満点の理由
2008/2/29 9:58
by
ika
レビューで満点にした理由です。
<理由1>
天才少年一ノ瀬海は、「諸般の経過」で、昔スターピアニストだった阿字野先生の指導を受けることになります。
ところが、海君は、ホントの天才で、一度聞いただけでどんな曲でも弾けちゃうので、「先生の指導」の必要性を全く感じていない。
しかし……ある曲で、つまづきます。
ショパンの「子犬のワルツ」。
これが、うまく弾けない。
曲は、完全に頭の中にあるが……出力装置である指が、思いどおりに動いてくれません。
で、出てくる「子犬のワルツ」は、隣接する音どうしが微妙に重なって、まるでゴーストがいっぱい出たテレビの映像のようになってしまいます。
悔しがる海君。
その様子を見ていた阿字野先生は、彼に、音階練習を命じます。
単純に音階を、ただただ無限にくりかえすだけの運指練習。
曲でもなんでもないこのレッスンに、海は猛反発するが、それでもとにかく続ける。
すると……ころあいを見て、先生は、こういいます。
「ここまで。これで、キミは、ショパンを弾けるはずだ。」
半信半疑の海。
でも……指はすらすらと動き……みごとに弾ける!
海君、心底の驚き。
海君が、「音楽」に出会った瞬間……
そして、見ているこちらも、なんか深い感動に包まれた。
すごいなあ……と、率直に、思いました。
なるほど……「できる」レッスンって、こうなのか……と。
このエピソード、こちらが「弾ける人」ではないので、真偽のほどはわかりません。
でも、いかにも「らしい」じゃありません?……
ホントのところ、どうなんでしょうね。
私自身、以前に、バッハのいろんな曲に挑戦してみたことはあります。
むろん、先生なしの独学。自我流のいいかげんなやりかたでした。
簡単なものなら、ある程度は弾けるようになるのですが……それ以上には絶対にいかなかった。
まず、運指法は、むちゃくちゃでした。
楽譜には、ところどころ、どの指を使いなさいと音符に指の番号がふってあります。
でも、そんなの無視して、とにかく弾きたいように弾いていた。
で、頭打ちになりました。
それで、ちょっと落ち着いて、楽譜の指示どおりの指使いで弾いてみることにしました。
すると……弾けるのです。
あたりまえのことかもしれませんが……あらためて、「指使い」の重要性を思いしらされました。
あの指番号、だてにはふってないんですね。
ここは……と思われる難所につけて、手をさしのべてくれる……そういう数字でした。
指番号どおりにその音を弾くと……自然に前後の指使いも定まってきて、全体が、きれいに流れるようになります。
たった1個の数字が……実は、<全体の構築>を教えてくれるという、不思議な作用……
おそれいりました……。
と、こんな経験があったので……音階練習で、海君がショパンを弾けるようになった……というエピソードに、いたく感じ入ってしまった次第です。
また、バッハにまつわる、あるエピソードも思い出しました。
このお話は、昔、ある本で読んだが、その本は今手元になく、題名も忘却して、たしかめようがありません。(どなたかご存知の方、教えてください)
たしか、バッハに、海君のような天才的な弟子がいて、彼は、「決められた運指」の意味が最初はわからず、ずいぶんバッハと対立した……とかいうお話だったと思いますが……
ともかく、海君が「ショパン」を弾けるようになったあの部分……
ものすごく静かで、美しい描写です。
時が……しんしんと流れこんできて、いろいろなものを洗い流し……「そのものの本質」が見えてくる……
そして、そこに、「音楽の神様」が立ちます。
そういう印象でした。
最近のクラシック音楽のマンガって、すごいんですね……
「のだめ」でもそうでしたが……
「音楽」の要をはずさずに、きちんと伝えてくれます。
いやー、感動しましたね……
ということで、これが、<満点>の理由第1です。
理由第2は、また、折をみて、自己レスで書かせていただきます。
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Re: 満点の理由
2008/3/3 9:18 by
ika<理由2>
満点の理由の二つ目は、ぞろぞろ出てきた、「モーツアルトの亡霊」たち。
演奏者は、作曲家と「対決」しなければならない。
そして……作曲家のつくった「宇宙」を乗り越えて、自分自身の「宇宙」をつくる……
これは、演奏家の宿命みたいなもんでしょうね。
海には、まだ、そのこと……その本当の意味というものが、良くわかっていない。
彼は、どんな曲でもみな弾けてしまうものだから、この時点では、まだ、「作曲家の力」の意味が、わからない。
しかし……モーツアルトを弾きこんでいるうちに、少しづつ、そのことを体感しはじめます。
意識的にはまだ掴めていない、作品の「制約する力」が、それが、「モーツアルトの亡霊」たちとなって登場する……のでしょう。
これは、実に良くできていると思いました。
私は、グレン・グールドの弾くモーツアルトのソナタ集を持ってますが……これらのディスクを聴くと、そのことが、とてもよくわかります。
(この作品で、コンクールの課題曲となっていた曲も入ってます)
このディスク、お聴きになった方も多いと思いますが、「えっ?これがモーツアルトなの?」という(楽しい)驚きの連続……
深刻な表情でモーツアルトに取り組んでいた雨宮修平君にはまことに申し訳ないが、思わず笑っちゃうような、ものすごい演奏です。
特に、良く知られた曲ほど印象を大幅に外して弾く傾向があって(ホント、天邪鬼ですよね)、K331なんかはもう全く別の曲じゃない?というほど(でも、やっぱり楽譜どおりなのが不思議なところです)
グールドにとっては、モーツアルトは、純粋に「楽しめる」相手だったみたいですね……(ベートーベンなんかだと、そういう感じではないのですが)。
要するに、作曲家との「大きさ勝負」になっていて、負けると弾けない。
腕力でも知力でも、なんでも総動員して、相手をねじふせなければ、ホントに弾けたことにはならないわけです。
グールドのディスクを聴く限り、彼は、簡単にモーツアルトを葬っているような印象があります。(あるいは手玉にとっているというか……)
しかし、これがバッハになると……そこそこ格闘しているような風情を感じます。
ベートーベンについては、私はよくわからないなあ……という印象でしたが。
そして、グールドとは対照的なピアニストを一人。
キース・ジャレット。
いうまでもなく、インプロヴィゼーションの大天才。
彼が演奏した、バッハの「平均率クラヴィーア曲集」。
これは、ジャズファンも、クラシックファンも、共にそそられるディスク……
私は、バッハファンとして、買い求めた。
キース・ジャレットの、ケルン・コンサートなんかのディスクで、彼のインプロヴィゼーションの圧倒的な迫力は、脳と心にしみていましたので……
彼のバッハ、しかも「平均率」!
どんな演奏だろう……とわくわくしながら聴いてみました。
……ところが……
響いてきたのは、「まったくなんのへんてつもないあたりまえの」演奏……
え?これって、ホントに彼が弾いてるの??
耳を疑いました。
でも……平均率(第1巻)の24曲、どの演奏も、どの演奏も、みな平凡……
色でいうと、べたっと一面に曇っているけど奇妙に明るい灰色……って感じでしょうか。
がっかり……。
自分の耳が、よほど悪いのかと思いました。
ホントはすばらしい演奏なのに、肝心のところがまったく聴けていないのか……と。
でも、その後、彼のこのディスクについての2、3の評論を読む機会があり……、やはり、同様のことが書かれているのを見つけました。
それで、ちょっと納得した次第。
キースは、バッハのことを、おそらくものすごく尊敬しているのだと思います。
だから……とにかくきちんと演奏しなければ……という心が前にでて……結果として、ものすごくつまらない演奏になってしまっている。
バッハを越えるどころか、バッハという大海の前に佇んで、途方にくれている……という印象でしょうか。
演奏家にとっては、作曲家というのは、かように「難物」なのですね。
楽譜に書いてある「音」は出せても、その「意味」がわからないと、単なる「音のつらなり」にしかなりません。
コイツ、どういうつもりでこんな曲を書きやがったのか……(言葉は悪いですが)
そんな気持ちが去来して、弾きこめば弾きこむほど、わけがわからなくなってくる……
そして、そういう「わけ」を本当にわかるには、おそらく、その作曲家が生きていた、その「全体」を、なんらかのかたちで「了解」する必要があるのでしょう。
海の前には、級友の姿をとったモーツアルトの亡霊たちが現われる……
海は、おそらく、「モーツアルトの全体」を、なんとか了解しようと、悪戦苦闘……その次第が、あのような姿をとって表出されている……
やはり、うまいなあ……と思ってしまった。
モーツアルトは、時も所も、海の暮らす現代の日本から、はるかかけはなれた存在……
その、茫洋としてつかみどころのない存在を、なんとかとらえようとしたとき……モーツアルトは、海にとって身近な級友の顔をもって現われます。
この次第、平凡な学級風景が、突然「世界を救う」に結びつく、いわゆる「世界系」と似たところがあって、面白いですね……。
満点の第2理由でした。
なお、このように、時空を離れた存在を了解しなければならない……というのは、日本の「クラシック」の世界の演奏家においては、共通の課題として、少し掘り下げなければいけない問題を、本当は含んでいると思います。
文化的なグローバリゼーションの問題にもからんできて、これをやると大変なことになりそう。
この作品にしても、今回アニメ化された部分を見るかぎりでは、この問題には蓋をしたままのようです。
もう少し、この辺のところが書ければ(続きで)とは思っていますが…… -
Re: 満点の理由
2008/3/8 4:34 by
星空のマリオネットikaさん、こんにちは。
この映画に対する感想はレビューに書いたとおりなのですが・・・私も音楽は大好きです。もちろんクラシック音楽も。
ikaさんが挙げられているグールドについてはほとんど聴いたことがなく、例の「ゴルトベルク変奏曲」くらいです。キース・ジャレットは大変好きです。私が小遣いをはたいて初めて買ったジャズのLPが彼の3枚組み即興ピアノ・ソロ・アルバムでした。ただ、確かにバッハの平均律はつまらなかったですね。同感です。
子供の頃、モルダウやメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲など親しみやすい曲に耳を奪われて以来、クラシック音楽は細々と聴き続けていたのですが、暫く前にCDコレクションにすっかりはまってしまった時期があります。一冊の面白いクラシックCDのガイドブックに出会ったのがきっかけでした。「クラシックCDの名盤」という小冊子(文春文庫)です。
この本は、宇野功芳、中野雄、福島章恭という個性的な三名の音楽愛好家(指揮者や作家であったりもします)が、クラシックの名曲に対してそれぞれが愛する演奏(CD)を紹介し、その演奏がいかに素晴らしいかを競い合うというユニークな趣向のガイドブックです。寸評を読んでいるだけで、素晴らしい音楽に実際に触れているようで、気分が高揚するほどです。
同じ曲でも演奏家によっていかに違った演奏になるか。寸評を読むだけでもその違いが浮かんでくるのですが、実際にそのCDを入手し聴いてみて、この曲がこんな風に聴こえるのかと驚かされたこともたびたびです。その演奏が作曲家が意図したものかどうかは分かりませんが、現にいま存在するのは演奏家による演奏しかない訳ですから、天才作曲家が残した楽譜を基に、天才演奏家が忽然と出現させた「音の宇宙」を存分に楽しみたいものです。
例えば、モーツアルトのピアノソナタでいうと、トルコの鬼才ファジル・サイが弾く「きらきら星変奏曲」なんて、他のピアニストとは全く異なる躍動感と遊び心に充ちた、まさに天上の娯楽曲です。
そういう出会いを求めて、時間があればレコード店を巡っていました。
他にもガイドブックや本をいろいろと読みましたが、特に面白かったのは、古本屋で見つけた、日本を代表する人気ピアニストであった中村紘子の著書、「チャイコフスキーコンクール」と「ピアニストという蛮族がいる」の二冊。
チャイコフスキーコンクールやショパンコンクールの審査員も勤めた彼女が描くピアニストの教育や国際コンクールを巡る歴史的考察は、臨場感に溢れ実に面白い。また、オーストラリアの野生の天才女性ピアニストの話も印象的。クラシック音楽の豊かな環境と無縁の家庭に育った世界的ピアニストは歴史上ほとんどいないようですが、彼女は稀有な存在として取り上げられています。「海」のようです。
「ピアノの森」の原作漫画は読んだことはありませんが、通じるものがあるかもしれません。
ikaさんは、最後に、時空を離れた存在・・・グローバリゼーション・・・のことについて少し言及されていましたが、「ピアニストには3種類しかいない。ユダヤ人かホモか下手糞か。」「東洋人と女性は良いピアニストになれない。」なんて、かのホロヴィッツの有名な放言もありますね。
また、世界中のコンクールを席巻している日本や中国、韓国の演奏家たちが、世界的な演奏家までにはなかなか辿り着かないという現実もあります。演奏技術を超えたところの勝負は厳しい。 -
Re: 満点の理由
2008/3/8 8:46 by
ika星空のマリオネットさん、こんにちは。
レス、ありがとうございます。
ファジル・サイですか……。
私は、彼の弾くバッハの「シャコンヌ」のディスクを持ってますが、たしかにサイ気溢れる……
モーツアルトの「きらきら星変奏曲」を弾いている姿も、なんとなく想像つきます。たしかに面白い演奏になりそう……
グールドのモーツアルト・ピアノソナタは、よろしければぜひ聴いてみてください。
なんというか……「構造を持ったモーツアルト」が浮かび上がってきます。
グールドが、旋律線の1本1本にリモコンをつけて、自在に操っている感じです。
なんであんな芸当ができるんだろう……と思ってしまいますが……
文春文庫の 「クラシックCDの名盤」という小冊子は知りませんでした。一度さがしてみます。
ほんと、出会いというか、巡り会いというか……不思議なものですね。
「オーストラリアの野生の天才女性ピアニストの話」も面白そうですね。
そういえば、オーストラリアだったかアフリカだったか忘れましたが、アフロヘアのクラシックピアニストもいるみたいですね(この人は男性)。
クラシック音楽は、生誕の地はヨーロッパ(のほぼ19世紀)ですけれど、なぜ「世界標準」になっていくのか……この現象の解明は、やはり必要と思います。(といって、私にできるわけではありませんけど)
<公平>という観点からいうならば、クラシックのピアノコンクールが日本で開かれるならば、たとえばパリやニューヨークで、日本の長唄のコンクールが開かれてもいいわけです。
でも、そうなっていません。
それは、当たり前のことに思われるけれど……でも、考えてみると不思議なことですね。
日本の学校の音楽室には、ずらりと作曲家の顔写真(絵)がかけられていますが……ほぼ全員が ヨーロッパ(のほぼ19世紀)の方々です。
これも、考えてみると、不思議な現象だと思います。
なぜ、ヨーロッパの、しかも 19世紀プラスマイナス50年くらいが「世界標準」になるのだろう……
「価値観」の問題からすれば、たとえば「クラシックは難しい」とか「モーツアルトはわからない」とかいう言葉そのものにも、無意識的に「世界標準」感覚が、すでに含まれてしまっています。
私たちは、学校で、 ヨーロッパ(のほぼ19世紀)に確立された音律である<平均律>で音楽教育を受けてしまいますが……だから、のちにいろいろな音楽分野に進む日本の若者も、この時点で、<平均律>の型枠に無理矢理押し込まれてしまっているわけで、はたして<抵抗>できるのか……
<音律>というものが、その人の<存在>と深くかかわるものであるとするならば……実は、「音痴」というものはなくて、 自身の固有の音律が、<平均律>とどうしてもなじまない……ということなのかもしれません。
日本の音律を、「ヨナヌキ」なんて言ったりしますけれど、あれも、 <平均律>から見て4度と7度が抜けている……ということで、本来は、別に、なにか足らないわけじゃなく……厳密にいえば、 日本の音律 の各音は、<平均律>の各音とは、どれも全部合ってはこないでしょう。
インドあたりだと、 <平均律>の全音のほぼ3分の1の微分音もあるとききますし。
同様の問題は、<本家>のヨーロッパでもあって……オクターブを均等に12等分する<平均律>は、 ヨーロッパの古層の<本来の音律>をかなり壊してしまっていると思います。
例えば、バッハの「平均律ピアノ曲集」ですが、このもとのタイトルは「うまく調律されたクラフィーア(のためのプレリュードとフーガ)」ということであって、これを「平均律」と訳したのは、日本特有の誤訳だと思います。
(Das Wohltemperierte Klavier 英語だとthe well-tempered clavier )
バッハ自身も、今の「平均律」で演奏していたわけではなくて、お弟子さんのヴェルクマイスターやキルンベルガーが今に伝えている音律と似た音律で演奏していたものと思われます。
(この、ヴェルクマイスター音律やキルンベルガー音律は、市販のシンセで、そのキーを持つものがあって、スイッチ一つで簡単に聴くことができます……技術の進歩って、すごいです……)
古楽の演奏家は、今では「平均律」を使う人は少なくて、 ヴェルクマイスターやキルンベルガーの音律、あるいは、さらに古いミーントーンや純正律を用いているものと思いますが……18世紀後半以降のオーケストラ主体の「クラシック」の世界では、やっぱり「平均律」が唯一のよりどころとなっているのでしょうね。
最近、フランスの現代音楽家のピエール=ロラン・エマールという方がバッハの「フーガの技法」をピアノで入れたディスクがリリースされましたが(このことは、お隣のスレッドにも少し書きました)……私は、このディスク、CD屋さんでかかっているのを偶然、聴きました。
もうびっくり。たしかに「フーガの技法」なんですが、音の響きが、まったく違う……のです。
なんか、深い、大きな存在に「抱かれている」感じというのでしょうか……胎内回帰ではありませんが……深い森の中や、海の底の静けさ……さえ感じさせる……たしかにピアノなんですけど、もうまったく違う楽器が鳴っているみたいです。
彼が、どのような調律法を用いたのか……いろんなサイトで調べてみたけれど、「特殊な調律のスタインウェイ」ということしかわかりませんでしたが……平均律でないのは確かなようですね。
話があちこちしてとりとめなく展開してしまい、失礼しました。
この問題は、また書ける機会があれば、自己レスで書いてみたいとは思っていますが、どうなりますことやら……
「世界中のコンクールを席巻している日本や中国、韓国の演奏家たちが、世界的な演奏家までにはなかなか辿り着かないという現実」
この「世界的な演奏家」というのがクセ者であって……それは、私たちの無意識的な「音楽」の受けとめかたに、深く関係してくると思います。(やっぱり、気が進まないけど「手術」の必要なところでしょう)
この映画「ピアノの森」は、たしかに<感動>なのですが(私にとって)、自分自身の、その「感動」の質に対してクリティークをはじめると……
これは、とてもやっかいなことになっていきそうな気がします。
「海君スゴイ!」
その感動で終わっとけばよかったのですが…… -
Re: 満点の理由
2008/3/8 17:41 by
星空のマリオネットikaさんのおっしゃるとおり、確かに学校の音楽教室にはクラシック音楽の大作曲家たちの厳めしい肖像画がずらりと並んでいましたね。奇妙です。今でも同じ状況なんでしょうか。
これは、日本古来の神や伝統を否定するGHQ発の一種の代替政策だったのか、或いは西洋音楽崇拝の流れから発したものだったのか?
