モーツァルトの頭の中
2008/3/4 12:22
by
素朴な意見
このアニメ作品は、非常に面白いことに気づかせてくれる物語だと感じました。
それは、つまり、一言で言うと、
「モーツァルトの頭の中では、一体どのような音が鳴っていたのか?」
というような疑問を起こさせてくれる、と表現すれば良いかな?などと思います。
たぶん、今日にまで残っている「楽譜」が示しているものは、モーツァルトの頭の中で鳴っていた音の、最大公約数的な、紙の上に表記できる部分にしか過ぎないのではないか?と自分には感じられていまして、本当にモーツァルトの頭の中で鳴っていた音というのは、(それがもし可能であるとするならば)モーツァルトという人と完全に共鳴することのできる、本物のパフォーマー(ピアニスト)の、しかも頭の中においてでしかあり得ないのではないか?などと考えます。
卑近な例をあげた方が分かり易かろうと思うので一つ例を挙げますと、例えば足をどこかにぶつけて痛い時に、その痛みを後の世の人にも分かるように残そうと考えた場合、恐らく紙に文字で書いて残す事になるでしょうけれど、普通の人には「ズキズキする」とか「刺すように痛い」などとしか書けないでしょう。文才のある人でも「体のその部分の感覚が、行き場を求めて熱く膨張し、そしてすぐさま元のその部分へと鋭く収縮するような、自らの心の注意をそこに引きつけんと足が欲しているかような感覚」などと書いたりするのがやっとでしょう。
自分の身に起こった感情や感覚などというものを「残る形で」しかも「完全に」表現するなどということは、意外にも非常に困難なことであったのだと、初めてのように気づきます。
さて、そういうわけで、
モーツァルトが自分の頭の中で鳴っている音を「楽譜」という形では(たぶん)完全には残せなかったであろうことと同様に、如何に優れたパフォーマーであろうとも、自分の頭の中で鳴っている音を「ピアノを弾く」という手段で再現することも非常に困難なのであろうという思いに至ったりするのです。
それだからこそ、芸術家は次々と作品を世に送り出さずにおれなかったり、逆にいつまでも未完成なまま何年も費やしたり、パフォーマーは飽くことなくレッスンに明け暮れ、パフォーマンスを高め純化することをやめることができなかったりするのではないだろうか?などとも考えます。
「自分の音を見つける」とか「こ、これは、私の音だッ!」などという台詞が出てきたり、何人ものモーツァルトが、主人公の少年がピアノを弾こうとする周りに出現するのが、そのことを象徴している感じがして、実に深いことを語ろうとしているアニメなんだな、と思います。
に、対して、「如何に楽譜通りに弾けたか?」が審査の基準であるかに思えるコンテストが、とても滑稽に見えてくるのが面白かったです。
(まあ、小学生が対象のコンテストなので、そういう基準も「アリ」とは思いますが…。)
「芸術とは何か?」とか「ある楽曲を弾くとはどういうことか?」とか「絵画を見るとは?」「映画を鑑賞するとは?」などという疑問が次々と湧き出てくる、非常に興味深い、面白い、良い作品でした。
そういうことに興味がある方には、このアニメ、大変にオススメと言えるでしょう。
-
Re: モーツァルトの頭の中
2008/3/5 10:26 by
ika素朴な意見さん、こんにちは。
<「如何に楽譜通りに弾けたか?」が審査の基準であるかに思えるコンテスト>
ホントにこういうふうに思ってらっしゃるとは思えないのですが……一応異論を……
おそらく、どんなコンテストでも(クラシック系なら)、<楽譜どおりに弾く>のは大前提(弾けてあたりまえ)であって、審査の基準は、その上での、個々の演奏者の芸術性……つまりその演奏者が、その曲をどのように解釈し、どのように演奏しているか……というところに置かれるのがふつうじゃないでしょうか。
