも本質的に「マーケット」とは無縁の存在であって、それは、わたしたちが日々の暮らしの中で「実体」として交感していく中でしかとらえられないのだと思います。「いのち」で生かされ、「原子力」で滅ぼされる……「原子力」がもたらす「死」は、ふつうの死ではなくて、それは「存在の無限否定」につながるオソロシイものであることに多くの人が気がつけば、その選択肢はゼロであることが明解になると思うのですが……世の中、「絶対悪」というのはなかなかないものですが、「原子力」は唯一この「絶対悪」にかぎりなく近いものであると私は思います。(逆にいうなら「いのち」は絶対善ということになる)

    私は、小出さんは、その研究の道のどこかで、この「原子力」の持っている本質に気づかれたのではないかと思うんですね。科学者なので、そのことを口に出して言うことはできないけれど……おっしゃっていることの端々にそれを感じます。……それで、ご紹介いただいた推進派VS反対派の討論なんですが……いやあ、あれは、今となっては完全な「あとだしジャンケン」ですね……見ていると、なんだか大橋先生がかわいそうになってきました。うーん……最初の認識の違いが、ここまで大きく開いてしまうのですね。あんまり客観的な言い方ではありませんが、大橋さんと小出さんの「差」は、研究の過程での、ほんのわずかな差……しかし、のちに道を大きくわけてしまう、そういう意味ではまことに重要な差に起因するものであった……と。

    科学って、研究している人たちが言っているほど「科学的」なものではないみたいですね。背景とか心理要因とかその時代の風潮とか……そういうものに大きく影響されてしまう。なんか芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い出してしまいます。数式というものすごく細い糸にすがって「天国」に昇っていこうとする人たち……なにがあっても絶対にこの糸は切れないんだ……という信念……しかし、「全体」はそういうことにはおかまいなしに自分の仕事をやってしまうので、そういう点では、科学者一人一人の「信仰」なんぞなにほどのものでもない。にもかかわらず、その「蜘蛛の糸」にすがって、それがあたかも絶対に切れない鋼鉄のロープであるように多くの人に語らなければならない。そのためにはまず、自分自身を欺かなければならない……そういう地獄のようなプロセスがあったことが、今となっては明らかに……

    でも、こういうことがあっても国の基本方針は結局ぜんぜん変わっていないみたいですから、大橋さんたちもやがて息を吹き返して同じようなことを言いはじめるのでしょう。……そういうえば、この間、ラジオでたまたま興味深い意見を聞きました。社会学者の方(お名前は忘れました)が民主主義と原子力について語っておられたのですが、その方のおっしゃるには、原子力技術というのは民主主義とは相容れないということなんですね。なぜかというと、民主主義はすべての人が参加できるのが基本だけれど、原子力を推進するか否かという点については「未来の人」が参加できないからだめだと。つまり、今の原子力技術では、年々大量に出る放射性廃棄物の処理をすべて「未来」に押し付けているので、本当に推進しようと思ったら、押し付けられる「未来の人」が参加しないといけない。それができないかぎり、民主主義にはなりませんよと。

    これは、考えてみれば原子力だけではなく、いろんな分野においてそうですよね。農薬と化学肥料で汚染された土壌は本来の生命力を回復するのに相当の年月を要するでしょうし、大気汚染とか資源の問題とか砂漠化に温暖化……かなりのことが「未来の人」が参加しないと民主主義的には決められない。……それでも「今さえよければ」ということでどんどんやっちゃうのは、これは例の「わが亡きあとに洪水よきたれ」というヤツですね……。それで思ったんですが、「科学」というからには、こういう「未来の問題」も完全に解決できてなければいけないんじゃないかと。未来には科学技術はもっと発達するだろうから、全部未来の人がやってくれるでしょうというのは、これはもう「未来への犯罪」としかいいようがない……

    これは、やっぱり「科学」の中に、無意識に「直線的に進行する時間軸」というものが前提されているからだと思います。「科学」ではどんな分野でも時間軸を「t」として、過去から未来に向かってただ淡々と伸びて行く直線としてグラフなんかをつくるけれど、じゃあ、ほんとに「時間」って、そういうもんなんですか?と。時間が曲がってたりくるっと輪を描いて戻ったりしないのかな?……ニーチェの『ツァラトゥストラ』では円環的時間である「大いなる正午」が出てきますが、これは、うがった見方をすれば、こういう「科学の直線時間」に対する挑戦といいますか、大きな疑問符だったのかもしれません。……いずれにせよ、「科学」は、その基礎の基礎として、「時間」と「空間」に対する認識をもっと掘り下げて研究する必要があるのだと思います。

    勉強の最大の目的は「要るもの」と「要らんもの」を見分ける目を養うこと……というのは、私もそのとおりだと思います。そして、それはまた、自分がここで生きている「意味」みたいなものにもつながっていくのではないかな……と。……この間、ニュースで、玄海原発の地元の玄海町が「再稼働」を国に求めるという決定をしたといってましたが、玄海町は、その収入の8割を原発に依存しているんだとか……たまたまご紹介いただいたビデオ映像が、玄海原発のプルサーマルの話でした。真剣に「要るもの」を考えないと、それこそ8割くらいが「要らんもの」に置き換えられてしまいます。で、そうなったらもうそれは「要らんもの」ではなくなってしまう……ホントにオソロシイことだと思います。あの討論はいったいなんだったのか……。

    とりこむときは易く、きって棄てるのは難しい……。とりこむときに「未来の姿」を思い描ける力は、やっぱりホントの「勉強」からしかやってこないのでしょうね……。なぜ、いま、ここに生きているのか……そのことは抽象的な思いなんだけれど、それに具体的な内容を与えていかないと、本質でないものにすぐに心を奪われて、気がつけば身体も心も国際マーケットの奴隷に……そうならないためにも「勉強」はホントに必要ですね。……ところで、『日本沈没』がきっかけとなって、今、図書館で小松さんの全集を借りてきていろいろ読んでます。初期長編の『果てしなき流れの果てに』の中に、すでに「国が沈没してさすらう日本民族」がでてきて驚きました。この人、よっぽど日本を沈めたかったんだ……でも、小松さんは原発に対しては甘いですね。まあ、時代と、SF作家というところから仕方ないのかもしれませんが。

    時代はもう、SFよりSFらしいところに来てしまっているようです。これからどうなるのかはまったくわかりませんが、なんか、いままでひたすら押し隠していたものがいろいろ出てくるような気がします。……でもまあ、未来の人に押し付ける前に、この時代のものはこの時代に出し尽してしまった方がすっきりしていいのかもしれません。放射能でも土壌汚染でも……きちんと「おとしまえ」を付けておかないと、ちゃんとした「未来」は開けてこないのではないかな?……その過程で、「要るもの」「要らんもの」もおのずから明らかになってくるのかもしれません。……ところで、aakuraraさんのプロフィールのところからbooklogの方にとんでみました。『イカの哲学』なんてあるんですね!八木さんの本とポラニーさんの『大転換』は図書館でさがしましたが、私の行ってる図書館にはないみたいです。松井さんの本は岩波新書でしたか……

    私もいろいろ勉強してみることにします。『日本沈没』第二部のご感想も楽しみにしています。(あ、ゆっくりでいいですよ。)お話を交わさせていただいてからもう一年ですか……なんか、もっとたったような気もします。いろいろあったけれど、特に3.11は大きかったですね。あれ以前は、もうなんか、はるか過去の時代のような気もします……。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/6/15 0:33 by aakurara

    雨天さん、IKAさん、こんばんは。

    有吉佐和子は前から好きな作家なんですが、今回はじめて『複合汚染』を読んで、日本という国が原子力を推進してきたのは、ある種「必然」だったのだなあというふうに思えてきました。要するに、ほかに「国際マーケット」にのせるための資源が、あんまりなかったんですね。

    ですが、本来なら農産物もマーケットにのっけてはいけないものなのだとも思います。『複合汚染』が書かれたころは、日本の耕地面積あたりの農薬投下量は世界一で、「日本では動物実験の必要がない」とまで言われていたほどだったそうなんですが・・・それも、化学肥料や農薬の開発・大量販売、家畜飼料の大量輸入、といったかたちで、日本の農業や畜産業を国際マーケットの領域にひっぱり出すための「必然」だったのだろうと思います。

    4月の朝日新聞に中曽根元首相の談話が載っていたのですが、このままでは日本は4等国で終わってしまうと思ったから原発を推進した、というようなことを話していました。戦後日本の農業政策とそれにともなう環境汚染、その他の公害、そして原発・・・と振り返ってみると、日本を世界随一のススんだ工業国にするために、日本人は文字通り、いのちを削らされてきたようです。

    国際マーケットを知る人からすると、脱原発は幼稚なたわごとでしかないというのは、まあ、そうなのだろうなあと思います。実際、国際マーケットの恩恵にどっぷりつかったままでは、脱原発はさしあたっては無理なのでしょう・・・一番いい解決方法は、国際マーケットの改革、だろうと思うのですが、これはもっと難しいのでしょうね・・・なにしろ、国際的に見ても、かなりの程度、「社会」が「マーケット」の中に埋め込まれてしまっているので。でもいずれにせよ、これから「自然」の力で、人間の社会もマーケットも、再編成を余儀なくされていくことになるのでしょうか。

    原子力は民主主義とは相容れないというのは、けっこうむかしから言われていることのようですが、私が読んだのは、原発から出るプルトニウムを核兵器に転用されないようにするために、いろんな情報を秘匿する必要が出てくるから、という理由でした。でも、「未来の人」も参加させるという発想は、もともと民主主義にはあったのでしょうか? よく考えると、そのへんのことを知りません・・・うーん、もっと勉強しなければ・・・

    「未来の問題」ということでは、第二次大戦中(広島・長崎原爆投下の年の5月)に、アメリカの国防総省での委員会で、議長のスティムソン陸軍長官が述べた言葉というのを思い出しました。

    『世界を不幸にする原爆カード』という本に、その大要が紹介されていたのですが、ちょっと引用します。

    :::::::::::::::::::::
    「この(原爆開発)計画は単に軍事用の兵器として考えるべきではなく、人間と宇宙の新しい関係としてとらえなければならない。この発見(核分裂・原爆)はコペルニクス理論や重力の法則の発見に比較できるかもしれないが、人類の生命に与える影響という点で、はるかに重要である。現在のこの分野における進歩は戦争遂行の必要性によって促されているが、それがもつ意味はこの戦争をはるかに超えていると認識することが重要である。これ(原爆あるいは核エネルギー)は、可能ならば文明への脅威ではなく、将来の平和を保障するものにするよう、管理されなければならない」
    :::::::::::::::::::::

    スティムソンさんは、京都に原爆を落とすという案に反対した人ということで有名ですが、なんかこれを読んで、彼は核エネルギーというもののトンデモなさを直感的に感じとっていたのではないかなと、私には思われました。でも、もしかすると原爆投下が実行された後では、その結果が悲惨すぎたせいで、本当の核のトンデモなさが却って見えにくくなってしまった面もあるのかもしれない、という気がします。

    核は、「将来の平和を保障するものにするよう、管理されなければならない」というスティムソンさんの言葉は、今ではIAEAとかに引き継がれている思想なのだと思いますが、いつのまにか「管理すれば大丈夫」ということになってしまっていたわけなんですよね。つまり、兵器として使用される(悪用される)ことがなければオッケーだ、と。そうなると、核エネルギー利用の「絶対悪」としての側面は、問題にされなくなってしまいます。

    というふうに考えると、あの戦争中に生まれたもうひとつの「絶対悪」であるホロコーストに関しては、なぜ「核エネルギー」と違って、反省や批判的議論が続いてきたのか・・・という疑問がわいてきます。これも、やっぱり「科学の問題」に関わってくるような気がします。20世紀の「科学」には、ホロコーストの「絶対悪」は認識できても、核利用の「絶対悪」は認識できなかったんですね。

    その限界は、やっぱりIKAさんがおっしゃるように、「時間」と「空間」に対する認識の限界、ということなのかもしれません。遺伝子操作なんかも、私は「絶対悪」だと思うのですが・・・歴史における「絶対悪」だけではなくて、物理学や生物学の領域でも「絶対悪」を問題にできるような「科学」と「哲学」が、これからは望まれますね。

    玄海原発のプルサーマル利用についての小出さんと大橋さんの討論では・・・小出さんの場合、プルサーマルを推進する「動機」まで問題にしているのに対して、大橋さんサイドは、あくまで「技術的な安全性」の議論にとどめようとしていますよね。こういう議論に「動機」の問題を持ち込むのは「科学的ではない」ということになってしまうのでしょうけど、小出さんの主張は、なんかよく分かります。「どうしようもなくって追い込まれて」なんていう動機でやることが、上手くいくわけない、と。

    あと思わず笑ってしまったのは、安全余裕を守るために、プルサーマル推進派の人たちは「工夫でがんばると言っているにすぎないのです」という小出さんの表現です。これも「科学的」じゃない批判の仕方なのでしょうが、大橋さんのお話は、まさにそういうことを述べているんですね、ひとことで言っちゃえば。工夫でがんばる・・・うーん、なんか小出さんって、かなりユーモアのセンスをお持ちのような。それにしても、大橋さんのようなカンジの方って、なぜか東大には多いような気が・・・