権威の象徴のような者たちに守られた音楽室は神聖な場所となり、逆にクラシック音楽はとっつきにくい縁遠いもののように感じてしまっていたような気がします。
それはともかく、クラシック音楽の普遍的な魅力は否定しがたいものがあります。ただ、当然のことながら音楽の多様性は西洋音楽の外にも大きく広がっていますよね。
私は矢野顕子のファンです。彼女の音楽の基礎はクラシック音楽ですが、その上に、ジャズや様々な音楽を吸収しています。そこには日本や非西欧圏の音楽も含まれます。彼女のピアノの弾き語りがとても好きなのですが、彼女のボーカルが12階音以外の微妙な音を辿るときの面白さは他に類を見ません。津軽民謡(津軽三味線)が好きになったのも彼女の影響です。
グールドは演奏の一回性というものを排した特別(特殊)なピアニスト。
ライブを嫌いスタジオで自分の理想の音楽を構築した異端のカリスマという印象があります。素人の私でも彼のゴルトベルク変奏曲(81年版)のノンレガートの凄みに惹きこまれた記憶があります。
しかし、ピアニストの世界も多彩ですよね。また状況が感動を呼ぶケースも多いようです。
テクニックや体力は多少衰えていても、高齢や病魔を前に最後となったコンサートや晩年のホームライブなど印象的な演奏が沢山あります・・・バックハウス、リパッティ、ホロヴィツ。ホロヴィッツについては若き日の「展覧会の絵」等の物凄いエネルギーには圧倒されてしまいます。ルビンシュタインの鬼気迫るショパンライブや、それとは対照的な内田光子さんの内省的なシューベルトも好きです。
国際コンクールでは優秀な成績を収めることができても、その後がなかなか続かない日本の演奏家。非西洋人という不利もあるのかもしれませんが、自らの世界を築くだけでの独創性やパワーが不足しているのでしょうか。内田光子さんは数少ない例外的な存在だと思います。
ikaさん推薦のグールドのモーツアルトも一度聴いてみたいと思います。
それから、文春文庫の「クラシック音楽の名盤」に加えて、「同 演奏家篇」もなかなか愉しいと思います。こちらは指揮者や演奏家ごとに、同じ3人の愛好家がそれぞれ三枚のベスト盤を推薦するというものです。もちろんグールドも取り上げられています。 -
Re: 満点の理由
2008/3/9 6:27 by
ika星空のマリオネットさん……
「学校の音楽教室にはクラシック音楽の大作曲家たちの厳めしい肖像画がずらりと並んでいましたね。奇妙です。今でも同じ状況なんでしょうか。」
数年前ですが、中学校の教室を借りて、作品展(絵)をやったことがあります。そのときに、音楽室をのぞいたような気がする……そして、やっぱり肖像画があったように思うのですが……でも、なぜか、その記憶が、昔自分が中学生だったころの記憶と重なってしまって、今ではどちらがどうだかわからなくなりました……まことに困ったものです……
昔、中学生だったころには、なぜか、ラベルの整ったご尊顔(おそらく写真)に、とくに惹かれました。美声年(今ならイケメン?)やなー……と思って……。でも、あの顔は、ちょっとのっぺりしすぎて好き嫌いは分かれるところでしょう(冷たい?)。……私が惹かれたのは、当時、ラベルの「ボレロ」が大好きだったからかも。この曲、自分でも演奏したかったが、譜面もなく(教科書に一部のっていたのみ)、うまくいかなかった……そんな思い出もあります。
しかし、あの一群の肖像、はじまりはたしかバッハとヘンデルでしたね(ヴィヴァルディはなかったような……)。[音楽の父」と「音楽の母」。そして次にハイドン、モーツアルトがきて、ベートーベン、シューベルト……と続きます(なぜか、ここまですべてドイツ語圏の方々)。
ああいう肖像画の列を見ながら育ったこどもたちの頭には、自然に、「音楽」は、バッハとヘンデルからはじまる……という観念が植え付けられるでしょう(少なくとも私はそうでした)……でも、ホントは、これは大きな問題なのかもしれません。
バッハ以前のヨーロッパ音楽の豊かな流れ……そういうものに触れることができたのは、かなりあとのことでした。皆川達夫さんと服部幸三さんが交替で司会を勤めていらしたNHKーFMの「バロック音楽の楽しみ」(今の「バロックの森」)。 当時は、これが、いわゆる「古楽」のほとんど唯一のソースでした。
皆川達夫さんと服部幸三さんは、かなり長い間、バッハとヘンデルは取り上げなかった。意識的に避けておられたのだと思います。「音楽のはじまりは、バッハ、ヘンデルではない」……これが、番組全体を通じて伝わってきた明確なメッセージでした……バッハとヘンデルが「解禁」になったのは、「古楽」がかなり浸透して、大きなレコード店にはそういうコーナーが置かれるようになったから……であったと記憶しております。
こういうかぼそい糸を通じて、私は「古楽」の世界を知り……音楽の「父」と「母」以前に、実に豊で多彩な「音楽」のあったことを知りました。そして、いろいろ聴いたり読んだりしてみますと……どうも、バッハ、ヘンデルは、音楽の「親」ではなくって、逆に、それまでの音楽が豊に流れこんで、そこで「終焉」を迎える、いわば「音楽の終わりの大海」であったことが、おぼろげながらにわかってまいりました。
「音楽」(この場合、「西洋音楽」)は、バッハの亡くなるころ(18世紀半ば)を境に、急速に「つまらないもの」になっていきます。……このように書くとお叱りをこうむるかもしれませんが……少なくとも私は、そのように感じます。後期バロックがバッハを最大の残照として、その豊かで多彩な夕焼けの輝きが急速に失われていったとき……あとに残されたのは、単純なモノフォニーの、なにか抜け殻のようになったマンハイム楽派の響き……そして、これがハイドン、モーツアルトに受け継がれていく……。
時を同じくして、「市民社会」が急速に台頭し、平行して生産技術の革命的な進歩が始まります。疑いもなく、ここで、ヨーロッパ世界は、大規模な転換を遂げていった……そして、その影響はヨーロッパにとどまらず「世界」に及び、百年後には、幕末の日本も、その影響の中に巻きこまれていきます。
私は、「ヨーロッパの音楽」が、<通奏低音>と<ポリフォニー>を失ったのは、まことに大きな打撃であったと思います。 <通奏低音>と<ポリフォニー>は、バッハの亡くなるころにはもはや音楽にとって<重い足枷>でしかなくなっており、 ハイドン、モーツアルトはそれらをさらりと脱ぎ捨て、単純明快で明るい「新音楽」の世界へと、時代を導いたのでした……
<通奏低音>は、一般的にいうなら<リズムセクション>であって、これはロックバンドでいうならドラムとベースギターに相当する部門だと思います。要するに、曲の骨格構造を形成する大切な部分であって、本来、ここを欠くと、「曲」にならない……というか、その曲は、複数人称を持ち得ない一人称の曲になってしまいます。……なぜ、そういう大事な要素をあっさりと切り捨てることができたのか……これは、かなり重要な研究テーマであろうと思いますが、寡聞にしてそこを突きつめた研究というものは、私はしりません。(私がしらないだけで、むろんあるのだと思いますが)
そして、音楽のシンタクスの面での豊かさと多様性を支えてきたポリフォニーの喪失……この大事な要素を2つながら失ってしまったことにより、西洋音楽は、「世界とのつながり」を失った、恣意的な、そしてあえていうなら「脆弱な」ものへと変貌していきます。私たちが、今にいう「クラシック」音楽の姿です……
「音楽」は明確な形式を失って漂い(ベートーベン第5の3楽章の終わりのように)……19世紀の市民社会の発展と工業生産力の驚異的なパワーアップに支えられて、それは「世界標準」となるが(ベートーベン第5の4楽章の始まりのように)……しかしその「根拠」は、実は「世界」にではなく、「西欧市民社会」というごく限られた時代とエリアにしかなかった……その破綻は、2度の大戦を通じて20世紀のはじめから中頃に顕在化し、「われわれは<基盤>を喪失した」というメッセージを発し続ける、いわゆる「現代音楽」に受け継がれていくことになります。
トマス・マンの『ファウストゥス博士』の物語は、<基盤の喪失>に苦悩するヨーロッパ音楽の姿を良く伝えるものだと思います。このお話しは、ソクーロフさんがやがて映画化するということなので、それはそれで楽しみなのだけれど……実は、ヴィスコンティの『ベニスに死す』が、その裏側にこの物語をはっきりと添わせていることは、『ベニスに死す』のところで書きました。……それはともかく、このように、「世界」とつながる明確な基盤を喪失したままで発展を遂げた「クラシック音楽」の作曲家たちの肖像に囲まれて日本のこどもたちが育ち……そして、日本の音楽教育の標準も、いまだにそこにある……ということは、考えてみれば、まことに不思議なことではあります。
「国際コンクールでは優秀な成績を収めることができても、その後がなかなか続かない日本の演奏家」……ということなんですが、私は、それは、ある意味、健全なことではないかと思います。つまり、その現象自体が、現在の「音楽」の世界へのみごとな「批判」になっている……という意味においてですが。
だから、ホントのことをいうなら、海君も修平君も、あんなコンクールに出てちゃだめなんですね。だって、コンクール自体が、「根拠を欠いたクラシックの世界」の末端現象でしかないのだから……海君の前に現われたモーツアルトの亡霊たちは、海君の級友の顔をしておりましたが……読み方によっては、あの物語においても、ここに、一つの「基盤へのドア」が設けてある……ととれなくもないです。むろん、この点は、この作品の範囲内だけではわからないことですが……
まあ、平たくいうなら、「クラシック音楽」を有難がる風潮というものは、日本の学校の、あの肖像画がずらりと並ぶ音楽室から醸成されてきたもの……といってもいいかもしれません。そして、この『ピアノの森』のお話しも、『のだめ』も、残念ながら、その「厚い雲」からは抜け出られていない状態です。そして……そういう「雲」の中での「感動」には、やはり、なにか「うしろめたいもの」は、あります。
日本人の演奏家が、世界的に活躍できない……ということが事実であるとするならば、それはそれで「健全」なことであると書きました。日本中を席巻した感のある某ピアノ会社の「音楽教室」は、肖像画がずらりと並ぶ「音楽室」の民間的反映として、日本人音楽家の世界への進出を支えてきたわけですけれど……「根がない」ものは、やはり枯れるしかありません。それは、苛酷な現実であると思います。でも……私たち自身に「根」がないわけじゃなくて、この「ピアノの森」のような作品に「感動」する私たちの心を批判的に見ることにより、その「根」は、少しずつわかってくるもののように思います。
星空のマリオネットさんは、矢野顕子さんのことを書いておられましたが、彼女の場合など、上記のような点で、自分自身の内部において、かなりの葛藤と選択があったものと思われます。そしてまた、これは……現在活躍中の日本人の音楽家には……クラシックであるか否かを問わず、本質的な「根」の問題として、常におおいかぶさってくる問題であると感じます。そしてそれは……私たちのように、音楽を「受容」する側にとっても、避けて通れない問題ではあると思います。
長くなってしまいました……。音楽教室にずらりと並ぶ肖像画を、どのように受けとるか……「学校の怪談」はホラーにすぎないのかもしれないけれど、そういうものを「人格形成期における文化の受容」と受けとると、ことは、案外複雑な様相を呈してくるものではないかな……とも思います。 -
Re: 満点の理由
2008/3/9 12:34 by
kkhi納得!!!
> レビューで満点にした理由です。
>
> <理由1>
>
> 天才少年一ノ瀬海は、「諸般の経過」で、昔スターピアニストだった阿字野先生の指導を受けることになります。
> ところが、海君は、ホントの天才で、一度聞いただけでどんな曲でも弾けちゃうので、「先生の指導」の必要性を全く感じていない。
> しかし……ある曲で、つまづきます。
>
> ショパンの「子犬のワルツ」。
> これが、うまく弾けない。
> 曲は、完全に頭の中にあるが……出力装置である指が、思いどおりに動いてくれません。
>
> で、出てくる「子犬のワルツ」は、隣接する音どうしが微妙に重なって、まるでゴーストがいっぱい出たテレビの映像のようになってしまいます。
>
> 悔しがる海君。
>
> その様子を見ていた阿字野先生は、彼に、音階練習を命じます。
> 単純に音階を、ただただ無限にくりかえすだけの運指練習。
> 曲でもなんでもないこのレッスンに、海は猛反発するが、それでもとにかく続ける。
>
> すると……ころあいを見て、先生は、こういいます。
> 「ここまで。これで、キミは、ショパンを弾けるはずだ。」
>
> 半信半疑の海。
> でも……指はすらすらと動き……みごとに弾ける!
> 海君、心底の驚き。
> 海君が、「音楽」に出会った瞬間……
>
> そして、見ているこちらも、なんか深い感動に包まれた。
>
> すごいなあ……と、率直に、思いました。
> なるほど……「できる」レッスンって、こうなのか……と。
>
> このエピソード、こちらが「弾ける人」ではないので、真偽のほどはわかりません。
> でも、いかにも「らしい」じゃありません?……
> ホントのところ、どうなんでしょうね。
>
> 私自身、以前に、バッハのいろんな曲に挑戦してみたことはあります。
> むろん、先生なしの独学。自我流のいいかげんなやりかたでした。
>
> 簡単なものなら、ある程度は弾けるようになるのですが……それ以上には絶対にいかなかった。
> まず、運指法は、むちゃくちゃでした。
>
> 楽譜には、ところどころ、どの指を使いなさいと音符に指の番号がふってあります。
> でも、そんなの無視して、とにかく弾きたいように弾いていた。
> で、頭打ちになりました。
>
> それで、ちょっと落ち着いて、楽譜の指示どおりの指使いで弾いてみることにしました。
> すると……弾けるのです。
>
> あたりまえのことかもしれませんが……あらためて、「指使い」の重要性を思いしらされました。
> あの指番号、だてにはふってないんですね。
> ここは……と思われる難所につけて、手をさしのべてくれる……そういう数字でした。
>
> 指番号どおりにその音を弾くと……自然に前後の指使いも定まってきて、全体が、きれいに流れるようになります。
> たった1個の数字が……実は、<全体の構築>を教えてくれるという、不思議な作用……
> おそれいりました……。
>
> と、こんな経験があったので……音階練習で、海君がショパンを弾けるようになった……というエピソードに、いたく感じ入ってしまった次第です。
>
> また、バッハにまつわる、あるエピソードも思い出しました。
> このお話は、昔、ある本で読んだが、その本は今手元になく、題名も忘却して、たしかめようがありません。(どなたかご存知の方、教えてください)
>
> たしか、バッハに、海君のような天才的な弟子がいて、彼は、「決められた運指」の意味が最初はわからず、ずいぶんバッハと対立した……とかいうお話だったと思いますが……
>
> ともかく、海君が「ショパン」を弾けるようになったあの部分……
> ものすごく静かで、美しい描写です。
> 時が……しんしんと流れこんできて、いろいろなものを洗い流し……「そのものの本質」が見えてくる……
> そして、そこに、「音楽の神様」が立ちます。
> そういう印象でした。
>
> 最近のクラシック音楽のマンガって、すごいんですね……
> 「のだめ」でもそうでしたが……
> 「音楽」の要をはずさずに、きちんと伝えてくれます。
> いやー、感動しましたね……
>
> ということで、これが、<満点>の理由第1です。
>
> 理由第2は、また、折をみて、自己レスで書かせていただきます。 -
ikaさんへ
2008/3/9 18:13 by
星空のマリオネットikaさんのレポート、正直、勉強になりました。
ikaさんは、J.S.バッハ以降のクラシック音楽を脆弱でつまらないものという見方(立場)をとっているんですね。
通奏低音とポリフォニーを失ったクラシック音楽が「世界」との繋がりを失い、「西欧市民社会」というごく限られた時代とエリアの音楽に堕してしまった、というのがikaさんの主張と理解しました。
18世紀半ばの産業革命以降新たに成立した市民社会という受け皿に受け入れられやすい音楽として、当時単純明快な音楽形式が要請されていたそうですね。「通奏低音」の時代から「ソナタ形式」の時代へという風にも言えるのでしょうか。
また、ikaさんはバッハを「音楽の終わりの大海」と評されていますが、ベートーベンもバッハを海だと評しています。「バッハは、小川(バッハ)ではなく、海(メール)だ」というベートーベンの名言の意味するところは何でしょう。
「生命の始源」としての水を湛える海。過去の音楽の流れはバッハに流れ込み、そこで総合され、その後に続く世代を滋養する。始めであり、終りであるような音楽。バッハは特別な存在。
古典派からロマン派に至るまで、これこそが普遍的な価値だとの考えに対して異議を唱えた音楽家の一人と言われるエリック・サティ。時間の経過とともに変化(進化)するという価値観に単純な反復で応えた「ジムノペディ」。
確かにクラシック音楽が永遠に生き続けることができるのかどうかわかりません。作曲家の時代から演奏家の時代へ、さらには神童の時代からコンクール(での使い捨てのスターづくり)の時代へと、クラシック音楽はその大衆化とともに衰亡の道を辿っているのかもしれません。
ただ、いずれにしてもバッハ以降のクラシック音楽がつまらないとすれば、バッハ以降に製作され発展した「ピアノ」と言う楽器のために作られた多くのピアノ曲を聴く醍醐味も随分殺がれてしまいますね。仰るとおり「ピアノの森」も「のだめ」も意味をなくしてしまいそうです・・・?