バッハなど、バロック(あるいはそれ以前)の作曲家が課題曲になる場合には、校訂版の違いによって、装飾音の入れ方などに微妙な差が生じるから、「楽譜どおり」が多重に生じるケースもあると思いますが、そういうときには、どの校訂版を用いるかについては、あらかじめ主催者側から指示があるんじゃないかと思います。
別にコンクールに詳しいものではありませんので、以上はあくまで想像ですが……
「モーツァルトの頭の中で鳴っていた音」というのも、ちょっと違うんじゃないかと思うのですが……
こう書くと、やっぱりその理由をかかなくちゃならないわけですが……今、ちょっと体調を崩していまして、論理的な文が書けない(いつもそうですが)状態ですので、これについては、また改めて書かせてもらえればと思っています。ごめんなさい。
プチ・オブジェクションでございました……失礼……。 -
Re: モーツァルトの頭の中
2008/3/5 15:53 by
素朴な意見ikaさん、こんにちは。
コンテストについての自分の記述ですが、物語の中のあのコンテストについて、登場人物たちの台詞などから自分なりに推測したことを書いてみました。
タカコの台詞で「緊張してミスする」というのがあったり、修平の台詞で「完璧だ。ミスはない」というのがあったり、海くんが落選したことについての修平くんのお母さんの台詞に「好き勝手に弾いてた感じ(だから落ちて当たり前)」というのがあったり、アジノ先生も「海くんは枠に納まらない」と言っていたり、更にコンテスト会場内の様子から海くんの演奏は人々を魅了する素晴らしい演奏であったようであり、タカコや修平も敗北を実感しているにも関わらず、審査の結果、海くんは落選であることなどから総合して、「あの」コンテストの審査基準は「厳密な意味で、機械のように正確に楽譜の通りに弾くこと」ではないのかな?などと想像をした、ということです。
物語的にあのコンテストは個性を否定するような減点法式の審査であると設定されている気がしました。
現実の、一般的なコンテストの審査基準がどうなっているかは、自分も全くの部外者でありますので知りません。
「モーツァルトの頭の中で鳴っていた音」という表現も「モーツァルトが楽譜にして表現したかったであろうもの」と言うくらいの意味で、大それた意図で書いたものではありません。
でも、「何がどう違うのか」という点はお聞きしたい感じです。
とりあえず、体調が整いましたらご意見を伺わせていただけると嬉しいです。
どうぞ、お体をお大事になさって下さい。
では。 -
Re: モーツァルトの頭の中
2008/3/5 17:30 by
じょりちょこ本作を見ていないので的外れかも知れません。あらかじめ謝っておきます。
自分はそれほど音楽に打ち込んでいたわけではありませんが、多少学生時代にラッパを吹いていた経験から言わせてもらいますと、学生レベルのコンクールですと、課題曲があたえられているケースが多いです。課題曲の演奏に関して言えば、解釈が問題になるケースがないとは言えませんが、まずは正確に演奏できることが求められます。というか、技術の差がわかりやすく出るような曲が課題曲に選ばれます。
とはいうものの、これは不思議なもので、どういう音を鳴らしたいか?という意識の持ち方で、出てくる音が変わってくるのも確かなことです。合奏の場合、指揮者の意識が全体の音の感触を大きく左右します。その部分が採点に影響しないとは言えません。
僕自身はコンクールの採点側にまわったことがないので、本当のところはどうやって採点しているのかはわかりませんが、技術的に正確に演奏することも採点されるだろうし、表現の意図も採点されるだろうと思って練習していた記憶があります。
「モーツァルトの頭の中で鳴っていた音」というのは少し面白い指摘だと思います。
アメリカのロック界にフランク・ザッパというアーティストがおりまして、彼はかなりのテクニシャンであるにも関わらず、
「自分のメインの楽器がギターであるという理由で、ギターの構造的な限界に制約されて作曲してきた」