    ところで、ブクログのほう、見てくださったんですね。なんか、サイトのロゴとイラストが可愛かったので登録してみました。『イカの哲学』は、たしかNY金魚さんのブログで紹介されていた本です。赤峰勝人さんの『ニンジンから宇宙へ』という本も、面白かったですよ。ルイ・ケルブランの原子転換のこともちょっと出てきますし、石塚左玄さんや桜沢如一さんの名前も出てきますし。あと赤峰さんのこの本で紹介されている、千島喜久男さんという生物学者の、「千島学説」というのが、非常に興味深いです。ウィキにも項目がありましたが、ご存知でしょうか。
    ttp://ja.wikipedia.org/wiki/千島学説
    (↑h抜きです)

    「生命弁証法」なんて、なんだかすごく面白そうです。細胞とか造血器官とかに関する内容の信憑性は、医学の知識がない私にはぜんぜん判断できないのですけど、赤峰さんによると、この学説が認められると、これまでの医療が全否定されてしまって大変なことになるので、学会ではとりあげられないのだとか。なんか、その説明には妙に納得させられました。

    それで、そうなのですココを知ってから一年なんですが。3.11前は楽しかった・・・いえ、いまでもここでの対話は楽しいのですが、どうもあれ以来、何を考えるにしても薄暗い雲がかかっているような感じで。なんだか、映画を見ても、あんまりレビューに書きたいような感想が出てこなくて困ります。気分を変えて、これから古い日本映画をいろいろと見てみようかなあ、と思っておりますが。とにかく、これからもどうぞよろしくお願い致します。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/6/17 8:40 by IKA

    aakuraraさん、雨天さん、こんにちは。

    日本は、昔は(今も?)農薬と化学肥料の墓場だったんですねえ……国土は深いところまで汚染されてしまっている……それに、今は放射能が加わって、もう地獄のような状態……そういえば、今住んでるところに引っ越してきたとき、お隣さんに「お近づきに」ということで、新米30kgをプレゼントされました。お隣は、製土会社をやっていて、田んぼは自家消費のためだけにつくってるそうなんですが、そのお米のおいしかったこと!

    なんか、スーパーとかで売ってるお米と、基本のところで「味が違う」という印象……銘柄が「ミネアサヒ」だったので、後にスーパーで同じ銘柄のお米を買いましたが、もうまったく違うものでした。……うーん。「マーケットにのせなくていい」ということにすると、作物ってここまでおいしくできるのか……これはちょっと驚異でしたね。そこの田んぼは、ずっと昔から「マーケット」に関係なく作ってきているので、もう土自体が全然違うのだと思います。そうか、昔の日本人って、こういうおいしいものを食べていたんだ……という感じでした。

    しかし、お隣さんも、本音ではもう田んぼはやめたいらしいんですね。経費と手間ばっかりかかって、そこを考えたらスーパーで買ったほうがずっと安上がりでラクチンなんだと……でも、先祖から受継いだ田んぼを荒らすわけにはいかないので、毎年毎年がんばって作ってるんだそうです。……うーん。これはやっぱり考えさせられますね。日本の農業って、マーケットにのらない部分ではもうほとんど死んでしまっている……これからどうなるんでしょう……お隣の子が、そこまでの苦労を受け継ぐのだろうか……

    「いのち」とマーケットの関連でもうひとつ思うのは、やっぱり「労働力」のことです。小泉さんのときに規制緩和で、「労働力」を国際マーケットに乗せてしまった……正社員は企業側に吸収されて労働組合はお金持ちになり、ホントの労働者は「パート」や「派遣」で、国際マーケットの労働力との競争を強いられている……この状況は、やっぱり「いのちの侵食」のように思えてなりません。食べ物とエネルギーで「いのち」を削られ、自分自身も新たな奴隷となって国際マーケットに奉仕する……これが、今の日本の多くの人(派遣社員や中小企業の人)の姿なのでしょう。

    脱原発……これは、やっぱり「自然」という外圧を借りないと無理なんでしょうね。……国際マーケットは、もう行きつくところまで行くのではないかという気がします。ぴかぴか光る「お金」を目指して、これから世界中の人たちが「金の輪」に参入してくるので、その回転はますます速くなり、一時期黄金の輝きは「宇宙を満たす」ほどに強烈なものとなるのでしょう……しかし、そのあとは???……ところで、「未来の人」を民主主義に参加させるという発想は、やっぱりトンデモに近いものなのかもしれませんね。民主主義自体をよく知らないので、なんともいえないのですが……

    小松さんの本で、未来の青年が、「アート」の授業の課題で20世紀後半の日本にやってきて、政治・経済構造の変革をやる……というのがありました。未来の世界では、政治・経済は「アート」の分野になってるんだとか……たしかにボイスの作品なんか見てるとそんな気もしてくるのですが……でも、現実には、未来の世界は、「放射能の処理」で手一杯なんでしょうね。タイムマシンでもできれば1950年代に戻って、「原発のない世界」を作ろうとするんじゃないかと思います。ほんと、この世界から原発が消えれば、どんなにすっきりすることか……。

    でも現実はかなり厳しいですね。……スティムソンさんの見解は、いろんな意味で含みの多いものだと感じました。ここから、かなりのことが読み取れそうです。この「原点」みたいなものは、ここから動くことができなくて、どっちに動いても「まちがった認識」に導かれそうですね……「原子力=絶対悪」ということを、ものすごく遠まわしに、幾重にもベールに包みながらおっしゃっているような気が私にはしました。しかし取る人にとっては「管理すれば大丈夫」ともとれるのもたしかですね……現に、今の大勢はそちらの方向で展開されているような気がします。

    「核の力」について、比較的わかりやすく書いてあるサイトを見つけましたので、リンクを張っておきます。↓(hぬきです)
    ttp://www.kutl.kyushu-u.ac.jp/seminar/MicroWorld3/3Part3/3P32/nuclear_force.htm
    原子核を構成している粒子間に働く力を「強い相互作用」Strong interaction というそうですが、これは、ふつうの電磁的な相互作用に比較すると百倍くらいの強い力なんだそうで、この「強い相互作用」が粒子によって媒介されていることを予見したのが湯川さんなんだそうです。

    アインシュタインの「イーイコールエムシー2乗」の式からすると、原子核の崩壊によってこの強い相互作用が失われるときに、それまで媒介していた粒子が消失してエネルギーに変わるので、そこで放出されるエネルギーも通常の物質間に働く力に比べると百倍もの強いものになる……ということらしいです(私の理解ですが)。ようするに、「原子力」というのは「ふつうの力」とまったく異なる次元の力であって、よくわかっていないことがまだまだ多い。それなのに、「中性子でウランが割れてすごいエネルギーが出る」という現象面だけをちょいと拝借してがんがん進めちゃったのが、どうも今の「原子力の平和利用」の姿らしいんですね。

    私は、小出さんのお話を聴いているときに、やっぱりこの辺にたいしてすごく慎重な「科学者の姿勢」を感じました。これに対して大橋さんの場合は、「科学的に……」なんておっしゃっているけれど、この人はもしかしたら技術者なんじゃないか……と。技術者であれば、理屈が完全にわからなくても「こういう入力をすれば恒常的にこういう出力になる」ということが経験的に確認できたらその線で走っていくことができるので……ところが、科学者の場合には、やっぱり「根本がわかってないと気持ちが悪い」ということがあるんだと思います。「安全余裕」に関する考え方にも、根本的なそういった「食い違い」が反映されているような……

    「工夫でがんばる」というのも、やっぱりそれじゃないかと思いますね。技術者の場合は、問題が出てきたら、そのつど「工夫でがんばる」そうしたらなんとか切り抜けられる……という考え方。安全余裕が少なくなっちゃったらどうするか……「工夫でがんばる」。小出さんの「と言っているにすぎない」という批判的な口調には、なんか「科学者から見た技術者」みたいな視点も感じました。科学者から見れば、技術者の「切ったり貼ったりしてつじつまを合わせていく」というやり方は、いかにも危なっかしく映るのでしょう(実際危ないと思いますが)。

    「原子力」は、結局、純粋に科学的に研究していくことがきわめて難しい分野なんだと思います。国家の安全保障とエネルギー政策に密接不可分に連関してしまうので……だから、そういうことに「奉仕」するなら研究させてやるが、反対するなら研究の道はないんだぞ……と。なので、小出さんのようなスタンスは、原子力の研究者としてはきわめて珍しい位置なのでしょう。本当に純粋に科学的にやるのなら、湯川さんとかアインシュタインみたいに「素粒子物理学」になるんだと思いますが、アインシュタインがマンハッタン計画とかかわってしまったみたいに、その分野でさえ安全保障やエネルギー政策と無関係でいるのは難しい……。

    小出さんは、分野としては原子核工学になると思うので、スタンスは純粋な科学者というよりはやっぱり工学畑の研究者だと思うのですが、研究の途上でどうしても技術的な発想だけでは原子力を扱うことはできないという一種のひらめきみたいなものがあったんじゃないでしょうか……技術者的に考えれば、チェルノブイリがあろうが福島があろうが「工夫でがんばれば」大丈夫ということになるはずなんですが、それは「基本的にダメ」というのはやっぱり科学者の視点を感じます。

    そういえば、aakuraraさん、イギリスのセラフィールドの原発事故ってご存知ですか?原発関連の本にはたぶん載っていると思うので知っておられると思いますが、私は、この間偶然見たNHKの番組で、はじめて詳細を知りました。ウィキのリンクを……↓
    <リンクURL>

    ここは、世界初の重大事故を1957年という早い時期に起こしているんですね。大量の放射性物質が放出されたにもかかわらず、政府は事故のことを住民に知らせず、白血病で亡くなった人がかなり出たみたいです。……NHKの映像は、セラフィールドの近くの牧場を映し出しましたが、その光景がピンクフロイドの『原子心母』のジャケットそっくりでした。↓
    <リンクURL>

    このリンク先の記事で見るかぎり、この牛の写真がセラフィールドと関連するのかどうかはわからないのですが……『原子心母』アトム・ハート・マザーというタイトルも、なんだかいわくありげに思えますが、原発とは直接は関係していないみたいですね。でも、なんとなく感じるものはあるのですが……

    ちょっと話がそれましたが……原子力が「絶対悪」であるかどうか……おそらく百%の絶対悪というものはこの世にはないので、「絶対悪に限りなく近い」ということになるんだろうと思います。……最近、イタリアで「脱原発」がかなりの得票でした。それはそれで大変めでたいことだと思うのですが、「事故が起こったからやめよう」というのでは、いかにも中途半端というか……「なにがあっても原発という選択肢はないのだ」ということにならないと、事情が変わればまたすぐにころっと「推進」にいってしまうような気がします。「絶対悪」の場合には、そちらの選択肢はゼロになるので、この場合は「事情」は関係なく、常に「その道はとらない」になるのですが。

    では、なにが「原発ニアリーイコール絶対悪」を保証するのか……いろいろ考えてみましたが、どなたに対しても説得力を持つ「キメ手」は難しいですね。これはどうやら「理論」の問題ではなく、今回の福島のように「自然の実証」にならざるをえないのだと思います……えらいことですが、人間って、理屈をこねまわして逃げられるうちはどこまででも逃げていくので……大橋さんと小出さんの「論争」も、理屈では結局決着はつかないわけですが、「自然」がどん!とくると、数分で決着がついてしまいました……これはほんとに大変なことだと思います。

    要するに、人間は、自分の「理論」の射程距離が、まだなかなかつかめない状態にいるのかもしれないと思います。で、そのことをきちんと認識しているかどうかで、「科学者」の値打ちも決まってくるような……「理論」の射程距離を誤認した場合、それは科学者の責任にならざるをえないことだから、本来は慎重になるべきなのでしょうが、人間って、ちょっとうまく行ってると、反省も謙虚さも忘れて暴走してしまうんですね……

    これはまた、「思想」の問題にも言えるのだと思います。やっぱり「思想」にも「射程距離」みたいなものがあって、なかなかそれを超えては効いてきません……民主主義も、やっぱり「今の人間」が射程距離の範囲内だったんですね。「未来の人」にまでは届かない……状況が変化するにつれ、「万全」とはいわないまでも「かなりいけるんじゃ?」と思ってた「思想」でも、意外にその「射程距離」は短かったんだなあ……ということが、これから明らかになってくるのかもしれません。

    要するに、結局これからは、「新しい思想」とか「新しい理論」とかが出てくる時代ではなくて、「思想の射程距離」みたいなものが「想定外の事態」を受けて検証される時代に入っていくのかもしれませんね。……昔、カントが「形而上学の批判」を行ったように……そういう「批判」や「検証」が済まないと、とうてい次の時代を担えるような「思想」は生まれてこないような気がします。

    とにかく今あるもの、できてしまっているものは、原発も農薬もマーケットもみな、これまでの人類の「思想」や「理論」がつくりだしてしまったもので……それらが今、厳しい「批判」に晒されようとしているのだと思います。そして「批判」を行う主体はもう別の理論や思想ではなくて、「自然」だったり「人間の生の思い」だったりするのでしょう。……いやいや、なかなか大変なことだと思いますが……。