モンテヴェルディからヴィヴァルディ、バッハにかけての音楽と、モーツアルト、ベートーベン、ショパン、ブラームス、チャイコフスキーと続く音楽とでは、素人である私でさえもその受ける印象は全く違います。しかし、そのどちらも素晴らしいと思うのですが・・・ -
Re: 満点の理由
2008/3/10 10:00 by
ika星空のマリオネットさん、こんにちわ。
私の書き方が悪くて、誤解を生む要素もあったかと思います。
<事実>と<個人的主観>とにわけて書きますと、次のとおりです。
<事実>
バッハより後の「ヨーロッパの音楽」は、「通奏低音」と「ポリフォニー」を喪失していった。18世紀後半から20世紀前半にかけての、いわゆる「クラシック音楽」の、それは大きな特徴といえる。
(「バッハ以降……」というと、バッハも入っちゃうので、正確には「バッハより後の……」ということだと思います)
<個人的主観>
私は、バッハに至るまで(バッハを含む)の「ヨーロッパの音楽」の方が、断然面白いと思います。バッハを最後の輝きとして、その後の「ヨーロッパの音楽」は、急速に色あせたものとなっていったように感じます。
ただ、これは、あくまで私の個人的な感想であって……たとえば、マンハイム楽派の人々にとっては、バッハに代表される「昔」の音楽は、今の言葉でいうなら「ダサい!」の一言であって、自分たちがこれからやろうとしている「新しい音楽」に「萌えー」を感じていたに相違ありませんから。
したがって……
「ikaさんは、J.S.バッハ以降のクラシック音楽を脆弱でつまらないものという見方(立場)をとっているんですね。」
こういわれますと……オソロシイことに、実はそのとおりです……とお答えするしかありません……。(つまらない……といえるほど聞きこんではおりませんが、脆弱……と感じるのは、そのとおりです)
「通奏低音とポリフォニーを失ったクラシック音楽が「世界」との繋がりを失い、「西欧市民社会」というごく限られた時代とエリアの音楽に堕してしまった、というのがikaさんの主張と理解しました。」
そうですね……。私は、そういうふうに考えるのです。(「堕した」というのはちと過激かもしれませんが)でも、「ごく限られた時代とエリア」のはずが、「世界標準」になっちゃっている点が、また大きな問題だなあと感じます。
「「通奏低音」の時代から「ソナタ形式」の時代へという風にも言えるのでしょうか。」
ここは微妙です。というのは、 「通奏低音」と 「ソナタ形式」というのは、音楽の形式という同じ範疇に属すると考えても、その性格自体は大きく異なると思うので……現象的に見ればそういう見方はできるかもしれないけれど、厳密にいえばいろいろ問題は出てくると思います。
私は、むしろ、「ポリフォニー」を失った結果として「ソナタ形式」のような、異なる主題が組み合わされる形式を導入せざるをえなかったと思うのがひとつ。
そして、もう一つは、音楽自体に一種「文学的な意味」を担わせる傾向が現れてきたということが、各種の主題で音楽を展開するようになった、もう一つの原因じゃないかな……と思います。
ようするに、まことに19世紀的な展開……ということで……
いずれにせよ、「クラシック音楽」が、 「ポリフォニー」と 「通奏低音」を失ってしまって以降、「明確な形式」を求めて彷徨を続けてきたのは事実であると思います。
専門家のご意見は異なるかもしれませんが、私の個人的な思いでは、 「ソナタ形式」は、 「ポリフォニー」や「通奏低音」などと比較すると、音楽をきちんと整序していく力は極めて弱く、恣意的に流れる傾向がかなり強いように思います。
もし、 「クラシック音楽」が、「強固な形式」をそれまでに発見していれば、シェーンベルクが「12音技法」(という無理な?形式)を開発する必要はなかったのではないか……と、そう思います。
このあたりは、マンの『ファウストゥス博士』の中でも、主人公のアードリアーン・レーヴァーキューンの苦悩として、詳細に描かれています。
(シェーンベルクとレーヴァーキューンは、むろんイコールではありませんが)
アードリアーン・レーヴァーキューンは、「悪魔と契約」してまで、 「クラシック音楽」に新たな、しかも強固な「形式」を与えようと苦闘しました。……彼の、音楽家としての全存在は、まさに「クラシック音楽の救出」にそのすべてを賭けたといってもいいのですが……結果はどうだったのでしょうか……このあたりは、やがて公開されるであろうソクーロフさんの映画のネタばれになるといけないので伏せておきますが……やはり充分に「悲劇的」なものでありました。
私は、先に書いたように、「音楽の面白さ」という点からいうなら、「バッハ以前の音楽」に軍配を揚げる立場ですけれども……しかし、バッハより後の音楽家が、 「ポリフォニー」と 「通奏低音」を放棄して、形式を失った「混沌の大海」に漂流することとなったのも……それもまた、必然であったと思います。
「バッハ以前の音楽」は、すでに、発展する市民社会と驚異的な工業生産力の増大を受けきれるものではなくなっていましたから……やはり、そういう「現実」を受けとめる「音楽」は、ベートーベンの、またロマン派の……そして シェーンベルクたちの「現代音楽」であったのでしょう。
ただ……音楽のみならず、これはあらゆる芸術分野においていえることだと思いますが……とくに、科学技術の加速度的な展開と工業生産力の驚異的な増大は、もうすでに「芸術家」が受けきれる限度をはるかに超えていて、それはもう、ある意味「ほっとく」しかない怪物へと変貌していったのだと思います。
マンのファウストゥス博士、 アードリアーン・レーヴァーキューンは、結果的にこの「怪物」の全体を、一人の芸術家の魂で受けようとするのですが……それは、もう当然無理なことであり、結局マンは、その作業自体を「破綻せる悲劇」で閉じるしかありませんでした……。そういう面からすると、この小説は明らかに「失敗作」(破綻をきたしているという意味において)であるとしかいえないのですが……でも、ともかくも「壮大な」失敗作ではあります。
ベートーベンが、「バッハは海」と言った意味は、私は、現在の私たちの感じているものと近い感覚じゃないかと思いますね……
ヨハン・セバスティアン・バッハという人は、ヘンデルとは対照的に、あんまり出歩かない人で、ずっとドイツ国内で仕事をした……にもかかわらず、彼が、「海」といわれるほどの「広い目」を持つことができたのは、ひとつには、彼の「楽譜の研究」によるところが多いのではないかと思います。
バッハは、内外の著名な音楽家の「楽譜」を取り寄せて熱心に研究した。とくにヴィヴァルディについては特別の関心を持っていたようです。
でもまあ、若いころには、ブクステフーデのライブを聴くためにわざわざリューベックまで出かけていますし、ドイツ国内のいろんな音楽家との交流は盛んにやっていたようです。
もうひとつは、やはり彼の「職人に徹する姿勢」というものが、結果的には「広い目」を養うのに大きく役立ったのではないか……と思うのですね……これは、楽曲を聴いた印象なのですが……
たとえば、彼の「平均律」にしても……、理論的には24の調性が展開可能なことは以前から知られていたが、それはあくまで「理論」であって、実際の作曲にあたっては、楽器をどのように調律するかということが大きなネックになって、結局あまりにもシャープやフラットの多い調は、用いられなかったということです。無理に作曲すればできるが……いわゆる「ヴォルフ」(オオカミ)とい呼ばれる不協和音の発生が問題となって、実際には聴くに堪えない響きになってしまうので……
ところが、バッハは、独特の調律法を編み出すことによって、この問題を解決しました。これは……彼が、楽器の演奏法だけではなく、楽器そのものにも深い理解と関心を寄せていたことからできたことであって……その成果(調律法)は、およその姿が、友人のヴェルクマイスターや弟子のキルンベルガーによって、今に伝えられています。
(ヴェルクマイスターのことを、先に「バッハの弟子」と書きましたが、彼は弟子ではなく友人でした。お詫びして訂正します。なお、私は未見ですが、『ヴェルクマイスター・ハーモニー』(2000)という映画があるみたいですね)。
このように、バッハは、音楽そのものにおいてもむろんのこと、それを生み出す楽器についても職人的関心をもって、その開発自体に参画していたようです。まあ、今でいうなら「音響プロデューサー」みたいな役割ももっていたのでしょうね。
そして……最後に現れるのが、彼の「宗教への畏敬の念」じゃないでしょうか……
たとえば……彼の「インヴェンションとシンフォニア」という曲集の中の、シンフォニアの第9番ですが……これは、一応初学者のための練習曲ということで、なんの意味も表題も持たない比較的単純な3声の短い曲なんですが……にもかかわらず、良い演奏でこれを聴くと、全体が、みごとな「受難曲」になっているのが、一聴するだけでわかります。
私は、この一事だけでもバッハという人は、すごいなあ……と思いますね。
別に、曲の中に、ことさらに「意味」をこめるわけでもなんでもないのに……でも、実際に響く曲は、「人類の罪を背負ってゴルゴダに向かうキリスト」になっている。……要するに、セマンティクス(意味論)のレベルではなく、曲のシンタクス(構文論)のレベルで受難曲をつくっているわけでして……後世、これを真似ることのできる人は、私は知りません。(アルヴォ・ペルトというエストニアの現代音楽家には近いものを感じますが)
そして……極めつけは、「シャコンヌ」。
この曲については、もうなんの言葉も出てきませんが……
「バッハ以降に製作され発展した「ピアノ」と言う楽器のために作られた多くのピアノ曲を聴く醍醐味も随分殺がれてしまいますね。」
いや、必ずしもそうとはいえないと思います。
バッハの晩年には、「ピアノ」という楽器は、もうすでにできていたといいます。バッハも試奏はしたみたいですが(ジルバーマン製の楽器)……でも、まだまだ完成度が低くて、バッハ自身はあまりお気にめさなかったようです……しかし、もしバッハが「現代のピアノ」を知っていたら、彼はもう夢中になって、寝食を忘れて弾き続けた……と思いますよ。
先にちょっと紹介させて頂いた、フランスの現代音楽家のエマールさんが、バッハの「フーガの技法」の録音のときに、どの楽器を使おうか……と考えたとか。 「フーガの技法」は20曲(版によって違う)程度の小曲の集まりですが、そのうち、このグループはオルガンに向いている……別のグループはチェンバロ向き……そして又別のグループはクラヴィコード……というふうに、全曲を一つの楽器で通すのは、無理がある……にもかかわらず、全曲をやれる楽器……と考えて、「それは、モダンピアノしかない」という結論に至ったそうです。
ことほどさように、モダンピアノの表現力は大きい。それはもう、個人用のオーケストラといってもいいくらいのものでして……私の場合、実は、ベートーベンの交響曲でも、オーケストラでやったレコーディングより、ピアノ編曲版(リストによる)のディスクの方が好ましく思えるほどです。
モダンピアノの表現力の強化は、まさに「コンサートホール」用ですね。これに匹敵する単独楽器は、もはやパイプオルガンしかないでしょう……
ピアノの発展の歴史は、まさに「工業生産力」の強化の歴史とパラレルであると思います。つまり、ピアノのスチールの弦の巨大な緊張を支えるに足るだけの「鋼鉄枠」の生産……これをまって、はじめて、あのモダンピアノの多彩な表現力が可能となった……
海君のかぼそい手が撃つハンマーは、鋼鉄の枠の中にひっそりと蓄えられている巨大な弦の緊張力(全体で20トン!)を、一挙に解放します。……そこで響く音は……それは、海君の「芸術の力」であり、また、モーツアルトの「創造する力」であるが……しかし、それはまた、同程度に、「鉄鋼生産力」のインダストリーの力でもあります。
こういう意味において……ピアノという楽器は、最も19世紀的ではありますね……19世紀は「鉄とガラス」という新しい素材が華開いた時代ですけれど……エッフェル塔は、「見える」鉄の力をパリ市の空間に誇示しますが、モダンピアノは、張られた弦の張力の中に隠された、「見えない」鉄の力を、奏者のたくみな指使いによって、「振動する空間」として、私たちの耳に向かって解放します。
これは……もしかしたら、ファウストゥス博士、アードリアーン・レーヴァーキューンが、その全生涯をかけてもなしえなかった「インダストリー時代を受ける」ということを、物質としての特徴を生かして、いとも簡単に成し遂げてしまった……ということも、いえるかもしれませんね。
「クラシック音楽」は、その構成上の弱点(脆弱さ)を、楽器の音量の増大や音質の改良によって補おうとした試みである……というのは、一種の「暴論」でしょうか……
……「脆弱」というかなり刺激的な言葉を使ってしまいましたが……この点について書き出すと、あまりにも長くなりますので、とりあえずこのあたりで投稿させていただきます。 -
Re: 満点の理由
2008/3/10 13:20 by
じょりちょこ僕の敬愛するアーティストに、ヌスラット・ファテ・アリ・ハーンというパキスタンの宗教音楽家がいるのですが、彼がこういうことを言っています。
「日本の観客はテンポの変化に敏感だから、日本で公演するときはテンポの変化を使って盛り上げるようにしている」
クラッシック音楽をほとんど聞かない人に向けて、ある人がクラシック音楽の魅力をこう述べているのを聴いたことがあります。
「音が一番小さいところと一番大きなところの差をダイナミックレンジというのですが、オーケストラの音楽というものは、このダイナミックレンジを極限まで大きくした音楽なのです」
日本在住のウード奏者、ハムザ・エル・ディンの自伝の中で、彼がカイロでオーケストラの演奏を聴きに行くくだりがあります。音合わせが始まり、さて、いよいよ演奏かな、と思って期待して待つのですが、いつまでたっても演奏が始まりません。ハムザは同行した知人に文句をいうと、知人は「え?もう2曲も演奏したじゃないか」と答えたと言います。西欧の音楽に親しんでいないハムザにとって、リズムやモードのない、和声中心の西欧音楽は音楽に聞こえなかったのです。
ikaさんのいう「脆弱」は、一面、その通りだと思います。
> 「クラシック音楽」は、その構成上の弱点(脆
> 弱さ)を、楽器の音量の増大や音質の改良によっ
> て補おうとした試みである……というのは、一
> 種の「暴論」でしょうか……
という点も、僕は同意します。(同意しない人もいるでしょうが。)
和声を中心に据えることで、世界の音楽に普遍的に存在する様々な要素を捨ててしまったのがクラッシック音楽です。
一方で、その制約によって進化が始まったとも言えます。
たとえばバレエは、不自然な姿勢を強要される舞踏芸術です。わざわざ足を高くあげる練習をするのはなぜでしょうか? もともと高くあげるようにはできていない足だからこそ、高くあげる練習をするのではないでしょうか。
思うに、クラッシック音楽は「禁欲的」なところに魅力があるのです。そのため、しなやかさにかけ、頑固であり、ゆえに「脆弱」です。
言わば日本の芸術が、よくいえば繊細であり、悪く言えば自己主張に乏しいというのと似ていると思います。その芸術が持っている価値観を受け入れないと、良さが伝わってこないのです。 -
Re: 満点の理由
2008/3/11 0:31 by
星空のマリオネットikaさん、じょりちょこさん、ご説明ありがとうございます。お二人のおかげで、だいぶ理解が進んできました。ikaさんのソナタ形式の解説も分かりやすかったですし、バッハの説明の部分も興味深く読みました。
ただ、バッハ以降に製作され発展したピアノ・・・の下りですが、ここは私の言葉不足だったかもしれません。私が言いたかったのは、同じ話の繰り返しになってしまい恐縮ですが、「バッハよりもずっと後のロマン派の音楽を楽しめないとしたら、モダンピアノとして飛躍的に発展したピアノの能力を活かした名曲たちを楽しめなくなってしまい、もったいないなあ!」という意味です。
でも、ikaさんのその後の工業社会の発展とピアノの関係の話は大変面白かったです。
それから「構成上の弱点(脆弱さ)を、楽器の音量の増大や音質の改良によって補おうとした試み」という見方についても、正しい部分が含まれているのかもしれないなあと思うようになりました。
ただ、私にとって「クラシック音楽」ほどその美しさに陶然としてしまう音楽はありません。溺れるようなロマンティックさがまさに弱点を包む衣であり、また弱点であるゆえの美点なのかもしれません。
構造が崩れ破綻しているのではないかとか、精神的な異常性を宿しているのではないかと言われるシューマンの音楽でさえ好きです。
また、じょりちょこさんの、ダイナミックレンジの極大化の話や、特にウード奏者の話には本当に驚きました。「西欧の音楽に親しんでいないハムザにとって、リズムやモードのない和声中心の西欧音楽は音楽に聞こえなった(曲が始まり終わったことさえ分からなかった)」というのはショックです!