と述懐しています。彼がこう述べたのは、シンクラヴィアという当時としては画期的なシンセサイザーを手に入れた結果、ギターの構造に制約されない音楽を書けるようになったためです。
彼のアルバム「Jazz from hell」は全編シンクラヴィアによる演奏がフィーチャーされており、批評家から「まったく人間性がない」とまで言われました。このアルバムについて、ある日本人が「これこそザッパの頭の中に鳴っていた音楽なのではないか」と指摘していたのです。
そのことを思い出しました。
モーツァルトの作曲が素晴らしい背景に、彼がピアノ奏者として一流であった可能性は大いにある気がします。
と同時に、モーツァルトといえども、使用している楽器に制約されて作曲していた可能性もありそうですし、素朴な意見さんのいうように、モーツァルトの頭の中で鳴っていた音は楽譜には写しきれていないとも言えると思います。
ただ...モーツァルトの演奏家たちは、モーツァルトの楽譜を非常によく研究し、作曲当時のモーツァルトの手紙を読んだり、過去の演奏家たちの解釈を咀嚼したりしながら、モーツァルトの意図を推し量ろうとしてきました。そういう意味では楽譜に書かれている以上のものを演奏家たちはイメージしてきたのです。
ある種の天才的な演奏家が、そういった蓄積なしに、本質をズバリつかみとって演奏する可能性はないとは言えないと思いますが、しかし、それはモーツァルトの楽譜をモチーフに個性的な演奏をし、たまたまそれがモーツァルトの意図とマッチしていたという方が正しい気がします。
ジャズは実際そういう音楽で、楽曲はモチーフに過ぎず、演奏家たちはいかにして自分の個性やそのときのフィーリングを表現するかに腐心しています。
なにかとりとめもなくなりましたが、何が言いたいのかと申しますと、クラシック音楽においては正確な技術というものは非常に重要であるし、また、正確な技術に裏打ちされて花開く才能というものもあり、さらには技術だけでは不十分で過去の作曲家/演奏家について学ぶことも、新しい技術/楽器について学ぶことも、みな価値のあることだということです。
(もっともコンクールのためだけに練習するのは、寂しいことだとは思います。) -
Re: モーツァルトの頭の中
2008/3/5 17:56 by
素朴な意見こんにちは、じょりちょこさん。
ご意見を頂いてありがとうございます。
日本のアニメ作品がお好みかどうか分かりませんが、たぶんこの「ピアノの森」は気に入られるのではないかと思います。
音楽の「技術と個性(表現?)」と言った感じのことが大きなテーマの一つになっていると思われ、愚直に技術を磨く努力型の少年と、「ピアノが好き」ってだけでどんな曲をも弾いてしまう天才型の少年とのピアノ対決のようなお話になっています。
そして、「個性(表現?)が大事」という事も大きな主張なのでしょうが、「基本はもっと大事」みたいなこともしっかりと語られていて、非常に「芸術の技術と個性(表現?)」のようなことに興味を引かれる良い作品でした。
よろしかったらご覧になって頂いて、あらためて感想など投稿していただき、それを読まさせて頂けると、自分としてはとてもありがたく喜ばしく思ったりします。 -
Re: モーツァルトの頭の中
2008/3/5 22:32 by
ika素朴な意見さん……
たしかに、ミスタッチは減点の対象となるでしょうから、その点で、出場者たちがピリピリしているのはわかります。
でも、だからといって、「厳密な意味で、機械のように正確に楽譜の通りに弾くこと」が審査基準になっているわけではないと思いますが。
やっぱり、楽譜どおりに弾いた上での、<表現力の発露>が、求められていると思いますけれど。
自動ピアノというのがありますよね。
ロール穿孔紙が回転して、その情報どおりにピアノが自動演奏を行う……
あれはあれで、「やけっぱちの正確さ」みたいなものがあって面白いんですが……
でも、「人」が弾く以上、その人の「全人格」をかけた演奏というものが、求められていると思います。