    「千島学説」については、名前くらいしか知らなかったんですが、内容を読んでみますと、なんとなく桜沢さんの考え方に近いものがあるような気もします。特に「血の浄化が基本になる」という点は共通しているのではないでしょうか。進化論の適者生存を否定して「共生関係」を重視するところなどはまさに「生物学的愛他主義」そのものですよね。……読んでいるうちに、なんとなくポニョが姉妹たちと一緒に海の中を「進撃」しているシーンが浮かんできました(赤血球の流れとの関連かな?)。

  • Re: 森の神が死んだあと ネタバレ

    2011/6/28 1:22 by aakurara

    雨天さん、IKAさん、こんばんは。

    『日本沈没 第2部』読みました! ちょうど読み終わったころに、日本のスパコンが世界一にというのがニュースになって、すごくタイムリーでしたが。日本沈没後の日本人漂流が本来のメインテーマだった、というのがなんとなく分かりました。でも、小松左京さんが書いた日本人漂流の物語を読んでみたかったですね。

    食料問題は、現在の地球温暖化のもとでもかなり切迫しているようでして、またNY Timesがソースなのですが、地球的な食料不足についての記事に、世界各国の穀物輸入額を示した地図がありました↓
    ttp://www.nytimes.com/interactive/2011/06/05/science/earth/harvest.html?ref=earth
    (h抜きです。あ、たださいきんNY Timesのサイトでは一ヶ月あたりに閲覧できる記事の本数に制限がもうけられたりしているので、利用者登録とかをしないと、ひょっとするとアクセスできないようになっているかもしれません。)

    これを見ると、穀物輸入額を表した丸が(ウェブ上の、この画像だと線が薄くて見づらいのですが)、日本のが一番大きいんですね。なんかムリヤリ原発を稼働させてでも日本の経済力を保とうとする政府の方針は、もしかしたらこういうところにも関係しているのかと思いました。国内の第一次産業をないがしろにしてきたツケがどういうかたちで降りかかってくるか、いや、もう食べ物の放射能汚染というかたちで降りかかってきているのですが、ちょっとオソロシくなります。

    ナショナリズムかコスモポリタニズムか、というのも大きな問題ですよね。アメリカのは、ナショナリズムですらなくてパトリオティズムなんだ、というようなことも言われていて、なるほどと思いました。ナショナリズムというのは民族性という共同幻想があって成り立つものだとすれば、アメリカの国全体としてはそういう共同幻想をもちえないわけですから、パトリオティズムにならざるをえないでしょうね。各州にはナショナリズムのようなものが成立しうるのかもしれませんが。そういえば、アメリカ合衆国というのは、本当なら「合州国」と訳すべきだと、どなたかが書いているのをさいきんどこかで読んだのですけど。

    ところで、マーケットと食べ物、の関連でちょっと面白いブログ記事を見つけました。
    <リンクURL>
    やっぱりスーパーで買う果物は、えらい長途をへて消費者に届くようになっているので、美味しくないんですね。すももとか、私も好きなのですが、なんとなく「ホントはもっと美味しいはずだ!」という気がしていました。小学生のころに住んでいた社宅では、ちょうどウチのベランダから手が届くところに枇杷の木があって、季節になるとそこからもいで食べていました。で、スーパーで買う枇杷は、その記憶から比べるとどうも美味しくないんですよね・・・むしろ、ゼリーとかに入っている枇杷のほうが美味しいような気がしたりします。

    IKAさんのお隣さんのお米も、美味しそう・・・「土」の状態というのは、作物にとっては本当に大事みたいですね。めぐりめぐって、作物の状態(どういう土からできているか)というのは、それを食べる身体にとってかなり大事なのだろうと思います。(ちょっとマクロビ寄りになってきました!)

    でも、スーパーに流通するような作物を安定的に供給するには、やはり有機無農薬ではなかなかタイヘンなのでしょうね。これって、エネルギー問題と同じで、「なにがなんでも安定的に供給できなければいかんのだ」という前提の条件が問題なのではないかという気がします。食べ物も電気も、「とれるときはとれる、とれなかったら工夫でなんとかする」くらいの気持で生活するのが本当はいいのではないかと・・・

    で、工夫といえば(ぽんぽん話がとびますが)、玄海原発のプルサーマルをめぐっての大橋さんと小出さんの討論で、「工夫でがんばる」というのは技術者のスタンスなのでは、とIKAさんがご指摘くださいましたが、その「工夫」というのを絶対的な「安定供給」の実現に向けると、いろいろ問題が起こるのかもしれません。

    またまたNY Timesで、「人工の葉っぱ」についての面白い記事があったんです(↓)。
    <リンクURL>
    ちゃんと光合成もするし、いろんな燃料としても使えるかもしれない、ということなのですが、写真を見ると分かるように、葉っぱといっても見た目は葉っぱらしくないんですね。まず、色が黒いです。それで、ちょっと前に読んだ、稲本正さんという人の本で、なぜ木の葉っぱは緑色なのか、という疑問が提出されていたのを思い出しました。下のブログ(↓)でも紹介されていますが、緑の光線というのは、太陽光の中で一番真ん中のおいしい部分なんだそうですね。あえてそこを反射して、太陽光のエネルギーを独占しないという道を、どうして植物は選んだのか、というお話です。
    <リンクURL>

    たしかに植物が真っ黒だったら、太陽のエネルギーを独り占め状態で、地球上での生存競争に独り勝ちできていたのかもしれません。でも実際の植物は、緑の光線を反射して、他に太陽光の恵みの一番おいしい部分を分け与えている。それを人間が真似して作ると黒になるという・・・技術者の「工夫」は、結局そこどまり、ってことでしょうか。「効率」とか「安定供給」とかが目標になって、自然の「他と分かち合う」という共生的・利他的な部分には目を向けない。これが極端になると、『ナウシカ』のドルクになるわけですね。

    それから、前に鳥井弘之さんという人が書いた、放射性廃棄物についての本を読んだのですが(中立的な立場のようでありながら、実際にはかなりpro-原発な本でした)、そこに、技術においてはありえる被害のほうばかりに目を奪われるのではなくて、リスクを最小化した上でリスクを受け入れることを認めていかないと、工学そのものを否定することになってしまう、ということが書かれていて、この鳥井さんのスタンスには賛成しかねるけど、ここは重要なことを言っているなあと思ったのです。

    でも、「黒い」技術と「黒くない」技術との区別ができるようになれば、リスク以前に、それは「やっていいこと」なのか「やってはいけないこと」なのかが判断できるのではないかという気がします。純粋に技術そのものが「真っ黒」でないとしても、それこそ軍事的安全保障とか経済政策とかとからんでくると、だんだん「黒く」なっていくというような事情もあるでしょうけど・・・そういったことを全体的に見て、「黒さ」の度合いを見極めていく、ということができるようになるといいのではないかと思います。

    それで、また話がとびますが、この映画(『ポニョ』のスレでしたね!)で、フジモトさんが「生命の水」を作っている井戸がありましたが、これってなんか「原子炉」にも似てるかも・・・とちょっと思ったんですね。でも、「生命の水」は「黒くない」んです(たしか緑色でしたね)。他方で原発の原子炉は、やっぱり「真っ黒」に近くなっていると思います。

    ということで、無事『ポニョ』に戻りました!

    セラフィールドの原発事故のことは、さいきんどこかで目にしているような気がします。ピンクフロイドの『原子心母』・・・たしかに、なにかいわくありげですね。ちょっとこのアルバムをじっくり聴いてみようと思い、図書館で予約しました。

    理論や思想の「射程距離」についておっしゃっていることも、その通りだと思います。私が生きているあいだに、21世紀のカントが出てくるといいなあと思います。それを楽しみにして生きていこうかなと・・・

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/7/2 13:07 by IKA

    aakuraraさん、雨天さん、こんにちは。

    aakuraraさん、『日本沈没』第二部、読まれましたか。日本のスパコンは、かつて、この小説に出てくるスパコンと同じ名前の「地球シュミレーター」のときに演算速度世界一になってるんですよね。この「第二部」を読んでいると、スパコンは安全保障のための潜在兵器みたいな感じになってますが、原発もまた、安全保障のための潜在兵器だったことが今回明らかになったわけで、「原発」と衛星を打ち上げられる「ロケット技術」に加えて世界一の計算速度のスパコン(今は「京」)を保有する日本は、世界の目から見れば将軍様のお国よりはるかに危ない国に映っているのかもしれませんね。……知らざるは日本人のみ……なのか……世界のスパコントップ500のサイトがありました。↓
    <リンクURL>

    そういう「科学技術」側面に比べて、たしかに食料面ではお粗末ですね。たしかに日本の丸が一番でかい……(あ、ご紹介頂いたサイトはちゃんとみられましたよ)。以前に、知り合いで地理の先生をやっておられる方が言っておられたんですが、日本の国土で自給自足で養える人口は江戸時代の人口くらいではないかと。江戸時代は、けっこう人口が安定していて、3000万人前後らしいですが(説によっては2500万人〜2700万人)、もしこれが「自給自足の限界」とすると、今の人口の4分の1しか養えない……しかも、カロリー消費量からすると江戸時代は今よりはるかに少なかったでしょうから、今の食事を基準にするともっと減ることになりますね。

    「第一次産業をないがしろにしてきた」……これはほんとにそのとおりだと思います。田んぼを作らなければ金をやるなんて、これはもう「政策」には値しないですよね。林業はすでにほとんど壊滅しているし、漁業はまだ元気ですが、これから「海の放射能汚染」の問題で深刻な影響を蒙りそうです。第一次産業は後継者問題で先行きが危ぶまれていますが、こんなふうではますます跡を継ぐ人はいなくなっちゃうでしょう。すると代わって参入するのは「会社」ですが、「会社」はダイレクトに国際マーケットにつながっているので、もうすでに「第一次産業」とは呼べないかも。

    「会社」がつくったキュウリやトマトって、なんだか「製品」みたいであんまり食欲が湧きませんが、結局はそういうふうになっていくのかな……うーん、だんだん悲観的になってきますが……「第一次産業」はこの先ますます荒廃すると思います。「スーパーで買う果物」についても書いておられるとおりですね。でも、野菜はもっとひどいんではないでしょうか。うちは田舎なので、農産物直売所みたいなところがいくつかあって、そこには近隣のお宅の方が自分で作った野菜を持ちこまれるんですが、それはやっぱりぜんぜん味が違いますね。朝、自分の畑で獲れたのをおばさんたちが置いてくわけだから……。

    しかも、うちのあたりは専業農家は少なくなって、ご主人はサラリーマンで都会に通勤して、奥さんとかおばあさんとかが自分たちが食べる分を畑でつくってる。その余剰分を直売所に持ってくるわけで、「業」としてやってるわけではないのですごく安い。しかも美味しい。これだけは、お得だなあと思います。ただ、こういう直売所では、野菜は多いですが果物はほとんどありません。最初は不思議に思っていたんですが、果物は「業」としてでないとあんまりつくらないみたいですね。庭の柿の木に実がなったからもいで食べる……というくらいで。要するに、果物はあくまで「ぜいたく品」という感覚のようです。

    結局、やっぱりマーケットの問題がからんでくると思うのですが、マーケットに乗せる以上、マーケットの側からの要求がくる。それを拒むとマーケットの側としては「使えまへんな」(なぜか大阪弁)ということでそこで終わりになってしまいます。ところが、一旦マーケットに乗せてしまうと、為替の力ですぐに「国際マーケット」につながってしまう……。FTA拒否とかで、中間にバリアをつくっても、「外圧」で早晩堤防は決壊して国際マーケットの大海に漂わざるをえない……そういう、「点か世界か」みたいな選択を迫られてしまっているのが「第一次産業」の現状だと思います。

    それで、話は急にとびまして、アメリカはパトリオティズム……なるほど、そうですね。それでいうと、最近日本でもさかんに「愛国心」とかが言われてますけれど、これも実はナショナリズムではなくてすでにパトリオティズムなのかもしれない。なんか、「民族性」みたいなものから自然に出てくるものではなくて、国際マーケットや安全保障をにらんだ屈折したものを感じます。……これは、おそらく世界全体がそういう傾向になりつつあるのであって、素朴な?「民族性」なんかはそのために利用されているのではないか……とさえ感じます。

    しかし、日本では、パトリオティズムの面にかんしてもアメリカみたいに純粋?にはなれないですね。どこかに「民族性」みたいなものがまとわりついてアマルガムになってます。……ところで、この問題にかんしても「安定供給」を考えたのですが、ナショナリズムもパトリオティズムもコスモポリタニズムも、いつも安定して「それ」でなくてはいけないというのはちょっと疲れますよね。だいたいふつうの日本人は、ときにはこれ、場合によってはこっち、気分が向いたらあれ……というふうになってると思うのですが、なんらかの「外圧」を受けると、それに対抗するために1極に寄っていくような印象はあります。「思想の安定供給」も外圧じゃなくて自ら拠って立つということになるとけっこう難しいのかな……と。