あとバレエについてです。
その一番の特長は女性のダンサーが爪先で立って踊るという点だと思います(男性ダンサーはそうではありません。19世紀初頭の美意識の現われとも言われているようです。)。
足を伸ばし高く上げた姿は、女性ダンサーであろうと男性ダンサーであろうと、またバレエであろうと他のダンスであろうと、美しく躍動感に溢れています。不思議なことに、爪先立ちを含め人間の自然な姿を歪めた無理をした姿勢の、何と美しいことか。
じょりちょこさんの言うクラシック音楽の「禁欲的」なところに魅力があるということと共通しているのかもしれません。
しかし、クラシック音楽にしてもバレエにしても、客席の私にはとてもしなやかに見えます。
ところで、私のCDコレクションのうち、バッハ以前のCDはその1割に過ぎません。バッハはともかく、バロック音楽のCDはモンテヴェルディやヴィヴァルディなど限られたものです。やはりこれは偏っているのかもしれません。
私がたまに聴くバッハはパロットやレオンハルトのものが多いのですが、先ずは、ikaさんおススメの「シャコンヌ」を繰り返し聴いてみたいと思います。ただ、いま持っているのはプゾーニ編曲版だけなので、これが特に良いといものがあれば教えてください。 -
Re: 満点の理由
2008/3/11 1:46 by
じょりちょこクラシック音楽が「しなやかさに欠ける」というのは、以下のようなことです。
たとえば、インドの伝統音楽では「ラーガ」と呼ばれる旋法(モード)が用いられます。(正直、僕も具体的なことはわからないのですが)ラーガには「活用形」とでも言うべきものがあり、季節や気温、天候などに合わせてラーガを変化させることになっているのだそうです。
また、インド音楽の弦楽器にはドローンと呼ばれる通奏低音用の弦があり、これを解放弦にして触らずに放置します。すると、他の弦に共鳴して通奏低音を奏で続けるのです。このドローンの効果で、観衆は一種の酩酊状態に誘われるのですが、このような酩酊感はクラシック音楽では得られないものです。クラシック音楽はどんなに優雅な曲でも、音と音のきわがくっきりしているように感じられますが、インド音楽は音と音のきわがボヤけているような感じを受けます。
あれはモーツァルトの生誕200年を記念したウィーンフィルのライブ盤(ブルーノ・ワルター指揮)でしたか、解説者が「ところどころアウフタクトが合っていないところに気付いたりもするが、そんなことはどうでも良くなるほど感動的な演奏」と書いていたことを思い出します。このことはクラシック音楽が「正確に演奏すること」を求められていることを端的に表していると思います。世界中の民族音楽の中で、クラシック音楽ほど正確に演奏することが求められている音楽があるでしょうか。
僕はボブ・ディランを20世紀最高の音楽家だと思っているのですが、ある批評家が「かつてティン・パン・アレーの作曲家たちは複雑なコード進行の素晴らしい曲を作っていたものだが、最近の流行歌は単純な3コードの曲ばかりで嘆かわしい」ということを書いているのを読んで、憤って言ったそうです。
「1つしかコードを使わなくても歌えるよ」
たしかに、ディランにはそういうことができるのです。
また、ディランは過去に発表した曲を、レコードで発表したものとはまったく異なるアレンジでライブ演奏することが非常に多いのですが(このため、熱心なファンでも曲が始まってしばらくしてようやく何の曲かわかることが多い)、どうしてアレンジを変えて演奏するのか質問されると「同じコード進行だろ。別に何も変えてなんかいない」とうそぶいたりしています。
別のインタビューで「モノクロ映画の方が、ある意味では、カラー映画よりリアルなんだ。なぜって、モノクロ映画の場合、観客は色を想像しながら観ることになるだろう? つまり、映画を完成させる作業を観客がしているわけなんだ。観客が映画の完成に関与する分だけ、観客の心の中でリアルなものとなるんだよ」と語っています。僕が思いますに、ディランが過去の発表曲のアレンジを変えてしまうのは、観客にとって「はじめて聴く曲」である方が、より真剣に聴くことになるから、ではないでしょうか。
すみません、かなり脱線しましたが、参考まで。 -
じょりちょこさんへ
2008/3/11 2:42 by
星空のマリオネットのびたさんの仰ることは凡そ分かったような気がします。
その上で一言。
クラシックではコンセルヴァトワールへの信頼がありますよね。過去の規範を徹底的に学ぶこと、また徹底的に鍛えられることから、新しい個性が生まれるという考え方だと思います。正確な演奏の上に何を築けるか。
基本訓練で徹底的に鍛えられたバレエダンサーの強靭な肉体がしなやかに(弾力があり、しなるように)躍動するのと同じように、クラシック演奏家の音楽もそうだと思います。
交響楽団にしても、ピアニストにしても、バイオリニストにしても、オペラ歌手にしても、鍛えられた美しさがあります。
ボブ・ディランとはやはり違うのだと思います。
(もちろん、ボブ・ディランを否定している訳ではありません。)
余談ですが、名演と呼ばれているものの中には、じょりちょこさんの指摘のような例が多くとりあげられるのも事実ですね。
大家の枯れた演奏や炎のような演奏におけるミスタッチについては、許されるというか逆に愛されるようでもあります。
因みに音楽を歌ってくれるワルターは、私の大好きな指揮者の一人です。 -
Re: 満点の理由
2008/3/11 2:56 by
じょりちょこ> クラシックではコンセルヴァトワールへの信頼があ
> りますよね。過去の規範を徹底的に学ぶこと、また
> 徹底的に鍛えられることから、新しい個性が生まれ
> るという考え方だと思います。正確な演奏の上に何
> を築けるか。
もちろんそうですね。僕も中学・高校とトランペットを吹いていましたので、その考え方はわかりますし、だからこそクラシックは素晴らしいと思っています。
ただ、世界中の音楽と比較すると、クラシック音楽の方が特別だという気がするのです。世界の音楽はもっと口伝的で、非理論的です。クラシック音楽は圧倒的に理論的であり、だからこそ高度化したと言えると思うのですが、ikaさんのいう「脆弱」にもつながっているように思います。
ちなみに、僕はワルターやベーム、クーベリックなどが大好きです。
クーベリックが民主化直後のチェコに帰って「我が祖国」の指揮をとったライブ盤はLDで繰り返し観たものです。。。 -
Re: 満点の理由
2008/3/11 9:50 by
ikaじょりちょこさん……
「オーケストラの音楽というものは、このダイナミックレンジを極限まで大きくした音楽なのです」
まさに、この点が、私が「クラシック」が苦手な原因の一つです。
曲中に、コンマ1秒単位で100dbを越える音量の変化が、まったく不規則に生成する楽曲……こういうものは、おそらく世界中を捜しても、「クラシック音楽」しかない?……でしょう。
かそけき音が……予告なしにバーン!となるので、心臓と脳に悪いです……
「ボレロ」みたいにグラデーションで変化していくのならいいのですがね……
ちょっと余談ですが…… 一時期、「クラシック」の器楽曲を聴くと、なぜか「トムとジェリー」の映像が浮かんできて、困ったことがありました。
「ジェリーめ、どこにいやがる?」と彼方をみやるトム。しかし、その背後にはそうろそうろとジェリーの影が……
そして、バーン!
「クラシック」音楽は、「映像」とリンクされやすい特質を持っていて……だからこそ、映画音楽に多用されるのかもしれません。
「和声を中心に据えることで、世界の音楽に普遍的に存在する様々な要素を捨ててしまったのがクラッシック音楽です。」
おっしゃるとおりですね……
「たとえばバレエは、不自然な姿勢を強要される舞踏芸術です。」
これも、おっしゃるとおりですね。 良くごぞんじです(じょりちょこさんも、もしかして習われたことがあるのですか?)。
私も、最近クラシックバレエの教室に通いはじめましたが……このことは、レッスンのたびに痛感しております。
はじめてのレッスンのあと……翌日は、身体の節々が痛むかなあ……と覚悟していましたが、そういうことはなく、これはまことに意外でした。
思うに、 バレエの動きは、不自然に見えて、実はきわめて合理的なのかもしれません。
「足を高くあげる」のも、たしかにつらいのですが……それよりも、基本的に「身体を開く」作業の方が、私には大変です。
クラシックバレエは……頭の中心を天から吊り上げられたような感覚を基本に展開される……と感じました。
要するに、身体の中心に「基軸」をしっかり入れて、その基軸を中心に、手と足が各方向に自由に回動するように設計されている舞踏……なのでしょう。
この点、臍下丹田に気を集めて、さらに重心を低くしていく日本の舞や武術の型とは全く正反対で、……クラシックバレエは、天上から吊られた垂線によって、上へ上へと、あたかも無重力のごとくに昇っていく……感があります。
そして、その垂線である基軸に4つのピボットが嵌めこまれていて、そのピボットで、四肢が自在に回動する……という身体をつくるのが基本なんじゃないかと感じます。(球体関節人形……ですね)
先生の踊りを見ていると……骨盤がぐっと開いて、足はまるで生き物のように(生き物ですが)、天地左右前後に自在に回動します。
そして、その姿が……やはり、とても美しい……
背は低い方なのに、踊っておられるときには、すごく存在感があります……いやー、あこがれますね……
クラシックバレエの、もう一つの要素は、やはり「音楽」ですね。
「音楽に乗って舞う」というのが、実に大事なところで、このあたりが「スポーツ」としての体操とは大きく異なるところでしょう。
バーレッスンの単純な動きも、パドシャ(猫歩)やターンのような基本の舞いも、全部「音楽」に乗って行われますので……身体にとって「不自然」な動きも、「音楽」の支えで乗り切れるところはありますね。
「クラシックバレエの音楽」は、通常の「クラシック音楽」とは微妙に異なるものを感じます……しかし、それがなにかはわかりません。
今、やっていることなので(最近はちょっとお休みしていますが)話が枝葉に行き、失礼しました。じょりちょこさんのおっしゃりたかったことは、「その世界にはその世界の道理があるんだから、まずはそれを知ろうとする姿勢が大切」……ということなのでしょう?
(ちがってたらごめんなさい)
「その芸術が持っている価値観を受け入れないと、良さが伝わってこないのです。」
まことにそのとおりであると思います。
私も、頭から敬遠せずに、「クラシック音楽」を、もう少しいろいろ、きいてみたいと思います。
星空のマリオネットさん……
「シャコンヌ」のディスク、今、リストアップしていますので、もう少し待ってください。 -
Re: 満点の理由
2008/3/11 12:56 by
ika星空のマリオネットさん……
「シャコンヌ」のCDですが……
本来は、客観的な視点から書かれた紹介記事などでディスクを選択されると良いと思いますが……
私の、きわめて恣意的な好みでよろしければ、以下に少しあげさせていただきます。
バッハの「シャコンヌ」は、6曲からなる『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』という曲集の中の1曲のそのまた一部で、バッハ作品番号(BWV)1004のパルティータニ短調の最後の曲(5曲目)にあたります。
パルティータニ短調は、5曲からなる組曲なのですが……その末尾に置かれたシャコンヌと、それ以前の4曲の演奏時間がほぼ同じ……というくらいに、なぜか極端なアンバランスで組まれています。
大変な名曲なので、これだけで独立して演奏され、録音されることもしばしばですが……でも、本来は、一連の舞曲の最後を飾る舞曲としての意味がありますから、これはやはり一度は全曲を通して聴くのが正解かと……
『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』全曲のレコーディングは、昔から名盤が数限りなくありますが……私が最初に買ったのは、ヨゼフ・スークの演奏。(これはLPだったので、プレーヤーがない今は聴けません。CD化はされているみたいですが。いい演奏だと思います)
CDで、はじめて買った盤は……
★ヘンリック・シェリング(1968年)
(ドイチェ・グラモフォン 437 365-2)
2枚組です。このディスクは、最近廉価版になったようで、かなりお安く入手できると思います。CDショップできいてみられるといいかと思います。
特にこの盤がダントツの名演ということで選んだわけではないんですが(むろん名演ですが)、端正で厳格な演奏には惹かれるところがあります。……この盤は、カセットに入れて、ウォークマンで繰り返し聞いていました。私の中で、オーソドックスな「シャコンヌ」というと、これになっちゃってます。
オーソドックスなスタイルの演奏は、たくさんありますので、次には少し変わったところを……
★シギスヴァルト・クイケン(1981)
(ドイチェ・ハルモニア・ムンディ GD77043)
このディスクについては、お隣のスレッド「モーツアルトの頭の中……」で、ちょっと紹介させていただきました。
要するに、「当時の楽器と演奏法」にとことんこだわりぬいた演奏で、ピリオド楽器(1700年のジョバンニ・グランチーニ製)を使い、弓も当時のもの(18世紀前半)で、むろんガット弦でやってます。
ただ、この録音の頃は、レオンハルトやクイケン兄弟が、「古楽の復権」に燃えに燃えていた時代でして、今からみるとかなり過激な演奏です。
要するに、それまでの「ロマンティック」なバッハ像をぶち壊さんと意気込むあまりに、かなり「頭」が勝った演奏になっていて、これをフツーに「音楽」として楽しむのは、かなり難しい……といえるんじゃないでしょうか。
星空のマリオネットさんは、音楽の「叙情性」を大切に感じられる方のようですので……そういう観点からすると、このディスクは「真反対」で、むしろ「現代音楽」に近いものがあるかもしれません(高橋裕治のバッハにちょっと似てる?)
ただ、こういう「破壊的?」なシャコンヌもある……ということで、紹介だけさせていただきました。
なお、クイケン氏は、同曲を後にもう一度、入れていますが、その盤ではもう少し丸い演奏になっているようです(私は持っていないので、よくわかりません)
★ルドルフ・ゲーラー(1998)
(アルテ・ノヴァ・クラシックス 74321 67501 2)
この演奏の特徴は、なんといってもルント・ボーゲン(曲弓)を使っている……ということでしょう。
バッハに限らず、ヴァイオリンの無伴奏の曲では、複数の旋律線を1丁のヴァイオリンで奏でますので、たとえば4声の曲なら、1本の弓で、同時に4つの音を鳴らさなければなりません。
しかし、今の弓の構造では、それは不可能で、同時に鳴らせるのは2音までですから、他の音はアルペジオで連続的に鳴らしていくことになります。
ところが……一昔前には、バロック時代には、ルント・ボーゲンと呼ばれる、木部が曲線状の弓があって、これで、3以上の音を同時に鳴らしていた……という学説があったようです。
現在では、この説は否定されているみたいですが……よし、では、そういうものでやってみたら、どんな音が聞こえるか……ということで挑戦してみたのがこのディスクです。
聴いてみますと……たしかに、そうなんでしょうけれど、なんかヘンだなあ……という印象。慣れ親しんだシャコンヌが、かなり違う曲に聞こえる……
あらためて、無伴奏曲にとっては、アルペジオの緊張感が大きな要素なんだなあ……ということを感じられるディスクでした。
★ギドン・クレーメル(1980)
(フィリップス PHCP1700-1)
ギドン・クレーメルはラトヴィア出身のヴァイオリニストで、2度にわたって『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』全曲録音を行っていますが、これは最初の録音の方です。
この方は、卓抜した技量と豊かな情感に加えて、なんといいますか、男性的な一種の「荒々しさ」も持っておられ、そのあたりが私にとっては魅力です。「女性ヴァイオリニストだと、やっぱりこうは弾けないなー」という感じでしょうか……
「シャコンヌ」の演奏も、シャコンヌの中で小さくまとまるのではなく、なにか「世界に向かって開かれていく」ようなイメージを受けます。演奏が「大きい」というべきでしょうか……
私としては、かなりお薦めのディスクです。(最近、シャコンヌを含むパルティータ3曲だけが、廉価版で出たようです。)
なお、2度目の録音(2001年と2002年)は、私は聴いていないので、なんともいえませんが……次のような紹介もありました。(クレーメル自身の言葉)
以下引用……(タワーレコードのサイトより・適宜改行しています)
『未遂の試み』
音楽は、語り手も演奏者も実際にはかなわない非常に多くの解釈をそれ自体に内包している。我々演奏家はこの「無限」の王国への案内人として活動しているに過ぎない。音楽を「理解した」と主張する者は、幻想を経験している(または創り出している)のである。
手稿譜には既にすべてが含まれている。我々の仕事は、謙虚に、しかし信念を持って、聴き手がその音楽を吟味しそして探求することを可能にするため、その音楽を解き放ち、聴き手の耳に届けることである。それが上手くいった時、小さな一歩が踏み出されるのだ。そしてその後に多くのことが続くのである。……
不思議なことに、ヴァイオリン奏者としての私が、自分を自身の職業の「道具」から「距離」を置きたいと思うことが実際ある。それはバッハと彼の世界により近づこうとする無意識の試みなのであろうか?……
目標とは、スコアを鳴り響く音に翻訳することにあり、準備と録音の過程で現れてくる啓示がある(バッハを演奏する時、人は孤独ではない)。その啓示とは、孤独な魂に強さと愛を示しつつ豊かな条件を与えるものである。鳴り響きにおける表現と効果は非常に力強く、響きそれ自体の中に「含める」ことはできない。それらは単に顕わになることが要求されている。
「録音」を制作するこの謹直で素晴らしい過程は二つの世界の出会いをもたらす。作曲家の世界と、その音楽を内面化し、そして解き放つ演奏家の世界である。もし知覚されるとすれば、その瞬間は、永遠を示す形式と度量とを持つ。
究極的には、我々自身が永遠によって「感動」し(または、鳴り響きを通して、永遠を動かすのだ!)、そして音楽は、我々の人生という短い旅の同行者となるのだ。……
ギドン・クレーメル
……………………引用終わり
この言葉、お隣のスレッド(モーツアルトの頭の中……)の内容も合わせ考えると、面白いですね。
ここからさきは、ヴァイオリン以外の楽器による演奏です。
「シャコンヌ」は、ブゾーニによってピアノ用に編曲されています。(星空のマリオネットさんは、ブゾーニ編曲版をお持ちだそうですね。どなたの演奏でしょうか?)