でも、やっぱり、「枠」みたいなものは、あるみたいですね。
楽譜どおりに弾いていても、表現力が「枠」を超えるとダメみたいな……。
グレン・グールドの演奏するモーツアルトのピアノソナタは、私はものすごく面白いなあ……と思うのですが……
日本の音楽教室の先生の中には、「こういう弾き方をしちゃだめよ」みたいな、悪い見本みたいに言う人もおられるようです。
だから、コンクールの枠としては、「楽譜どおりに正確に」ということじゃなく、「表現が、ある一定の枠を超えちゃダメ」ということなんじゃないかと思います。
海君の演奏は、この「枠」を超えてしまったのでしょうね。
音楽の世界も、師弟関係の、派閥の世界のようなものは当然にあるでしょうから……
審査員だって、多少ともそういうものに、縛られているでしょう。
そういう「馴れた表現の世界」をほんの少し超えるものは、「おお、すばらしい」ということで賞賛されるが……
海君のように、まったくそういう「枠」にはまらない演奏は、いくら聴衆が感動しても「評価外」となるのでしょうね。
なんか、やな世界ですが……
ま、人間の世界ってことですか……
(天才は、ときおり、人間にあらず?)
「モーツァルトの頭の中で鳴っていた音」については、もう少し待ってください…… -
Re: モーツァルトの頭の中
2008/3/6 9:10 by
ika「モーツァルトの頭の中で鳴っていた音」について。
「音」も「音楽」も、「震動」を伴うパフォーマンスをまって、はじめて完成されます。(要するに、「存在」となる)
モーツァルトの頭の中にまず完全な「モーツァルトの音楽」があって、個々のパフォーマンスは、近似的にそれに近づくのみ……ではなく、逆に、「モーツァルトの音楽」は、個々のパフォーマンスにおいて、はじめて誕生する……ということだと思う。
チェロの大御所、カザルスのエピソードだったと思いますが……カザルスは、毎朝、ピアノでバッハの「平均率」を1曲ずつ弾いていた。すると、庭師の女性が、その調べを覚えてしまい、仕事中に鼻歌で、バッハの「平均率」を歌うようになった……。
この、庭師の女性において生じている「平均率」は、まぎれもなくバッハの「平均率」の完成形であり……たとえそれが、1声部のみの不完全なものであったとしても……それは、バッハ自身がかつて奏でた調べと同等の意味を持つ「音楽」なんだと思います。
だから、おそらく問題は、「人に聞かせる」というところにすべて生じるのでしょうね……。
今は、これ以上考えられなくなっております。
とりあえず、考えたところまで……
中途半端でごめんなさい。 -
Re: モーツァルトの頭の中
2008/3/6 20:13 by
taruここで皆さんが議論なさっていらっしゃるようなことが、正に今ショパンコンクールで演奏中の海君をめぐって展開されています。
この「ピアノの森」という漫画は、例えば主役の海君の目線だけで構成されているのではなく、時には修平や他のコンクール参加者の目で、また時にはコンクールの審査員の目でという風に、色々な登場人物の目を通して描かれてゆくのが一つの特徴だと言えるのですが、ショパンコンクールの審査員たちがどういうことを考えて審査しているのかというようなことも出てきて、実に興味が尽きません。
。。。が、今なぜか連載が途絶えているんですねぇ。連載が再開されたジャンプの「ハンター×ハンター」に負けず、こちらも怒涛の再開を願って、みなさんで応援しましょう。
失礼しました。m(__)m -
Re: モーツァルトの頭の中
2008/3/7 9:28 by
ika「モーツァルトの頭の中で鳴っていた音」について、もう少し……
この問題は、一時期盛んだった「ピリオド楽器」のブームのことを考えてみると、わかりやすいかもしれないと思いました。
「演奏は、作曲された当時の楽器で」という考え方です。
こういう考え方は、戦後、古楽の演奏分野でとくにクローズアップされてきたもののように思いますが……それまでの、ロマンティシズムにあふれた思い入れたっぷりのバッハ演奏などを批判して、一種「原典に還ろう」的なムーブメントとして展開されたと思います。