    有機無農薬の安定供給は、これは本家本元?の「困難」ですね(変な言い方ですが)。一時期「曲がったキュウリ」でもいい、なんて言われましたが、今でもスーパーに売られているキュウリはみなまっすぐで太さもほぼ揃っている……こんなの日本だけなのかもしれませんが、少なくともうちの近くの直売所では、ぐるんぐるんになったキュウリや瓜みたいに太いキュウリも混じっていて、見ているだけで楽しいです。また、場所が直売所だと、来るお客さんも、例えば都会から来た感じの人でも面白がって買っていったりするんですよね。でもスーパーだと買わない(たぶん)。これ、直売所がナショナリズムでスーパーはコスモポリタニズムってことでしょうか……。

    それで、また話がとんで、例の「工夫でがんばる」のお話なんですが……最近の1Fの浄化装置の顛末を見ていると、まさにこの「工夫でがんばる」そのものですよね。やってみて水漏れしたらそこを直して、また不都合があれば直して……というかたちで試行錯誤しながらちょっとずつ「正解」に近づけていきます。根本的に「技術」って「思想」じゃなくて「現場」なんだ……と思わせられてしまうのですが……でも中には「思想」にかなり近い「技術」もあって、たとえばモーターなんかの原理になっている「電磁誘導」の技術は、これはちょっと不思議なものだと思いますね。例のテスラさんもからんでるようなんですが(交流の電磁誘導技術で)……テスラさん関連のサイトです。
    <リンクURL>

    あと、私が「思想に近い技術」だなあと思うのは、前にも書きましたが建築家のバックミンスター・フラーさんの考え方ですね。この方もある意味テスラさんに似ていて、「宇宙的場」みたいなものが常に考えの背後にあるようです。こういう技術に比べると原発はいたってお粗末ですね。背景となる思想がまったくなく、原子の中で本当になにが起こっているのかということに対する配慮もなく、ただただ「高エネルギー」が出るという経験則だけで、あとは「工夫でがんばって」こしらえてしまった代物……で、それはお湯をわかすだけで、肝心の発電部分は結局電磁誘導の技術を使っているわけですから、全然美しくありません。なんか「整序感」がまったく感じられない暴力的な技術ではないかと……。

    そういえば、最近の傾向として、最も「思想」に近い数学の分野でも、これに似た「暴力的」な解決方法が入ってきたみたいですね。例の「4色問題」ですが……百年以上にわたって未解決だったこの難問を解決したのは、なんとコンピュータによる土方計算だった……↓
    ttp://ja.wikipedia.org/wiki/四色定理(hを入れてください)
    数学者って、「エレガントな解答」を好む種族だそうなんですが、この4色問題の解決法はその対極にあるものだそうで、「エレファントな解答」と言われてるんだとか……なんか「反則じゃん!」という気もしますが、イカブンの私には詳細がわからないので「そうですか……」というしかないんですが……

    「人工の葉っぱ」見ました。うーん、見るからに「美しくない」ですね……。これって結局酵素を使ったフィルムということなんでしょうが、こんなことまでして……という気もします。光合成は植物の分野なんだから、植物にお任せして、植物たちが気持ちよく光合成ができるように人間はあんまりジャマをしない……というのがベストなんだと思うんですが……機能だけ代替するものを作ろうという発想自体、やっぱり「工夫でがんばる」領域なのかな?……それで、葉緑素の緑なんですが、クロロフィルの化学式と、ヘモグロビンの中の「ヘム」と呼ばれる物質の化学式が、面白いことになんとなく似てるんですね。↓
    <リンクURL>クロロフィル(hを入れてください)
    <リンクURL>ヘム(hを入れてください)

    どちらも基本構成は4つの窒素原子の真ん中に金属原子が入っているということで、その金属原子が、クロロフィルの方は2価のマグネシウム、ヘムの方は2価の鉄になってます。動物は鉄を選び、植物はマグネシウムを選んだ……ということでしょうか。植物はマグネシウムを中心に持つクロロフィルによって大気中のCを固定し、動物は鉄を中心に持つヘモグロビンによって固定されたCを再び大気中に放つ……Cが大気温度のコントロール調整要素として働いているのであれば、動物と植物は、地球さんが用いて大気温度を定常的に保つための具体的な道具ということになる……というのはイカブンの妄想でありました。しかし、人間という動物は、どうも呼吸以外にもCの増減に影響を与えすぎる手段を発見したようですが、これもやはり地球さんの意図のうちなのか、そうではないのか……

    ただ、エントロピーの概念から見ると、動物の働きと植物の働きはまさに正反対に見えますね。植物がせっせと減らしたエントロピーを動物がせっせと増やしている……生命現象から見れば、エントロピーの減少は吉、増大は凶に働くはずなんですが、それにもかかわらず動物がちゃんと生き残っているということは、なんらかの意味があるのでしょうか……それで、「緑の光」なんですが、スペクトルの真ん中部分は光合成にとって「使いにくい」というなんらかの理由があるんじゃないでしょうか……スペクトルの吸収曲線を見ると、ほんとにみごとに真ん中が抜けていますね。なんか「この部分は要らないよ」という声が聞こえてきそうな……↓
    <リンクURL>:Chlorofilab.png

    光合成で思い出すのは、昔読んだガモフさんの著書『生命の国のトムキンス』という本なんですが、この中に、光合成とエントロピーの減少について、とてもわかりやすく書かれていました。この本によると、植物は太陽からエネルギーとマイナスのエントロピーの両方を受け取って、それで二酸化炭素と水から光合成を行うということなのですが、そのマイナスのエントロピーは、太陽光線の中に元々含まれているものなのだとか。以下、面白いので所々引用してみます。(以下引用。『生命の国のトムキンス』市井三郎訳・講演口調なのは、主人公のトムキンス氏の岳父の教授の講演というスタイルをとっているためです)

    「熱放射の観測された諸性質は、次のような仮定から、理論的に導き出すことができます。すなわち光の振動は、その方向と振幅とに関して、まったく無秩序に起こっているという仮定であります。この仮定は、気体における分子運動の無秩序性に関する仮定と、同一のものであります。したがって気体の場合と同じように、熱放射の普通の状態は本質的無秩序であり、そのエントロピーが最大値をとる状態なのであります。」

    「しかしながらこの事実は、熱放射がそれを放出している高温の物体表面と、直接に接触している場合にのみ成立します。太陽表面からの放射が、周囲の空間に拡がってゆくに従って、その放射は急速に希薄なものとなってゆき、そのエネルギー強度は、太陽からの距離の自乗に逆比例して減少してゆきます。(中略)しかしこのようにエネルギー強度が減少したからといって、スペクトル分布にもそれに相当した変化が起こっているわけではありません。と申しますのは、太陽と地球との間の空間を旅している間に、その放射を構成するさまざまな波長の光の間に、エネルギーのやりとりが行われる可能性はないからなのであります。」

    「したがって地球に到達した太陽放射は、太陽表面の非常な高温(摂氏6,000度)に相当するところのスペクトル分布を持ち、しかもそのエネルギー強度は、日照りのいい日の大気の温度というはるかに低温の状態相当しておりますから、この放射は一種の交雑の状態にあるわけであります。簡単に証明することができるのですが、この種の状態は、『もっとも確率の高い』状態ではぜんぜんなく、いいかえますと、地球に到達する太陽放射のエントロピーは、けっしてその最大値をとっていないのであります。しかしながらこれは、太陽光線のエントロピーが、地球に向かって旅する間に減少する、ということを意味しているのではありません。事実そのような減少が起こったとしますと、それはエントロピーの法則を犯すことになるからであります。この場合、現実に起こっておりますことは、太陽から遠ざかってゆく太陽放射は、そのエントロピーが増大するものと考えてられているにかかわらず、それほどは増大しないということなのです。」

    「さて緑の木の葉に降りそそぐ太陽光線は、なんらかのやり方で、木の過剰エントロピーをいわば吸い出すことができるのでして、その植物の持つエントロピー全量を減少させるに役立つのであります。いうまでもなく、この過程は必ずしもひとりでに起こるものではなく、放射からの負のエントロピーを得る機会を利用するかどうかは、植物側に責任があることになります。(中略)エントロピーを減少させて上げよう、という機会を提供する太陽放射が、家のトタン張りの屋根に降りそそいだとしましても、トタンはその機会を利用しうるには『あまりにとんま』であるため、その機会はあたら失われてしまいます。そして屋根はただ熱せられるのみで、エントロピーの高い熱線の形で、その太陽放射を返上するだけであります。しかし植物はこの点なかなか抜け目がないのでして、光合成と呼ばれる特別の過程を用いて、太陽光線のエネルギーとエントロピー欠損との両方を利用しながら、複雑な有機構造をはるかに簡単な無機物から作り上げるのであります。」(引用おわり)

    ちょっと長い引用になってしまいましたが、太陽光線のスペクトル分布のちょうど真ん中の緑色のところが太陽光線の最もエネルギーの高い部分であるとすれば、相対的にその部分はエントロピーも他の部分より高くなっているはずなので、植物がこのエントロピーの高い部分を避けて、よりエントロピーの低い両側の部分を利用しているということはけっこう合理的に説明がつくように思います。おそらくは、真っ黒になってスペクトルの全体を利用してやるぜ!という欲の深いことをすると、かえって光合成の効率が下がる……ということがあるのではないでしょうか。……うーん、このあたりはよくわかりませんが、なんとなくそんな気はします。

    黒い技術と黒くない技術……それは、結局は、どれだけ「全体」を考えているかということにかかってくるのではないかという気がします。で、安全保障とか経済政策から見れば、できるだけ範囲を局限した「黒い技術」の方がはるかに使いやすいということなのでしょう。これに対して、常に「全体」を考える技術は、即効性もなく、「勝ち」に直結する要素も少ないので、そういう人たちから見ればまったく役に立たない技術に見えてしまう……よく「自然エネルギーは不安定だから使いものにならない」という意見を聞きますが、これは、自然エネルギーにはより「全体」が関与してくるので人間の勝手なコントロールが効きにくいということだと思います。

    それで、人間は、原子力を「安定的」と勘違いして手を出してしまったのですが……これはまた、とんでもないことでした……おそらく崩壊する原子の中のエントロピーは、もう局限にまで高いのではないか……それを「閉じこめる」ことができると思ったのは、おそらくは人間の歴史の上でも最大の誤りであり、傲慢さ……で、その結果を、人類はこれから徐々に?あるいは急激に?味わうことになるのでしょうが……まことに愚かな道に手を出したものです。でもまあ、ここから、また人類は最大の学びを得るという気もします。なんにせよ、極端までいかないと気がつかないというのは、これは人類の「さが」なのかもしれませんが、ほんとに変ないきものだと思います。

    理論や思想の射程距離……結局、これを伸ばすものは、現実の失敗体験だった……理論や思想の中から純粋に出てくるものに期待したいというか、あんまり現実にひどいことにならずに、思索の面からだけで射程距離を伸ばしていければよかったのですが、実際にはそうはいってないみたいですね。殺戮と破壊を通じてしか思想の射程距離を伸ばせないなんて、まったく情けない話ですが……ポニョの「生命の水」は、おそらくは自然の与えてくれる「生かす力」の象徴なのかもしれませんね。ただ、それを人間の手で造ろうというところが少々原子炉ぽいのかな?原子炉は「殺す力」の象徴になるのでしょうが……


    ところで、ひさしぶりに音楽の話題ですが……「おすすめディスク」を見ていただける場所をつくりました。まずは、バッハの「平均律」と「ブランデンブルク協奏曲」のおすすめディスクをアップしています。まあ、私がいいなあと思ったものを勝手にアップしているだけなのですが……よろしければご訪問ください。(音楽以外の話題も書いてます)
    <リンクURL>

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/7/2 13:12 by IKA

    クロロフィル、ヘム、スペクトル吸収のグラフの3つのリンクが不完全でした。以下に再掲します。失礼しました。

    ttp://ja.wikipedia.org/wiki/クロロフィル
    ttp://ja.wikipedia.org/wiki/ヘム
    ttp://en.wikipedia.org/wiki/File:Chlorofilab.png

    いずれも頭にhを入れてください。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/7/14 23:42 by aakurara

    雨天さん、IKAさん、こんにちは。

    こちらにもお返事しなきゃと思いつつ、おそくなってしまいました。
    スパコントップ500のサイト、見ました。こんなにたくさんあるんですね! うーん、この中で「一番」というのは、たしかにスゴイことなのかも・・・それぞれのスパコンの「用途」は、ざっとリストを見てみると研究用というのが一番多いですが、それ以外だと「環境」「金融・物流サービス」「情報サービス」「防衛」というカテゴリーにだいたい分類できるようです。

    このスパコンのことと、原子の話と、地球のこととをごっちゃにしてつらつら考えてみて、スパコンを使ってやってみてほしいなあと思ったのが、「地球上の各種原子の分布」をシミュレートする、というものです。

    地球上の、人間の身体を構成する原子、動植物の身体を構成する原子、人間がつくった人工物を構成する原子、水や鉱物や化石燃料を構成している原子、原子力発電によって変換される原子、などなど。それらの原子の分布が、産業革命より前から現在まで、どういうふうに変遷しているか・・・その変遷のもようがあきらかになったら、産業革命と現在の原子力利用がいったいどういうものであった/あるのかが、全体としてイメージできるようになるかも・・・まあ、地球上に何がどれだけあるのかをまず調査しないといけないので、それに数万年とかかかりそうですが。