ブゾーニ編曲版は有名ですが……実は、このほかにもいろいろなピアノ用バージョンがあります。中でも私が好きなのは、ブラームスが片手のために編曲したバージョンで、ピアノ編曲版の中では一番オリジナルに近い姿ではないかと思います。
ブゾーニ編曲版は、原曲にない和声をたくさん取り入れて、さながらきらびやかに着飾った貴婦人……といういでたちですが……ブラームス編曲版は実に簡素で、さっくりとした木綿の肌合い……素朴な田舎風の味わいの中に、堅固な構造がきちんと通っていて、すがすがしくさわやかです。
このブラームス編曲版は、私はミケランジェリの演奏で持っていたのですが……現在、手元に見つからないので、版元やCD番号なんかはわかりません。また見つかったら書かせていただきます。
ということで、ブゾーニ編曲版から一枚。
★ファジル・サイ(1998)
(ワーナー・ミュージック・フランス 3984261242)
これは、このスレッドの上の方でも紹介させていただいたディスクです。
この方は、技術もあり、叙情性もあって、やはりなかなかの才能の持ち主だと思うのですが……ただ、このディスクを聴いたかぎりでは、私は、この人が、なにをやりたいと思っているのかがいまいちわかりませんでした。
まあ、若い方だし、これからってところでしょうか。
★佐藤豊彦(1981)
(チャンネル・クラシックス CCS0490)
リュートの第一人者、佐藤豊彦さんが、バロック・リュートの豊かな響きを聞かせてくれる一枚。
「シャコンヌ」の他に、ソナタ第2番からアンダンテ、あと、バッハと同時代の著名なリュート奏者だった、シルヴィ・レオポルド・ヴァイスのリュート曲その他が入っています。
このディスクの聴きどころは、なんといってもバロック・リュートの深い響きでしょう……なにか、豊かに包みこんでくれる大きな手……を感じさせるシャコンヌは、ヴァイオリンで奏された場合の繊細な響きとはまた違った味わいで、私はとても好きです。
このディスクで佐藤さんが用いているリュートは、共鳴弦(上にじょりちょこさんが書いておられるドローンに相当)を持つ楽器のようで、空間全体が優しく響いているような深い味わいは、この共鳴弦からくるものかもしれません……
「クラシック」のモダン楽器は、共鳴弦のような「あいまいな」要素を廃してしまったのですが……バロック期には、まだ、このような楽器が良く使われていたのですね……この点にも、世界の他の音楽にもつながる「基盤」を感じます。
このディスクも、おすすめの一枚です。
最後に……ちょっと珍しい映画作品を紹介。
★無伴奏「シャコンヌ」(1994)
(ttp://www.eigaseikatu.com/title/12743/)
この作品は、ふとしたことから「演奏家」の道を放棄せざるをえなくなった主人公が……結局、パリの地下鉄に住む浮浪者にまで堕ちながらも、ヴァイオリンを放さず……地下鉄構内で「シャコンヌ」を弾き続ける……というせつないお話です(見たのがだいぶ前でしたので、少し記憶ちがいがあるかもしれません)。
ややベタな展開は気になるところですが……でも、「シャコンヌ」の魅力はたっぷり味わえます。
この物語には、実は、実話の裏付けがあるようで……20世紀のはじめに、スターピアニストとして活躍していた人が、突然、音楽界から姿を消し……そのゆくえは誰にもわからなかった。ところが、最近、彼は浮浪者として「発見」され……彼にピアノを弾いてもらったところ、なんと、19世紀末から20世紀はじめにかけての「ヴィルトゥオーゾ」の時代のピアノ奏法が、そっくりそのままに「保存」されていた……という話だったと思います(細部、違っているかもしれません)。
なお、この映画で、実際にヴァイオリンを弾いているのは、上に紹介したギドン・クレーメルさん……彼の演奏は、「地下鉄構内」という荒々しい場所にも全く負けておらず……「シャコンヌ」という曲の持っている、芯の強さ、エネルギー、そして男性的な魅力……などを、思う存分に放散します。ホント、この作品には最適の奏者だと思います。
このほかにも「名盤」は数々あれど……長くなりますので、このあたりでやめておきます。
私の場合、「シャコンヌ」を試聴せずに選ぶ際のポイントは、演奏時間です。
この曲は、だいたい14分から16分の間に演奏時間がおさまるようにできています。
この範囲に入っていれば、まあ普通の演奏。
14分を切る場合、あるいは16分を越える場合、これはちょっと特殊な演奏かな……と思います。
(上の、佐藤豊彦さんの演奏は、バロック・リュートのゆったりとした豊かな響きを大切にするため、16分を越えている)
きびきびとした演奏がお好みでしたら、14分台のもの、逆に、叙情性の豊かな演奏がよろしければ15分台のもの……ということは、いえると思います。
星空のマリオネットさんのCDコレクションでは、バッハ以前は1割程度……ということでしたが、私の場合はまったく逆でして、バッハ以前が9割くらいでしょうか。しかも、そのうち7割くらいがバッハの作品……
やっぱり、誰が見ても、アンバランスではありますね……
ということで、最近、ちょくちょく「クラシック」のディスクも買い求めております。この間は、ベートーベンのピアノソナタ全曲10枚組みというディスクを買いましたが……なんと、1050円という信じられない値段でした(中古店だったが、それでも安い……)
でも、録音も最近だし、演奏もしっかりしている……これはホントに掘り出し物……
最近は、安いディスクでも、信じられないようなすばらしい演奏にお耳にかかる機会が多く、ありがたいことです。
星空のマリオネットさんのお薦めディスクには、どんなものがありますか?
よろしければ、お教えください。 -
Re: 満点の理由
2008/3/11 20:19 by
ika星空のマリオネットさん……
上でちょっと触れていました、ブラームス編曲の「シャコンヌ」のディスクがみつかりました。
ミケランジェリというのは、私の思い違いで、Walid AKL (読み方がわかりません)というレバノン出身のピアニストの演奏でした。
Cinq grandes chaconnes (5つの大シャコンヌ)というタイトルで、ヘンデルのシャコンヌが2曲、そしてバッハのシャコンヌが3とおりの編曲で入っています。(1991年)
レコード会社は「PAVANE Records」というあまりきいたことのないところで、CD番号は ADW7255です。
バッハのシャコンヌの編曲者は、順に
ヨセフ・ヨアヒム・ラフ(15分19秒)
ヨハンネス・ブラームス (16分48秒)
フェリッチョ・ブゾーニ (16分9秒)
です。
演奏時間は、かなりゆっくりめで、叙情性のある演奏と考えていいと思います。
なお、一人目の ヨセフ・ヨアヒム・ラフという人は、あんまり聞かない名ですが……メンデルスゾーンのお弟子さんだそうです。
メンデルスゾーンというえば、バッハのマタイ受難曲の復活初演により、バッハ復権の糸口を開いた人なので……さもありなんという感じですね。
なお、上に紹介したシギスヴァルト・クイケンの演奏時間も調べてみましたが、なんと11分10秒という驚異的な短さ……
もうとばしまくって弾いている……という感じです。
ルバートをカタキのように忌み嫌い、「心を切り裂く」演奏……
「心を裂く」、そこに、「新たな意味」を見出そうとした演奏といえるでしょう……
このスタイルは、やっぱり一時期の「現代音楽」に通ずるものがあるように思います。 -
Re: 満点の理由
2008/3/12 0:51 by
星空のマリオネットikaさん、大変丁寧で面白い演奏紹介、本当にありがとうございます。
ikaさんの解説を読み、貴殿のひとつの基準になっているというシェリングと、それからクレーメルを聴いてみたいと思いました。
因みに、私が自分の小遣いで買った最初のクラシックのレコードが、シェリングのメンコンでした。懐かしいです。クレーメルではヴィヴァルディの四季やアルゲリッチと競演したベートーベンのクロイテェル等も好きです。
それから、私が持っているブゾーニ編曲版はキーシンの演奏です(97年)。あと、探してみると、ミルシティンのパルティータ(73年)も棚の底に沈んでいました。
私の好きなCDですが、バッハでいうと次のとおりです。
ikaさんが言及されているクイケンが、レオンハルト、ブリュッヘン、ピルスマと共演したブランデンブルグ協奏曲(77年)が愉悦に充ちた演奏で大変好きです。
バッハでは無伴奏チェロ組曲も好きです。カザルスや気品のあるフルニエもよいですが、パオロ・ペスキの南国の陽光のような型破りな演奏も楽しいです。
楽しついでいいますと、カルミニョーラが演奏したヴィアルディの四季も型破りの演奏でビックリしました。これは、はたして音楽なのか、鳥の囀りなのか?
簡単なレスで申し訳ないです。
昨日の夜更かしのあと午後出張に出かけ、今は出張先のホテルからです。
すみません。だいぶしんどくなってきましたので、そろそろ寝ます・・・
また、よろしくお願いします。 -
Re: 満点の理由
2008/3/12 9:20 by
ika星空のマリオネットさん、おはようございます。
出張先のホテルで、これを読まれるでしょうか……
お仕事、大変ですね。私の仕事は、ほとんど出張はないので、楽ですが……(でも、いろんな土地に出かけられるのはいいですね。そのあたりはうらやましいです)
シャコンヌのブゾーニ編曲版は、キーシンでしたか。これは、私は持っていません。
ミルシティンのパルティータは、シャコンヌのある2番も入っているんでしょうか? 少し昔の人というイメージですが……でも、73年なら比較的新しい録音ですよね。
お好きなCDをご紹介くださり、ありがとうございます。
レオンハルト、クイケン兄弟は、合奏になると、なぜかいい……というイメージが、私にはあります。レオンハルトのチェンバロ独奏は、世間的な評価は高いのですが……でも、私には今ひとつなじめません。映画で、バッハを演じたくらいの人ですが……やはり、個人的なフィット感というのはありますね。
レオンハルトとクイケン兄弟の組み合わせでは、私は、やはり『マタイ』が面白かったです。なんか、軽快といいますか……それまでの重い衣の『マタイ』とはかなり違っていて、新鮮でした。ここは、「ピリオド重視」がプラスに出ていると思います。
(でも、最近は、ポール・マクリーシュ版にはまっています。これはさらに新鮮……)
ブランデンブルク協奏曲も、名盤がいっぱいですね……。私としては、ちと古いが、カザルス版は好きです。なんか、カザルスが、ものすごく楽しそうに演奏しています。(むろん指揮ですが)「踊りたくなるような」名演……「ヨッ、ホッ、ハッ」というカザルスの掛け声が聞こえてきそうです。
そして、無伴奏チェロ組曲!……これも、大御所カザルス以来の名盤の連続……私は、一時期、貴公子フルニエの演奏にひたっていました(まあ、それしか持ってなかったので)。ちょっとあとに手に入れたロストロポヴィッチ版もよく聴きました。
その後、ヴィーラント・クイケン、ビルスマ、ヨーヨーマ、マイスキー……と、名盤が続々出ました。ちょっと変わったところでは、日本のテナーサックス奏者の清水靖晃さんが入れたディスク。これは、大谷石を切り出した跡の洞窟なんかでテナーサックスを吹いていて、延々と続く響きが絹の布のように空間を覆いつくしていきます……
パオロ・ペスキという人は、私は知らないのですが、南米の方でしょうか? 「カルミニョーラのヴィヴァルディ」も知りませんが、以前にFMで、たしかそのようなディスクを聞いたように思います。最近は、いろいろな試みがなされているんですね……
ヴィヴァルディの「四季」は、車を運転しながら聞くと最高ですね。ブランデンブルクの早い楽章も……。バロックの「通奏低音」は、なぜか「ドライブ感覚」にピッタリくるようです。……このあたりの現象解明も、やってみると意外に奥は深いのかも……
バッハが愛好したというヴィヴァルディですが……実は、私はあまり好みではありません。なんか、「次に来る音」が予測できてしまうので……。たしかに、いろいろいっぱい作った人ですけれど、そんなにスゴイ大作曲家とは思えないのです……と勝手に思っていたら、皆川達夫さんが、ある本に「私はヴィヴァルディが嫌い」ということを書いておられたので、やっぱりそう感じる人もいるんだ……とちょっと安心しました。
皆川さんは、「ヴィヴァルディのレコードに針を下ろすたびに悪寒が……」みたいなことを書いておられ、そこまでいうのもちょっとなあ……とは思いましたが……相手が「大作曲家」といえど、自分の好みははっきり言う……ということは大切だなあ……と思いました。
ちなみに、私は、バロックの作曲家で苦手なのは今のところヴィヴァルディだけです(でも、四季は聴きなれたせいか、違和感は感じない)。
それでは、このへんで失礼します。いろいろありがとうございました。 -
Re: 満点の理由
2008/3/15 23:26 by
星空のマリオネットikaさん、ワンテンポ遅れたレスで恐縮です。
このところ、アクシデント続きで落ち着かなかったのですが、やっと自宅のパソコンの前にゆっくり座ることができました・・・
ミルシティンのパルティータのCD(2枚組み)には2番も入っていました。シャコンヌの演奏時間をチェックしたところ、何と14分を切って13分56秒のスピード演奏。確かにちょっと落ち着かないですし、また立派過ぎるせいか、何度も聴きたくなる演奏ではありません。
因みに、ものの本には「ロマン派の心を持った新古典派のスタイル」、「大理石の彫像」等と評されていました。
イタリアの名バロック・ヴァイオン奏者カルミニョーラの四季は、それこそ驚くべき演奏です。四季ってこんな曲だったかと本当にあっけにとられてしまいました。躍動感溢れ伸縮自在に語ってくれるけれど、道を踏み外さない。私が持っているのは、ヴェニス・バロック・オーケストラ、音楽監督マルコンによる盤(1999年録音、SRCR2577)。
実は、ヴィヴァルディの「四季」は余り好きな曲ではありませんでした。聴き慣れすぎたさいか、何かちょっと気持ち悪いというか、甲高い音色の流れが良すぎて神経に障るという感じです。ikaさんが言及されている意味とは違うかもしれませんが・・・
しかし、このカルミニョーラの演奏を聴いて私の印象は一変しました!
最後に、バッハの無伴奏チェロ組曲を演奏するパオロ・ベスキはイタリア気鋭の古楽器グループ「イル・ジャルディーノ・アルモニコ」のメンバーだそうです。
これまた斬新で画期的な演奏。「イタリアの陽光に彩られたバッハが眩しく、アーティキュレーションはどこまでも自然で、呼吸が千変万化の絶妙さ」と評されています。カザルスやフルニエのような時代を超える演奏とは違うのかもしれませんが、素人の私にも分かるような気がする愉しい演奏です。
製作はWINTER & WINTER、録音は1996年・98年、910028。
これらの曲、今日、久々に聴きました! -
Re: 満点の理由
2008/3/16 3:14 by
ika星空のマリオネットさん……
お忙しかったのですね……
おつかれさまです。
ミルシティンは、13分台ですか……
でも、クイケンの11分台に較べると、叙情派になるのでしょうね。
「ロマン派の心を持った新古典派のスタイル」、「大理石の彫像」……
なんとなくわかる気はします……
カルミニョーラの四季……
ネットで調べてみましたが、なかなか評判いいみたいですね。
昔、秋のさなかに、知り合いの車に乗せてもらったら、「秋」がかかっていました。
秋の景色にピッタリ合っていて、ちょっとおしゃれな気分を満喫……
それ以来、この曲をきくと、あのときの秋色を思い出します……
でも、やっぱり私は、ヴィヴァルディはだめ。
こんなことをいうと怒られるかもしれませんが、なんか安易につくっている……という感じです。
イタリア・バロックだと、コレルリの方が、立派に感じます。
それと、フレスコバルディ。
彼の、トッカータ・キンタ。(オルガン曲です)
これを、トン・コープマンがやっているディスクは、ほとんどドラッグによる酩酊状態です。
(他の人の演奏だと、そうはならない。トン・コープマンは、やはりフツーじゃありません……)
パオロ・ベスキさんは、「イル・ジャルディーノ・アルモニコ」のメンバーでしたか。
この楽団の演奏は、放送やディスクで何度か聴いたことがあります。
新鮮だけれど、古楽そのもののフィット感……といった印象だったことを覚えています。
ところで……
うちには、不思議なディスクが一枚、ありました。
RON CARTER MEETS BACH (東芝EMI TOCJ-5704)
ジャズのベーシストのロン・カーターが、バッハのポピュラーな曲ばかりを、自分でアレンジして弾いています……
でも、音程が、狂っている!
素人の私でもわかるほどに、明らかに音程が狂っています。
でも……
いい。
なんか、聴いていて、すごく気持ちのいい演奏です。
不思議なことだと思う。
コンクールだったら、まず出場もできないくらいの音程のはずれ……
ロン・カーターという人は、若いころに、クラシックの基礎をきちんと学んだ人といいますので……
ますます不思議です。
彼の、このディスクを聴いていると……
あらためて、「音律」の問題を、考えてしまいます。
「音楽」って、なんだろう……
「音」って、なんでしょう……
海君は、あきらかに、「自分自身の音楽」を持っている。
彼が、モーツアルトを「わからねばならない」とき……
彼の前に、モーツアルトの亡霊が、現れます。
「自分にとってのモーツアルト」ではすまなくなって……
「自分は、モーツアルトをこう理解した」ということを、聴衆にきちんと届ける必要があるので……
モーツアルトの亡霊が、現れたんじゃないか……と思います。
ロン・カーターの前に、バッハは、現われたのだろうか?