私たちも、バッハのブランデンブルク協奏曲なんかをピアノでやっているのを聴くと、チェンバロでやるべきじゃあないの……?なんて思いますが……その考え方をかなり極端まで詰めていって、一時期は、相当厳密にやったみたいです。
今、私の手元にある一枚のディスク……
「J.S.バッハ 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」
演奏者はシギスヴァルト・クイケン。録音は1981年です。
(シギスヴァルト・クイケンは、この曲を、後にもう一度録音しているが、これは最初の録音)
ピリオド楽器にガット弦を張り、弓も当時のもの、奏法も当時の奏法を研究して……と、とにかく、これでもかこれでもかと、「バッハ当時の演奏」に近づけた。
でも……結果は、なんともぎすぎすした響き……
少なくとも、私には、そうとしか思われない。
なんせ、ルバートがありません。
当時のクイケンさんにとっては、もうどんな演奏も、ロマンティックすぎる……と思われたのでしょう……いっさいルバートを廃して、それこそ「楽譜どおり」に「機械のように正確に」弾いています。
とくに、パルティータの方は、元来舞曲だから……というのでしょうか、ルバートを廃することによって、舞曲のリズム感を回復しようとしている印象……しかし、やっぱり「バッハのシャコンヌ」では踊れないでしょう……。
ピリオド楽器ブームは、このように「当時の演奏」の復元のような試みにまで進化し……それは、バロック期を越えて、モーツアルト、さらにベートーベンの交響曲まで当時の楽器と編成で……というところにまで進みましたが……現在は、かってのような「熱気」も薄れて、だいぶ沈静化してきたようです。
今思うと……やはり、この試みは、頭が勝った、理念的すぎる挑戦ではなかったか……と思います。
音楽は、頭で考えるものではなく……やはり、実際に耳で聞き、味わうものなので……先のクイケンさんのディスクのように、理論的にここまで詰めた、これが、バッハの「本当の音」だ!さあどうじゃ!……といわれてもなあ……ということなのでしょう。
「モーツァルトの頭の中で鳴っていた音」というのは、私には、なにか、この「ピリオド楽器ブーム」と似たようなものを感じてしまうのです。
要するに……これは、もっと大きな問題でいえば……本質的に、「時間」というものは、存在しない……ということじゃないでしょうか。
「過去」も、「未来」も存在しない。
あるのは「今」だけ。
「音楽」は、とくにこの要素が強いと思います。
だから、「音楽」においては、パフォーマンスが行われている「今」がすべてであって、そこ以外には、その「音楽」は存在しない。
海君の演奏に、聴衆が感動した……ということは、今、そこで、響いている「音楽」を、聴衆は、心の垣根を取り払って「全て受け容れた」ということでしょう。
立場上、「心の垣根」を保持せざるをえない審査員には、それができなかった……
これは、なんだかかわいそうな気もいたします。
*あの会場のピアノ、モダンピアノでした。
コンクールが「モーツァルトの音」にこだわるなら、まずピアノを、ピリオド楽器にしなくちゃあ……
taruさん、マンガの方の情報、ありがとうございます。
そうなんですか。ショパンコンクール……
「この「ピアノの森」という漫画は、例えば主役の海君の目線だけで構成されているのではなく、時には修平や他のコンクール参加者の目で、また時にはコンクールの審査員の目でという風に、色々な登場人物の目を通して描かれてゆくのが一つの特徴だと言える」
なるほど、そうだったんですか。
私は、レビューの方で、この映画が、海君の視点と修平君の視点の間でゆれていて定まらない……という点を、実は「欠点」として挙げたのですが……元々の原作が、そういう複数視点だったのですね……
原作を読んでみたくなりました。