    「技術」にかんしては、イヴァン・イリイチさんの『シャドウ・ワーク』という本に紹介されている、ユーグ・ド・サン・ヴィクトールという人が面白そうなんですよね。ユーグは1096年頃、フランドルで生まれてザクセンで育ち、のちにパリの聖ヴィクトール寺院で神学を教えるようになった思想家なのですが、なんか「技術」を神学的にとらえて、「機械論的哲学」というものについていろいろ書いているそうです。
    ウィキの英語版に、すこし詳しい記述があります(↓)
    <リンクURL>

    イリイチさんの紹介によると・・・「彼は機械論的なサイエンスを、身体の弱さを癒す方法を追究する哲学の一部として定義した。そのような身体の弱さは、人間がひきおこした環境の破壊に起因しているから、したがってサイエンスとは、エコロジーにおける混乱を改める手段ということになる」。

    ユーグによると聖書のアダムとイヴの楽園追放の話は、人間の「身体の弱さ」の起源を物語るもので、まあ、要するにここから「人間」と「自然」との疎外がおこって、人間と自然の敵対的な関係がはじまるということなのですが、しかし、「技術」を通して両者は生産的な関係をむすんでもいる、というのですね。「自然を模写した人工物を創ってみよ」という自然からの呼びかけがあって、それに応えて環境との不和を乗り越えるための人間の「杖」となるのが「技術」なのだ、と。

    それで、ユーグにとって「機械論的なサイエンス」というのは、「自然の模倣においてはたらく英知の研究」だったのだということなのですが、こういう「サイエンス」の定義が主流になっていたら、「百点満点の技術」という考え方も普及したかもしれないですね。そしてテスラさんやフラーさんも、もっとメジャーになっていたのではないかと思います。

    そういえばテスラさんは、なんかすっかり私の中ではデヴィッド・ボウイさんのイメージになっちゃってるのですが、マーク・トウェインと友達だったんですね! 知りませんでした・・・

    クロロフィルとヘムの化学式・・・たしかに、なんとなく似ていますね。ヘモグロビンといえば、赤血球というものも、けっこう面白いですね。なんか脊椎動物のなかで成長した哺乳類の赤血球だけ「細胞核」がないんですね。ということは、大人の哺乳類の血液細胞には「遺伝情報」がふくまれないということですが、うーん、なんかこれもなかなか示唆的な感じがします。英語版ウィキの説明だと、成長の過程で、ヘモグロビンのためのスペースを空けるために細胞核を放棄するのだということらしいんですが。そして成長した哺乳類の赤血球にはミトコンドリアも欠けているので、赤血球そのものは、自分で酸素を消費することもなく酸素の運搬役に徹するのだ、と・・・なんか赤血球は、ひたすら「個体」に奉仕するもののようですね。

    ただ、このあいだちょっと言及しました千島学説のことを、医療関係の方におききしてみたら、なんか千島さんは血液細胞は体細胞にも戻る、なんてことまで主張しているそうなんですね。常識的には、遺伝情報をもたない血液細胞にそんなことができるというのは、ありえないことのようなんですが・・・

    ガモフさんの『生命の国のトムキンス』も、面白そうですね。トタン屋根は「とんま」・・・うーん、ソーラーパネルは、それとくらべると、どの程度かしこいのでしょう。葉っぱの緑は、そうか「おいしいものばかり食べてると生活習慣病になりまっせ」というのと同じことですか。「マグロのトロは食わないよ」みたいな(違うかな・・・?)動物と植物の、エントロピーの観点から見た役割というのも、地球上すべての原子の動きと分布がシミュレートできたら、だいぶはっきりしたことが分かってくるかもしれないという気がします。

    技術の「黒さ」は、どれだけ「全体」を考えているかにかかってくる、というのはホントにそうだと思います。なんでも極端までいかないと気づかない、というのもおっしゃる通りですよね。そういう意味では、フクシマの原発事故は、2005年にあったJR福知山線の脱線事故のことを思い出させました。あれもやっぱり、私たちの技術やライフスタイルに対する、「自然」からのダメ出しなんじゃないかと思ったものでした。

    「ナショナリズムな野菜」いいですよね。私の実家の近所にも、そういう直売所に近い市場ができあがっていまして、産地直送の野菜とかをリヤカーで売りにくる「リヤカー部隊」というのが集まる場所があります(↓)
    <リンクURL>
    ここは、地元の行商組合が関与しているそうなので、「点」よりはある程度制度化された「線」になっているのかな? 有機野菜の通信販売など、ほそぼそと「線」でやっているところも、さいきんはふえてきているのかもしれませんが、ほとんどは「国際マーケット」の波にさらわれちゃうのでしょうね。でも、ほそぼそと維持されている「線」が、いつか私たちの「命綱」になるのかもしれませんね。もしかすると、理論や思想の世界も同じで、「国際マーケット」の沖に流されることなく、ナショナリズムとコスモポリタニズムのバランスをとってほそぼそと繰り出された「線」の集合が、目立たないけどじつはこの国をふわりと包んでいるネットになっているのかもしれません・・・

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/7/23 13:32 by IKA

    aakuraraさん、雨天さん、こんにちは。だいぶ間があいてしまいました。

    「地球上の各種原子の分布」をシミュレートする……これはまことに壮大な発想ですねえ。直感的にですが、現在の地球上のスパコンもPCも全部合わせても能力的にははるかに遠い目標ではないかと思います。……実は、私も昔、ちょっと似たことを考えました。もっとも、私の場合は、「タイムマシン」をつくるとしたらどうやるか……ということから出てきた発想だったんですが……要するに、ある瞬間の「宇宙の状態」が、その瞬間における宇宙の全原子の状態に翻訳されるのであれば、たとえば0.1秒ごとに宇宙の全原子の状態を記録しておいて、1年前の過去に行きたいというのであれば、1年前の過去における状態に宇宙の全原子を戻す。そうすると、だれはばかることなく?正真正銘の「タイムマシン」ができたことになります。つまり、誰が検証しても宇宙の全原子の状態が1年前と同じであれば、その状態が「1年前と異なる」ということは、だれにも証明できないわけですから。

    ただ、この発想にはいくつかの難点があることがわかってきました。まず第1には「過去行き」専用のマシンになること。ただ、この点は、宇宙の全原子の状態を、「位置、速度、加速度」の3要素から確定できれば解決できます。あくまで機械論的にですが、この3要素が確定できれば、いかなる未来における状態も算出可能となる……しかし、これはやっぱり無理ですね。量子力学においては、素粒子の「位置」と「速度」の両方を確定することはできないとなっているそうですから(正確には「位置」と「運動量」らしいですが)。したがって、このマシンにおいては「未来」は原理的に不確定になってしまいます……ということで、未来はあきらめて過去はどうか……というと、ここに第2の問題が……。

    第2の問題は、自分の頭の中の原子までが「過去状態」に引き戻されてしまうことです。要するに、せっかく過去に行っているのに「過去に行った」という自覚が生まれようがない。単なる、純然たる「過去」として体験するだけで、本人的にはそれはまごうかたなき「現在」……と、これはかなり論理的なパラドックスなんですが、技術的に言えば第3の問題が生じます。つまり、「測定」のことなんですが、宇宙の全原子を測定するとなりますと、その測定機械自体はどうなるのか……ということで、自分で自分を「測定」できるのだろうか……ということですね。それと、これに関連して第4の問題ですが、測定のためには、どうしても対象となる原子になんらかの電磁場とか光が当たらないといけないのですが、その電磁場や光が当たることによってその原子の「位置」と「速度」に攪乱が生じてしまう……

    そして、さらに大きな問題が第5で、じゃあ、「原子の状態を戻す」のはどうやるの?ということです。なんらかの方法でできたとしても、そこに「力」を加えるためにつくられたなんらかの「装置」自体は「異物」として残ってしまう……というようなことをいろいろ考えまして、この方法で完璧な「タイムマシン」をつくれるのは神様しかいないなあ……と。いや、話が大きくそれてしまってすみませんが、なんとなく同じ難問が出てくるのではないかという気がしました。まあ、第5の問題は、「地球上の各種原子の分布のシミュレート」では関係ないわけですが……タイムマシンの場合には、どうしても「時間とは何か?」という人類における究極の問題が大きくからんでくるような気がします。……なんか、話題がそれていってしまったようですみません。ちょっと元にもどしまして……

    地球上に現時点で何がどれだけあるのか……は、もしかしたら、想像以上にわかっているのかもしれません。こんなサイトがありました。↓
    <リンクURL>
    産業技術総合研究所というところがつくっているサイトなんですが、日本列島と周辺の海域に、どのような元素がどれくらいの濃度で分布しているかがグラフィックで表示されます。周期律表が出てきて、たとえばFe(鉄)をクリックすると、鉄元素の分布状態が一目で……地域を選ぶこともできて、地域ごとにかなり詳しく表示されます。こんなものをどうやってつくったんだろう……それこそスパコンを駆使して……なんでしょうかね。いやはや驚きました。ここでの表示は日本列島だけなんですが、もしかしたら世界各地でもいろいろあるのかもしれません……

    ユーグ・ド・サン・ヴィクトールさん……ぜんぜん知りませんでしたが、なんか面白そうな方ですね。いろいろ資料を見てみると、ちょっと東方教会的な神秘主義みたいな感じも受けました。救済は必ずしもイエスじゃなくてもいいんじゃない?なんて、ちょっとまちがうと異端で火あぶりにもなりかねないような……少なくとも「三位一体」からはかなり逸脱しちゃってるようにも見えますが、大丈夫だったんでしょうか……。後のスピノザとかレオナルドの考えにつながっていく端緒みたいなものも感じられましたが、どうなんでしょう……「機械論的なサイエンス」というのが「自然の模倣においてはたらく英知の研究」ということになりますと、吉本さんの例のお言葉(有機的自然に関するあの……)も思い出してしまいますが、なんかすべてがつながっていくみたいですね。……テスラさんがデヴィッド・ボウイさんのイメージ……は私もそうでして、もうそれ以外には考えられません。

    ユーグ・ド・サン・ヴィクトールさんは12世紀の人だそうですが、たしかにこの時点で「百点技術」の方向に向かっていれば、今ごろはテスラさんやフラーさんのような考え方が主流になっていたかもしれないです。うーん……そういう点では、ユーグ師匠はかなり重要人物なのかも……いろいろネットで調べてみたんですが、今の教皇のベネディクト16世が彼について演説で触れているんですね。私は、この教皇さんはなんとなく超保守派みたいに思っていたのでちょっと驚きました。↓
    <リンクURL>
    もう一つ印象に残ったのは、柏木英彦さん(中世哲学の研究者?)という方が書かれた『サン・ヴィクトールのフーゴーにおける美と超越』という短い論文で、これはPDFなので、次のアドレスではとべないかもしれませんが、とりあえず掲げておきます。↓
    koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=34335

    この論文はとても示唆に富んでいて、いろいろなことを考えさせられました。……ユーグ(フーゴー)の「美」についての考え方をとりあげているのですが、読んでいるうちにマンの『ヴェニスに死す』を思い出してしまいました。
    ちょっとこの論文から引用してみます。
    「かくして自然美は見えざる原像への登高の目覚めの契機となるが、しかしこれは端初にすぎない。登高運動の遂行のためには、外界を対象とする身体の眼(oculus carnis)のほか、自己を対象とする理性の眸(oculus rationis)と、自己を越えるものにも向かう観想の眸(oculus contemplationis)が目覚めなくてはならない。作用に関して言えば、可視的世界に向かう思惟(cogitatio)のみでなく、可視的なものを越える省察(meditatio)、可視的世界から自由な観想(contemplatio)が今や動き始める。」

    ここでもう一つ思い出したのは、『地球が静止する日』において、クラトゥさんがバーンハート教授の家でバッハの『ゴルトベルク』を聴いたときの反応……おそらくは、クラトゥさんの種族は、それまで人類は「身体の眼(oculus carnis)」と「可視的世界に向かう思惟(cogitatio)」しか知らない連中だと思っていたんでしょうね。……それはまあ、地球人類を外側から眺めれば誰だってそう思うと思います。いつも自分のことしか考えなくて、絶え間なく戦争をやり、他の生物を殺しまくり、山河を汚し破壊していく……こういう人類の行動を見て「こりゃあかん」と思っていたクラトゥさんが、しかしバッハの作品のうちに聴いたのは、音楽の感覚的現象だけではなく、それを超越してそこに働くさらに深い構造を見渡す眼……まさに理性と観想の眸であり、本来なぜか人類に内在する不思議な動機……それは、自己や自己のまわりを越えて、この世界の仕組みや宇宙や……そして、それを「産み出したもの」に対する深い敬意……。

    おそらくは、「技術」がこの視点さえ忘れなければ、今のような悲惨な世界にはならなかったのでしょうね。特に超論外の「原子力」……うーん……考えれば考えるほどに深い人です。ユーグさん……と思っていろいろさがしていたら、彼の主著?である『ディダスカリコン』の1巻が、なんと原文(ラテン語)対訳で読めるページがありました。↓
    <リンクURL>#top
    あと、次の二つのページも面白かったです。
    ↓小海キリスト教会の牧師さんのブログ
    <リンクURL>
    ↓田中真知さんという翻訳家の方のブログ
    <リンクURL>