音楽って……不思議ですね。 -
Re: 満点の理由
2008/3/16 22:34 by
星空のマリオネットikaさん、こんばんは。
私の場合「音楽って不思議!」なんてことを、ikaさんのように深く考えたことはありませんし、これからもないかもしれません・・・
でも、ikaさんのおかげで、音楽を聴いている時に、そのようなテーマが頭をよぎることがあると思います。
たまたま、今日、京劇を舞台にした映画「さらば、わが愛 覇王別姫」を観ました。
京劇の音楽はこれまたユニークですよね。胡琴や銅鑼などの賑やかなアンサンブルはバロック音楽に似ている部分があるのかなあなんて、ふと感じたりしました。
独特な発声による艶やかな歌唱も、まさしく琴線に触れる微妙な音階で人を惹きつけます。
では、また。 -
Re: 満点の理由
2008/3/17 9:32 by
ika星空のマリオネットさん、おはようございます。
私も別段「深く」考えているわけではないのですが……
しかし、「クラシック」が<世界標準>になっている(私たちの無意識の中でも)のは、やっぱり不思議ですね。
先に挙げた、ロン・カーターさんは、子供のころに、本格的に「クラシック」の道(チェロ)に進もうとしたことがあったらしい。
でも、黒人だから……ということで、断念せざるをえなかった……ということをききます。
「クラシック」の世界は、やっぱり基本的には白人のもので、東洋人には多少は門は開かれている。でも、黒人はだめ……ということのようです。
実は、ものすごい<差別>があるにもかかわらず……私たち日本人の中には、どういうわけか「あこがれ」の感情があります。
たしかに、それだけの<魅力>をもっているし、聴いていると、やっぱり「すばらしい」と思う。
この映画(ピアノの森)や「のだめ」みたいな作品に触れると、感動したりもするのですが……
結局、「なぜ、クラシック?」という基本のところが解決されていないと、「お膳立ての上の感動なの?」という、なにか「落ち着きの悪さ」は、どうしてもぬぐえません。
私たちにとって、「クラシック」の世界は、音楽室に並んだ肖像画に象徴されるような、どこか「崇高」で、「憧れ」を伴ったものであるのに、それが、西欧の人々にとっては、「自分たちが昔からやってきた音楽の延長」ということなのかもしれない……
基本的には「自分たちの音楽」なんだから、黒人や東洋人がやろうとすると「え?キミたちもやりたいの?」ということなのかもしれません。(差別しているという意識がない)
このあたりには、「グローバリズム」が内包する問題と、共通の問題があるように思えます。
(まあ、目をつむれば、「感動」ですんじゃうことなのかもしれませんが……いったん意識すると、やっぱり「解決したいなあ」とは思いますね。むろん、まずは自分の中での解決ですが。)
世界には、たくさんの人たちが暮らしているし、その地域地域によって、固有の文化も歴史もある。
そういうところへ、ヨーロッパという「一地域」で展開されてきた音楽が、なぜか<標準>として受け容れられていくのは……どういうメカニズムが働いているにせよ、結果としてはやはり<異常>だと思える。
修平君のように、自分の存在のすべてをそれに投入して……結果として得たものが、「ひとのもの」だったとしたら……やっぱりこれは、<悲惨>だと思います。
まあ、本人が「自分のものを得た」と思えば、それでいいのでしょうが……
先に、北朝鮮で、ニューヨーク・フィルの公演が行われましたが……
この公演を、北朝鮮の人々は、どういうふうに受け取ったんでしょうか……
「音楽は、国境を越える」といいますけれど……そして、実際に越えるんですが……でも、やっぱり納得できないなあ……という思いは残りますね……
「京劇」は、私はほとんど知りませんが、「能」や「伎楽」は、昔、好きで、ときどき見にいきました。
私は、どういうわけか好みが極端で、「歌舞伎」と「オペラ」にはまったく関心がありませんが(したがって全然知らない)、「能」や「伎楽」には、ものすごく惹かれるものがあります。
(クラシック音楽もだめなので、要するに「近代」がいけないということなのかもしれません……まあ、オペラは、バロック期からありますけど)
「能」の音楽(おはやし)は……これは、「音楽」といっていいのかどうかはわかりませんが、世界的にも、たぶん独特のもので、一種の「呪文」に近いように感じます。
「呪文」なんて言葉を使うと怒られるかもしれませんが、まあ、「異世界から存在を呼びよせる力」を持った「音楽」ではないか……
何度か見ているうちに、やっぱり本当に、しきいを越えて、異世界の存在が現われる瞬間がありまして……すなおに「すごいなあ……」と思いました。
クラシックの演奏家でも、フルトヴェングラーなど、デーモンを呼び出しかねない演奏をする方もおられるようですが……
やっぱり、音楽の世界は、不思議に満ちています……
これからも、音楽の中で、いろいろな出会いがあるといいと思います(相手がたとえデーモンでも……??)
それでは、このあたりで失礼します。 -
Re: 満点の理由
2008/3/20 4:03 by
星空のマリオネットせっかくikaさんとやり取りさせてもらったのに、このままでは尻切れトンボなので、私なりに理解したことをメモしてみました。
素人の落書ですが、結構長くなってしまいました。
1.クラシック音楽の位置づけについて
(1)バロック→クラシックの流れが音楽の本流で、今のポピュラー音楽やジャズにも影響を与えた「世界標準」的なものであるとの何となくの思い込みが、私にはあったような気がします。これは誤りですね。
(ただ、それ以外の音楽がつまらないという偏見は持っていないつもりで、いろいろな音楽に魅力を感じて楽しんでいます。)
(2)また、バロックとクラシックの間に本質的な違いがあるということについてもよく知りませんでした。古典派からロマン派へ続くように、バロックから古典派についてもバッハを介して強い連続性があるのだと思っていました。
ikaさんの説明で、その辺についての認識も新たにさせられました。ありがとうございます。
(3)西洋文明の技術力を含めた優位性を否定するのは難しいと思います。メロディーの宝庫であり数々の名曲と楽器を制作・成熟させてきた西洋音楽が優れた音楽であることは、多くの人に深く愛されている事実をみても明らかだと思います。しかし、「普遍的」な音楽というのは誤りにようですね、世界の多様な音楽の中の、一つの音楽群。
2.非西洋人にとってのクラシック音楽事情について
(1)黒人のクラシック音楽家は見たことがない!
ロン・カーターの例にあるように、黒人のクラシック音楽家というのはほとんど見たことがありません。黒人の水泳選手を見かけないように。
一方、東洋人には水泳選手が普通にいるように、優れた音楽家は少ないかもしれませんが、多くのクラシック音楽家が存在します。
(因みに、ikaさんが言及されているように、ロン・カーターはクラシック音楽の出身であるにも関わらず、音程が悪いという特質があったので、クラシック音楽の世界では生きて行くことはできなかったのではないでしょうか?)
(2)東洋人はクラシック音楽家が多いのはなぜ?
白人社会と隣接して暮らしている米国やヨーロッパ在住の黒人にとって、クラシック音楽は白人の牙城であるとの認識がより強いのかもしれない。入り口で遮断されている面が大きい。
一方、東洋人は、一定の経済水準をクリアーしている国が多く、西洋人とは遠く離れて祖国で生活ているケースが多いことから、西欧在住の黒人とは異なりクラシック音楽が白人のための音楽であるとの実感は比較的乏しいのではないでしょうか。また、自国がクラシック音楽のそれなりに大きな市場としても存在する(クラシック音楽を演奏する場がある)という事情も、東洋人のクラシック音楽家が多く存在できる要因だと思います。
(3)国際コンクールで東洋人は強い!
皮肉な見方をすれば、西洋では若い人たちのクラシック離れが相対的に進んでいるのに対し、日本や韓国、中国等ではクラシック音楽は高尚で見習うべき素晴らしいものだという意識が強いため、音楽大学が多く創設される等、若い音楽家を吸引する力がまだまだ強く、国際コンクールでの入賞者を数多く輩出しているということに繋がっているのでしょう。
また、コンクールではしっかりした技術力が先ず必要とされることから、几帳面で他のことは犠牲にしても練習に励める性質(風土=受験優先社会)がプラスに働く代わりに、若い時に育むべき自由な発想力が十分育っていなかったり、コンクール後の糊代が既に小さくなっていること等から、大演奏家にはなれないという側面もありそうです。
ただ、芸術に対し客観的な評価を下すことはもともと難しい(好き嫌いの問題でもある)だけに、「差別」が入り込む余地も大きいのかもしれません。地縁・血縁の力も無視できない世界。
(4)クラシック音楽はヨーロッパのもの?
クラシック音楽はもともとユーロッパのある時代に生まれ栄えたローカルなものだから、他の文化圏の人には理解・表現できにくいという考えが確かに存在すると思いますし、また事実であろうと思います。
例えば、ソ連や東欧各国にはそれぞれの地域色溢れる名曲や演奏家(交響楽団等)存在しますし、本家本元のドイツとウィーン、それにイタリア、フランスと、それぞれの色や匂いがありますよね。日本の演奏家にはそのような匂いがあるのでしょうか? クラシック音楽家を産み出す土壌が日本にあるのかどうかはよく分かりません。
クラシック音楽と日本の古典芸能や民謡、演歌等との親和性は、ヨーロッパ諸国の民謡との親和性に比べてどうでしょうか。現代音楽では様々な試みがなされているように思いますが、広く人気を得ているものは少ないでしょうし、いずれにしてもクラシック音楽といっても「現代音楽」に分類されるもので、一般のコンサートにいて頻繁に聴けるようなものは、今の時代には既に作れないのかもしれません。クラシック音楽の世界に遅れてやってきた日本の音楽家にとっては致命的です。
(クラシック音楽のコンサートが、基本的には過去の遺産に頼り切っているという状況からみて、滅びゆく音楽と言えるのかもしれません。)
あとは、日本という国で育っても、天賦の才能でヨーロッパの牙城を崩せるかどうか? ヴァイオリンのチョン・キョンファ(韓国人)や、チェロのヨーヨー・マ(中国系アメリカ人)のように・・・
ちなみに、クラシック音楽の世界でも昔は色濃く存在したユーロッパ内での地域性はかなり薄まってきているようです。余り良いことではないでしょうが、演奏が均質化してきている。それだけにクラシック音楽における地域性を元々持ちえていない日本人の演奏家が高く評価される可能性も、以前よりは高まっているのかもしれません。
(5)黒人はクラシック音楽よりジャズ?
(4)の文化の問題とも関連しますが、例えば、黒人のリズミカルな音楽を聴いていると、クラシック音楽のような音楽表現は黒人には体質的に不向きなのかもしれませんね。やはりR&Bやジャズ!
一方、日本人に、黒人のように身体に沁み込んだ独特の音楽性というものはあるのでしょうか?
(6)アメリカ人もクラシック音楽には不向き!
アメリカ人のクラシック音楽家も最近育たないようです。ユダヤ人やロシア人たち亡命芸術家に支えられた米国のクラシック音楽界。有能な教師でもある彼らが一線を退いたことで、アメリカ人のクラシック音楽家は育たなくなったという話を読んだことがあります。
アメリカ人にとってもハードルの高いクラシック音楽。アメリカ人への差別の問題なのか、アメリカ人の文化や体質の問題なのか。多分、後者の要因が大きいのだと思います。音楽ビジネスは盛んでも、アメリカでさえクラシック音楽は本当の意味では根付いていないのかもしれません。
蛇足ですが、ここ10数年で一気に力を持った「グローバル・スタンダード」は、基本的には米国のスタンダード(標準)がデファクト・スタンダードになるという動きです。金融市場のグローバル化、米国経済の独り勝ちから生まれたもので、一つの価値基準を世界中に事実上強制するものです。その基準に合わせることができなければ、世界からはじき出されるという恐怖感を伴っており、それ以外の基準を駆逐してしまいます。
(7)現在は多種多様な音楽が溢れている!
一方、音楽の世界にはそんな強制力や恐怖感は働いていないと思います。ビジネス面からの圧力もたいしたことはないでしょう。したがって、世界中に多様な音楽が存在し、それぞれが自己主張し愛されてもいます。
確かに、世界のクラシック音楽にとって日本は大きな市場ではありますが、その市場は他のジャンル(例えばJポップなど)の市場と比べると、とても小さな市場です。カラオケ人口に比べ、クラシック愛好家の数は遥かに少ないでしょう。銀座の大型CD店でさえ、クラシックCD売場がなくなってしまった店もあります。ワールドミュージックコーナーは生きているのに。現在の音楽状況は本当に多種多様だと思います。
(ただ、地域性は希薄になってきています。各地域の伝統的音楽のウェイトは多くの地域で(国)で低下しているのではないでしょうか。各地の民族音楽を含めて世界中の音楽を聴くことが出来るけれど、日本自身の民族音楽を聴く機会は相対的に少なくなっています。)
(8)クラシック音楽も素晴らしい!
ikaさんが好きだという「能」は、私にとっては古い日本映画の中で観て聴く音楽になっていますし、憧れの津軽三味線や人形浄瑠璃のライブに行ったことはありますが、やはり古い映画の中で観て聴くケースの方が多い。映画を観る愉しみの一つですね。
古典芸能の世界は深いのだと思いますし、その背後に幽玄や魂の世界が広がっているように感じます。しかし、クラシック音楽の膨大で多様な世界、そして壮大な発展(と後退?)を辿った世界と比べると、目に見える古典芸能の世界はずっと小さいのではないでしょうか。
クラシック音楽は、明治の昔から、先進的な西洋文明とともに憧れとともに入ってきた音楽だと思いますが、新作がヒットしているわけではないのに、いまだに多くのファンの心を掴んで放さないでいます。それだけ魅力的で奥深い世界なんだと思います。そんなクラシック音楽が世界中に広がっていることに対して、私は特に違和感がありません。
クラシック音楽は絶対的なものではない訳ですが、その価値を否定する必要もまたないのではないでしょうか。 -
Re: 満点の理由
2008/3/20 9:48 by
じょりちょこガーシュインの「ポーギーとベス」は黒人を主人公に据えたオペラです。黒人たちが歌い、演技するのが普通ですね。
20世紀生まれの作曲家としては、アストル・ピアソラとレナード・バーンスタインなんかは普通に客を集められると思います。(個人的にはフィリップ・グラスを愛聴しますが...)