連載再開するといいですね…… -
Re: モーツァルトの頭の中
2008/3/7 13:59 by
素朴な意見ikaさん、こんにちは。
自分が書いた「モーツァルトの頭の中で鳴っていた音」という文言をikaさんがどのように感じたのかがなんとなく分かりましたが、自分が本来言いたかった意味とは逆に伝わってしまったようです。
自分が言いたかったのは、モーツアルトの頭の中では、楽譜に表現されているよりも、もっと自由に、もっと豊かに、もっとモーツァルトらしく音楽が奏でられていたのではないか?と思うという意味で書きました。
そしてそれを当時の楽器で弾いたり、楽譜にすることで表現して後世に残そうとした途端、頭の中ではあれほど美しく豊かであった音達が、限定された、貧弱で、不自由な音になってしまったのではないか?という疑問でもあります。
ですから「モーツァルトの頭の中で鳴っていた音」を再現・再構成するには、当時の楽器へと先祖帰りするのではなく、逆により進歩した楽器を使い、(海くんがたくさんのモーツァルトから楽譜を返せと言われるあのシーンのような)モーツァルトを真に理解し得る、優れたパフォーマーによる演奏によらなければならないのでは?という想像へとつながるわけです。
そしてその場合であっても、我々が聞く演奏は、そのパフォーマーの頭の中で完璧に再現されたかも知れない「モーツァルトの頭の中の音」の、現実の楽器の限界を介して伝わる劣化コピーになのかもしれない?などと考えたのであります。
ですから、「モーツァルトの音は当時の楽器でなければ再現できない」とか「楽譜の通りがモーツァルトの音だ」などという主張と自分の考えとは、むしろ対立する関係にあると言えます。
アナログの音源をデジタル録音する時に、本来は連続しているデータを不連続なデジタル形式に変換する過程で「枠からはみ出した」データを間引きしますよね。
「頭の中の音」と「楽譜」というのが、そうい関係ではないかな?と言う感じです。
「モーツァルトの頭の中で鳴っていた音」と言う言葉の表しているものをお分かりいただけたでしょうか。
他のスレッドで「映画を見る目」という話が出たときに、自分は「それはラジオのようなもの」という例えをしたんですが、映画に限らず音楽でも、「受容・共振増幅・出力」という段階的過程が一体となった能力が、鑑賞力(○○の眼)ではないかと自分には思われるのです。
そんなこともあって「芸術とは?」「映画鑑賞とは?」という疑問が次々と浮かぶ、などということを書かせていただいたのでした。 -
Re: モーツァルトの頭の中
2008/3/8 1:37 by
ika素朴な意見さん、こんばんわ。
大変論理的、かつわかりやすい返信をいただき、恐縮です。
素朴な意見さんの文章は、いつも、ほんとに流れがきれいですね。
さらさらとよどみなく流れて、停滞したり、急になったりしない……
だれにでも、きちんと通じる文章だと思います。
私の文章は、対照的に論理の飛躍が多くて、申し訳ないです。
論理的にきちんと書こうとするのですが、すぐにいやになっちゃうので……
解読?にご負担をおかけして、すみません……
さて、本論ですが……
素朴な意見さんのご見解そのものは、とてもよく理解できます。
でも、私は、どうしてもそのご見解には賛同できません。
なぜだろう……
なんか、違うと思うのですね。
たしかに、
「モーツアルトの頭の中では、楽譜に表現されているよりも、もっと自由に、もっと豊かに、もっとモーツァルトらしく音楽が奏でられていたのではないか?」
というお考えは、あると思います。
でも、まったく逆のケースもあります。
バッハに「フーガの技法」という晩年の大作があるのですが……
この作品は、今でこそ、いろいろな演奏家が、いろいろな楽器で演奏したディスクを聴くことができますが……
一昔前には、この曲集は、純粋な「楽譜上の理論的構成物」であって、実際に演奏するために書かれたものではない……と考えた人も多かったと聞きます。