    小海キリスト教会の牧師さんのブログの方では、リンクのところになんと小出先生のいろんなお話をまとめて紹介しているブログがあり、田中真知さんのブログの方にはグールドさんのことが触れられていました。田中真知さんは、ユーグさんの『自分の故郷を愛おしむ者は、まだ未熟者である……』という言葉を思うときに、いつもグールドの音楽とリンクするそうです。うーん……やはりすべてはつながっているのか……ということで、突然話は変わってクロロフィルとヘムのことなのですが(そのうちつながる……予定です)、この両者は、箱に入っている金属原子が違うだけで、箱そのものはやっぱり同じものみたいです。この箱は、「ポルフィリン環」というそうなんですが、ヘムやクロロフィル以外にもビタミン12の成分の金属錯体(金属が入った安定的な化合物)をつくるようで、生体にとってはきわめて重要な物質みたいです。↓(h抜きです)
    ttp://ja.wikipedia.org/wiki/ポルフィリン

    それで、最近、午黄(ごおう)という漢方薬のことをちょっと調べていたんですが、なんと偶然にも、この漢方薬もポルフィリンに関係してくることがわかって驚きでした。午黄という薬は、なんと牛の胆石なんだそうで、牛1000頭に1頭くらいしかとれない貴重品なんだそうです。だからお値段もものすごくて、同じ重さだと金よりはるかに高いんだとか……漢方薬局で見せてもらったんですが、紅花を煮詰めたような赤茶というのか黄色の濃いようなというのか……とにかく不思議な色の不定形のカタマリが缶の中にごろごろと……この缶に入ってるだけでおいくらくらいですかと聴いたら、「数百万はするでしょうねえ」という答でした。その薬局では、別に金庫に入れるでもなくそのへんに置いてあるのですが「これの価値がわかる泥棒はそういないから大丈夫ですよ」とのこと。うーん、でも、漢方薬局に入る泥棒は、やっぱり漢方薬の価値がわかっているふとどきものだと思うのですが……

    それはともかく、この午黄というお薬の主成分は「ビリルビン」という物質です、といってその化学式の載っている本を薬剤師さんが見せてくれたのですが、その構造式がなんか「ポルフィリン」にそっくりなんですよね。それで、ヘムやクロロフィルとの関連をおききしたら、「ビリルビン」は「ポルフィリン」の「わっか」が壊れたなれのはてなんだそうです。↓(h抜きです)
    <リンクURL>ビリルビン
    要するに、働きを終えた赤血球が壊れてヘモグロビンが分解されるときにヘムから鉄原子が抜けてわっかが壊れてビリルビンになり、このビリルビンは胆汁や尿の成分となって便や尿のかたちで体外に排泄される……その排泄過程でなんらかの障害が起こるとそれが凝り固まって胆石になるわけですが、牛の身体の中で胆石化したものが午黄で、これが肝臓とか腎臓とかの特効薬になるんだそうです……しかも不思議なことに、牛以外の生物の胆石ではだめで、牛の胆石しかそういう効能はないらしいです。さらに、牛の中でもオーストラリアの牛の胆石が一番効能が優れているということで……私がきいた薬局で扱っている午黄は、全部オーストラリア産の牛のものなのだとか。

    ビリルビンを原料にして化学合成した人工の午黄というのもあって、これだと価格はだいぶ安くなるらしいんですが、本来の午黄の効き目はないそうです。これは他の漢方薬でも同じで、有名な熊の胆(くまのい)は熊の胆嚢らしいですが(肝臓病の特効薬)、これの主成分のウルソデオキシコール酸から化学合成した「ウルソ」というお薬は、漢方の方にいわせると全く効かないに等しいんだとか……西洋医学的な考え方からいえば、主成分を化学合成すれば、純化されて効き目が増すはずなのに、実はここで起こっているのは全く逆のこと……しかも、午黄なんか、牛の胆石でないとダメなんて、非常に不思議です。牛でも人間でも胆汁の成分のビリルビンは変わらないはずなのに、なんでそうなるのか……ここに働くのは、やはり「全体を導く手」なんでしょうね。西洋医学は西洋の思想を根本にできているわけだけれど、これってもしかしたら、ユーグさんの方向で西洋思想が発展してきていたんだったら、全く違った展開になっていたかもしれないですね。主成分だけを化学合成した薬なんて、悪魔か狂人の発想……みたいになってたりして。(ということで、なんとかつながりました)

    千島学説についても、なんかそんなようなことがあるんじゃないかなあ……という感じはします。一つ感じるのは、千島学説は、詳細は知らないんですが、なんとなくものごとを「全体」で見ていこうという基本的な発想があるんじゃないかということです。細胞核を持たない細胞が、細胞核を持つ細胞に戻る……ということは、西洋医学的発想ではありえないことなんですが、「情報」の担体を一部材に限定するからそういう考えになるんであって、「情報」はもしかしたら「全体」で担われるというふうに考えれば……ロゴスオンリーからいえば「情報の担体」を局限していくのが「科学の方法」なんでしょうけど、そこで抜け落ちてしまうものって、けっこう大きいんじゃないかと思います。「遺伝情報」は「遺伝子」が担うんだというのは、「情報は、それを担う担体があるはず」という発想から研究したからそういう結果になるんであって、「情報の担われ方」についてのまったく違った観点を導入すれば、千島学説のような「異端学説」もかなり重要なものになってくるような気もしますね……。

    そういう意味で、小出先生が「工夫でがんばる」とおっしゃったのは、とても示唆的だと思います。要するに、今の科学技術は、「構成」と「作用」を1対1対応させたがるんですね。こういう作用が起こるとすればこういう構成があるんだろう……と。そこら辺を厳密に確定していけばいくほど技術の「進歩」とみなされる。だから、技術者はまず「目的」を考えて、その目的を達成するにはこういう「作用」が必要だ……その「作用」を実現するためにはこういう「構成」が必要だ……と考えるようです。この全体を、小出さんは簡潔に「工夫」と言われたと思うんですが……JR福知山線の事故のことにしても、ATSのことがさかんに話題になってますが、「急カーブで事故が起きないためにはどうしたらいいか」(目的)→「急カーブで速度が落ちるようにすればいい」(作用)→「じゃあ、急カーブの手前で自動的に速度を落とす装置を付けよう」(構成)という道筋を辿ってしまう。しかし、実際に、本当に必要なのは「なんでそこまで急ぐ必要があるの?」という根本的な問題で、これは結局、今の人類の文明のあり方という「全体」に必ずつながっていきます。しかし、今の技術体系の中でそんなことを言ってたら、たちまち職も地位も失い……

    そういう意味で、「原発」は、象徴的に今の科学技術のあり方を浮き彫りにしてしまったと思います。「ポン」といったあげくの放射能汚染はとどまるところを知らず……もう「結果」が必然的に「全体」を考えざるをえない構造になってしまっているので、これはもう「人類」とか「地球」とか「文明」とかをだれでも考えざるをえない立場に追いこまれてしまっています。……しかし、技術者たちはあいかわらず「目的」ー「作用」ー「構成」の「工夫ごっこ」をやるしかなくって、その「工夫」の優劣を競っている状態……小出さんの「工夫でがんばる」という言葉、ほんとに痛烈な皮肉として効いてますよね。うーん、つくづく良くわかっておられる方だなあと思います。……ということで、また話がかわりまして、「リヤカー部隊」のサイト、拝見しました。京都でいうと大原の野菜売りのような感じなのかな?大原の野菜売りの場合は、リヤカーを止めずに移動販売しているみたいですが……「論壇」みたいながちっと固まったところで「出版」が基礎になって議論が交わされていた時代と、今はもうだいぶ変わってしまったみたいですね。そういう「権威的論壇」はまだあるんだけれど、なんか影が薄くなりつつあるような気がします。そういえば、吉本隆明さんも、その「論壇」での活躍をベースで支えていたのは、長年続けてこられた『試行』という同人誌でした。これって、今でいえばネットみたいな働きなのかな……

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/7/23 13:35 by IKA

    ビリルビンのリンク表示、失敗してしまいました。
    h抜きです……↓
    ttp://ja.wikipedia.org/wiki/ビリルビン

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/8/8 1:17 by aakurara

    雨天さん、IKAさん、こんにちは。
    私も、まただいぶ間をあけてしまいました。

    「アトミック・タイムマシーン」、なるほど時間を遡行するのではなくて、原子の状態を再現する・・・しかし第2の問題にかんしてですが、私たちの「想念」というものも、やはり「原子の状態」によって決まるものなのでしょうか。いずれにしても、これは「想念」とか「心的経験」とは何なのかという問題になってきますが・・・

    産業技術総研のサイト、拝見しました。うーん、けっこうこのくらいは調査可能なんですね。C(炭素)のデータはないみたいですが・・・先日、ちょっと「バイオマス」のことを調べていたのですけど、なんか「カーボンニュートラル」という考え方があるそうで、バイオマス燃料に含まれる炭素を燃焼させて大気に放出するのは、もともと光合成などで循環している炭素を人為的に放出するのだから、大気への放出と大気からの吸収のバランスを崩すものではない。よって、何億年もかけて炭素が凝縮された化石燃料を燃焼させて、自然の吸収量を大きく上回る量の炭素を放出するのと違ってエコなのだ。という考え方らしいのですが。なんか、これも結局ニンゲンに都合のよい理屈ではないかなあという気がしなくもありません。

    ヴィクトールのユーグは12世紀に「聖徒」に列せられているようなので、彼の思想がたまたまこの時代にヤバイ(異端)とされるものではなかったのか、事情はよくわかりませんが、異端ぽいところは多分にありそうですね。柏木さんの論文は、ちゃんと読めました。ユーグがプラトンを読んでいない、というのがちょっとビックリですが、言われてみれば、時代的にはそうか・・・でも、かなりプラトニックなところがありますよね。クラトゥさんが「理性と観想の眸」をバッハの『ゴルトベルク』に見いだした・・・これは、IKAさんが当初からおっしゃっていることを、ユーグの用語を使っても言える、という感じです。でも、それこそ oculus carnis と cognitatio だけでは、あそこの場面の深い意味を見いだせないと思いますよ・・・やはりIKAさんは「胴体思考」だから・・・?(←賞賛しているのですよ!)

    『ディダスカリコン』は、英語訳が出版されているので、実は購入してあるのですが(まだ読んでおりません)、ラテン語原文を対訳つきで紹介しているサイトがあるとは・・・ってよく見ると、このサイトの制作者の嶋崎さんて、前にちょっとご紹介した方ですね。さすがだ。そして、なんかユーグさんを介していろいろつながっていますね・・・田中真知さんの翻訳された『転生』という本も面白そうです。ユーグさんの言葉とグールドさんの音楽がリンクする、というのは『転生』の著者のコットさんが言っていたことみたいですね。ジョナサン・コットによるグールドさんのインタビュー本は、もってます!

    それで、午黄・・・漢方は「全体で効く」というのは、ホントにそういうことなのだろうなあと思います。というか、主成分だけを取り出して、それで「1対1対応」の考え方で治療の体系をつくりあげようという「工学的」な医学の前提には、やはり重大な「誤謬」があるのだという気がします。ちょうど、いま読んでいる吉本隆明さんの『心的現象論序説』でも、同様に「工学的」な発想での(そういう言い方はされていませんが)精神分析理論と精神病治療の限界が指摘されていますが・・・千島学説にも、おっしゃるように「全体」の視点があるような予感がします。いずれ、遺伝子の研究がもっと(ユーグ的に)進んだら、千島さんの学説も「異端」ではなくなるのかもしれませんね。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/8/16 7:37 by IKA

    aakuraraさん、雨天さん、こんにちは。

    人間の「想念」が「原子の状態」によって決まるかどうか……この問題は、基本的に「アトミック・タイムマシーン」という物理的な問題とは全く別の枠組みになってしまうのだと思います。おっしゃるように、われわれの「想念」とか「心的経験」とは何かという問題なのでしょうが、時間論的?にいうなら「持続する瞬間」ということなのでしょうか……「オルフェオの物語」に出てくる宇宙人がいうのですが、「時間というものはない」のだと。つまり、在るのは「いま、ここ」だけであって、その他のもの、「過去」とか「未来」とか「別の時空間」みたいなものはすべて「錯覚」なのであるということだと思うのですが、では、「在る」のはピンポイントの「今」なのか……というと、私は、どうも「今」はある程度の幅を持ってるんじゃないかと思うんです。

    では、その「幅」はどれくらいかというと……おそらく3分前後……「時間はない」と言っていて「3分前後」というのはいかにも矛盾を絵に描いたような……しかも、「物理的時間」とは別の枠組みに問題と言ってるのに……しかし、今のところそれくらいの表現しかできません。あるいは「想念素」(ノエオン・造語です)といってもいいのかな? 私は、昔から、レコードに収録されている「曲」の長さが3分前後のものが圧倒的に多いということを不思議に思っていたのですが……おそらく人間が「ひとまとまり」として認識できるのが、これくらいの長さなんですね。クラシックの分野の曲は、これを超えるものがほとんどですが、それはかなり「無理」をして長くしているわけであって、曲の基本だけを取り出せばやはり「3分前後」となる……これは、バロック期の音楽、ルネサンス期の音楽……と時代を遡るにつれて、1曲が「3分前後」に近づいてくることからもそう言えると思います。