そうそう、「ピアノの森」のDVDを入手しましたので、近々観賞します。(実は一色まことがあまり好きではないので、戦々恐々としてはいるのですが。) -
Re: 満点の理由
2008/3/20 11:56 by
ika星空のマリオネットさん、おはようございます。
詳しいまとめをありがとうございました。たしかに、お書きになっておられるとおりであると思います。
私の方は、まとまったかたちでは書けませんが、思いつくままに……ということで、感じたことを書かせてください。
1の、「クラシック音楽の位置づけ」についてですが、確かに、西洋音楽の範疇に限定するなら、「バロックからクラシック」という流れはあるといっていいと思います。
バッハとヘンデルは、後期バロックの最後の巨大な光でしたが……バッハの晩年の頃には、すでにバッハの子供たちの世代が活躍していて、バッハのような対位法による構築物といった趣の音楽は、すでに時代遅れとなり、旋律線が明確になって、他の声部はそれを支える伴奏にまわる……という、モノフォニックな作曲法が主流になりつつあったようです。
そして、その過程で「通奏低音」と「ポリフォニー」は失われ、また、音律も、現在の12音を完全に均等に配置する調律法(平均律)へ向かっていったのだと思います。
私たちは、学校で、バッハ、ヘンデルの次にハイドン、モーツアルト……と習うので、そういう風に流れが進んでいった……という思いこみを植えつけられているのですが(これは、現在のこどもたちも同じでしょう)実際には、バッハのこどもたち(とくに、カール・フィリップ・エマヌエル)やマンハイム楽派といった重要な音楽家が流れを受け継ぎ、さらにハイドンやモーツアルトの音楽に受け継がれていったようです。
バッハは、この過程で一時期、忘れ去られた存在になりますが……鍵盤楽器の練習曲の作者として、鍵盤楽器を習う人に受け継がれ、さらに教会音楽や対位法、音律の問題に興味を持つ人々にとっては、やはり「古の巨人」としては意識されていたのではないかと思います。
バッハの「復権」は、良く知られているように、メンデルスゾーンが1829年に、ベルリンのジングアカデミーで行った「マタイ受難曲」の復活上演を嚆矢としますが、この時の演奏は、バッハの原曲をかなり短くして(多くの曲を削除した)、楽器も、もう使用されなくなったオーボエ・ダモーレなんかをクラリネットに換えたかたちで行われたようです。
面白いことに、このメンデルスゾーン版「マタイ」を、メンデルスゾーンが使用した楽譜と楽器で実際に演奏したCDが出ていますので、興味がおありになれば、聴いてみてください。(1841年のライプツィッヒでの上演の際に使われたスコア、パート譜を使用)
クリストフ・シュペリング指揮
ダス・ノイエ・オルヒェスター/コルス・ムジクス
Opus111 OPS30-72/73 (92年4月録音)
「マタイ」のメンデルスゾーン版については、ロマン派的解釈に流れすぎているとの批評もあるようですが、私が実際にこのCDを聴いた感じでは、これはこれでなかなかすばらしいものであると思います。原曲の「マタイ受難曲」のイメージはきちんと保たれていて、ここにはちゃんと「バッハ」があります。……これを聴くと、やっぱり メンデルスゾーンという人は、たいした音楽家だった……と思いますね。みごとに「バッハの心」がそこに鳴っている……たとえば、カラヤンの「マタイ」と較べると、私は、こちらの方がはるかに「バッハ」をきちんと表現していると感じました。
このように、 メンデルスゾーンの努力によって「バッハ」の復権がなり……その後、私たちが学校で習うような「音楽史」の基本構成がつくられていったものと思います。そして、その中で、バッハやヘンデルは、あくまでバロック後期の音楽家として、現在の「クラシック音楽」の源流であるとの位置づけでした。
しかし……私はいつも思うのですが……本当に「バッハ」を受け継いだのは、実は、「現代音楽」と呼ばれるジャンルの人々ではなかったか……。
シェーンベルクやウェーベルンなどの現代音楽家がバッハの作品に深い興味を示したことは、よく知られていますが、結局は、それは、「クラシック音楽」が一旦喪失してしまった「形式」への模索と重なっているように、私は思います。そして、まさにこの点において、バッハとそれ以前の音楽が、「現代の音楽」において、「現代的な意味」を持ちえる……ということではないでしょうか。
つまりは、バッハやバロック音楽を、「クラシック音楽の源流」として演奏する場合には、それはほとんど「現代的意味」を持つことができず、「クラシックの演奏会」のプログラムの一部として取り上げられるにとどまるわけですけれど……しかし、本当の「現代の音楽」をつくっていこうと試みる人たちにとっては、やっぱりバッハ(とそれ以前の音楽)は、とくに「形式」の面からみて、興味のつきない新鮮な輝きをずっと保っているもののように思います。
私は、結局、メンデルスゾーンにおいても、やはり彼が、バッハを「復権」したいと願った根本の動機は、実はそこにあったんではないかな……と思います。
「形式」を喪失してあまりにも「恣意的」に流れすぎている感のある メンデルスゾーンの当時の音楽の世界に対して、彼の中には、やはりこれではいけない……という思いはあったのではないでしょうか(想像ですが)。
私たちが今生きている「現代」においても、やはりそのような傾向は変わらずあるようで、「現代音楽家」の多くの人にとって、やっぱりバッハは「気になる存在」のようです。
たとえば、日本の若い作曲家集団にTEMPUS NOVUMというグループがあって、このグループの活動は、現在の現代音楽のほぼ最先端だといってもいいと思うのですが……彼らが出しているCDの中に、バッハの「マタイ」自体を音素材として扱っているものがありました。
ttp://japanesecomposers.info/ja/modules/tinyd3/
これは、まったくの私見なんですが……私は、「クラシック音楽」は、バッハとそれ以前の音楽を正しく継承「しそこなった」のであって、その際にできてしまった「溝」はいまだに埋まらず……その「継承」の問題は、現代においても、最も現代的な「課題」として、今を生きるたくさんの音楽家の中に引き継がれているように思います。
そして……実は、このことは、「音楽」の範囲にとどまらず、実はもっともっと大きな問題であって、それは、「ヨーロッパの19世紀」というものの持つ特殊な課題として……今に至るまで未解決のままにひきずられているものではないでしょうか。
もし、「クラシック音楽」というものが、「世界標準」として影響力を持ったとするならば、その問題は、結局、思想や科学技術や政治や経済や……そういった、さらに大きな問題までを含めて、 「ヨーロッパの19世紀」というものが、いったい何であったのか……そのことと強くリンクしてくるもののように思います。
まあ、音楽室に飾ってある肖像画のようなものを理科室にかけるとしたら、それは、ガリレオ、ニュートンからはじまって、ラボアジェ、ファラデー、ドルトン、ヘルツ、キュリー夫妻、アインシュタイン、湯川秀樹……なんかになるのでしょうが、やっぱり19世紀プラスマイナス50年の200年間が中心になると思います。
私は、やっぱり、今の私たちの文化というものは、音楽に限らず、多くの点で、「19世紀の亡霊」に、その根本のところを押さえられたような状態にあるんじゃないかな……と思うのですね。そして、それは、欧米中心の「グローバル・スタンダード」に引き継がれて、私たちのこれからの「未来」をも、大きく規定しようとしているのだと思います。
だから、私は、やっぱり、少なくとも「文化」の面だけにおいても、 「19世紀の亡霊」ときちんと対決して、その問題点を整理しておくことは、絶対に必要じゃないか……と思うのです。……まあ、早い話が、日本の学校の音楽室に、なんでヨーロッパの19世紀の作曲家のご尊顔がああやってずらっと並んでいるのか……ということですよね。
もう「普通」になっちゃっていることは、あまり疑問をもたれないで、その枠の中でお話しがずっと進んでいくので……その「枠」自体に疑問符を提示するようなことをいうと、「なんじゃおまえは?」ということになる。うまくまとまっていた「場」の雰囲気をぶち壊す「攪乱者」になりかねないのですが……でも、考えてみると、「枠」の中だけは平和で、その中で「高みを目指す」ということもありえるけれど(海君や修平君のように)、いったん「枠」を開くと、もうそこは地獄……ということもあり得る。枠の中で楽しむ人にとっては、枠の外で信じられないような目にあっている人のことは、やっぱりわからない……
今、私たちのいる世界というものは……それぞれがそれぞれに「枠」をつくって、その中でなんとか楽しくやろう……としているように私には見えるのですが……やっぱり、その「枠」の中でも最大のモノは、「ヨーロッパの19世紀の価値観の延長」という枠じゃないかと思います。
日本人は……どうしても、コロッとそれにまいる傾向がある。これは、自分自身のことを考えてみてもわかるのですけれど……。そこは、やっぱりどうしても「厳しい批判」が必要な部分じゃないかと思います。……自分の中で、楽しんでいる部分を批判していかなくてはならない……というのは、けっこうつらいことですけれど。
いろいろ書いているうちに長くなってしまいました。星空のマリオネットさんのようにきちんとまとめることができず、読みずらい文章になってしまってすみません。
書いておられたことの中には、まだまだいろいろ触発されることがありますので、それらはまた改めて書かせていただこうと思っています。 -
Re: 満点の理由
2008/3/20 13:46 by
星空のマリオネットじょりちょこさん、こんにちは。
仰るとおり黒人のクラシック音楽家(演奏者)もいましたね!
「ポギーとベス」のCDは私も持っています(ダイジェスト版ですが)。サイモン・ラトル指揮、ロンドン交響楽団のもので、ポギーをホワイト、ベスをヘイソンが歌っています。
差別や貧困の中でも力強く生きる黒人達の物語。ガーシュインの傑作の一つですね。この曲はミュージカルに分類されていることもあり、純粋なクラシックかどうかは分かりませんが、ジャニス・ジョップリンの歌でも有名な「サマータイム」なんかも入っていて聴き応え十分です。堂々たるオペラであると同時に、まさにミュージカルのテイストに充ちている元気の出る作品です。
因みに、ガーシュインはロシア系ユダヤ人の移民の息子。貧しい地域であったニューヨークのブロンクス出身。ミュージカル、ポップス音楽の世界からクラシックにもチャレンジし名曲を残した20世紀前半の地球規模の大作曲家ですね。ロシア系ユダヤ人というクラシック音楽の代表的な血とニューヨークという大都市が生んだ作曲家。アメリカの音楽とクラシックを融合した実に愉しい音楽。「ラプソディー・イン・ブルー」や「パリのアメリカ人」も大変好きです。
黒人のクラシック音楽家というと、確かに「声楽」の世界には、バトルをはじめ多くの有名な歌手がいましたね。失礼しました。
黒人霊歌などの流れ。何といっても黒人の豊かな歌声はクラシック音楽でも受け入れられたのですね。自らの身体一つで表現できる歌の世界。
バーンスタインもユダヤ系アメリカ人ですね。ニューヨークフィルの常任指揮者でもあり、マーラーの交響曲など極め付きの名演も沢山あります。「全裸の男が眼前で両手を広げて待っているようで、その胸に飛び込む勇気は私にはまだない。」なんて評する人もいるほど、燃焼しつくす禁断の演奏。
「オン・ザ・タウン」や「ウェスト・サイド・ストーリー」などミュージカルの傑作を生み出した20世紀半ばを代表するミュージカル作家でもありますよね。
ピアソラも嫌いではないです。ヨーヨー・マやクレーメルによる演奏を聴いたことがあります。アルゼンチンタンゴにジャズやバロック、フーガの要素を融合させた音楽。
ヴィヴァルディの「四季」と、ピアソラの「ブエノスアイレスの四季」を組み合わせた「エイト・シーズンズ」というクレーメルの面白いCDがります。なかでもピアソラの「冬」の、バロック風の美しい調べは秀逸です。
クラシック音楽と各地域の民族的な音楽との融合。20世紀には愉しい音楽が沢山あることは事実ですね。
この流れにある日本の曲で私が愛着を感じるのは、團伊久磨のオペラ「夕鶴」や武満徹の映画音楽(大島渚の「愛の亡霊」等)などです。 -
Re: 満点の理由
2008/3/20 20:43 by
星空のマリオネットikaさん、こんばんは。
私のメモは表層を撫でたような、つまみ食い的というか、思いつき的なものに過ぎません。ikaさんのレポートからは、深いところを探求しようとする意志を感じます。
ikaさんの、バッハと現代音楽との関係や「枠」の議論については理解できますし、共感もできます。なるほどと、非常に面白く読ませてもらいました。
一方、19世紀のヨーロッパ文明の影響力から、文化の面だけでも人々を解放させるためにクラシック音楽を批判しなければならないという主張については、どうも共感できません。
まず、前者についてです。
確かに、現代音楽にしてもジャズにしても、クラシック音楽の呪縛から離れて、バッハを振り返ってみようとしている部分があるように思います。
クラシック音楽は、モーツァルトやベートーベンで早くも完成されピークを迎え、あとは華美な衣装を纏ったり、ヨーロッパ各地の民族音楽を取り入れつつヴァリエイションを豊かにしてきたけれど、もうやることがないところまで成熟してしまった。
音楽家たちはバッハまで戻るしかなかったという面もあるように思います。それは、とりもなおさず「クラシック音楽がバッハを発展させてきたものではなかった」ということを示してもいるのですね。
それは波のように繰り返す、ゆり戻しのような現象なのか。それとも普遍的なものへの、或いは構造的なものへの回帰なのか。両面あるような気がします。
次に後者についてです。
クラシック音楽、印象派やピカソやミロの絵画、それからヨーロッパやハリウッドの映画、そのいずれもが、産業革命以降の圧倒的な生産力とそれに合致した社会構造のもと生まれた西洋文明が、その経済力に乗せて世界中に伝播したもの。今や生活の大半はマックやそんなもので占められています。
ikaさんが批判すべきだと考えているのは、文化・芸術においてはその全てではなく、とりあえず「クラシック音楽」に限ったことなのでしょうか。
批判すべきは西洋文明を見境なく受け入れてしまう日本人なのか、それとも世界の相当な場所で聴かれているオペラを含むクラシック音楽やミュージカルそのものを、先ず「脆弱」なものとして批判すべきだという主張なのでしょうか?
生みの親である西洋人がクラシック音楽を素晴らしいと思うのは、自らに根付いたものだから、まあ構わないけれど、よそ者の日本人が素晴らしいと感じるのは、舶来品信仰からくる錯覚に過ぎず、間違いだということでしょうか。
もちろん学問をする立場や、自ら新しい音楽を創造しようとする立場から、現状を批判的に検証しようとするのは、健全なことだと思います。
しかし、そこに「だから周囲の日本人はダメなんだ」というニュアンスが入ってしまうと、「自分が嫌いなものは価値がない」という、周囲に対する自己正当化の要素が含まれているようにも見え、肝心の主張そのものの正当性にも翳がさしてしまうような気がします。
クラシック音楽ファンには、教養主義的な指向性があるかもしれませんし、オペラなどには高級趣味や享楽主義的な側面もあるとは思いますが、街角等で演奏している弦楽四重奏団などを見かけると、しばし立ち尽くしてしまいす。いっとき精神が浄化されるように感じるのです。
しかし、ikaさんのレポートで、勉強させてもらいました!
前の時代から引き継いだ「枠」(価値観)を否定し破壊しようとすることで、次の時代がやってくる。その際に、さらに一世代前のものに価値を見出すというのも歴史にはよくあることのように思います。
全く新しい普遍的な価値を創り出すのは、なかなか難しいというか、そんなものは最初からないからなのでしょうか? -
Re: 満点の理由
2008/3/21 12:24 by
ika星空のマリオネットさん、こんにちは。
「それは波のように繰り返す、ゆり戻しのような現象なのか。それとも普遍的なものへの、或いは構造的なものへの回帰なのか。」
私は、どちらかといえば「普遍的なものへの、或いは構造的なものへの回帰」なのかなと思うのですが。
というのは……バッハと、それ以前の音楽のスタイルというものは、「クラシック音楽」に較べると、かなり世界の他の音楽に近いところがあるような気がするから……
前に、バロックリュートにドローンがあること(というか、ドローンを持つバロックリュートがあること)を書きましたが……このように、世界のいろいろな音楽は、多かれ少なかれ「雑味」を許容するかたちになっていると思います。
しかるに、クラシック音楽においては……海君と修平君のコンクールでも明らかに描かれていたように、できるだけ 「雑味」を除去して、ピカピカに磨きあげていこうとします。
なんか、「楽しさ」という点では、世界のいろいろな音楽に、負けてますよね。
これは、聴く側もそうで……咳一つない「苦行」を強いられます。
交響曲のコンサートなんかで、楽章と楽章の間に、みな一斉に咳をする……
そんな苦しい思いをするくらいなら、行かなきゃいいのに……とも思うんですけどね……
こういう点は、「小さなこと」かもしれませんが……でも、「クラシック音楽」の持つ「特殊性」に、大きく関係していると思います。
以前に、ラジオでしたが、ボヘミアの合唱団の、「民族発声」による民謡を聴いたことがありますが……「クラシック」の発声とは全く異なって、豊かに流れる河を思わせる歌声の響き……
これに対して、 「クラシック」においては、人声もまずは「楽器」として考えるから、やっぱり 「雑味」をできるだけ取り除いた、純化された表現を目指しますよね。
日本の民謡や演歌なんかでは、いわゆる「小節」(こぶし)が大切になるけれど……これは、世界の民族音楽において、かなり普遍的にみられる……というはなしを前にききました。
でも、「クラシック」においては、「小節」ではなくて「ビブラート」になります。
同じ「音程のゆらぎ」であっても、その出てくるゆえんはかなり違うなあ……という気がします。
対照的に、バロック音楽では、「ビブラート」は後の「クラシック音楽」ほどには盛んではなかったようで、かわりに良く用いられたのが「トリル」(装飾音)ですが、これは、どちらかというと「小節」に近いものです。
「雑味」や「小節」の許容は、一見「構造的」なものと正反対に見えるのですけれど……実は、そうともいえないのでは……と思います。
なぜなら……それらは、「世界と自分」の関係性の翻訳として、とらえることができるから……
「世界」は、今、そこにあるとおりのものであり、そして「自分」も、今、ここにあるとおりのものである……とするならば……
その「世界」と「自分」の間に、自然に湧き起こる「音楽」は……それは、きっちりと「世界の構造」を反映したものとなるでしょう。
だから、私は、「クラシック」の場合、結局「考えすぎ」じゃないかと思うんですよね。
クラシック音楽も、音楽である限り、「世界の構造」を正しく反映したものでありたいと願う……
でも、それを……結局「頭」を介在させて、やろうとしているんじゃないか……
やっぱり、そう思ってしまいます。
おそらく、シェーンベルクの12音技法は……その極地といえるんじゃないでしょうか……
だから……実は、「構造」も「形式」も、まったくシンプルに、今、ここに、存在しているのだと思います。
でも……「クラシック」の音楽家にとっては、それは、努力に努力を重ねて……一生の努力によって、ようやく手に入るかどうかというもの……(マンの「ファウストゥス博士」のように、悪魔と契約までして手に入れようとする)
海君と修平君のコンクールの様子なんかを見ていると、なんか、そんな感じにとらわれてしまいますね……
やはり、「ヨーロッパ思想」による「世界のとらえかた」は、色濃く反映されているように思います。
それで、書いておられた第2の点ですが……
私が「批判すべき」と考えているのは、「クラシック音楽」でもなく「日本人」でもなく……それは、「自分自身」です。
「生みの親である西洋人がクラシック音楽を素晴らしいと思うのは、自らに根付いたものだから、まあ構わないけれど、よそ者の日本人が素晴らしいと感じるのは、舶来品信仰からくる錯覚に過ぎず、間違いだということでしょうか。」
こういう見解は、私は持っておりません。
先に、「世界と自分の関係性」ということについて書きましたが、やはりすべてはここから始まり、ここに終わるものであって……これに対して、「西洋人」、「日本人」というのは、実は、著しく抽象化された概念です。