ようするに、この曲集で、バッハは、比較的単純な主題から、さまざまなフーガを展開させているのですが……その手法が、たとえば、主題を倍の長さに伸ばしたり、鏡に映ったように反転させたり……ということで、もう純粋に「楽譜上」の操作の組み合わせで各種のフーガを形成していきます。
だから、これ(楽譜)を見た人の中には、「あっ、これは、楽譜上の操作で遊んでおるな。実際の演奏は意図しておらんみたいだな……」と思っちゃった人もいたんでしょうね。(実際にはそうではなかったんですが)
また、この曲集には、楽器の指定が一切なかったので……その点からも、「実際の演奏は考えていない」と思われたのでしょう。
(でも、当時は、楽器の指定をしない場合もけっこう多かったようですが)
それで、この「楽譜」を実際の楽器で鳴らしてみると……これがまた、とてもすばらしい……
なんか、「脳にしみる」……といいますか、そういう種類の音楽になっております。
(この曲のディスクでは、最近出たばかりのフランスの現代音楽家のピエール=ロラン・エマールのピアノ演奏はかなりオススメです)
私は、モーツアルトの場合も、実は、こうであった可能性もあるのではないか……と考えています。
要するに……「楽譜が全部」ということです。
これって、困った、オソロシイ考えでしょうか……
(かもしれませんね)
「楽譜」は、音楽家にとっては「ことば」であり「構造」なので……
(要するに、シンタクスとセマンティクスを同時に持つ)
私たちが、頭の中でなにか考える場合には、必ず「ことば」を用いているように、音楽家においては、自分の「音楽」は、「楽譜」と切り離せないものではなかろうか……と、このように考えてしまいます。
シンセサイザーで有名な喜太郎さんの初期のディスクに、「天界」と「大地」というタイトルのものがあります。
彼は、このアルバムにおいては、ふつうの楽譜を用いず、絵のような、グラフィックな楽譜を自分で描いていました。
こういう場合には、どう考えたらいいんだろう……
でも、おそらくシンセサイザーのいろいろなデータは、別に記憶させてあるんでしょうね(シーケンサーとか?)。
彼にとっては、それが、もしかしたらホントの「楽譜」なのかもしれません。
喜太郎さんのライブの録画なんかを見ますと……
意外に、レコーディングされたものとあまり変わらないんですよね。
まあ、ご本人やバンドのメンバーにとってはかなり違うのかも知れませんが……
私は、音楽家じゃないからよくわかりませんが……音楽家の「決定稿」といいますか、要するに「頭の中にある音楽」は、もしかしたら「無限の可能性」とは逆で、「かなり絞られたもの」である可能性が、高いんじゃないかな……という気はするのです。
ベートーベンの自筆譜で、訂正のために紙が同一箇所に十数枚でしたか、貼ってあったという有名なお話があります。
もし、全部の訂正が違った種類でしたら、そこだけで、十数種類のバージョンが、少なくとも存在したことになる。
こういうエピソードを聴くと、なんか「ベートーベンの頭の中の音楽」というものが、実際に残されたものよりはるかに豊富だった……その証左……という解釈も成り立つような気がしますが……
でも、私は、違うと思います。
結局、「決定稿」が唯一の「音楽」だったのではないか……
「消された」他の「音楽」は、「決定稿」よりすばらしく響く……ということはなかったのでしょう。
だから、消された。
そういう解釈も、成り立ちます。
要するに、作曲家は、「ベスト」を楽譜にして、世に出す。
そういうことではないか……と思います。
ものをつくる人間が……その技量が、とぎすまされていけばいくほど……
「できるもの」の範囲は、むしろ狭まっていく。
要するに、「必然性」というものが相当程度に前面に出てきて、「可能性」というものは、どんどん減少していくものではないかな……と思います。
なにか……
作品そのものが、その人を媒体として、「あちらの世界」からこの世界に、生まれ出ようとする。