    ノエオン(コギトンといってもいい?)は、動物によって違うと思うのですが……それは、シナプス結合の複雑さに結局依存するのかもしれません……「物理的時間」とは別の枠組みといいつつ、またここでシナプス結合を持ち出すのはルール違反なのかもしれませんが、今のところそれしか浮かばない……持続的な心的経験(表面的な)は、やはり動物によって違っていて、脳のシナプス結合が複雑化するほど1noeon は長くなると思うのですが、人間ではそれが3分くらいなのかな……と。これは、コンピュータに例えるとキャッシュメモリで処理できる情報量ということになるのかもしれませんが、情報量がそれ以上になってくるとハードディスクに書きこまれたメモリを呼びだしてノエオンどうしを接続したり組み合わせたりして複雑な「概念」を形成していく……楽曲の場合にもこれが行われていて、3分を超えていく長さでは、一つの主題を単純に「歌う」ということではすまなくなって、それらをフーガ形式で組み合わせたり(バロック期)、あるいはソナタ形式で複雑化して伸ばしたり(クラシックの時代)……

    またまた妄想暴走の兆候が現われてきましたのでちょっと話題を変えまして……「カーボン・ニュートラル」の考え方は、私も以前に聞いたことがあるのですが、「やっぱり人間って、変な理屈を考え出すなあ……」と思いました。これって、上の想念素でいうと、1ノエオンの範囲をはるかに越えて、10とか100とかのノエオンたちが見るからに忌まわしい結合をしているなあ……と感じます。素直じゃないですよね。「燃やしてるんだから炭酸ガスが出るじゃろうが!」と言われて「君たち無知だなあ。二酸化炭素は光合成で循環するのとしないのがあってね……云々」とやりだす。テクニカル・邪ー言の典型のようにも……それよりも「燃してる→二酸化炭素」は、はるかに単純にして強い「真理」ではないかと……土木学会の津波部会のテクニカル・邪ー言の結果として「1F堤防高は5.8m」としたのが、「大津波」という「真実」で一挙に「無化」された……それと同じ構図を感じます。ノエオンを複雑に組み合わせて概念化するのの得意な先生方は、吉本さんの本でも読めばいいのではないかと……(あるいはポニョに噛みついてもらうとか)

    ユーグがプラトンを読んでないというのは私もちょっと驚いたんですが、考えてみると、あの時代にはイスラム地域の方がはるかにプラトンをよく読みこなしていたのでしょうね。むろんアリ師匠も……ところが、思想の類型的にはおっしゃるようにかなりプラトニックを感じます。プラトン的な考え方というものは、なにか「一神教」と通底するものがあるのかもしれません。これが例えば日本なんかだと、プラトンも一神教もやっぱり「輸入」するしかなかったのかな?和辻さんの『風土』じゃないけれど、そんなことを考えてしまいます。……えーと、私の「胴体思考」によりますと、なんか、ノエオンどうしの結びつき方には「正しい結合」というのがあって、バッハは、「ゴルトベルク変奏曲」や「フーガの技法」なんかでかなりそれを探求していたのではないかと……通常、人は、ノエオンどうしをパトス的に結合しちゃうのではないかな?と胴体思考としては思うんですよね。で、それを避けようとすると冷たいロゴスに偏る……なんか、それ以外の結合の仕方は、人間にはまだ難しい……しかし、ノエオンどうしは、本来はパトスとロゴスの両方のバランスをきちんととりながら慎重に結合されていく必要があるのであって、バッハの曲を聴いていると、実に巧みに舵をきりながらそれをやっている曲芸みたいな感じを受けるのですが……

    おそらくは、吉本さんが指摘しているのも常に「その部分」だったのではないかと……学者は「学問の論理の鎖」をつないでいって一つの「体系」をつくっていくもんだと思うのですが、やっぱりそれは、どんどん分解していくと最後は単純なノエオンの群れになる。ただ、それらを組み合わせていくところに「ウソ」が入ってしまう……そして、その「ウソ」は人がパトスに偏ったり(感情の魔)ロゴスに偏ったり(論理の魔)するところから入りこんでくるのではないかと……うーん、こういうふうに「展開」していくと、徐々に「胴体思考」から離脱していくような気がしますのでここらでやめておきまして……『ディダスカリコン』お持ちでしたか。嶋崎さんのことははっきり覚えていないのですが(私は1ノエオンが10秒くらいしかないので)、なんかすべてはつながっているのですね。ジョナサン・コットさんのインタビュー本は、前に図書館で借りものかもしれません。そのときはほとんど読めずに返してしまいましたが……「全体の視点」……これは、ノエオンを結合して「鎖の輪」をつくっていこうとするときには、常に参照せんとヤバいことになりますね。再びバッハに戻れば、彼は音楽のノエオンを結合していくときに、絶対に「全体の視点」から足を浮かせることがなかった……これは、やはり彼の「信心深さ」と無縁のものではなかったような気がします。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/8/24 20:05 by aakurara

    雨天さん、IKAさん、こんにちは。

    ノエオン・・・えー、仮に1日あたり6時間睡眠とすると、眠っているあいだが120ノエオン、起きている時間は360ノエオンですね。うーん、そう考えると1日ってけっこう長いですねぇ。あっ、でも「物理的時間」とは別の枠組みなのだから、こういう計算をしてはイケナイのか・・・それに、もしかすると睡眠中はノエオンの幅自体が、覚醒中とは違ってくるかもしれませんね。

    いま、ちょっとジョン・ロックの『人間知性論』を読みはじめているのですが、第2巻のはじめのところで「魂は常に思考しているのか?」ということが問題になっていまして、仮に夢を見ずに眠っているあいだも<魂>は思考しているとして、そのことを<知性>が認識できないとしたら、<魂>の思考と<知性>の思考は切り離せるということになって、そうすると「自己同一性」というのはどうなっちゃうの? みたいなことが論じられていて、けっこう面白いのですが・・・うーん、<魂>のノエオンと<知性>のノエオンとは、どうなんでしょう、同じものなのでしょうか。あ、<純粋知性>のノエオンが「コギトン」でしょうか。

    ともかく、ロックの「知性論」では、ノエオンをたくさん集めてきれいに秩序だててゆくのが「文化」なのだ! という感じになっていくのかな(まだ最初のほうなのでわからないのですが)。少なくとも六っ九さんの論述の仕方は、まさに1ノエオンずつ几帳面に(ロゴス的に?)積み上げていく感じなのですが、なんか「近代」っぽいなあ、と。

    ノエオンどうしの結合の仕方が、パトスに偏ったりロゴスに偏ったりという傾向は、なんかやはり「文学」と「科学」が分離しだしたあたりから加速してきたのかなあ、と思います。六っ九さんが<魂>と<知性>とを分けて考えているところにも、そういう傾向がうかがえますよね。その帰結として、<自然>がすっかり非有機化された現在の世界ができてきたのだと思いますが・・・でも<自然>からすると、人間のひとりひとりが自然の1ノエオンになってるんでしょうか。いずれにしても、現状の結合の仕方にはすごくいろいろ問題がありそうですが。うーん、人間がパトスとロゴスのバランスを崩すと、<自然>のほうもバランスが崩れちゃうのかもしれません。バッハ的「ノエオンの技法」を人間はもっとマスターしなければ・・・

    プラトンは、このあいだやっと『国家』を読み終えたのですが、即羅手素師匠は、文学は「パトス」だけをむやみに助長するからよくない、というようなことを言ってますね(第10巻)。ここのところは、「ミメーシス」の問題が取り上げられているところなんですが、詩(創作)において真似(描写)されたものは、実相(真実)から三位下に位置づけられるのだ、というお話で・・・なんか、これもちょっと「ノエオンの技法」に関係してくるかもしれません。

    即師匠は、<真似る人>がやってるのは、対象を「実際にあるとおりに」真似ることではなくって、「見えるとおりに」真似ることだ、と言うんですね。だから、できあがったものは「実相」そのものではもちろんないし、「モノ」そのものでもないし、そのふたつより下位に位置づけられる、真似ごとの「写像」でしかない。それで、ここを読みながら私が連想していたのはセザンヌの絵のことだったんですが、セザンヌは、絵画の分野において、かなり「実際にあるとおり」に近いポイエーシスの技法を確立した人なのではないか・・・なんてことを考えたのですが、違いますでしょうかね? ノエオン的に言うと、「1ノエオン」が、たとえば「1つの視点から受けた印象」だとも言えるとすると、セザンヌの絵っていくつかのノエオンをそれまではちょっとなかった仕方で、「実際にあるとおり」を反映させる形で結合したものなのではないかなあ、と。

    とりあえず、テクニカル・邪ー言でもってウソだらけのノエオン結合をやっている学者先生たちは、ちょっとコギトンが強すぎるようですから、ここはやはりポニョエオンでも注入して・・・なんかイミフメイ・児ゃー言になってきました・・・

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/8/31 9:18 by IKA

    aakuraraさん、雨天さん、こんにちは。

    ノエオンは、丸楠さん的?にいえば、「疎外を起こさない最小単位」ということなのかもしれません。要するに、「自分が自分でおられる最大範囲」とでもいうのでしょうか……なんか、袋があって、それに「じぶん」と書いてある。で、この中にいろいろ詰めていって袋がぱちんとはじけない最大容量と申しますか……限度以上詰めようとすると袋が破けて中身が自分の外に溢れでちゃうので、なんか「受け皿」がいるようになります。ところが、この「受け皿」はすでに自分ではないので、それを無理矢理「自分化」しようとするのですが、その時点ですでに「自分」という袋は、「外の世界」から「見られる」という姿も獲得していくことになるのでしょう。カラオケで1ノエオンを気持ちよく歌っているときなんかが、この袋がぱんぱんに張ってまさに破れんとする限界なのかなあとも思います(といって、私はカラオケはやらないので想像なんですが)。

    逆にいうなら、「自分」というものは、1ノエオンの範囲内ならば「無」でも「全世界」でもいられるってことなのかも。ロックさんの<魂>の思考と<知性>の思考の問題も、なんかここに関係してくるような気がしないでもありません。イカ式胴体思考によりますと、「魂の思考」というのはつねに1ノエオンそのものなんですよね。魂は他者をもたないといいますか……ところが、「知性の思考」になりますと、それはつねに1ノエオンを越えるものであるように思います。「知性の思考」さえ1ノエオンに収まってしまうのは、それはもう「神」しかないのかなと。やっぱり神は、他者をもたない。この点では、魂と神は共通していると思うんですが、ただ神の方は「知性の思考」においても他者をもたない(疎外されないということかな)という点で、やっぱり並の魂では逆立ちしても及ばない「大物」なんじゃないでしょうか。

    ただ、人間の魂が「神」に肉薄できる唯一の方法があって、それが禅でいう「悟り」ということなんじゃないかと思います(再び胴体思考です)。「悟り」は他者をもたないというか、その状態では「自分」と「他者」の間に、おそらく「疎外」という状態が解消されてしまっているんじゃないかと思います。西洋思考的にいえばスピノザの「テオーリア」なんかもそうじゃないかという気がするんですが……ようするに1ノエオンが限りなく大きくなって、ついに全部になってしまえば、もう「自分」も「他者」もない……おそらくはここでパトスの波もロゴスの結合力もすべて静まり、消え去って、水面はまったくの「平ら」になってしまうのでしょう。……自然を「有機化」としてとらえるのは、対照的に人間の「非有機化」力が前提されていると思うのですが、ぜんぶが1ノエオンになってしまえば「有機化」という上昇力も「非有機化」という下降力も相殺されてすべては水平になる……

    ミメーシスの問題からいうと、セザンヌのやろうとしていたことは、「空間の模倣」みたいなことだったと思います。要するに、3次元の空間を2次元の平面に模倣するということで、これはあくまで「モノ」ではなくて「空間」の模倣だったという点がそれまでにないユニークな試行だったと思うのです。……でもまあ、「空間」というのは実際にはなにもないので、キャンバスの上には「モノ」を描くのですが、描かれているのは「モノ」ではなくてあくまでも「空間」なんだと。これは、セザンヌの作品を「理解」する上で、決定的に重要になるところではないかと私は思います……このあたりは、実際に油彩を描いている人だと感覚的に理解できるのですが……「色」を「タッチ」でキャンバスの上にちょん!と置くだけで、その「空間」がびゅーんと飛びすさって数km離れたサン・ヴィクトワールの山肌まで行ってしまう……で、またちょん!と置くと、こんどはまたどぴゅーんと近づいて数センチのところまで……