まあ、平たくいうなら、「脳」が作り出した実体のない言葉……ということになりますか。
こういう、「実体を持たない言葉」を、話をする際にはどうしても使用しなければならないのですが……でも、その際にも、このような言葉が「実体を欠いている」ということは、認識している必要があると思います。
ですから……私が「批判」できるとすれば、あくまで、ここに、実体を持って存在している「私自身」であり、その「心」ということになります。
要するに、私の心に、「クラシック音楽」に惹かれる部分があるとすれば、それはなんなのか、そして、なぜそうなるのか……ということしか、「批判」の対象にはならないし、それ以外のものを対象としたとたんに、すべては空しい妄想と化すと考えます。
ただ……私自身の「心」は、むろん私自身に留まるものではなく……それは、つねに「世界」との関係性を有していますので……結局、自分自身の心を批判することは、それにつながる「世界」の見方を考えていくことにつながる……と、こういうことになると思うのです。
少々わかりにくい文章になったかもしれませんが……そのように考えております。 -
Re: 満点の理由
2008/3/22 22:01 by
星空のマリオネット「西洋音楽史」(副題:「クラシック」の黄昏)(中公新書、2005年10月初版)という岡田暁生氏の小著を読んでみました。大変面白かったです。
「クラシック」を自明のものとしてではなく、「歴史上の産物」として眺め、それが「なぜ/どこから生まれ、どこへ/どうして流れ去ったか」を考えたい。一方、一般に縁遠くなっている古楽/現代音楽については、なじみのある「クラシックの時代」と関連づけるアプローチをとってその意味を考えたい・・・というのが著者の弁です。
中世音楽から現代音楽までの大きな流れが、多くの作曲家やその作品群とともに語られており(グレゴリオ聖歌から、シェーンベルク、ケージ、モダンジャズまで)、音楽(名曲)を音楽史の文脈のなかで改めて聴く歓びを与えてくれる面白い本です。ご参考までに章だてを紹介します。
第一章「謎めいた中世音楽」→ 第二章「ルネサンスと「音楽」の始まり」→ 第三章「バロック―既視感と違和感」→ 第四章「ウィーン古典派と啓蒙のユートピア」→ 第五章「ロマン派音楽の偉大さと矛盾」→ 第六章「爛熟と崩壊 ― 世紀転換期から第一次世界大戦」→ 第七章「20世紀に何が起こったのか」
著者は「あとがき」でこう述べています。
「語り手の主観を隠蔽し、それでもって擬似実証科学的な客観を装う ― これこそが私が最もやりたくなかったことである。」
最後に、本書の「まえがき」に戻って、そこから一言。
「・・・その人の音楽的嗜好の偏りを是正しようなどといったことを、私は毛頭考えていない。ただ一つ、本書を通じて私が読者に伝えたいと思うのは、音楽を歴史的に聴く楽しみである・・・」 -
Re: 満点の理由
2008/3/23 8:41 by
ika星空のマリオネットさん、こんにちは。
「西洋音楽史」(中公新書)は未読ですが、ご紹介くださった内容、なかなか興味深いものがありますね。一度書店でさがしてみます。
「謎めいた中世音楽」……これは、章題自体が謎めいております。
中世まで遡ると、もうどうしても「復元」作業が必要となるのでしょうね……
私が若干聴いた範囲では、やっぱりデヴィッド・マンロウ(イギリス)のCDが印象的だったかなあ……
「ゴシック期の音楽」ロンドン古楽コンソート 指揮 デヴィッド・マンロウ
アルヒーフ POCA-2098/9
扱っているのは、ノートルダム楽派、アルス・アンティカ、アルス・ノヴァの各時期で、年代にすれば12世紀から14世紀ですから、中世も後期で、ルネサンス音楽に接続する一歩手前ですね。レオナン、ペロタンからはじまって、「音楽」がだんだん複雑なものになっていく様子が連続的にわかる、実に面白いディスクです。(一般的な評価もとても高いみたいです)
デヴィッド・マンロウは、その活躍の最中に、33才の若さで突然亡くなるんですよね(34との説もあり)。自殺だったとも、事故死だったともいわれているようですが、よくわかりません。
もし、この人が生きていたら、「古楽」の世界もかなり様相は違っていたと思います。
私は未読ですが、『中世・ルネサンスの楽器』(音楽之友社から邦訳)という著書もあるようで、自宅に膨大な中世楽器のコレクションがあったそうです。研究者としても一流だったんですね……
このディスクを聴いてみると、単旋律のグレゴリオ聖歌からポリフォニーが誕生してくる様子が、ありありとわかって興味が尽きません。……なるほど……後に、バッハという大海に流れ込んで終焉を迎える「対位法」の生まれたてのころは、こんな様子であったのか……と。
ノートルダム楽派の「ノートルダム」とは、パリの「ノートルダム大聖堂」のことのようで、この聖堂の建築が少しずつ複雑なものとして形成されていくにしたがって、音楽の声部も増えていき、対位法が成長して複雑なものになっていったようです。
この時期は、「12世紀ルネサンス」と呼ばれることもあるみたいで……一般的に「ルネサンス」は13世紀にイタリアから始まった……とされますが、実は、それ以前に、各地で本格的な「ルネサンス」を準備する動きが盛んになってきていたようです。今「ゴシック様式」として見慣れている教会建築の、あの独特のスタイルも、このころから盛んになっていったみたいですが……対位法も、やはりその動きに添って成長してきた……というのは、興味深い話です。
レオナン(レオニヌス)の「2声のオルガヌム」からバッハの「フーガの技法」まで……
今、私たちは、「ポリフォニー」の誕生から成長、そして死に至るすべてを、様々な音源で聴くことができるのですが……これは、やはりかなり特殊なこと(世界的にみれば)ではないか……と、そう思わざるをえません。
ずっと、「クラシック音楽」の「特殊性」を話題に展開してきましたけれど……もしかしたら、「ポリフォニー」も、同じくらいに「特殊」だったかもしれません……ただ、 「ポリフォニー」の場合には、その「特殊性」が「スタンダード」となっていった範囲が、ほぼ「ヨーロッパ圏域」であったのに対し、 「クラシック音楽」の場合には、それが、ヨーロッパの範囲を超えて、世界規模の「スタンダード」になっている(ある面で)というところは、大きく違うようにも思いますが。
なお、デヴィッド・マンロウ氏は、世界各国の民族音楽や現代音楽にも多大な興味を持っていて、世界各地に旅行にいくと、その地で手に入る民族音楽のレコードを山のように買って帰ったとか。作曲にも興味を持って、映画音楽やテレビの音楽も作っているそうですよ。
「クラシック」もいろいろ聴いておられたようですが、ただ、ワグナーだけは苦手だったそうで……これは、なかなか考えさせられるエピソードであると思います。
12世紀より古いヨーロッパ音楽……となりますと、やはり「グレゴリオ聖歌」……ということになるのでしょうが……これは、「12世紀ルネサンス」より一昔前の、「カロリング・ルネサンス」とともに形成されてきた音楽ですよね。(8から9世紀)
その始源は、6から7世紀の教皇グレゴリウス1世と一般にはいわれているようですが……ともかく、 「カロリング・ルネサンス」の時代に、今に伝わるようなかたちに形成されてきた……ということで、 「カロリング・ルネサンス」が「教会旋法」を生み出し、「12世紀ルネサンス」が「ポリフォニー」を生んだ……という対応は、「生産手段の革新的な展開」が「文化の展開」に強い影響力を持つ……というふうに考えると、これはなかなかに面白いパースペクティヴが見えてくるように思います。要するに、その考えで「クラシック音楽」に対応するものを求めてみると、それは「工業化社会」ということになりますから……
「生産手段の革新」と「音楽様式の確立」を相互に関係づけて展開するというのは、面白い研究テーマだと思います。(私は寡聞にして、知りませんが、もうすでにどなたかがてがけておられるかもしれません)
「グレゴリオ聖歌」より古い音楽となると、私は、エドゥアルド・パニアグアのCDくらいしか知りませんが(この人、なんと、古代ギリシアの音楽まで復元演奏している!)……ここまでくるとさすがに、「勝手にやってるんじゃないの?」という疑念?がどうしてもつきまといます。でも、聴いていて、かなり楽しいのは事実です。それと、やはり世界各地の音楽とのつながりは、濃厚に感じます。(……というか、逆に、民族音楽的なものから復元しているような感じです)
あと、中世音楽のディスクで、特筆してあげたいのは、やっぱりヒルデガルト・フォン・ビンゲンの作品。12世紀のドイツの修道女だった方ですが、霊感の強い人で、様々なヴィジョンを見ることのできる力があったようです。作曲もさかんにされていたみたいですが……その曲の美しいこと……少し前からかなり評価が高まって、ろいろな合唱団によるディスクが出ています。中には、ヒーリング・ミュージックとして発売されているものもあるようですが……そういう見解もありかな?と思うくらい、これは耽美的な面もある音楽……もしかしたら、星空のマリオネットさんのお好みにも合うんじゃないでしょうか。
それから、「オフィチウム」というディスクをご存知でしょうか。
ECM NEW SERIES 1525 445 369-2
これはもうルネサンス期にはいりますが(一部ゴシック期)……モラーレスやデュファイなどの教会音楽をヒリアード・アンサンブル(著名な古楽合唱団)が歌っている横で、ヤン・ガルバレクという現代音楽のテナーサックス奏者が、勝手にサックスを吹いているんですが……これが、すばらしくいいんですね。「宇宙に消えていく響き」が味わえます……。
一時期、評判になりましたから、もうディスクはお持ちかもしれませんが……もしまだでしたら、お好みにはかなり合うのではないか……と思って紹介させていただきました。
「古楽」が、「クラシック」をとびこえて「現代音楽」と共演しているわけですけれど……なんかもう、そういう音楽がはじめからあるかのように違和感なく一体化しています……
こういう分野の試みはいろいろあるみたいですけれど……これは、文句なく成功している一枚だと思います。
……ということで、なんかディスク紹介のようになってしまいましたが……「音楽」の世界は、広く、豊かですね……
ただ、それを「音」として、実際に耳で聴くためには、やはり肉体を持った音楽家の「パフォーマンス」が必要になるわけで……そういう点からすると、「その音楽」がどういうものであったか……ということは、「研究」と「パフォーマンス」それともう一つ「楽器」の、この3位一体がバランスよく調和することが必要と思います。
これから……さらにびっくりするようなディスクがでてくるんじゃないかな……と思います(そう期待しつつ)。 -
Re: 満点の理由
2008/3/24 18:23 by
じょりちょこパニアグアは古代ギリシアの音楽を再現したCDを持っていました。学術的な意義はあるのかも知れませんが、あまり面白いとは思いませんでしたねえ。
逆説的に「現代の楽器の表現力は、古代のものより、はるかに進歩しているわけだなあ」とは思いましたけれど。
(でも、ああいう素朴な音楽も、好きな人は好きみたいですね。) -
Re: 満点の理由
2008/3/24 22:04 by
ika「現代の楽器の表現力は、古代のものより、はるかに進歩しているわけだなあ」
フレッド・ホイルのSF作品に、『10月1日では遅すぎる』というのがありましたが、これを思い出しました。(Fred Hoyle,OCTOBER THE FIRST IS TOO LATE)
地球上の、いろいろな地域の「時間」がジグザグになる……というお話で、現代のイギリスと古代ギリシアが共存する。
いろいろあって、主人公のピアニストは、ギリシアの神殿で、古代の神々と「音楽対決」を行います。
「武器」は、現代のピアノと……
神殿の洞窟からは、最初、素朴な弦楽器をつまびくような音色……
「モダンピアノと古代楽器じゃ、表現力では勝負にならない……」と、はじめのうちはそう思う。
ところが……洞窟から響く音楽は、だんだんすごくなってくる……
もう、最後には、どんな楽器で音を出しているのかわからないほどの迫力になってくる……
と、こんな話じゃなかったかと。
(原本なく、記憶で書いております。まちがってたらご訂正を……)
このお話、映画化されているのでしょうか……
もしされているのなら、ぜひ見たいものと思いますが……
あと、印象に残っているのは、『古事記』の仲哀天皇のお話ですかね……
闇夜の審神……
仲哀帝のつまびく琴の音が、だんだんとかそけき響きとなり……
ついには止んでしまいます。
帝は、こときれておられました……
神功皇后と武内宿禰の影に消えた、哀れな帝のお話……
帝の琴は、「命の緒」だったのですね…… -
訂正です
2008/3/27 9:52 by
ika上の私の書きこみの中で、ポリフォニーの成立を12世紀であるように書いているところがありますが、ポリフォニーそのものは、さらに以前から存在します。ちょっと誤解を生じかねない書き方をしてしまいましたので、自己レスにて訂正させていただきます。
以下、皆川達夫『バロック音楽』(講談社現代新書、1972年)より引用。適宜改行しています。
(グレゴリオ聖歌と多声音楽の成立について述べた箇所で、「この聖歌」とあるのはグレゴリオ聖歌のことです。)
……………………………………………………
俗論によると、この聖歌の成立にはローマ教皇グレゴリウス1世(590から604在位)のはたした貢献が大であったと伝えられ、そのためグレゴリオ聖歌と名づけられているが、今日ではグレゴリオ聖歌はもっと複雑な形で長い時期にわたって形成されていったものと見なされている。
すくなくとも楽譜のうえで、グレゴリオ聖歌の変遷を具体的にたどりうるのは9世紀のころであり、この時期にいたってはじめて、ヨーロッパ音楽史は本格的な歴史研究の対象となりうるのである。
そうして興味ぶかいことは、最近の研究の結果、今日ある形のグレゴリオ聖歌は、伝承のように6世紀末のグレゴリウス教皇の時代にまでさかのぼりうるものでは決してなく、またローマで集成されたものでもなく、どんなに早くとも8世紀か9世紀のころにアルプスの北の地域で完成したという見方が強まってきている。
それは資料的裏付けのある十分に根拠ある議論であり、わたくしたちもそれにしたがって、9世紀ごろをグレゴリオ聖歌の大成の時期とみなしてさしつかえないであろう。その後、グレゴリオ聖歌は、ローマ・カトリック教会の典礼聖歌として歌いつがれてゆき、今日に至っている。
(中略)
一方、この時代はヨーロッパの多声音楽のはじまりの時期でもある。多声音楽とは、いうまでもなく、2つ以上の異なった旋律を同時に重ねてゆくタイプの音楽であり、和声とか対位法とかが成立する音楽である。今日残されているかぎりで最古の多声音楽に関する資料は、9世紀ごろ記されたと思われる「ムジカ・エンキリアディス(音楽入門)」という理論書中の素朴なオルガヌム(初期多声音楽)である。
多声音楽というものは、その後のヨーロッパ音楽のもっとも重要な要素となるものだが、この時期にはじめて創始されたものとみなすべきではなく、またこの理論書の著者によって案出されたわけでもない。おそらくそれ以前から民俗的即興的な形で行われていたものが、この時期になって理論化体系化の対象となったと考えるべきであろう。
いずれにせよ、9世紀という世紀は、グレゴリオ聖歌の大成、そして多声音楽の体系化のはじまりという2点で、ヨーロッパ音楽史上きわめて重要な意味合いを持つ時期である。
さて、それにつづいて、11世紀の初頭のころに入ると、ふたたび注目に価する変化が生じる。ひとつにはセクエンツィアの発展であり、もうひとつは多声音楽の充実である。
グレゴリオ聖歌はすでに前代にそのレパートリーを確定し、カトリック教会のミサや聖務日課のための統一ある組織をつくりあげていたが、新しい創作を追求する音楽家たちは、セクエンツィアという曲種を作りだしていた。
セクエンツィアとは、本来はグレゴリオ聖歌のアレルヤのメリスマ部分(一つのシラブルをいくつもの音の上で長くひきのばして歌う部分)に新しい歌詞をシラビックに付すことから始まったといわれているが、やがてはアレルヤとはまったく関係のない、独立した自由創作による楽曲を意味するようになってしまった。
すなわち、すでに確立していたグレゴリオ聖歌のレパートリーに対して、それを補足し装飾する意味で、新しく自由創作楽曲としてのセクエンツィアが生まれてきたのである。
今日のカトリック教会の典礼では、セクエンツィアは正規の楽曲としてわずかに5曲だけが公認されているにすぎないが、11世紀から15世紀ごろにかけて無数のセクエンツィアが創作され、歌われていた。
しかも、このクエンツィアの構成を検討してみると、従来のグレゴリオ聖歌とは異なる新しい形式感に支えられていることがわかる。おそらくそれには、西ヨーロッパの民俗的な音楽の構成原理が背後の支えとなっているのであろう。その原理はまた同時に、たとえば中世世俗舞曲のエスタンピーなどの形式を生みだす力となるものでもあった。
一方、1000年代の多声音楽の発展も目ざましかった。今日残されているかぎりでいえば、イギリスの<ウィンチェスターのトロープス>とよばれる約100曲以上の多声楽曲、そしてフランスのシャルトルを中心に作られたと思われる多声楽曲が、このころに成立しているのである。
記譜法が明確でないため残念ながら正確な解読は不可能だが、その2つの声部の動きはすでにある秩序だった体系のなかに、あらゆる可能性をつくして良好な進行を求めていることがわかる。
つづく12世紀の中ごろ、1150年ごろになると、多声音楽はさらに豊かな発展をみせ、フランスの聖マルシァル修道院などで注目すべき2声オルガヌム(初期多声楽曲)を作りだすようになった。
その作品は今日約60曲も残されており、多声音楽の書法が一応の充実をみせていることを証言している。またスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラ(聖ヤコブの墓があり、ゴチックの大聖堂で名高い)でも、オルガヌムが歌われており、今日約20曲の楽譜が残されている。
一方、この世紀の後半になれば、フランスのパリのノートルダム大聖堂を中心に多声音楽が栄えることになる。当時の人びとから、「最上のオルガヌム作曲家」とほめたたえられていたレオニヌスや、また「最上のディスカントゥス作曲家」と称されたペロティヌスという名の音楽家たちが輩出する基礎がひらかれることになったわけである。
レオニヌスは教会の主要な祝日のために2声オルガヌムをまとめた<マニュス・リベル・オルガニ(オルガヌム大曲集)>を作製し、つづくペロティヌスはそれを改編し、さらにそこからクラウズラ、モテトゥスなどとよばれる楽曲が生まれていった。
ノートルダム楽派楽曲は2声から4声のものにおよび、ゴチックの大聖堂を思わせるような建築的な構成を特徴としている。
封建制度が最高潮に達したといわれる12世紀から13世紀にかけて、多声音楽はノートルダム楽派において、一つの頂点に到達したと評すことができるのである。
……………………………………………………
以上、上掲書からの引用でした。
この皆川さんの文章からおわかりのように、ポリフォニーの歴史はかなり古いものです。私の上の文章では、少なくとも9世紀から12世紀前半のポリフォニー音楽の流れをすっとばして、いきなり12世紀に誕生したかのような誤解を与えかねない表現になっています。お詫びして訂正させていただきます。
ポリフォニーもグレゴリオ聖歌も、結局その<始原>は明確にはわかっていないみたいですが、これは、「川の源流さがし」に似たものを感じます。すなわち、源流を求めて川筋をさかのぼっていって、小さな池にたどりついて「源流発見!」と喜んでも、さらにその池に流れこむせせらぎが見つかったりして……
やはり、すべては、「アノニマス」という巨大な闇の大地に消えていくものであるのかもしれません。……とすれば、「アノニマス」における「質的変容」こそが、目に見える現象的なさまざまな「動き」をつくりだす、そのベースになっているのでしょう……
ポリフォニーの誕生は、「闇の中から……」ですが、その「死」は比較的はっきりしていて、やっぱりバッハの遺作である「フーガの技法」であろうと思います。
「フーガの技法」の最終曲が、B-A-C-H(バッハの名)の最後の主題が提示されて、展開に入ろうとするところで突然、終わる……。ポリフォニーの死は、まさにここにあり……と、だれしも思わざるをえない、強烈なプンクトではあります……。黙祷……
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