そこに「立ち会う」のが「作者」であるとするならば……
作者は、身を削って……自らの「豊かさ」を犠牲に供してまでも……
「作品」の誕生を「受けよう」とするのでしょう……
これは……一種の「悲劇」かもしれません。
<懸かる>、<憑く>という言葉の、真性の意味が、そこに現れると思います。
作者にとっては……むしろ<使役感>の強いことなのかもしれないですね……
相撲なんかで、勝負がつかず、「取り直し」になることがあるじゃないですか。
その「取り直し」の相撲、なぜか、最初の取り組みとそっくりのパターンになるケースがとても多いように思います。
やっぱり、ぎりぎりのところまでいくと、「選択の余地」は、ほとんどないのですよ……きっと。
モーツアルトも、ベートーベンも、バッハも……
やっぱり同じだったと思う。
先端は、ほとんどポイントになってしまって、選択の余地がない。
そうして生まれ出るものでなければ……
この世界の「茫洋たる無感動」には、ほとんど太刀打ちできないと思います。
「天才」は、世界の中に、「すでにあるもの」を再生産したりはしないので……
受け渡された「通信」は、すでに限定的かつ決定的であり……
ゆえにこそ研ぎ澄まされた刃が、この世界の「凡庸的無感動」を切り裂くのだと思います。
「自由がある」と思っているうちは、真剣ではない。
真剣になれば、もうそこに「自由」はありません。
スピノザの考えていることが、なんとなくわかってきたように思います。
ここまで不自由であるにもかかわらず……それは、まぎれもなく「自由意志」そのものなんですね……
……すみません。
また、わけのわからない文章になってしまいました……
でも、この文章の中に、私は「真」をこめましたので……
やはり、これ以外の書き方は、できそうにありません。
乞う、ご容赦……でございます。
……ところで……
素朴な意見さん、やっぱり法律の専門家でいらしたのですね……
以前に、私の立てたスレッドに最初に書き込んでこられたときに、なんか不思議な感じでした。
法律のある分野を知悉されておられる方が……特許法をざっとさらってまとめておられる……そんな感じを受けたことを思いだします。
今、思考実験パート2のスレッドに書いておられる投稿も、みごとにわかりやすいです。
(私は参加いたしませんが、時折読ませてはいただいております)
私など、法学に遠い人間にとっては、法学を修められた方のお考えは、実に不思議で新鮮に見えます。
「世界を見る目」そのものが、異なっているのを感じます。
これからも、いろいろご教示くださいませ。 -
Re: モーツァルトの頭の中
2008/3/20 19:50 by
じょりちょこレビューにも書きましたが、ようやく観賞しました。
一色まことが苦手だったので恐る恐る観たのですが、かなりあっさりした表現になっていて、それは助かりました(ファンの方なら、キャラクター表現が生き生きしているのが一色マンガの魅力なのに...と思われるでしょうが、僕にはそこが「くどい」と感じてしまうところだったのです)。
先生が修平に「自分のピアノをもっと好きになった方がいい」とアドバイスするくだりは、非常に良いと感じました。
修平が海のコンクール参加を素直(?)に喜ぶところも良かったですね。修平が海の家を訪ねて、海にとってピアノとは何なのか、自分にとってピアノとは何のか、見えてくるくだり、そしてタカコを放っておけずに助ける海も素晴らしい。
音楽そのものの描き方は、悪くはない、という感じでしょうか(すみません)。最初から映画のために書かれたシナリオではなく、マンガの映画化なので、映画ならではの方法で音楽を描いているわけではなく、そこに若干の物足りなさを感じました。セリフで物事を説明する傾向も強く、もう少し映像と音楽だけで語るシーンがあっても良かったかなあ、と思ってしまったのです。
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