    これはおもしろい!うーん、なかなかやめられないゲームみたいなもんですね。セザンヌさんはちっとも作品を完成せず、いつまでもいじりまわしていたらしいですが、キャンバスの上でこんなに面白い「空間ゲーム」をやってたんじゃあ、それはきりがないでしょう。……ということで、セザンヌさんにとっては、朝描き始めてからお昼に一服するまでノエオンが伸びきっていたのかもしれません……実際に、私の知り合いにこういう絵描きさんがいまして、朝、絵を描き始めて5分くらいたったかなと思ったら、奥さんが「お昼ですよ」と呼びにきた……と。ホント、幸せな方々だと思います。ただ、私の知り合いは絵が全然売れず、実生活では1ノエオンは瞬間くらいしかなかったのかも。セザンヌさんも認められるまではえらく苦労なさったそうですが……絵描きって、キャンバスに向かっている時に膨れ上がったノエオンを、あとで実生活でたっぷり回収しなければならないのかもしれませんね。(まあ、ミュージシャンもそうかも)

    話がそれましたが……「セザンヌは、絵画の分野において、かなり「実際にあるとおり」に近いポイエーシスの技法を確立した人」……これは、おっしゃるとおりだと思います。結局「空間」というものがえらい曲者なのかな。「見えるとおりに」真似る……となると、これは「写真術」がけっこうそれをやっちゃってるので絵描きは失業してしまいますよね。でも実際には、まだ職業として残っている……「実際にあるとおり」というのがどんな状態なのかあらかじめわかっていれば問題はないのですが、それは描いてみなければわからない……セザンヌ以前から、絵描きは「マッス」というのでしょうか、「量感」をキャンバスに再現しようとしていましたが、それは写真術ではちょっと及びがたい。あるいは、人間の皮膚の下の動脈や静脈や筋肉、そして骨の様相まで……これも、写真術では限界のあるところなのでしょう(東洋の絵画はまた全く違いますが)。

    セザンヌに比べると、ピカソは「空間のミメーシス」をかなり意識的に、あるいは方法論としてやっているという感じを受けますね。アトリエ「洗濯船」に遊びにきている数学者からいろいろと最新の「空間理論」を聞いていたみたいですが……この問題は、現代でもずっと「平面作家」の課題として継承されていて、その「回答」の一つが「インスタレーション」なんだと思います。インスタレーションは、そういう意味で、「彫刻」とはまったく出自が違うということのようです。インスタレーションをやっている作家さんで、元々は平面作家でしたという方が意外に多いのも、そこからきているのではないかと感じます。うーん、この問題は、発展していくと、じゃあアニメではどうなの?映画ではどうなってるんかな?というように際限なく膨らんでいく可能性もあります。映画だと2D、3Dみたいな言い方をしますが、実は単に「立体的に見える」という単純なことではなくて、この問題には人間が世界に生きるその地点における「野江温」問題もからんでくるような気もするのですが、長くなりますので、とりあえずこのあたりで……。

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/10/12 10:04 by aakurara

    雨天さん、IKAさん、こんにちは。

    たいへんご無沙汰をいたしました(もうひと月以上も!)。之絵恩、なんだか深いですね・・・たとえば「家」なんていうのは、典型的な「多ノエオン構造体」になっているように思います。「私のモノ」がいっぱいあって、それぞれが「私の一部」でもあり「他者」でもあり、まさしく「私の受け皿」そのものです。

    さいきんは、井筒俊彦さんの『意識と本質』を読んでいたのですが、そこで井筒さんが論じている「存在の絶対無分節」というのが、まさに「1ノエオンの境位から見られた存在のありかた」であるような気がします。「他者をもたない」という状態ですね・・・井筒さんによると禅の「悟り」というのは2段階あって、「神的1ノエオン」の境地に至って「ぜんぶが1ノエオン」となるのが1段階目。次に、ふたたび全存在が分節されてゆくのが2段階目なんだそうです。ただ、そのときの分節は、無「本質」的になされるとのこと。「すべてが水平」の汎1ノエオン状態から、1ノエオンのまま世界が立体感と動きを取り戻す・・・というような感じでしょうか。

    なんか私はいわゆる「東洋思想」というものを全然勉強してこなかったので、井筒さんの本、いろいろ勉強になって面白かったです。

    セザンヌの「空間の模倣」というのも、「1ノエオン的無『本質』分節」の絵画的実践なのかな? 「モノ」を描くということになると、そのモノの「本質」をキャンバスにとらえる、ということになりますが、そうではなくて「モノの本質」はないものとしてそのモノを描く。と、それは結局「空間」を描くことになる・・・のではないかという気がします。で、ふつうの(?)印象派の場合、「光」とかモノの「色」とかには「本質」を認めているのに対して、セザンヌの場合は無「本質」的分節のレベルがもっと高くて、「空間」が相手になっている。という、にわか理解をしてみているのですが、いかがでせうか。

    「光」や「色」をとらえるのは、人間に備わった「感覚」ですから、それらに「本質」を認めるということは、根底的にはやはり「人間中心主義」ということになるのかな、という気もします。これに対して水墨画などでは、「見ている私」を限りなく消去することが目指されているように思われます。その結果として、世界が無「本質」的に立ちあらわれてきて、「私」も含めたすべてが「空間」になる・・・水墨画の極意というのは、それを「水平」に描くのではなくて、立体的・躍動的に分節されたものとして、ただし無「本質」的に分節されたものとして描くことにあるのでしょうか。

    うーん、なんかあやふやなことばかり申しておりますが、「彫刻」というのは基本的に有「本質」的なアートなのではないですか。でも、「仏像」とかになると、またちょっと違うのかな? インスタレーションは、なんか「脱構築」といったイメージがあります。ピカソについては、数学者の岡潔さんが、彼は「無明」の画家であると(つまり、「悟ってはおらん!」と?)おっしゃっていたのが印象に残っていますが・・・「空間のミメーシス」を「方法論」としてやっている感じがするというのは、結局それを、なんというか、存在論的必然としてやっているわけではない、ということなのかもしれないですね。

    「立体的に見える」という単純な問題ではないという点は、別のところで書いてらした「りんかく」の問題にもつながるのではという気がしますが、なんかお話の方向をそらしちゃったかもしれません・・・

  • Re: 森の神が死んだあと

    2011/10/15 22:15 by IKA

    aakuraraさん、雨天さん、こんにちは。

    井筒さんの『意識と本質』は、ちょっと前に私も図書館で借りてきました。でも、結局ほとんど読めないままに返してしまいました。また借りてこようかな。学生時代に一部を読んだ『神秘哲学』は印象的でした。井筒さんのように、言葉(言語)の段階から東西両方の世界をきわめた方はなかなかおられないので貴重ですよね……「存在の絶対無分節」というのは、なんとなく西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」と通じるような気がするんですが、どうでしょうか。禅の悟りのお話では、「十牛図」の「牛を見つけるまで」と「牛を見つけてから」が対応するような気がします。

    それで、これをイカ式に解釈させてもらいますと(……すみません、またトンデモーソーです。ちょっとおつきあいください)……脳内のシンクユニット(おそらく物理的には何個かのニューロンの組み合わせ)は、本人の意志に関係なくそれ自身のアルゴリズムでくるくると常に回転してるんですが(pcのクロック周波数みたいに)、西洋的な思考方法では、そういうおびただしいシンクユニット群をできるだけコントロールして「整合性」の中に組みこんで、全体が理性に沿った秩序立った働きをするようにということを考える。しかし、禅ではその方法をとらない。

    禅では、脳内の制御棒を全部さしこんで、いったんすべてのシンクユニットの働きを「完全停止」させてしまう。これが、「ぜんぶが1ノエオン」になる段階で、十牛図でいうと「牛を見つけるまで」ということじゃないかと思うんですね。こういう状態を「悟り」と呼ぶ……と。一旦この状態になれば、あとは、少しずつ制御棒を抜いていって、全体をコントロールしながらシンクユニット群の活動を再開させていく。これが「1ノエオンのまま世界が立体感と動きを取り戻す」段階で、十牛図でいうと「牛を見つけてから」ということになるんじゃないかと……ともかく一旦「完全停止」させるというのが、いちばんキモのところではないかと感じます。

    これって、シンセサイザー音源の考え方にちょっと似たところがあって……シンセサイザー以前の電子楽器というのは、サインカーブの音源をまず作っておいて、それに倍音を合成していっていろんな音色をつくりだすというものでした。ところが、シンセサイザーの場合には、まず「すべての倍音を含む波」をつくっておいて、そこから引き算していくことによっていろんな音色をつくるらしいんですね……なので、「倍音合成法」ではできなかったような音色も可能となる……なんせ、最初に「ぜんぶ」が入っているわけなので。産業用ロボットを動かす場合でも、まず「ニュートラル位置」を決めておいて、すべての動作はそこから考える。一つの動作からつぎの動作に移るときに、かならず一旦「ニュートラル位置」に戻るようにプログラムするとスムーズにいくんだそうです。

    うーん、なんか、禅がロボットになってしまいましたが、そんなことを連想してしまいました。ところで、セザンヌにかんしてですが、彼の絵は、私は、「空間のなぎさ」みたいなものに筆をおいているのではないか……と思うことがあります。海(空間)と陸(もの)が出会う場所が「空間のなぎさ」であり、また「もののなぎさ」でもある。セザンヌは、執拗にこのなぎさをめぐり、そこにみずからの影をおとそうとする。……こんな感じでしょうか。空間を「空間」としてつくっていこうとすると、それは建築家の技となる。ものを「もの」としてつくっていこうとすると、それは彫刻家の技となる。そのどちらでもなく、両者がであう「なぎさ」を描くのが、むかしから画家の仕事だった。……そんなふうに感じます。

    絵は、「もの」を描いているように見えるけれども、実はものの表層、ものと空間のであう「なぎさ」を描いている。……しかし、多くの画家は、そのことに気づいていない……絵は、「もの」に吸い取られるとき、必ず説明的になります。それは、ものの色、かたち、質感、明暗、そしてなりたち……そういういろいろなことを説明しようとするから。ところが、そのような「説明への情熱」が「もの」を観念の世界へととりこみ、「もの」はアタマの中に拉致されて、アタマの中でのもの、理解できるものとなっていく。しかし、「そこにあるそのもの」は、それはとうてい理解できるものではありえない。それは……「なまの視覚」だけにプレゼントされる「ものと空間のなぎさ」そのもの……それが一瞬でも動けば、それは「理解できるもの」へ拉致されてしまう、そういうあやういドライアイスの花のような……。

    この世界は、ほんとうはどういうものなんでしょうか。視覚は、なにをもってわれわれを裏切り続けるのか。……セザンヌは、一瞬にあらわれるこの神秘的な「なぎさ」を理解しようとしたんですが、それはおそらく、「もの」の「理解しやすさ」の全否定であり、そこでわれわれは「なまの視覚」に出会う…… おそらく、そんな構造が彼の作品にはいつも現われているような気がします。ところが、ピカソなんかだとこういう「無菌状態」を打ち破って「雑菌」を山のように投入するんですね。数学でも科学でもアフリカ彫刻でも文字でも情念でも……たぶん、ピカソは、本質的に「絵がうまい」人なんだと思います。これに対してセザンヌは本質的に「下手」な人……なので、彼は手が動きにくい。ピカソはもう自動的に手が動いてしまうので、とにかくなんでも描いて(描けて)しまう……

    だから、ピカソの真というものは、実は「描く一瞬」にあるのだと思います。そこだけが真実であって、できたものはこの世のものだから何が入っていようが一向にかまわない……これに対してセザンヌは、長い長い「描いていく道のり」がすべて真実なんですね。要するに「無菌状態」を保持する。岡潔さんがピカソを「無明の画家」といったのは当たってるんじゃないかと思います。彼にとってはとにかく「描く」ことだけが真実で、あとはなにが入ってこようが一切かまわず、すべてを自分の作品にしてしまう……「自分の作品から何をひきだしてもいいよ」と彼は言ってるような気がします。雑菌だらけなんだけど、その雑菌のすべてをねじふせて最終的に「自分の絵」にしてしまう力はまさに地獄の大王のような……

    おそらくピカソの考えでは、絵というものは「描いているとき」にしか存在しないものなんでしょう。一瞬あとでは、すべてが「説明」に堕してしまう。そういう意味では「作品をつくっている」という意識はなかったんじゃないかなあと思います。ところで、水墨画については、私はやっぱり村上華岳の「墨牡丹」を思い出してしまいます。……墨一色なのに「色」がある。しかも、なにかものすごくなまめかしい……なぜ、あんなことができるんだろうと思うのですが……絵描きさんは不思議です。「描く」という行為は正直で、全部がそこに現われてしまう。「描く」ことで隠すことはできないのですね。立派な絵描きさんでも小さなこどもでも、それはまったく一緒です。もしかして、世界はすごく単純なのかもしれません……。

    ↓村上華岳の『墨牡丹之図』です。これは国立美術館のものらしいです。
    <リンクURL>
    ↓このサイトでは、絶筆の「墨牡丹」が見られます。
    <リンクURL>

満足度データ

崖の上のポニョ
100点
73人(7%) 
90点
83人(9%) 
80点
158人(17%) 
70点
181人(19%) 
60点
172人(18%) 
50点
95人(10%) 
40点
55人(5%) 
30点
29人(3%) 
20点
27人(2%) 
10点
32人(3%) 
0点
12人(1%) 
採点者数
917人
レビュー者数
325
満足度平均
64
レビュー者満足度平均
63
ファン
64人
観たい人
396人

 

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遂にブルーレイ&DVDが登場! 『パディントン』が愛される理由 ブルーレイ&DVD 8月3日(水)発売
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